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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術三段論文

大石神影流剣術三段論文


「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について述べなさい。」
                              貫汪館北大阪支部 ○○○○

1 はじめに
今日につながる武道の原型が形成されたのは、15世紀後期から16世紀にかけて生まれた流派武術においてであるという。15世紀後期、剣術では飯篠長威斎の天真正伝神道流、愛洲移香斎の陰流、念流を継いだ中条長英の中条流など後の剣術の源流となる流派が現われている。16世紀になると、それらを受け継ぎ、剣術では塚原卜伝の新当流、上泉伊勢守秀綱の新陰流、伊藤一刀斎の一刀流など、さまざまな流派が展開している。
戦国時代が終焉を迎え、徳川幕府の時代となるのが17世紀初頭。剣術関連でいえば柳生宗矩の『兵法家伝書』(1632)や宮本武蔵の『五輪書』(1645)が書かれたのは江戸時代の初期にあたる。17世紀後半には、幕藩体制が定着し、武術においては実戦の可能性はほぼない時代となる。
18世紀からは、経済発展の中で町人・豪農の社会的な立場の上昇が見られ、社会全体が大きく変動していく中で、徳川吉宗、松平定信、水野忠邦により享保(1716~45)、寛政(1787~93)、天保(1841~43)の幕府の三大改革がなされるが、その際に質素倹約、尚武の気風が奨励され、その度に武術の復興が図られた(「武道の歴史とその精神 概説」魚住孝至 国際武道大学附属武道スポーツ科学研究所 2008年7月10~16pほか)。
大石神影流剣術が創始されたのは江戸時代後期である。現在、大石家に伝わる文書で散逸したものが多く、また当時の稽古道具は残っていないことから大石神影流の成立過程の詳細は不明のことが多いということである(参考文献(1)1p)が、先行研究の成果をたどりつつ、大石神影流剣術の果たしてきた役割や歴史的価値とは何か、そして我々が生きる現代において稽古する意義をどう考えているかについて述べてみたい。

2 大石神影流剣術の創流の経緯
大石神影流剣術の創始者である大石進種次は、寛政9年(1797)、九州は柳河藩の三池郡宮部村に生まれ、幼少のころより祖父の大石種芳から愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の指導を受け、文政3年(1820)には大嶋流槍術、文政5年に愛洲陰流剣術の皆伝を受けている。柳河藩に愛洲陰流剣術と大嶋流槍術を伝えたのは豊後岡藩浪人の村上一刀長寛であり、大石種芳は彼からこれらの免許を得ている。大石家に伝わった愛洲陰流剣術の形名は不明であるが、門人の残した伝書から推定するに新陰流の形もあるが柳生新陰流とは異なる、より実践的なものであったとされる。
文政8年には父の後を受けて柳河藩剣槍師範となり、天保3年(1832)、聞次役として江戸へ出立し翌年にかけて江戸で他流試合を行っている。また天保10年、再び江戸へ出て試合し、水野忠邦より引き立てを受けている。
愛洲陰流剣術と大嶋流槍術を修めた大石進種次が、いつ頃、大石神影流剣術を創始したのかについてであるが、伝書を比較したところ、天保5年には愛洲神陰流と記載されたものであったのが、天保8年には形名の変化があり天保13年、14年のものは現在の形名と変わらないということが分かる。したがって、体系が整理されたのは8年から13年の間、大石神影流を称したのは8年ころと推定されている(参考文献(1)2p)。
江戸を席捲した大石進種次の剣術が当時の人々に驚かれる特徴を持っていたということなので、私は、てっきり大石神影流剣術の遣い手として他流試合に臨んだと思っていたのだが、最初の江戸での活躍のときには、愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の師範という看板であって、未だ自らの流派を大石神影流剣術と称していなかったということになる。
愛洲陰流剣術は、大石神影流剣術の伝系の最初に愛洲移香斎が据えられているように陰流の流祖名を冠した剣術であり、普通に考えて大石家以外にも伝承されていたのだろうが、愛洲陰流剣術の他の伝系を知る者からすれば江戸で披露された大石進種次の愛洲陰流剣術は吃驚だったろうと思う。いや当流の免許皆伝を得ている者がどう工夫を加えるのか、それは千利休の守破離ではないがオリジナリティとして普通に受け止められたのだろうか。
さて、大石神影流剣術を創始したきっかけについてであるが、免許皆伝の際に授与される伝書の一つである「大石神影流剣術陰の巻」によれば、初め愛洲陰流剣術の竹の面と袋撓で行う仕合方法を学んだが、文化10年(1813)ころ、刀の切っ先を活かさない、胴を斬ろうとしないことに疑問を持ち、突き技と胴切りを取り入れ、それに対応できるよう愛洲陰流の袋撓と防具を改良したということである(参考文献(5)3p)。当時の剣術の諸流派は、刀法としてはともかく、少なくとも竹刀での試合稽古の範疇では、突き技や胴切り技をあまり想定していなかったということらしい。そもそも突き技は防具を着用しても危ない技であるとか、逆に竹刀がその衝撃に耐えられないので暗黙の裡に使われていなかったりとかするのを、大石進種次は、それではせっかく試合をするのに実践的ではないと考えて、むしろ竹刀と防具の改良を進めたということなのだろう。それと並行して、これらを特徴づけるような形(以下、大石神影流剣術の形を「手数」という。)を初めとする剣術探究の集大成として大石神影流剣術を創始したのだと思う。もしそうならば、大石進種次という人物は、とても合理的な考え方をする実践的な人だと思う。

3 手数からみた特徴の例
(1)突きと附けの構え
今日に伝わる大石神影流剣術における突き技については、最初に稽古する試合口の五本からして一心、無明一刀、須剣と三本に採用されている。また、突きの構えとして、左手を柄頭に添えた附けの構えが多くの手数に取り入れられている。手数において附けから実際に突きに移行することはないが、何時でも突きに入ることができるという前提で、手数の攻防が構成されている。「附けの構えからの突き技が手数には表されていないのは、それが当然のことだからであり、附けは、こちらが主導権を持つための構えである(道標2015/7/14より)」とされている。

(2)張りと受け
  張りと受けは二つでセットになった動きである。「実際に張るときはごく小さな動きで張り、身体のわずかな落下を用いる(道標2015/7/15より)」「刀の鎬で張るのだが、全身が連動して下からの力が呼吸に乗って鎬に伝わってくるように張る。体のどこにも無駄な力が入っていてはいけない(道標2014/11/5より)」とされる。これも試合口の三本に採用されており、附けの構えと同様、続く陽の表や陽の裏でも出てくる特徴的な動きだと思う。

(3)阳剱と阴剱
  阳剱と阴剱は、試合口に続いて稽古する陽の表の一本目、二本目の手数である。

…阳剱、阴剱は大石神影流の極意を教える手数です。阳剱で相手の木刀に意識を取られて、自分の動きが正しく出なければ大石神影流は身に付きません。阴剱で相手の動きに意図的に合わせて動いているようでは(こう来たから、こう動くという動きでは)大石神影流は身に付きません。…(道標2015/7/6)

  阳剣は、「打ち太刀の動きに乗って勝つ手数。先に打太刀が動きを起こすがそれは仕太刀に攻められ動きを起こさざるを得ない状態であるからであり、その打太刀の起こりに対して、上段から攻める仕太刀が打ちこむ(道標2015/9/4より)」のであり、阴剱は、「打ち太刀に応じて勝つ手数。ただし車の構えからどのようにも斬り込めるのが前提であり、打ち太刀がどのように動いても仕太刀は相手と調和が保てていなければならない(道標2015/9/5より)」とされる。
初心の段階で稽古する手数であるが、このように大石神影流剣術における相手との攻防の考え方が陽と陰という手数に凝縮されているという。稽古を重ね、極意であるという意味をよくよく探究していきたいと思う。

4 歴史的価値について
(1) 形稽古と試合稽古
新陰流系統の流派は、流祖である上泉信綱が考案した袋撓を用いて試合稽古をしていた。袋撓を用いない流派は、木刀による怪我もあり、面や手袋など怪我を防ぐ工夫をしたところもある。稽古方法の変遷については、宝暦年間(1751-1764)に、一刀流の中西忠蔵子武が鉄面、竹具足を用いた竹刀打ち込み稽古法を採用したことが旧来の一刀流と対立したというエピソードが知られているように、竹刀打ち込みによる試合稽古を採用するかどうかは流派の分岐点になり、組太刀や木刀による形稽古から、むしろ竹刀による打ち込み稽古が盛んになっていったという(参考文献(5)3p)。
大石家に伝えられた愛洲陰流では簡素な防具と袋撓を用いていたことが、大石神影流剣術陰之巻に記載されている。形稽古だけでなく、簡素な防具を用いて袋撓で自由に打ち合う稽古方法が存在していたということである。手数の稽古については、「私が形を稽古するのは、力士が下稽古を積んで土俵に上がるのと同じである。撃剣(防具をつけて竹刀で打ち合う剣術の形式)の技法は千差万別であるといってもその極意にいたっては形の外に出るものではなく形の変化とみるべき。したがって形を熟練して態度を調えれば、撃剣もおのずと上達するものである」という趣旨を語ったという記録がある(参考文献(2)9p)。この点、現代においても、大石神影流剣術では「防具着用稽古をせずに大石神影流剣術を名乗ることはできない。確かに大石進は手数を大切にしたが、それは試合稽古の基礎基本であったからで、大石神陰流が大石神陰流であったのは防具を着用して竹刀を用いて自在に攻防ができたからである。手数の稽古で養った動きが防具を着用したうえでもできなくてはならない。(道標2013/10/21より)」とされ、手数の稽古と試合稽古が相互に補完し高めあうという考え方が今に伝わっている。
翻って現代、(スポーツ化した)剣道と(形稽古中心の)古武道である剣術が相互に孤立したまま併存しているという状況を鑑みるに、真に実践的な剣術とは何かを志向する際、一つのヒントが内包されているのではないかと感じる。

(2) 竹刀や防具の改良
大石進種次については長竹刀が有名である。大石神影流剣術では竹刀の長さは各人の乳通りの高さまでとされ、身長七尺と言われた種次は五尺三寸の竹刀を用いた。これほどの長さであれば、従来の袋撓では撓み(たわみ)が大きくなってしまうので、先革、中結を竹刀につけて弦で引っ張り、反りが落ちないようにしたという。天保期の初めに撓まない四つ割り竹刀が使用されていたという指摘もあるが、弦で引っ張る現代の竹刀の形は大石進種次の工夫ではないかとされている。
また、大石進種次に試合で敗北した剣士の談として、「(大石進種次は)槍術用の面を改良したものを使用しており面金の山形が高いので突いても滑り、こちらの面金は低く突きが止まる。(彼の)面垂は幅が狭く当たりにくいのに、こちらの面垂は大きく突きが止まる。こちらの竹刀は半分あまりの長さに過ぎない。道具と方法の違いで負けた」というものがある。
現代の剣道とは勝敗の考え方が異なるというが、当時の防具をつけた試合の様子が伺えるとともに、剣術そのものの修行とともに道具の改良に余念のない大石進種次の合理的な考え方が垣間見える。

(3)他流派との交流
江戸時代後期は、従来の閉ざされた諸藩の流派の時代から、諸流派の試合によって開かれた時代へと移っていった時代である。しかし地域によって温度差があったようで、西日本では、文化(1804-1818)末の他流試合の記録がある一方で、関東地方の諸藩の剣術師範家で他流試合を認めていたところはほとんどなかったという(参考文献(5)2p)。
  試合によって大きな怪我を負い再起不能になっては、名誉が傷つき怨恨沙汰にもなり双方にとってメリットはないのは明らかである。つまり、この他流試合を可能にしたのは、防具をつけて竹刀で打ち合う剣術の形式である撃剣という共通基盤があってこそであった。この他流試合というのは、大体18世紀末から、撃剣流派の者が地方を回って始めたとされている。寛政年間には九州地方の諸藩において廻国修行者を受け入れる素地があり、近世初期までに成立した古流と言われる流派も試合をしていたという記録が残っている。
他方、関東地方では、文化文政(1804-1830)のころまでは廻国修行者を受け入れて他流試合を行う多くは村落部に集中しており、関東地方の農村では、剣術の心得のあるものに屋敷などを提供して道場を開かせ、そこで近隣の若者が剣術の稽古をしていたという図式があった。こうして村落部では試合の形式をとる撃剣が活発になる。因みに、そのような村落部に勢力を持って門人の拡大に成功した流派が直心影流、中西派一刀流、神道無念流などであり、江戸でも隆盛を誇るようになったという。
江戸の町道場では多くの庶民がつめかけ、なかには免許皆伝を受ける者も少なくなかったようである。このような傾向は武士階級としては由々しきことであり、天保10年(1839年)、天保14年、文化2年、慶応3年(1867年)など、幕府は再三にわたり武士以外の階級が武芸の稽古を禁止する布告を出している。何度も禁令が出るというのは、それだけ剣術を稽古する庶民が多かったという証拠にほかならない(「剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の『諸国廻歴日録』を読む」永井義男 朝日新聞出版2013年8月 第1刷34p)。
柳河藩では、18世紀中ごろには藩の剣術師範が他流試合に参加している記録が残っている。大石進種次と種昌の門人を記載した諸国門人姓名録によると、ほとんど武士階級であり、関東と様相を異にするが、試合剣術が18世紀後期には普通に展開されていた柳河藩の槍剣師範で育った大石進種次は、実践的な剣術の工夫を追求する環境にも恵まれていたということだろう。ちなみに、大石進種次は文政5年ころ、ちょうど江戸に出る前に九州を廻国修行している。
江戸の流派への大石進種次の影響については、天保7年(1836)に柳河藩の笠間恭尚が江戸で記した「他流試合口並門対」に、剣術等の試合口(試合における技術的特徴)について略述する下りがあり、そこから大石進種次の活躍以降、江戸で突き技が広まっていった様子が読み取れる。江戸の剣術で主導的な役割を果たした男谷精一郎がもろ手突き、片手突きを取り入れたということも書かれてある。
大石神影流剣術の門人を記録した諸国門人姓名録によると、種次と種昌の直接の門人は650余名で、主に九州、中国、四国地方出身者であり、柳河藩252名、大石進が指導に通った隣藩の三池藩79名のほか人数が多いのは長州萩藩43名、土州藩60名、佐賀藩武雄領17名、日向飫肥(おび)藩14名、肥前小城(おぎ)藩13名などが挙げられる(参考文献(1)5p)。これらの門人のうち嘉永7年(1854)正月までに種次によって免許皆伝を受けた者が49名おり、皆伝者の出身地でいえば、ざっと10名を超えるのは長州藩、5名前後が肥前小城藩、土州藩、日州飫肥藩が挙げられる。一方、地元の柳川藩、三池藩は2名づつに限られている(参考文献(5)8p)。地元の柳川、三池は門人数の割には少ないというところ、想像に過ぎないが、意識と技量の高い廻国修行者には積極的に皆伝を認める一方で、地元の修行者には辛めの審判であったのだろうか。
遠方からの留学者の目的については大きく二つに分かれるようで、一つ目は防具着用の試合法を習得する目的である。長州藩の剣術師範の稽古目的はこれだったとされ、進んだ稽古方法を持ち帰り、自らの流派の稽古にも応用しようというものである(参考文献(7)1p)。二つ目は、大石神影流剣術の全てを習得する目的であり、廻国修行の記録を残している樋口真吉はこのパターンらしく、初めから大石家の下で修行することが目的で廻国修行を始めたわけではないようではあるが、何度も柳河藩に滞在してみっちり修行している。ちなみに樋口真吉は、文化12年(1815)土佐藩出身で元々無外流を修行していたが、形で突きを教えているのに実際には使うことを許されない、下段の構えを伝えているのに下段を禁じる、他流試合を認めないなどといった旧来の稽古法の墨守に反発し、その道場を破門になったという人物である(参考文献(2)2~3p)。その人物が、柳河藩の大石家を訪れ、伸び伸びと修行にいそしむ。まさに、当時の様相が垣間見えるエピソードだと思う。
他流派との交流には、様々な流派を参考にしてより進化できるという側面もあれば、試合稽古で有利な技術を中心に収斂していくということや試合のルールや使用する道具の制約を受けるといった側面もあり、メリットとデメリットはあるだろう。また試合稽古の隆盛により多くの門人が殺到した道場では、一子相伝のような訳にはいかず、稽古方法も自ずと変化せざるを得ない。しかし、なぜ大石進種次が江戸で活躍できたのかということを考えるとき、愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の師範という確固たる軸を持ちつつ、他流派との交流も開かれたマインドで活発に行い、大胆な改革も辞さないということが大きなポイントだったのではないかと思う。後の剣術・剣道に与えた影響については、まだまだ発掘・顕彰される余地が大きいのではないか。

(4)明治維新への影響
  上述の土佐藩は安政2年に他流試合を解禁することになる。その立役者は、柳河藩の大石進の門人であった樋口真吉、甚内の兄弟である。「大石神影流は四つ割りの長竹刀で下段を使う。土佐藩の二大流派は小栗流と無外流であるが、いずれも他流試合を嫌い、袋撓で上段を使う。ところが、吉田東洋が寺田忠次について大石神影流の稽古を始めたので、吉田門下や後藤象二郎なども大石神影流の稽古を始めたため、他流試合を行う勢力が大きくなった」という記録が残っている。
また後に、嘉永4年(1851)、津藩江戸屋敷の藤堂邸で大石進種昌、男谷精一郎、千葉栄次郎、斎藤新太郎、桃井左右一郎、島田虎之助らが集まり試合をした際に、大石進種昌が好成績を残したことから、その後土佐藩で指導することになる(参考文献(4) 5p)。そのとき、土佐藩の重鎮であった吉田東洋や後藤象二郎は、大石進種昌から直接指導を受けている(参考文献(3)2p)。吉田東洋は土佐藩の志士に暗殺された人物であるので守旧派かとイメージされる向きもあるが、和漢洋の学があった開明な人物で、大石進種昌が土佐を去るにあたり、大石神影流剣術を西洋科学に喩え、科学が進歩するように剣術も進歩しているとたたえる序を漢文で記したという。
もともと西国には徳川幕府の外様藩が多いが、大石進種次らの門人に長州、土佐、肥前といった、後の明治維新で活躍した藩の出身者が名を連ねているのが目につく。幕末の動乱期は江戸時代より前と同じように実践的な剣術が必要な時代であった。試合稽古による交流を通じて進取の気風を好む人的ネットワークが広がっていき、やがては維新の原動力の一つになったといえば言い過ぎだろうか。

4 おわりに
明治維新の廃刀令や武士階級の没落、風俗習慣の西洋化、特に戦後の近代化などの荒波の中、幕末に存在した武道の多くが現代では廃絶してしまった。大石神影流剣術の今日的意義とは何かと考える際に、途中で途切れてしまい伝書から復元した流派や出所が歴史的に明確に分からない流派もあると聞く中で、客観的な歴史的資料から跡付けることができる系譜が創始から現代まで連綿と続いている数少ない古武道であるということは、まず認識しておく必要があると思う。
そんな現代に生きる我々が大石神影流剣術の稽古を通じて学ぶことができること、それは、私にとっては古武道の修行という心と身体をつなぐ稽古そのものであるとともに、歴史的存在としての古武道の命脈に触れ、師範に師事することを通じて伝統の継承という営為に関わる喜びを感じることでもある。更には、廻国修行という訳ではないが、志を同じくする諸士との出会いの楽しみというのも挙げられるかもしれない。
いずれにせよ、初心を忘れずよくよく稽古していかなくてはならない。



≪参考文献≫
(1)「大石神影流『諸国門人姓名録』について」
 森本邦生 日本武道学会第40回大会発表抄録 2007年8月30日
(2)「樋口真吉 第一回廻国修行日記について -大石神影流の土佐への伝播-」
 森本邦生 日本武道学会第42回大会発表抄録 2009年8月24日
(3)「土佐藩 片岡健吉の稽古記録について-安政5年の『文武修行日記』を中心に-」
 森本邦生 平成26年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 2014年12月20日
(4)「嘉永4年の藤堂邸における剣術試合の様相について」
 森本邦生 日本武道学会第48回大会発表抄録 2015年9月9日
(5)「大石神影流の門人分布について」
 森本邦生 平成28年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 2016年12月25日
(6)「幕末期の柳河藩・大石進に関する研究-日本剣術史への影響を中心に-」
 森本邦生 放送大学大学院文化科学研究科 修士論文 2016年12月(特に脚注を記していない部分にかかる多くは本書を参考としている)
(7)「長州藩 渡部直八の廻国修行について」
 森本邦生 平成29年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 2017年12月23日

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  1. 2020/02/04(火) 21:25:00|
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