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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

神陰流伝書より 20

折敷作法

 折敷様は先づ足間を狭く撞木に踏み其上に腰を据え跨り広く左膝をつき右ひざを少し起し顔は仰かす俯かず直にして首は後ろの筋うなしに力を入れ両肩の落様に背筋をろくにしりを出さず腰の屈せざる様にして下腹を張る可し、折敷の内先師も心の下の作りもの等の大事と被仰けり、心の下の作りものとは未だ試合ぬ前に敵に勝つべき術を工夫致置こと也、能々工夫鍛錬すべし


 現代剣道の折敷の方法とは異なるようです。
「心の下の作りもの」の意味をよく考えてください。澁川一流でも大石神影流でも同じようなことは教えてあると思います。
ここを焦って早く動いてしまうのは心が治まっていないためですので、ここをしっかり稽古してください。

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  1. 2020/01/20(月) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 19

試合前の覚悟

 試合前にはあらかじめ我面籠手鍔等其の外身の廻りに気を付け取り調べ置くべし、袴をつけ俄かに覚悟するは当流には嫌ふ事也、可慎、猶又撓面籠手等自身は勿論人の踏み跨り等致さぬ様に取置に気をつく可し、初め折敷の時当流にては一礼致さぬ作法也、しかし掛打の人は目上の人に対し引立て頼むといふ心にて一礼必ず丁寧に致すべし、先輩の人も夫に応じて一礼し仕合終りて互いに見合一礼し静かに立ち本の座につき初めの如く慎みて道具を除け行儀よく大切に道具を取扱ひ置べし、撓を投げ面籠手を抜捨て粗略に取扱ふ事武士の作法にあるまじき事にて心を用ゆべき事也


 これまでの仕合という漢字ではなく試合という漢字を用いています。これまでの仕合は真剣勝負の心得にも用い試合は防具着用の試合に用いているのではないかと思います。
 ここでは防具着用の試合について述べていますが、「猶又撓面籠手等自身は勿論人の踏み跨り等致さぬ様に取置に気をつく可し」というところはよく読んでください。他人にまたがせない配慮は大切です。
 又、礼について「引立て頼むといふ心にて」とあり、心を込めた礼の大切さについて述べられています。
 「道具を除け行儀よく大切に道具を取扱ひ置べし、撓を投げ面籠手を抜捨て粗略に取扱ふ事武士の作法にあるまじき事」とも述べて稽古道具を大切に扱うことが武士の作法であるといっています。
 これまで指導してきた中で外国人の門人の中では居合や剣道、合気道などの道具を扱う経験がある人はこれらの常識があり、空手や柔道といった素手の武道しかしたことがない人はこういったことも知らない割合が高いように感じられます。

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  1. 2020/01/19(日) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 18

寒日仕合之事

 夫寒日に仕合時は手足冷えこほり手兵器を持つに覚えなし、又は取落すこともあるなり、かるが故に口に生姜を含みて手足に能く酒をぬりてよし


 桜田門外の変の状況を考えてください、守る方は体が冷え切り、襲う方は手を温めていた。それだけでなく柄袋も邪魔になっています。
 バイクに乗る人もわかると思いますが、冬に手足が冷えてしまうと全く力が入らないどころか手足の感覚さえなくなってしまいます。そのような状態では戦うことは不可能です。

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  1. 2020/01/18(土) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 17

風吹仕合之事

 夫風は四季にかはりて吹く也、先づ春風は地より空へ吹く也、夏風は中を吹く也、秋風は上より下へ吹き下すなり、冬風は下を吹く也、右の心得を以って風邪を背に受くる様に動くべし、背に受るときは風難を得ずして進の利あり、また敵を風に向はす時は眼くらみて先を見ずただ後へ心ひかるる様に思はるるのりあるを以ってなり。


 季節による風の吹き方は地域性もあるかもしれませんので確認してください。風に向った時に目にゴミや砂が入った経験はおありかと思います。都会で生活していると微小な風の向きには気づきにくいと思いますが、薄着をしている夏に感覚を養っておくと顔に当たる風で向きがわかるようになってきます。
私はかつてウインドサーフィンをしているときに風向きがわかるようになりました。
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  1. 2020/01/17(金) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 16

闇夜仕合之事

 夫闇に仕合ときは我は身を沈めて敵の形を見透かし、兵器の色をはかるべし、若し難所あらば吾前に当て仕合べきなり


 無雙神傳英信流抜刀兵法の「夜太刀」、澁川一流柔術の居合の「闇ノ刀」でお教えしていることと同じです。
自衛隊でも教えられたことですし、大陸で戦った経験のある兄弟子も同じことをおっしゃっていました。将校として実戦を経験した方の話は重く、頭から離れません。
 また、これとは少し離れますが、闇夜では少しの明かりが命取りになります。訓練で闇夜のたばこの光を見せられたのですが、200mくらい離れたところからはっきりと見えました。

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  1. 2020/01/16(木) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 15

日中仕合之事

 夫日中に仕合ふときは日を背に受くべし、気盛んなる理あり、又敵を日に向ハすれば、眼(ま)ばゆくして、我色めを見ぬもの也


 戦いの常識であり兵学の大星伝も浅くはこの意味で教えています。演武をするときにも心しておかなければ思わぬ失敗をすることがあります。

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  1. 2020/01/15(水) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 14

足場悪キ地にて仕合之事

 夫足場悪き地にて仕合には見を動かずして利をはかるべき也、若し先づ足場悪しき地にいて時に当つて我足場よき地に退き敵を悪き地に置く也


 これまでにも出てきた内容ですが、いたずらに動けば足をすくわれて自滅してしまいます。足場が悪いところに敵が潜んでいるときにはなおさらのことですが、敵は自分に有利な場所に待ち構えています。

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  1. 2020/01/14(火) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 13

茂ノ内ニテ仕合之事

 夫茂の内といふは森藪等の類也、左様のところに手は短兵を以って利を得べし、鉤鎗十文字等用ふべからず

 もっともな話で長い槍は森や藪の中では取り回しにくいうえに突起物があればひっかかってしまいます。江戸時代、槍術を稽古する者も剣術を稽古しており秋月藩の有名な槍術家である間角弥は大嶋流を加藤善右衛門に習うと同時に大石神影流を大石進にも習いました。
 森や藪の中を通るときには言うまでもないことですが油断せず、小さな気配にも気を配ってください。

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  1. 2020/01/13(月) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 12

階段上仕合之事

 夫階段にて仕合時は我平地へ近くば平地へ去り手敵を階石段にあらしめて仕合ふべし。次に敵も我も平地へ遠くして階石段の中にて仕る仕合にはなだらかなる階石段ならば敵を下にして吾は上に居るべし、急なる階石段ならば敵を上に我は下に居るべきなり、或いは云くきざはし石段にては横に動きて可なり

 高低差があまりにある場所で自分が上に居れば足を払われる危険があり斬り下ろす自分の刀は届かない可能性があります。
 澁川一流柔術にはある形について高低差がある場所で役立つという口伝があるものもありますが、こういうことは頭に入っていないと何かあった場合には動けないと思い72890546_1612316425570297_5820763945551527936_na.jpg
ます。



  1. 2020/01/12(日) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 11

山坂仕合之事

 夫山坂の仕合は高き方に居るに利あり、一には敵を見下す利、二には進むにやすき利、三には躰上に危なき事なき利なり然りとは雖も高き方に居ても足場悪しくば其地を去るべし、去るに三つの心得あり、第一後高き方へ去るには心を静めて足を高く上ぐべからず、第二に左右に開くには心を動かして足を軽く運ぶべし、第三は低き方へ行くには風の発する如く走るべし、敵したがって追えばひらきてうつに利あり、其利はひきくる方へ逐ひ来る勢は思ひのままに踏とめられずして行き過る者也かるが故に我開きて敵を打つに利あり、又云く敵は高き方に居る吾は低き方に居る時も右の利を用いて可なり


 読んでそのまま理解できると思います。一般的になだらかな斜面では上にいるほうが利があります。大切なところはそのあとの部分でしょう。特に高い方から攻めかかる場合は勢いがつきすぎるので守る方はそれを用いるようにという部分は大切です。これは平地でも同じことで、無雙神傳英信流と澁川一流の居合には逃げる敵を追いかけて斬る形がありますが、心にとどめて稽古しなければなりません。

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  1. 2020/01/11(土) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 10

相間有ル敵ト仕合事

 夫敵と我と相間ある仕合には敵の来るをまちて行くべからず、待つには大なる利あり、一には身を苦しめざる利、二には心動作せざる利、三には工夫鍛錬の間ある利。さはいへども我居所悪しきときは前後左右に心くばり地利をもとめて敵を待つべし。

血気にはやって駆け出してはいけないという戒めです。三つの待つ事に関する理を述べていますが、間がそれほど離れていなければこちらから動きのも理があるかもしれません。距離次第でしょう。
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  1. 2020/01/10(金) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 9

翔通る(かけとおる)者を撃ノ事

 夫翔通る者をうつには向フ様にはうたれぬ者也、我前をやり通し右後方より打つに利あり


 以前に記されている追いかけてくるものを開いて斬るという考え方と共通していますが、無雙神傳英信流抜刀兵法の「馳抜」と驚くほど類似した考え方です。また澁川一流柔術の「刀と棒」」の中にも同じような考え方の形があります。古武道には流派が違ってもその考え方に共通したものがよくあります。

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  1. 2020/01/09(木) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 8

敵一人味方多勢仕合之事

 夫敵一人にて三方二人ならば前後より撃つべし三人の時に三方より打ベシ、四人の時は四方より打ベシ、十人の時は十方より打つに利あり

 前回とは反対の状況です。一人の側はこういう状況にならない様にしなければなりません。またこちらに人数が多い時や優勢なときにはひとりひとりに隙ができやすいものです。心しておかなければなりません。

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  1. 2020/01/08(水) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 7

 敵多勢我一人仕合之事

 夫敵は多勢にて我は一人の時は地理を第一とす。地理の用なくば敵を前一面に受くる様に働き我左の敵を目当に戦ふべし、右方の敵を撃つ間ははづるるが故敵後へ廻るべし。廻らば我も左の端の敵に付きて共に廻るべし、若し廻はられずして真中にとりこめられんとせば、走るべし。逐ふ事一ならずして前後にあり、其先立来るを開きて打つべし、走りかかりたる足はふみとめられずして行きすぐるにより打つに利あり


以前も複数の敵に対する心得が記してあり、敵との位置関係について記してありました。今回も敵との位置関係が記してありますが地理を用いることについても言及してあります。
敵が多勢の時は地理を利用して細い道などで一人一人と戦う。もし取り囲まれそうになったら、走って逃げ追掛けてくるものを開いて斬る。追掛けてくるものは急には止まれない。
無双神殿流居合兵法の立場から言うと、虎走や追掛切の時には気を付けておかなければならない事です。

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  1. 2020/01/07(火) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 6

 先勝先負之事

 夫兵法に先負先勝といふ事あり、先づ先勝といふは打つべき利を速く見て之を以って打つをいふ也。次に先負といふは打つべき利もなきに先に撃んとして返って敵に撃るるを云ひ又は我先にうつと雖も兵器鈍きは斬ることなくして返って敵の兵器に斬りうたれ或はわれ先に少し撃ちて敵に大いにきらるる類也

 無理やり斬りかかっていってはかえって斬られるということはよく理解できます。斬れない刀で先に斬りつけてもかえって斬られてしまうということがあるのでしょう。戦場では甲冑の上から槍を用いるので槍先がなまり、突けなくなるということがあったようです。
 前半の理に関しては防具着用の稽古の時に理解してください。貫汪館で稽古を始めた方は早めに防具が購入できるように計画的に貯金してください。大石神影流の稽古に防具は不可欠です。
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  1. 2020/01/06(月) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 5

不動ノ敵之事

 夫動かざる敵といふは、すでに兵器の鞘をはずし戦はんと欲する時に及んでも去らず来たらず色を変えざる敵あり、この如くなる敵をば利なくしては急に撃つべからず、兵器を以つて心を奪ひはからふべし、奪ふといえども奪はれざるは退いて利を得て撃つべし、又敵兵器の術に心奪れ其色変ずる時撃に利あるべし。

 全く動じない敵は動じさせてうつべきだという、もっともなことが記されています。初めから彼我の位の違いがはっきりしていれば退くしかないでしょう。このような敵にかかるのは無謀でしかありません。

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  1. 2020/01/05(日) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 4

 敵二人、我一人仕合之事
 夫敵は二人、我は一人仕合ふ時は、二人の敵を向ふに受けて右方の敵にかかる気色を見せて左の敵の方へ立廻るべし。右方の敵、後へ廻らんとせば左方の敵を撃つべし。

 さすがに前後の敵に対するのは困難でしょう。相手が複数の場合には自分がどの位置にいるかが大切です。吉田東洋は大石神影流を知ってから剣術に取り組み始めました。暗殺された時には正面の敵を斬りたてていたときに側面から襲われたようです。無雙神傳英信流抜刀兵法には三角、四角の、教えがありますが周囲から詰め掛けられた場合には三角の教えが実際には役に立つと思います。
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  1. 2020/01/04(土) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 3

一.目釘之事
 竹ノ皮付タルヲ頭ノ方ニ向ケ打可シ。草ニテ包ニテモ可ナリ


 竹の皮が付いたものというくだりは知っていましたが、草で包むということは知りませんでした。ナメクジというのはよく聞く話です。
これまで素抜抜刀術の稽古で目釘がおれたことが一度だけあります。一度であっても大事に至ることもあります。稽古始めと稽古終わりには目釘を確認してください。また、竹の質を確認して目釘として用いてください。

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  1. 2020/01/03(金) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 2

一.脇差之事
 突ニハ七八寸、切ニハ1尺89寸。元ハ懐剣後世表ニ差。下緒短ク、結留ニ扇ヲ貫キ鞘ヲ留メ置ク


 脇差に短刀をまとめています。もっともなことが記してあります。相手を突くのであれば短刀の長さのものがよく、切るには長い脇差がよい。短刀で切るには重さも長さも不足で、長い脇差で突くには取り回しが不便です。短刀で突くには柔術の心得が役立ちます。特に相手が刀を持ていた場合には入身して相手をとってつくべきでしょう。

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  1. 2020/01/02(木) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 1

 しばらく久留米の所謂 加藤田神陰流の伝書等から引用します。他流派がどんな考えをもっていたか学んでください。句読点を適宜付します。

一.打刀之事
 定尺ナシ。刃宗厚ク、幅狭ク、鋩細ク、釣合ノヨキ焼刃浅ク、ニヘアル刀宜シ。鍔打タルヲ打刀、鍔ナキヲ鞘巻ト云

 加藤田神陰流には所謂定寸という考えはなかったことがわかります。加藤田平八郎は3尺の刀を腰にしていたこともあるようです。身長は不明ですが、私の短い方の刀が2尺8寸2分(主に無雙神傳英信流に用いる刀)、長い方の刀(主に大石神影流に用いる刀)3尺ですので当時の人の身長からすれば私が用いている刀は長いわけではありません。
 また貫心流は身長の半分の刀を用いますので私の2尺8寸の刀は貫心流の考え方からすると定寸ということになります。広島藩では時代に依りますが、おおむね2尺8寸5分までの刀が許されていました。
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  1. 2020/01/01(水) 21:25:00|
  2. 武道史

広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー 6

Ⅴ.伝書内容について
柳生宗厳が金春七郎に伝授した形名と柳生宗厳から柳生松右衛門をへて小谷幾蔵に教授された新影流の形名を表1で比較した。柳生宗厳が金春七郎に伝授した形名は『武術伝書の研究』からとった。12)
 柳生宗厳から金春七郎宛の目録・印可状には「三学円太刀」「九箇」の分類があり,近藤三兵衛より小谷幾蔵宛のものにはその分類はないが形名はほぼ変わらない。また「天狗抄」の形名は近藤三兵衛より小谷幾蔵宛の者の方が数は増えている。あとの形名も多少の変化はあるが,おおむね同じ形名を伝えていたと考えられる。
 ただし,実際の形(勢法)の動きに関してはその動きを記した文書がないため確認はできない。

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Ⅵ.まとめ
 広島藩三次に伝わった新影流は柳生但馬守宗厳の門人である柳生松右衛門の系統であることが確認できた。また,新影流は武家によってのみ稽古されたものではなく,三次においては武家身分以外の者によっても稽古されていたことが確認できた。
 広島藩で行われた新影流は三次に伝わった新影流と同系統であり,長州藩では同系統の新影流の指導が江戸の柳生家の新陰流に変わったににもかかわらず,そのまま柳生松右衛門の系統の新影流が稽古されていたことも確認できた。
 新影流の実技については確認できなかったものの,形名は柳生但馬守宗厳が伝えたものからそれほど変化していない事も確認できた。

本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。

広島県立文書館 西村晃様
三次市の郷土史家 森岡 晋様
原田兵太の御子孫の田辺英子様
三次市教育委員会 文化と学びの課 友廣様,山崎様


 心より御礼申しあげます。




  1. 2019/12/31(火) 21:25:00|
  2. 武道史

広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー 5

Ⅳ.広島藩の新影流
 広島藩には江戸の柳生家に新陰流を学ぶ者もあったようであるが10),主流は新影流であった。『復刻 藝藩輯要』第四編藩士家系録の關仁右衛門正武の項11)に次のような記述がある。
 關家二代の關六左衛門侶直は岩本武太夫盛政に師事して新影流免許皆伝を受け三次藩の師範を命ぜられ,三代關勘右衛門右直は宝暦6年(1756)に浅野本家に召されて広島に移り新影流の師範を命じられた。四代關七左衛門直方,五代關六左衛門直温,六代關百之助直行と剣法の師範をした。
 つまり広島本藩の新影流も三次に伝わった新影流と同じく柳生松右衛門からの流れの新影流であったことがわかる。
柳生但馬守(宗厳) ― 柳生松右衛門 ― 有地蔵之丞 ― 有地四良右衛門 ― 岩本武太夫 ― 關六左衛門 ― 關勘右衛門 ― 關七左衛門 ― 關六左衛門 ― 關百之助 

岩本武太夫に師事した關六左衛門が原田家文書の關慈門と同一人物であるかどうかはわからない。原田家文書では關慈門武直としるされており,広島藩の關家の事績では關六左衛門侶直とある。

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  1. 2019/12/30(月) 21:25:00|
  2. 武道史

広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー 4

Ⅲ.新影流の傳系について

3.有地蔵之丞
 有地蔵之丞は『新影流兵法本目録』(資料5)によれば毛利家家臣である。
4.有地四良右衛門
 有地四良右衛門は『新影流兵法本目録』(資料5)によれば有地蔵之丞の弟である。江戸に赴き20年間旗本以下の諸士に教えた。その後石見国に行き松平周防守の家老,用人,中老などに教えた。さらに福岡藩主の黒田右衛門佐は有地四良右衛門がよく兵法に達していることを聞き,師範として迎えた。
5.岩本武太夫
 岩本武太夫は『新影流兵法本目録』(資料5)によれば,はじめ傳六と言った。有地の一族であったため有地四良右衛門と同居していた。9歳から新影流を有地四良右衛門に習い18歳でその伝を得た。長州で毛利家の師範を数年した後,広島に赴き9年滞在し,さらに広島藩の支藩である三次藩で俸禄を受けている。
 岩本武太夫の名は享保(1716~1736)初年頃の三次侍帖に「御下屋敷番 十五石四人扶持岩本武太夫」とある5)ことから三次藩に仕えたことに間違いはない。
6.関 慈門
 関 慈門については『新影流兵法本目録』(資料5)に岩本武太夫の門人であることしか記されていない。三次侍帖に岩本武太夫と同時期に「御料理人 八石三人扶持 關九兵衛」とある6)が,これが関 慈門と関係があるかどうかは不明である。
 後述する広島藩の新影流の師範である關家の關六左衛門と同一人物の可能性がある。
7.十河伊右衛門および十河裕太夫
 十河伊右衛門および十河裕太夫については『新影流兵法本目録』(資料5)に「其術傳於所々民家傳」とあり,武士階級以外の者に新影流を教えたことしかわからない。
8.近藤三兵衛
 近藤三兵衛は『新影流兵法本目録』(資料5)の「十河氏其術傳於所々民家傳 (貼紙)近藤亮昌予亦趨亍 十河氏之庭者二十年粗窮其閫奥(こんおう)親接」という文脈からすると武士階級ではない。
 近藤家に関して『復刻 藝藩通史』には,比叡尾城主三吉安房隆亮に仕え,三吉家滅亡後も三次に居住したと記されている。7)また,『三次町国郡志』には同じく近藤家が,三吉安房隆亮に仕えたことや,福島家を経て浅野家の統治となってからも大庄屋や町年寄の役職を与えられ,帯刀も許されたこと,所蔵品の中に「一新影流 免状一巻」があることが記されている。近藤家には三兵衛と名乗るものは6代目,8代目,9代目にいた。8)
9.小谷幾蔵
 小谷幾蔵については近藤三兵衛の弟子であることしかわからない。近藤三兵衛から小谷幾蔵に発行された伝書で現存するものは文化5年3月の『新影流兵法惣目録』(資料2),『新影流兵法巻附り伝授』(資料3),「新影流兵法惣目録」(資料4)の3巻であり,文化5年6月に「新影流兵法本目録」(資料5)を文化11年正月に無題の(資料6)伝書を授かっている。
 文化11年正月に授かった『無題 (新影流兵法之壱巻)』(資料6)には「貴殿事従寛政九丙巳夏ゟ文化十一癸戌春迠十八年之積功」とあることから寛政9年に近藤三兵衛に入門し,18年後の文化11年に最終的な伝授を得たものと考えられる。
10.原田兵太
 原田家は『原田家系譜』9)によれば幕末に広島藩の鉄方役人を務めていた。新影流の伝書を授かった原田兵太種房(?~1854)の生年は不明であるが,文化11年(1814)に御鉄方御雇となり,天保6年(1835)には御鉄方帖元を仰せつけられている。天保15年(1844)には八郎左衛門と名を改め,安政元年(1854)に亡くなっている。生年は不明であるが,妻の富が文化6年生まれであるため,それ以前の生まれであると考えられる。
 小谷幾蔵から原田兵太に発行された伝書で現存するものは天保3年6月の『新影流兵法巻附伝授』(資料10),『新影流兵法惣目録』(資料11),『新影流兵法惣目録』(資料12),『新影流兵法本目録』(資料13)の4巻である。師の小谷が近藤から授かった『無題 (新影流兵法之壱巻)』(資料6)と同じものは見当たらない。
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  1. 2019/12/29(日) 21:25:00|
  2. 武道史

広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー 3

Ⅲ.新影流の傳系について

  『新影流兵法本目録』(資料5)および『無題(新影流兵法之壱巻)』(資料6)には原田兵太の師の師である近藤三兵衛までの伝系が記されており,これに『新影流兵法本目録』(資料12)を加えると原田兵太までの新影流の傳系は以下の通りである。

柳生但馬守(宗厳) ― 柳生松右衛門 ― 有地蔵之丞 ― 有地四良右衛門 ― 岩本武太夫 ― 関 慈門 ― 十河伊右衛門 ― 十河裕太夫 ― 近藤三兵衛 ― 小谷幾蔵 ― 原田兵太

1.柳生但馬守
 柳生但馬守は上泉伊勢守に教えを受けた柳生但馬守宗厳(1527/1529~1606)のこと。
2.柳生松右衛門
 柳生松右衛門は「新影流兵法本目録」(資料5)には,以下のように記されている。松右衛門は新影流を学ぶことを願い柳生家の門人が稽古するのを見ていた。宗頼(ママ)は松右衛門を家臣として柳生の姓を与えた。その後、柳生松右衛門は日本国中を廻国修行して47人と試合して長州に至り,有地蔵之丞にその技を授けた。
宗頼は宗厳の誤りであると考えられる。
また,「新影流兵法本目録」(資料12)にも柳生但馬守宗厳をその次男の柳生但馬守宗矩と記し,さらに宗頼と記す誤りがある。書き伝えられるうちに間違ったものと考えられる。
 柳生松右衛門は毛利輝元が萩に移封になったときには毛利家に仕えていたようで,萩城築上の際の慶長10年の起請文にその名があり,萩藩初代藩主毛利秀就が慶長16年にお国入りしたときの祝宴の席に名があることが指摘されている。1)
 柳生家の重臣萩原斉宮信之によって記された柳生家歴代の記録である『玉栄拾遺』には,長州藩の毛利家に仕える馬木宗六が享保9年(1724)4月15日に柳生家を訪れたこと。馬木宗六は柳生宗冬の時代に兵法をもって毛利家に仕えた松野文(ママ)右衛門の流れを伝え,兵法(新影流)をもって毛利家に仕えており,「兵法ナオシヲ願」った事が記さている。
 さらに,宝暦9年(1759)9月16日には馬木宗六の養子である馬木平内兵衛が江戸の柳生家で養父宗六が師事した松野文右衛門について次のように語ったと記されている。大阪の油商人で大野松右衛門という者が柳生宗厳の門弟となって兵法に達した。天正年中に京都で眼流の根岸矢柄が所々に高札を建て新陰流を嘲笑したので,柳生宗厳に願い試合をして勝った。その後,松右衛門は柳生の称号を賜って毛利家に仕えた。その子を兵助といい,また、その孫を文右衛門といった。文右衛門は15歳のときに長州を離れ柳生宗冬に勤仕士、柳生の称号を返上し松野文右衛門と名乗り剣術修行の上で再び毛利家に伝えた。2)
 毛利家の新陰流の師範家の一つである内藤家の師範であった内藤作兵衛によって藩庁に提出された『家譜』(写真10)には先祖の内藤内蔵允元幸が柳生松右衛門から新陰流の相伝を受けたこと。内蔵允は子の内藤亦左衛門就幸にこれを授け,内藤亦左衛門は毛利家でこの新陰流を教授していたが,江戸の柳生家に赴き柳生十兵衛三厳に学び、命によって毛利家に仕官したことが記されている。3)
 毛利家の一門家老の一つである右田毛利家には柳生但馬守宗厳から柳生松右衛門にあてた天正15年2月吉日付の印可状の写し(資料18)(写真11)が存在する。4)

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  1. 2019/12/28(土) 21:25:00|
  2. 武道史

広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー 2

Ⅱ.原田家の新影流文書について
 原田家に保管されていた新影流関係文書には以下のものがある。

1.『新影流奥儀覚書目録 全』(天明5年(1785)2月18日,署名・宛名なし)(資料1)(写真1)
 心得の名称が13ヵ条記される。
2.『新影流兵法惣目録』(文化5年(1808)3月,近藤三兵衛→小谷幾蔵)(資料2)(写真2)
 新影流の形名が記される。
3.『新影流兵法巻附り伝授』(文化5年3月,近藤三兵衛→小谷幾蔵)(資料3)(写真3)
 心得の名称が15ヵ条記される。「以上都而十六カ條」と記されているが15ヵ条しかない。
4.『新影流兵法惣目録』(文化5年3月,近藤三兵衛→小谷幾蔵)(資料4)(写真4)
 新影流の形が記される。
5.『新影流兵法本目録』(文化8年(1811)6月,近藤三兵衛→小谷幾蔵)(資料5)(写真5)
 新影流の来歴が柳生但馬守以降近藤三兵衛まで記される。
6.『無題 (新影流兵法之壱巻)』(文化11年(1814)正月15日,近藤三兵衛→小谷幾蔵)(資料6)(写真6)
許状,付紙には柳生但馬守の教えが記される。冒頭に「新影流兵法之壱巻」と記されている
7.『無題 (影之流奥義)』(卯2月25日,近藤三兵衛→高津七太郎)(資料7)(写真7)
 文末に影ノ流奥義と記されている。
8. 『新影流兵法本目録』(年月日,あて名なし)(資料8)
5と同じ新影流の来歴が途中まで記されている。使われている巻紙は5と同じ。
9.『新影流兵法巻附り伝授』(天保3年6月,小谷幾蔵→加藤惣太)(資料9)
 心得の名称が15ヵ条記される。「以上都而十六カ條」と記されているが15ヵ条しかない。3と同じ内容。
10.『新影流兵法巻附伝授』(天保3年(1832)6月,小谷幾蔵→原田兵太)(資料10)
 心得の名称が15ヵ条記される。「以上都而十六カ條」と記されているが15ヵ条しかない。3と同じ内容。
11.『新影流兵法惣目録』(天保3年6月,小谷幾蔵→原田兵太)(資料11)
 新影流の形名が記される。2と同じ内容
12.『新影流兵法惣目録』(天保3年6月,小谷幾蔵→原田兵太)(資料12)
 新影流の形が記される。4と同じ内容
13.『新影流兵法本目録』(天保3年6月,小谷幾蔵→原田兵太)(資料14)
 新影流の来歴が柳生但馬守以降小谷幾蔵まで記される。5と同じ内容。
14.『起請文之事』(天保10年5月,署名・宛名なし)(資料15)(写真8)
 起請文の下書きか。
15.『中誓紙起請文』(年月日・署名・宛名なし)(資料16)(写真9)
 起請文の下書きか。

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  1. 2019/12/27(金) 21:25:00|
  2. 武道史

広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー 1

 先日、日本武道学会中四国支部会で発表した「広島藩三次における新影流についてー原田家文書を中心にー」を数回に分けて載せていきます。広島は原爆の被害にあっており武道の古文書もなかなか見つからないのですが、今回は幸いでした。

Ⅰ.はじめに
 三次には広島藩の支藩である三次藩があったが寛永9年(1632)に成立して享保5年(1720)に藩主の浅野長寔が幼少で病没,嗣子なく遺領は本藩へ還付された。20年ほど前に三次の武道史について調査しようとして三次市歴史民俗資料館に行き,また三次市教育委員会に尋ねたが何の手掛かりもなく三次では三次藩がなくなったあと武術の稽古は行われなかったのかとあきらめていた。
 しかし昨年,三次市の郷土史家である森岡 晋様にご新影流の伝書が発見されたとの連絡を受け,原田家の御子孫である田辺英子様のご協力によって三次における幕末までの新影流の存在が明らかとなった。
原田家文書の中の武術関係文書には原田兵太が授かった新影流の伝書のほかに,原田の師である小谷幾蔵がその師である近藤三兵衛から授かった伝書や,小谷幾蔵が加藤惣太に出した伝書,近藤三兵衛が高津七太郎に出した伝書などが存在する
 本研究ではどのような経緯で新影流が三次に伝わったか,また広島藩の新影流との関連,そして伝書内容について明らかにしたい。
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  1. 2019/12/26(木) 21:25:16|
  2. 武道史

旧軍の先生方の銃剣道 2

 旧軍の先生方は先端が鋭い刃物であるという感覚のもとに木銃を用いられていたということを述べましたが、重さも感じられながら稽古されていたのだろうと感じます。最近の銃剣道の形を見ると、木銃の重さをそのままに素早くきびきびした動きで用いていて、その動きそのものは素早く見事です。一方、旧軍の先生方の動きは、木銃を用いていても重い真銃を用いているような、どしっとした動きでした。ある意味、古武道に通じるものがありました。このようなところも私たちが気を付けて稽古していかなければならないところだと思います。
 先日、令和元年度オーストリア共和国派遣日本武道代表団の銃剣道の形の演武をインターネットで見たのですが、銃対刀の形で木刀を使われた方の動きは普段から刀を使い馴れた先生であるため刀の代用としての木刀の動きであり、木刀であっても真剣の動きを感じる見事な形をされていました。
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  1. 2019/12/25(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

旧軍の先生方の銃剣道

 私は自衛隊を依願退職した後は、旧軍で軍人であった先生方に銃剣道を指導いただきましたので、どうしても古い銃剣道と新しい銃剣道の差が目についてしまいます。旧軍で稽古された先生方の銃剣道は木銃を用いていても、それが実際の刃物であることを前提とした動きであり、突かれたら刃物が体の内に入ってくるような感覚を覚えました。一方、現在の銃剣道はたとえ激しく突かれても刃物ではない棒の先端でドンッと突かれたという感覚しかありません。競技として発達してきたということでしょうか。わかる人にしかわからない感覚だと思います。
 私たちが大石神影流の防具着用稽古をするときに心しておかなければならない事です。

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  1. 2019/12/24(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

つながり

 ほとんどの人は利害関係を基準にしてつきあいをきめていきます。特にビジネスを中心として生きている人にとってはビジネスに役立たない人と付き合いを持つのは時間の無駄でしかありません。
 これは武道の世界でも同じです。道として武道を稽古する人はそのような人との付き合いがありますし、武道の世界で地位を得たい、名誉を求めたいと思う人は組織の中で上に立つ人との付き合いを求めます。その人がどのような人間性を有しているかどうかは関係ありません。
 また、武道をしたことがない人が武道を始めようとするときにも、武道を自分のファッションのように考える人は、それにふさわしい派手な流派を稽古したいと思い、武道を道として求めたい人はそれにふさわしい流派を求めます。
 人と人とのつながりはこのようにして構築されますので、たとえいろいろな方に紹介を受けたとしても一般的には利害関係になければそれはしっかりとしたつながりとはなっていきません。また、自分がどのような服装をしていようと、どのような地位にあろうと、他の人が自分との付き合いが利益を生むと考えれば、つながりを求めようとするのが普通です。
以前もお話ししたことがありますが、私自身も古武道の団体の役員をさせていただくようになったとたんに、急に脈絡なく全く縁のない人から〇〇流の〇〇と申しますと挨拶されたことがあります。また私自身は道を求めて稽古される先生方とのつながりはありますが、武道の世界で高い地位を求めよう、名誉を得たいとする方とのつながりはありません。
 つながりはそのようにできてきますので、真摯に道を求めていれば、素晴らしい方とのつながりができてきます。
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  1. 2019/12/23(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一度先生と呼ばれたら

 稽古しているアメリカ人が、「一度先生と呼ばれたら他の事を初心者として習うのは困難だと思う。自分は色々やってきたけれど、まだ人に教える立場に立ったことはないから、初心者となって古武道を習っても大丈夫だったけれど」と話してくれました。私が「私は居合を教え始めてから、柔術を習い、そして柔術も教え始めてから、剣術を習った、さらに機織りや書道を習っても常に初心者。」と話すと、「そのようなことは稀だ。」と話してくれました。
 そうなのかもしれません。これまでに稽古に来た人について考えてみたら思い当たる節があります。変なプライドがあるためか新たに何かを始めるという覚悟はなく、これまでしてきた事の上に新たに何かを付け加えようとしていると感じられることもありました。
 しかしながら、自分がこれまで先生と呼ばれる立場である、あるいはその道で〇段であるという妙なプライドを完全に捨てて稽古している人は本質を会得しようとして上達しています。大切なことなのだと思います。
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  1. 2019/12/22(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

去り際、死に際が大事

 12月に入って、航空自衛隊に勤務していた時の上司に御挨拶に行く機会がありました。元は戦闘機のパイロットしておられ、まっすぐな方で論理的で常に世の中のことを考えておられます。
 今回は「去り際、死に際が大事」というお話もしていただきました。確かにと頷けることです。去り際を考えることは死に際を考えることにも通じます。如何に生きて如何に死ぬか、常日頃から覚悟しておかなければ残念なことになってしまいます。

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  1. 2019/12/21(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
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