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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

無雙神傳英信流抜刀兵法二段論文

無雙神傳英信流抜刀兵法二段の論文を紹介します。

「これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことについて」
                             貫汪館北大阪支部 ○○○○

1 はじめに
無雙神傳英信流抜刀兵法は、天文十一年(1542年)生まれの林崎甚助重信を流派の祖として、土佐藩に伝承されてきた居合である。貫汪館では、膂力に頼ることなく、刀と身体との一体感、相手との繋がりを重視し、肚からの無理無駄のない動きを求めており、稽古においては礼を尊重することによる人格の陶冶を最優先に置いている。私は、四十を超えてからの入門であるが、体力が衰えても人生を通じて稽古を積み重ねていけるような武道と出会うことができたのは本当に幸運だったと思っている。
修行即ち終わりなき行を修め(続け)るということについて、貫汪館の講習会や支部での定例稽古での教えを基に、私自身、無雙神傳英信流抜刀兵法にどのように向き合い、どのような点に留意して稽古しているのか、今後の展望と併せて述べることとしたい。

2 大森流から
  無雙神傳英信流抜刀兵法は、大森流、太刀打之事、英信流表、詰合、大小詰、大小立詰、英信流奥と稽古の段階に応じて形が進んでいくことになっており、初心者は、礼法や座り方、立ち方、歩き方、刀の扱い方などの基本を学んだうえで大森流から稽古を始める。大森流は、冒頭の礼法に続く11本のうち10本までが正座姿勢からの形である。一本目の初発刀から、座り方、抜きつけ、振りかぶりからの斬撃、納刀、立ち方と基本的なエッセンスを一通り稽古することができるようになっている。と同時に、礼法を稽古に先立つものとして意識をすることが必要で、その身体的な動きを通じて、心の在り方との連関を意識することで常に深化していくことが必要とされている。
立礼を例に言うと、身体から無駄な力みを抜いて足首、膝、鼠蹊部を緩めて立った状態から礼をすると、身体は自然にバランスを保とうとするため、上体が前傾するにつれて、足首、膝、鼠蹊部はさらに緩み臀部は中心線から後方に位置するようになる。これは正座から抜きつける際の臀部の動きと同じである。座礼ではどうか。上体の前傾とともに左手、右手と順に前に手を着いていく際の、左手の着いていく動きは鞘手の動きと同じ、遅れて出る右手は柄手の動きと同じである。また帯刀の前段階で刀を前に立てる動きは、身体をただすのに役立つ動き、身体に無理無駄なく肩ひじも下方に降りている、右手で刀が立つのを支えているだけの状態を知ることで、自分の体のあるべき状態を求めていくことができる。(道標2016/04/29~05/03より)
初発刀に続く左刀、右刀、當刀は、正面、左、右、後ろから斬りかかる敵に抜付けるという想定での初発刀の応用である。
一般的に座った状態から抜きつけようとすれば相手を斬らんとして上へ前へ進むことになりがちであるが、これらの抜付けは沈むことにより行われ、腰の角度は半向半開の状態のまま、上半身の力が抜けていくことによって抜付けがなされる。これが無雙神傳英信流抜刀兵法で伝えられている敵に対して間に合う動き、技術である。我々稽古する者にとっては素早く力強く抜こうとする既存の発想の転換と共に、身体の動かし方や心の在り方を根本的に見直さなければならず、これらの稽古を通じて抜付けの質を高めていく必要がある。
大森流では、當刀に続いて、陰陽進退、流刀、順刀、逆刀、勢中刀と、各形では正座姿勢から抜きつけが始まり立姿勢へ移行するが、後の形になるにしたがって立姿勢になるのが早くなり、次の虎乱刀では立姿勢から形が始まる。この展開は、立っていようが座っていようが同じ身体の運用であるということ、立姿勢は座姿勢の状態のまま立つということを身に着けさせるということと伝えられている。
我々は一般に足腰を使って動いたりバランスを保持したりするのが常であり、座ったまま抜きつけたり動くのには不自由さを感じるものである。その制約の中で自由に動くことを稽古するとともに、立ち姿勢での稽古においては、抜き付け、斬撃と上半身に力が入り、脚力を用いて身体を安定させようという既存の発想、無雙神傳英信流抜刀兵法で説くところの無理無駄をなくすことを意識しなくてはならない。

3 太刀打之事から
太刀打之事は、ほとんどの形が剣術の業で構成されている二人で組んで行う形であり、鞘木刀を用いて稽古する。既に刀を抜いた状態にある敵が、自由に斬りかかって来る状況の中で、刀が鞘に納まった状態から対応しなければならない。如何に無理無駄を廃し、何物にもとらわれない融通無碍の自由な状態になるかという課題が与えられている(道標2006/10/16より)。
しかし、稽古相手を前にした時の様々な心理状態を振り返ると、相手に迷惑をかけてはいけない、上手くこなしたい等の我執に如何に囚われていることか。人に刀を振り下ろすという行為自体、稽古のためとはいえ緊張を伴うものである。貫汪館では、こうした心理の葛藤を克服するために、立木を敵と想定してひたすら心を鎮めて袈裟に斬り込む独り稽古により心と身体を整えることを薦めている。
太刀打之事の形は、出合、附入に始まり、独妙剣、絶妙剣、心妙剣、打込で終わる一連の形の稽古を通じて、剣術の動きを知り剣術に対抗できる力を身に着けることを一つの目的としているという。また剣術の動きを通じて居合の体の遣い方を深める稽古とするものである。素抜き抜刀術でありがちと言っていいのかどうか、所謂タメを作っていては間に合わないこと、足腰を固め構えていては隙ができて斬られてしまうということ、相手に対して正対を続ける事に意味は無いことなど居合の動きを向上させるヒントが込められており、剣術形であるが居合の質を向上させる形として工夫が必要である。
私は、独り稽古においては、ともすれば自分の世界に没頭、埋没しがちである。それが相手を立てた場合、力みや焦りが呼吸や姿勢の乱れにつながりがちになる。平常心を保つことがいかに難しいか、これは私が対人稽古の際にいつも直面する課題である。常に変化する間合いの把握、居着かない動き、そして稽古相手との攻防を通じた心身のコントロールと意識の繋がり、これらを肚からの動きで体現することなど、課題を自らに課して貴重な稽古の機会として捉えている。

4 これまで留意してきたこと
(1)形稽古について
…初心者の方が陥りやすいことに、なにがなんでも形の手順を覚えようということがあります。覚えられない事を劣ったことのように考えられることもあるようです。その結果、もっとも大切な無理無駄のない動き、呼吸に基づき力みがない動きを忘れて、体に力を込めて手順を繰り返すという悪癖を身につけそうになってしまいます。初心者の方は手順を覚えようとする必要はなく、大切な基礎を身につける努力を重ね、稽古を重ねた結果として自然に手順を覚えたという方法を取らなければなりません。…(道標 2019/5/29)

古武道における形稽古をどのように捉えるのかについては、「すべての形稽古は毎回新たなもの、いわば手順はあってないようなものである。前後左右上下いずれへも変化できる動きを内包するべきものであり、動いて動かず、止まって止まらず、すべての形は異なっていてかつ同じものである。」(道標2017/06/24より)というのに尽きると思う。形は流派の動きを体現するものなので、反復により身体に刷り込ませる必要はあるのだろうが、その意図するところは一つのパターンを刷り込ませるということではなく、自由自在にあるべき境地に至る一つの筋道として稽古するということなのだろう。この点、師の範を通じて我々は常に方向を間違えていないか確認しなければならず、道標においても師の稽古での指導においても、あるべき道について様々な方便を用いて諭されているところであり、難しいことであるがよくよく心に期しておくべきである。

(2)独り稽古について
居合は仮想敵を置く独りで行う形が多い。しかし、武術が敵に対する業である以上、独り稽古というのは対人稽古を補完するための稽古というのが元々の姿ではないかと思う。私の場合、稽古環境の事情から独り稽古が多かったということもあり、講習会や支部稽古で指導を受けた内容を糧に、自分の身体の遣い方、相手との間や間合い、精神的な意味での心のつながりをどう体得すればよいのか大いに試行錯誤し、指導されたことを反芻して自分なりに工夫しようと、一つの形を何度も稽古するということをよくやった。恥を晒すようだが、その結果、身体のあちこちを順番に痛めてしまったのも事実である。後に「形の順番というものは非常によく体系立てられ、まんべんなく正しく稽古することによって自然に上達するように組み立てられている。流派の形は教習体系として組み立てられているものであり、どの形にも偏るべきではない」「できないなりに試行錯誤しながら稽古を先に進めることで基本技の理解に立ち返ることもある、寧ろそのように出来ている」との教えを知ることとなり、随分と遠廻りしてしまったなと思ったものである。実際、大森流の初発刀の抜き付けの要領が何とも理解できなかったのが、英信流表の稲妻の抜き付けの手の内の感覚から改めて感じることがあり、このことかと私なりに一歩前に進めたかなと実感したことがある。若くない無理の利かない身体であるからこそ、正しい導きの下で稽古することが効果的で効率的だということだろう。
因みに、貫汪館で求められている境地は、「居合が武術である以上、起こりを見せてはいけない。無雙神傳英信流の抜付けは敵の殺気を感じてこちらから先に抜付けるといったものではなく、敵が自分に斬りこもうとするので抜きつける。柄を取って、あるいは柄に手を掛けて抜付けるという意識や動きがあってはこの働きはできない。見方を変えて言うならば腰にある刀は体と別物ではなく、抜こうとする前からすでに体と一体である故に柄手に変化は起こらない。」というものという。動きの起こりを察知させないということは、単に物理的な速さを追求するというだけでなく、むしろ動きを見せないことが敵に対する速さになるという技術を自ら追求するということであろうか。否、究極的にそれは「運剣は地の力の伝達により、我の力を排して天の意思の下で行うものであり、天地人の一致を求める」境地だという。求めるべき先は果てしなく遠いという他ない。

(3)日常生活での稽古について
道場での稽古は限られた機会でしかなく、日常生活での稽古を意識して行うかがどれほど重要かということは、勉強やスポーツの例を出すまでもない。例えば、「歩く」ということについては、「重心は常に両足の真ん中に置き特に大腿筋が緊張しないようにしながら股関節は緩め、膝から下にも力を入れず、足先が自分の膝を追い越さない状態を続ける。常に体の中心を中心にあらせているだけだが、これができなければ抜付けは本物にならず、運剱・斬撃は隙だらけになってしまう」。
「斬撃」ということについては、「斬撃の稽古は一般的なスポーツの素振りとは異なり、強さ、鋭さ、筋力の強化などといったものを求めているのではなく、自分自身の歩みの歪に気付き、それを自身で正せるようになる事、刀を上げ下げする時に臍下中心の動きから肩あるいは腕中心になっていないかということに気付き、それを自身で正せるようになる事を目的としている。ただむやみに速く動こうとか速く刀を振ろうとしてはならないのは、自分の体を感じる事が出来ないからであり、自分自身の体の状態が分からなければ正す事も出来ない」という。
刀を持ち出さずとも、何かを動かしたり、手にしたり、歩いたり、座ったり、日常生活のあらゆる局面で、身体の働きをどこまで意識できるかということだと思う。

3 これからの展望
(1)歴史や伝統、先人から学ぶということ
現代武道(スポーツ)では、現役の選手が競技から引退して指導者に専念するということが当たり前のように行われる。しかし、かつての武士は、隠居して家督を譲るとしても、例えば出家でもしない限り刀を持つことから引退するということはなかった。武術は、体格や性別、老化による体力の低下といった生理的な格差を補完する技術であるわけで、かつて江戸時代の武士たちが修練した武術は力に頼らないことを理想としたという。

…稽古を始めたばかりの頃は、未だ何も会得していないのにもかかわらず、前回の自分の稽古を基準にそれをしっかりしたものにしていこうとすることがあります。初めての稽古は右も左もわからず、素直であろうとしますのでわからないながらにうまくできます。次の稽古、その次の稽古では前回できた(と思った)ことをよりしっかりさせたいという心が生まれる時があります。それは間違いの始まりで、毎回初心にもどって新たな稽古をすることで見えなかったことがよりはっきりと見えるようになり進むべき道が見えるのだと考えなければなりません。
少し上達してくると、与えられたことを工夫するのではなく、自己流でこうしたほうがより良いと思う心が生まれる時があります。できない時にそうなりがちですが、それを自分で工夫と思ってしまい、工夫したからできるようになったと勘違いしてしまう時があります。実は与えられたことを工夫した結果できるようになったわけではなく、自分がしたいようにしているだけなので実際は道をそれています。…(道標2019/04/19)

こと武道においてもスポーツ全盛の現代に生きる我々としては、力ではなく業と心で戦う方法を稽古により復元していく必要があり、筋力のあるものはその筋力を用いることを否定されて稽古が始まる。この筋力に頼らずに動く事一つでも相当難しい。身体の遣い方、考え方を一から再構築しなくてはならない。
自身の稽古する古武道の長い伝統と継承の重みをよくよく噛みしめるということだと思う。稽古の積み上げに潜む陥穽に陥ることのないよう、稽古による工夫のつもりが独りよがりの理解にならないよう虚心坦懐を心しなくてはならない。

(2)三流併修のこと
居合を武道として稽古する以上、例えば剣術に対抗できるほどの力を身につけなければ意味がない。剣術に対抗しようと思えば剣術の動きを知らなくてはならず、それは逆も然りで、居合にも柔術にも当てはまる。

…貫汪館の居合、柔術、剣術は本質がすべて同じであるため、無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術と三流派を稽古しても異なったものを三つ習うのだという意識は全く必要ありません。たとえば古い流派が居合、柔術、剣術さらには槍術や長刀までも同一流派の中で稽古されているのとかわらないと思います。
貫汪館で稽古されている方は三つの流派が別物と思わず、同質のものを違う角度から稽古しているのだと理解して上達してください。どの流派を稽古していても三つの流派は同時に上達していきます。…(道標2019/07/07)

貫汪館の三流派は動きの根本は共通しているということなので、どれかで身に付けたことは他の稽古にも活きてくるはずであり、それぞれの流派を通して多角的な見方を養うことが出来るのは貫汪館の稽古体系の特徴の一つと言える。
根本の考え方が共通しているとはいえ、無雙神傳英信流抜刀兵法の形の中にも、剣術的、柔術的な形があり、大石神影流剣術の手数の中にも居合的なものがあり、澁川一流柔術の中にも、居合的なものや剣術に対抗する形があり、それぞれの流派特有の考え方があるのだろうが、それぞれの流派に共通する目指すべき境地に向けて歩んでいくということが、相乗効果という意味でも肝要だということだと思う。

4 おわりに
  幕末の土佐藩士に片岡健吉(1844~1903)という人物がいる。彼の「文武修行日記」によると、安政4年(1857)に寺田忠次に入門し大石神影流剣術を学び、安政5年に下村茂市に入門し長谷川流居合(無雙神傳英信流抜刀兵法)を学ぶなど、貫汪館の古武道を併修されている。
その彼は下村茂市から高木流柔術を併修しており「體術道標」という柔術を学ぶ初心者への心得を遺している。高木流柔術がどのような柔術だったのか今では分からないということであるが、この心得で示されている内容は、まさに私がこの小論で与えられた主題とも通底する。

〇力みをなくして身体全体を柔らかく、身体の内から出る力が端々に行き渡ることが重要であるので、初心のうちは大きな業を(堂々とゆとりを持って無理無駄なく無理な速さを求めず、正しく)稽古すべきこと
〇業がかからないことを恥ずかしく思ったり、教えられた業が間違っているとして、自分の作為を加えれば、業は進まないこと
〇稽古の時は、相手は常に敵と心得て、間違った仕掛けがあったとしても業を途中で中断しないこと
〇稽古では相手の体が動く拍子に気を取られてはならず、相手の気に応じるようにすべきこと
〇敵に勝つことを急がず、負けまいとして自分の身を守り、残心を大切にし敵に隙を作らないこと 

など、いずれも身に覚えのあることばかりである。
「體術道標」の最後は、「武芸は理屈ではなく、ただ日夜稽古を積めば上達するものではなく、業に理論を重ねて修行すれば事理一致の修行といえること」という文章で締められる。私は、「合理的」に追求することで技術は進化し得ると思っているので現代武道を貶めるものでは決してないが、修行を通じて力ではなく年齢・体格・筋力等の違いに左右されることのない技術と心を求め続けていく営為に大きく共感する。そこには、自分と向き合うことによる自己陶冶、何より流派の稽古を通じて歴史や伝統的価値に触れ、先人の遺産を次代へ継承することの喜び、自己達成感があるからである。
よくよく心して稽古していきたい。



≪参考文献≫
1) 森本邦生:
「無雙神傳英信流の研究(1)」
広島県立廿日市西高等学校研究紀要第11号 平成15年3月23日
2) 森本邦生:
 「無雙神傳英信流の形・・・英信流表、太刀打、詰合」
広島県立廿日市西高等学校研究紀要第12号 平成16年3月31日
3) 森本邦生:
 「無雙神傳英信流の形・・・大森流、英信流奥」
広島県立廿日市西高等学校研究紀要第13号 平成17年3月31日
4) 森本邦生:
 「土佐藩 片岡健吉の稽古記録について-安政5年の『文武修行日記』を中心に-」
平成26年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 平成26年12月20日

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  1. 2020/02/03(月) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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