無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

長州藩 渡部直八の廻国修行について 12

6.諫早藩での試合
 諫早藩では大石神影流の赤松縣の門人と試合している。赤松縣は水戸出身の一刀流の剣術家で大石進種次に入門し、免許を得、初め一刀流と大石神影流を教えていたが後に神陰一刀流を称するようになる。長崎在住であるため、諫早まで主張教授していたことが考えられる。渡部直八にとっては同流であるため、あまり緊張感無く試合できたと考えられる。
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7.島原藩での試合
 島原藩では直心影流と一刀流の2流派と試合をしている。各流派の島原藩における来歴は定かではない。大石進種次は島原藩の要請で島原藩士に防具着用の剣術の指導をしており、また樋口真吉の廻国修行の日記である『壬子漫遊日記』に「兼而聞、島原之試合口甚た悪しと、今日之試合聊麁忽なし、世評と大ニ違ふ」とあることから、記述より4年ほど早い渡部直八の試合であるが、それほど違和感を覚える試合ではなかったと考えられる。
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8.熊本藩での試合
 熊本藩では四天流との試合を、熊本藩菊池では二天一流兵法と四天流平法との試合をしている。熊本藩は「幕末・明治期の肥後・熊本における剣術の動向について」武道学砂究20-2(1987)で長尾が柳生流・田中家、当流神影流、雲弘流などの例から述べるように「(1)防具を使用した形跡はあるが,いずれも簡素なものであること。② 袋竹刀を使用し,コミ竹刀は用いていないことなどである。すなわち,幕末期の肥後・熊本においては,全国的な「試合剣術」は弘流していなかったという従来からの指摘が,これらによって立証される。」のであるから、四天流、二天一流兵法も同様であったと推定される。
 四天流は成田清兵衛によって戸田流をもとに創められた流派である。宮本武蔵の門人寺尾求馬助に敗れ二刀の術をはじめ、寺尾によって四天流と名付けられた。16)『他流試合口並問對』には「武蔵流に近し。両刀も用ゆ。」とあり、武蔵流について「二刀也。左にて請留、右にて打。尤左刀は短し。左は清眼、右は上段、或は矢筈に組、走込、躰の当り強し。是に当るこゝろ勘考すへし。」とある。一刀だけでなく二刀も用いて試合していたことが分かる。
 二天一流兵法は宮本武蔵によって創められた流派である。『他流試合口並問對』に「清眼の構へ。又片手にて向も有。抜刀流の構へニ同し。其心得有へし。」とあり、二刀ではなく一刀であったと考えられる。
 熊本藩での試合は渡部直八にとっては防具と使用する竹刀(撓)が異なり、難しい試合であったのではないかと考えられる。
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Ⅳ.まとめ

 渡部直八は弘化4年(1847)の廻国修行では大石神影流を稽古する者にとって比較的なじみのある流派との試合が多く、大きな緊張感を持つことなく廻国修行で試合を行うことができたと考えられる、一方弘化5年(1848)の廻国修行では、前年に比べ廻国の範囲も広がり、なじみのない流派との試合も行っており前年よりも緊張感がある試合をしたといえる。
 廻国修行をするにあたって、渡部直八は段階的に難易度をあげたと考えられる。
 
本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
広島県立文書館 西村晃様
佐賀県小城市 鯉料理の「ひのでや」さん(佐賀県小城市小城町松尾2053 TEL 0952-73-4451
                                http://hinodeya-saga.com/)
 心より御礼申しあげます。

  1. 2018/02/02(金) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 11

3.小城藩での試合
 小城藩での試合は柳生流、戸田流、大石神蔭(ママ)流との試合であり、先年に行っており精神的には楽な試合であったと考えられる。
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4.唐津藩での試合
 唐津藩では四天流と試合をしているが四天流は熊本藩で行われた流派であるため四天流との試合は渡部直八にはなじみがないものであったと考えられる。
 唐津藩の四天流については伝系統未詳である。
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5.大村藩での試合
 大村藩では神道無念流と試合をしているが、長州藩からはじめて藩費で江戸の神道無念流斎藤や九郎のもとに5名の藩士が留学したのが嘉永5年(1852)であるため、神道無念流との試合は渡部直八にはあまりなじみがないものであったと考えられる。
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  1. 2018/02/01(木) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について10

2.佐賀藩での試合
 佐賀藩の直心影流、鉄人流、タイ捨流との試合は渡部直八にとってなじみのないものであったと考えられる。
 渡部直八が佐賀藩で試合した4年後の嘉永5年(1852)の土佐藩の樋口真吉の廻国修行の日記である『壬子漫遊日記』には佐賀藩のこれらの流派の試合の様子を「稽古着支度相済武館に於て試合、初直心影流、二番タイ捨流・鉄人流等也、試合一本宛折鋪立合い、急ニ掛リ分合をせる仕口、惣而旧日之如し、可思人才、教導之難き事」14)と記しており、旧態依然とした試合方法をとっていたことがわかる。
 佐賀藩の直心影流にの来歴は不明であるが、佐賀藩の試合の方法が樋口真吉によって「試合一本宛折鋪立合い、急ニ掛リ分合をせる仕口」と記されているところから。佐賀藩内の他流派に影響を与えていたと考えられる。
 鉄人流は青木常衛門家直の系統で試合にも二刀を用いていたらしい。
 タイ捨流はタイ捨流の流祖である丸目蔵人によって直接佐賀藩に伝えられた。松平入道雪窓と遠藤小弥太が印可を受け、幕末まで伝えられたが中級武士から下級武士の間に稽古されたという。  
 佐賀藩での試合は試合方法も異なり、渡部直八にとってなじみがなく緊張感がある試合であったと考えられる。
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  1. 2018/01/31(水) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 9

Ⅴ. 弘化5年(1848)の廻国修行の分析

弘化5年(1848)の廻国修行は弘化4年(1847)の廻国修行にくらべてやや広範囲の廻国である。大石導場を出発して、約1ヶ月の廻国で、蓮池藩、佐嘉藩、小城藩、唐津藩、大村藩、諫早藩、島原藩、熊本藩、熊本藩菊池で試合をして大石道場に帰っている。
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1.蓮池藩での試合
 蓮池藩での大石流・神形刀流(ママ)の富永清太夫は、はじめ小城藩の大石家の門人である五郎川大四郎の弟子で、のち大石進種次のもとで大石神影流を修行し、江戸で心形刀流を修行している。土佐藩の樋口真吉の廻国修行の日記である『西遊記稿本下 再遊之巻』の天保11年(1840)11月4日の記述には下記のようにあり、江戸では大石進に随従し稽古していたことがわかる。渡部直八には試合に関して違和感はなかったと考えられる。
「此日肥前蓮ノ池ノ人富永清太夫来り同宿、此人原五郎川大四郎弟子、酉ノ年江戸へ出伊庭ノ門ニ入且大石先生ヘモ出入シ即諸家ヘモ先生ニ従稽古致スヨシ、人前江戸稽古附ニ委シ、清太夫酒肴ヲ買テ我等ニ出ス」
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  1. 2018/01/30(火) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 8

 大石神蔭(ママ)流は江副七兵衛の門人との試合であるが、大石家と小城藩は大石進種次の祖父大石太郎兵衛種芳のころから関係があった。天保8年の樋口真吉の第一回廻国修行日記には「大石家皆傳の人(大石祖父ヨリ傳)此新助・肥前国の人五郎川大四郎と両人之由」とある12)。小城藩では大石神影流以前に大石進の祖父大石太郎兵衛種芳より伝えられた愛洲陰流が教授されていた。
 江副七兵衛は小城市の岡山神社のそばにある石碑に見るように大石神影流剣術のほか天神真楊流体術と八天舞相流棒縄術を教授していた。
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 戸田流は納富五郎太夫に至るまで納富家で五代にわたり教授されている。また、明治以降、納富五郎太夫の子と孫がそれぞれ剣道範士となっている。かつて納富屋敷跡に残っていた石碑によると納富五郎太夫は戸田流のほかに真之乱流組打、真之乱流棒縄術、真之乱流二刀、根岸流長刀を教授していたことがわかる。
 大石神蔭(ママ)流は江副七兵衛の門人との試合であるが、大石家と小城藩は大石進種次の祖父大石太郎兵衛種芳のころから関係があった。天保8年の樋口真吉の第一回廻国修行日記には「大石家皆傳の人(大石祖父ヨリ傳)此新助・肥前国の人五郎川大四郎と両人之由」とある12)。小城藩では大石神影流以前に大石進の祖父大石太郎兵衛種芳より伝えられた愛洲陰流が教授されていた。
 江副七兵衛は小城市の岡山神社のそばにある石碑に見るように大石神影流剣術のほか天神真楊流体術と八天舞相流棒縄術を教授していた。
 戸田流は納富五郎太夫に至るまで納富家で五代にわたり教授されている。また、明治以降、納富五郎太夫の子と孫がそれぞれ剣道範士となっている。かつて納富屋敷跡に残っていた石碑によると納富五郎太夫は戸田流のほかに真之乱流組打、真之乱流棒縄術、真之乱流二刀、根岸流長刀を教授していたことがわかる。
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上記のように小城藩は大石家とのつながりが深く、大石神影流と戸田流との関係は見出すことができないが、渡部直八には小城藩での試合でも大きな緊張感はなかったと考えられる。

10月24日に小城藩で試合したのちに11月20日には大石導場で直心影流嶋田虎之祐(ママ)門下と試合をしているので、渡部直八は再び大石七太夫のもとに帰ったと考えられる。 
 渡部直八の年齢や修行歴は不明であるが、弘化4年(1847)の廻国修行は小規模の廻国であり、試合相手の情報が得やすい地域での廻国であるため、渡部直八の経歴は不明であるが、渡部直八は大石神影流の修行歴はあまり長くなかったものと考えられる。
  1. 2018/01/29(月) 21:25:35|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 7

3.小城藩での試合
 小城藩では新陰流の鍋島邦衛の門人、大石神蔭(ママ)流の江副七兵衛の門人、戸田流の納富五郎太夫の門人、大石神影流の大石七太夫の門人と試合をしている。
 新陰流は江戸の柳生但馬守宗矩直伝である。小城藩初代藩主鍋島元茂は柳生但馬守宗矩より免許を授かりその子直能につたえ、以後家老の西小路鍋島家によって明治維新まで指南された。江戸の柳生家の新陰流は『他流試合口並問對』に「柳生流 是ハ他流試合を不致。」とあるように防具着用の試合、他流試合を行わなかったが、小城藩の新陰流は廻国修行者を受け入れており、また、その門人である水町蔵人を大石進に入門させていることから防具着用の試合稽古を始めていたようである。
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 大石神影流 大石七太夫門人と記した水町蔵人は前述のように新陰流の鍋島邦衛の門人であり、大石神影流の免許皆伝を授かっている。名前を新陰流の中に記入しなかったのは大石神影流の同門の渡部直八のことを考えたためと考えられる。
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  1. 2018/01/28(日) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 6

2.久留米藩での試合
 久留米藩では神陰流の加藤田平八郎の門人、直心影流の今井静左衛門の門人との試合である。同じく久留米藩で行われていた津田一伝流とは試合をしていない。
 神陰流は上泉伊勢守からの流れで祖父の代からの久留米藩師範である。加藤田平八郎は文政12年(1829)、九州北部、山陽地方、近畿地方、伊勢、四国の19ヵ国を廻国し、天保9年(1838)、江戸で修行し男谷精一郎などと試合した。9)
 柳河藩士と思われる笠間恭尚が天保7年(1836)に記した『他流試合口並問對』10)には神蔭流として「清眼の構。突有。業軽し。」と記されている。
 直心影流は久留米藩士今井静摩が江戸に遊学し、長沼正兵衛に印可を得て久留米藩の剣術師範となって以来久留米藩に根付いた流派で、今井静左衛門はその子である。11)防具着用の試合方法は神陰流や津田一伝流に影響を与えたと考えられる。
 『他流試合口並問對』には直神蔭流として「上段の構。拳を打事早し。又取付上段より面え打込事も早し。本ニ入込、脇腹を打。突は無しといへとも、当事他流専ら突を用故、突も多く用ゆる也。一本勝負にて休ミ、間を考へ又相手の虚を見、立上り試合す。仍て休内無油断心得へし。」と記している。
 久留米藩は柳河藩と地理的に近いところからこれらの流派と大石神影流の門人との試合はよく行われており、渡部直八もこれらの流派についての情報を持っていたと考えられる。とくに神陰流の加藤田平八郎は奥免許12人の一人となる門人の奥村七助(園田円斎)を大石進に入門させているほどであり、試合に関してそれほど違和感はなかったと考えられる。
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  1. 2018/01/27(土) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 5

 弘化4年(1847)の廻国修行は大石導場を出発して、1ヶ月かけずに柳河藩城下、久留米藩、小城藩で試合したのち大石導場に帰っており、小規模の廻国である。

1.柳河藩での試合
 柳河藩では大石神影流剣術、新陰流(愛洲陰流とも)、家川念流、電撃抜討流などが行われていたが、渡部直八は家川念流と新陰流の2流派とのみ試合している。
 家川念流は馬庭念流の支流であり、柳河藩では身分の高い藩士に稽古する者が多かったという。
 新陰流は岡藩浪人5)村上傳次左衛門によって柳河藩にもたらされた。柳河藩で召し抱えられ明和・安永頃には拾弐人扶持6)を、寛政頃には拾扶持拾五俵(ママ)を給され、子の傳次左衛門も合力九石九斗を給されている7)。村上傳次左衛門が柳河藩に伝えた流派は愛洲陰流剣術(新陰流)と大島流槍術であった。
 村上傳次左衛門が伝えた愛洲陰流剣術の伝系は現存する村上傳次左衛門発行の伝書には記載されていないため、大石神影流の伝書によるしかないが、大石神影流の伝書によると、足利日向守愛洲惟孝―奥山左衛門大夫宗次―上泉武蔵守藤原信綱―益永白圓入道盛次―吉田益右衛門尉光乗―石原傳次左衛門尉正盛―村上傳次左衛門源長寛8)と伝えられている。
 柳河藩城下での試合は大石進と同藩内の師範の門人との試合であり、大石七太夫(進種次)が住む宮部からも近く、流派間の交流もあり、渡部直八にとってそれほど緊張感がある試合ではなかったと考えられる。とくに加藤善右衛門と田尻藤太が相師範として指導する新陰流は愛洲陰流ともいい、大石七太夫(進種次)が大石神影流を創める前に祖父から習った流派であり、大きな緊張感はなかったと考えられる。

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  1. 2018/01/26(金) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 4

試合した流派名と試合した人数0001a.jpg
  1. 2018/01/25(木) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 3

Ⅲ. 廻国修行の経路と試合した流派・人数

渡部直八の『諸国剣道芳名禄』は弘化4年(1847)10月から弘化5年 (1818)3月までの廻国の記録である。『諸国剣道芳名禄』の末尾は弘化4年の豊後府内直指流木戸孫九郎門人と京都直心影流嶋田虎之祐門人、作州津山藩中後藤勘九郎となっているが、右弘化五三月十五日於大石導場とある豊臼杵藩中心遍流成水彌(弥)太夫門人以下の筆跡と同一であるため渡部直八本人が書き足したものではないかと考えられる。表には年月別に記入した。
廻国修行の経路は以下の通りである。廻国の経路を図に、また各地で試合した流派の名と試した人数を表にまとめた。

弘化4年(1847)
10月上旬, 大石導場(柳河藩宮部)で試合 → 10/16,17, 柳河藩で試合 → 10/18,19, 久留米藩で試合→ 10/24,小城藩で試合 → 11/20,大石導場(柳河藩宮部)で試合 
弘化5年 (1818)
2/7, 蓮池藩で試合 → 2/12,佐賀藩で試合 → 2/9,10, 小城藩で試合 → 2/15,唐津藩で試合 → 2/19, 大村藩で試合 → 2/22, 佐嘉藩諫早領で試合 → 2/25,27, 島原藩で試合 → 2/晦日, 3/2, 熊本藩で試合 → 3/6,7, 熊本藩菊池で試合 → 3/13,15, 大石導場(柳河藩宮部)で試合

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  1. 2018/01/24(水) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 2

Ⅱ.長州藩士の大石神影流への入門

1.長州藩士の柳河藩への留学
 初代および二代大石進のもとに留学した長州藩士は43名いる。そのうち長州藩内で影響力を持ったのは内藤作兵衛(新陰流師範)、 平岡七郎治(新陰流師範)、平岡唯一(新陰流師範)、 北川辨蔵(片山流師範)、 馬来勝平(新陰流師範)、来嶋光二郎(来嶋又兵衛、 美禰郡厚保村に新陰流と大石神影流の道場を開く)、 笹尾卯三郎(吉田に新陰流と大石神影流の道場を開く)などである。
 初めて長州藩から柳河藩へ留学したのは新陰流剣術師範内藤駒之允(作兵衛)、夢想流槍術師範横地長左衛門の2名で、天保10年(1839)から約1年間柳河藩に留学している。留学を希望した理由は防具着用の試合技術の習得にあった2)。内藤駒之允が藩庁に提出した大石進のもとへの留学の願書には自分が幼年で家督を継ぎ修行のため江戸の柳生家で修行したことを述べ、さらに萩では門弟の指導のために自分自身の修練ができないと述べたうえで、「筑後柳河御家中大石進と申者剣槍当時西国無双の達人ニ而同御家中はもちろん処々ゟ滞留入込有之門弟数多ニ而抜群之達者も段々有之由ニ御座候同門之儀ニ付彼方江罷越入込ニ稽古仕候ハゞ精練之功自得之益ニも可総成と奉存」と述べて留学の許可を求めている。
 また、横地長左衛門も同様に述べ、自分が夢想流のほかに兼ねて学ぶ槍の流儀が同じであるので大石進のもとに留学させてほしいと許可を求めている3)。大石進種次は大島流槍術の師範でもあった。
2.柳河藩士の招聘
 長州藩の2名の師範が防具着用の試合技術を身につけて帰藩したものの、流派ごとに稽古を行う形稽古のみであった長州藩内では試合稽古が進展しなかった。
 そこで長州藩は柳河藩から剣槍の達者なものを招聘した。天保12年に2回(50日と66日)、天保13年に2回(55日と61日)、天保14年に2回(30日と不明)、天保15年に2回(57日と20日)
 長州藩の江戸藩邸においては柳河藩江戸藩邸の剣槍師範を招聘して天保12年から稽古が始まっている。
この頃の事情を物語る書簡の写しが立花家文書に存在し、宛先、年月日とも不明ではあるが、長州藩の夢想流師範 横地長左衛門から出された書簡の写し4)には次のように記されている。
「長州様より御示談ケ条 萩より之状写」
兼而御内話申上候様 私藩中剱槍稽古之儀は形を第一ニ修行仕候處 近年重役共ニ於ゐてハ試相稽古仕せ度含も有之候共 従来之仕来リニ泥ミ候故歟兎角氣方進兼候處 就中志厚きものは追々心掛候成行 猶又一統へ試相稽古仕候様申聞せ有之 いつれも其心掛ニ罷在候處 初発之儀故急速ニ運ひ兼種々申合候儀ニ御座候 於私共ハ御親切ニ御引立被候故少壮之者且々申合候得共 被成御存知候通り未熟ニ付 行届兼候段は深く心痛仕候 右ニ付重役度共存念ニおゐてハ 内藤作兵衛 私両人御懇命を以御地数月滞留被仰付 御示教被成下 帰国之節御見送として御両人御付越被下数々御心切之御取扱実ニ感銘仕 偏ニ御続柄故之儀ニも可有御座哉 乍此上藩中為引立剱槍 御達者之御門弟御両人宛三ヶ年之間春秋両度百日宛当城下申請度趣意ニ罷在候共 不容易事ニ付 当 御参府之上御頼之儀入々御掛合候とも仕趣ニ御座候間 前件之通挙而相励候志願ニ罷在候折柄 引立之手段不仕 自然氣方之弛ミニ相成候而者歎敷事ニ付 私共より内願仕候様ニと重畳て申聞重役共心底難黙止全く難差延時節ニ付不得止事御願申上候間 厚く御考察被成下何とそ出格之御取計を以 此度之儀は御自分の御修行之姿ニ成共何とそ被遂御分別御門弟之中御両人御差越被下候様奉頼候 左候ハハ藩中一総之励ニも相成 重役共別而太慶可仕候 右は御地罷出一応之御厚礼申上御願可仕筈ニ御座候処 引立ニ付而者精々心配仕儀ニ付思召をも不顧飛脚を以御願仕候間 失敬之段海恕被成下 幾応も御賢慮御聞済被成下候様 奉頼上候 可相成儀ニも御座候はは来二月上旬萩御越着被成下候様仕度奉候存候 素より僻地之儀諸事不如意之折柄ニ付御苦労之儀別而難堪御座候得共 御旅宿ともは粗略ながらご不自由不被為在様役人共心配仕儀御座候間 此段は御掛念被下間敷候 飛脚之者ハ御許儀被為済候迄御留置被下 御聞済之御返翰取帰り候様被仰付被下度奉頼候 彼者共えも其段重畳申付置候 旅宿之儀は御心配不被成下候様奉存候 此段御重役様方へ程能被仰歎被遂御許容被下候様奉頼上候 以上
 閏正月 横地長左衛門
 要約すると「萩藩では剣槍稽古は形を第一に修行してきましたが近年重役共においては試合稽古をさせたい意向です。従来よりのしきたりになれ、中々進みかねていたところ、志厚い者が次第に心掛けるようになりました。全員に試合稽古をさせようとしておりますが初めての事ゆえ急速には運びかねています。私は未熟ゆえに行きとどかぬので心痛しています。内藤作兵衛と私が命により、そちらへ数カ月滞在し、お教えいただきました。また帰国の節には御親切なお取扱いを受け感銘いたしております。この上ではありますが、できれば御門弟を御二人ずつ二、三年の間、春秋百日ずつ派遣していただきたい。」という趣旨のことが記されており、長州藩士の柳河藩への留学と柳河藩士の派遣の要請が防具着用の試合稽古の習得にあったことがわかる。このような背景の中、渡部直八は大石進のもとで大石神影流を学んでいる。
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  1. 2018/01/23(火) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩 渡部直八の廻国修行について 1

 『假寝の夢』の記述を少し休んで昨年の12月23日に行われた日本武道学会中四国支部会での私の発表を載せていきます。中四国支部会では比較的小さなトピックを扱っています。

Ⅰ.はじめに
渡部直八の詳細は不明であるが、渡部直八がのこした『諸国剣道芳名禄』と『大石神影流諸国門人姓名録』(写真2)で長州藩の陪臣であることが確認できる。
長州藩は後述するように長州藩の剣術師範をはじめ多くの藩士が柳河藩の大石進種次、種昌のもとで防具着用の稽古を学んだ。長州藩から大石進父子に入門して学んだ者は43名で、嘉永7年(1854)正月までに大石神影流の免許皆伝となった者は、12名おり、その中には来嶋又兵衛など、大石神影流を指導したものもいる。支藩の長府藩からは8名が入門し、4名が嘉永7年(1854)正月までに大石神影流の免許皆伝となっている。
本研究では渡部直八がのこした『諸国剣道芳名禄』をもとに渡部直八が廻国した時代において各地域にどのような流派が存在し他流試合を行っていたのかを明らかにし、江戸後期の各藩の剣術の動向に関する基礎資料としたい。
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  1. 2018/01/22(月) 21:25:00|
  2. 武道史

若し世に弘まざれば

 『假寝の夢』に若菜主計について述べられています。
 
 若菜主計は剣術諸国修行の後、上州大平権現に誓願をかけ真鏡という剣術を極めた(創めた)。もしこの流派が世に広がらなければ、我が命を絶ちたまえと祈ったそうだ。

 一流を創める人の覚悟はこのようにあっただろうと思います。ここまでの覚悟ではなくとも、一つの道を究めようとすれば覚悟は必要です。これまで教えてきて器用さはあっても覚悟がない方はなかなか本当の上達はしない者だと感じています。
 私も流派を後世に(形だけでなく内実伴って)残すために、このような覚悟をしなければならない時期かもしれません。

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  1. 2018/01/21(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

当の仇妻に討せ候事

 『假寝の夢』は幕臣で1200石の諏訪頼武が文政4年、74歳頃に記した見聞記で、その中の記事です。

 昔ある人のもとに意趣を持った者が訪ね、抜打にその家の主の右手を切り落とした。そこで左手で脇差を抜こうとしたが、左手も切り落とされた。そこで、主は額でその者を座敷の柱に押し付けた。妻を呼び「仇ゆえ、自分とともに、この者を突き殺せ。」と言い、妻は薙刀で突き殺した。

 右手を切り落とされ右手の骨で相手を突き殺したという話(真実かどうか話わかりません)は読んだことがありますが、このようなことが実際にあったのでしょうか。

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  1. 2018/01/20(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自分の価値観を崩す

 指導を受けながらの普段の稽古ではいい動きができるのに、演武会では体を固めてしまい下手な背筋の伸ばし方をし顎を強くひいてしまうのは自分が持つ価値観が違っているからです。
 良い姿勢、良い動きというのは幼稚園の頃から軍隊式の気を付けの体を緊張させた姿勢であると私たちは刷り込まれています。そのため演武会などでは無意識のうちに良い姿勢をとろうとしてしまい、稽古で養った事はどこかへ消え去り、残っているのは外形の手順だけになってしまうのです。
 たんに緊張しましたというのとは異なります。自分の内側をよくよく見つめ正してください。

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  1. 2018/01/19(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

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