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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

渋川一流柔術初段審査論文

澁川一流柔術の初段審査論文を紹介します。

「武道における礼と澁川一流柔術における礼法について」
                           貫汪館北大阪支部 ○○○○

1 はじめに
 礼という概念を歴史的に振り返ると、その言葉自体が儒教に由来するものであることは自明であるし、心の修行という点で密教や禅などの仏教の影響や神道的な要素もみられるように、はるか以前から思想や宗教と密接に結びついて日本文化の中に存在してきた。しかし、相互の敬意や感謝といった相手に対しての礼、自らを律するための自己修養の礼、神前への礼や開祖への礼など対戦相手や自分自身を超えた修行の空間そのものに対する礼が日本的な礼として明確に意識されたのは、室町時代から戦国時代を経て江戸時代になって、武士による社会統治のシステムに礼が組み込まれ、礼に関する理解・解釈が深まり社会一般に定着した頃からではないかといわれている。(中村勇、濱田初幸『柔道の礼法と武道の国際化に関する考察』10頁 鹿屋体育大学学術研究紀要第36号 2007年)
  近年、柔道や空手のように、オリンピック競技や世界選手権などの大会が開催され、メディアを通じて世界に向けて発信され、参加する選手も国際色豊かになり、世界標準のメジャーなものになる日本の武道も多くなってきている。そのこと自体は武道の発展という意味で喜ばしいことだと思うが、一方で、ルールを決めた試合での勝敗により優劣を決めるスポーツ競技化が進むということでもある。日本で生まれ住んできた我々は、ともすれば何となく分かった気になりがちであるが、例えば日本と全く異なる文化圏の人々に対して武道における礼の概念をどのように理解してもらうのかといったことも現実的な問題として起きてくる。いや我々は本当に分かっているのか、仮に分かっているとしてもそれを知らない人に説明できるのか、現代に生きる我々は、武道を稽古する者として礼に関する理解を改めて自ら問い直していく営みが必要不可欠となっていると思う。
 本稿では、私が渋川一流柔術にどのように向き合っていくのかという点を念頭に、標題について考えるところを述べたい。

2 武道における礼
日本人の精神構造を広く欧米に紹介した新渡戸稲造は、その著『武士道』の中で、「礼とは、社会秩序を保つために人が守るべき生活規範の総称であり、儀式、作法、制度等を含むものである。また礼は、儒教において最も重要な道徳理念として説かれ、相手に対して敬虔な気持ちで接するという謙譲の要素がある。他人の安楽を気遣う考え深い感情の体現化であり、形だけの礼を虚礼とし、真の礼と区別しなければならない。」(新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年p55-64)と述べている。儀式や作法だけ繕っていても相手に伝わることはない。また、たとえ「礼の精神」を内面に持ち合わせていても、それを適切に体現できなければ相手に伝わることはない。「礼の精神」と「礼を表現する作法たる礼法」の両方が備わって初めて礼を体現できるということである。
  日本武道協議会が制定した『武道憲章』の前文に「武道は、心技一如の教えに則り、礼を修め、技を磨き、身体を鍛え、心胆を錬る修業道・鍛錬道として洗練され発展してきた」とあるように、礼を修めることは、武道を稽古する者にとって技や身体能力を高めることに先んじて求められている。武道が単なるエゴイズムの産物となったり、暴力のための技術に堕することへの戒めということだと思う。
 それでは澁川一流柔術では、どのように捉えられているのか、以下、具体の事例を挙げていく。

3 澁川一流柔術の礼法
  貫汪館では、礼の意義と稽古する者の心得について次のように述べている。

…武道は人との関係において成り立ちます。「和」がない武道は暴力に過ぎません。相手との「和」を保たせる基本が礼です。神を畏怖し敬う心がなければ「神拝」は形だけのものにすぎません。神を畏怖し敬う心があれば神前において無作法な振る舞いをすることはありません。たとえ、その場における作法を知らなくても不敬な動きにはならず神との関係は保たれます。稽古も同じです。相手をたんに稽古の対象と考えていては見えるものも見えてきません。見えるものが見えてないのは「我」中心で、和は存在しないからです。見えるものが見えないというのは、相手も自分も、またその手数・形を工夫された流祖や、それを伝えてこられた代々の師範の心も見えていないということです。また、師に対する畏怖の念や尊敬の念がなければ、見えるものも見えてきません。話されたことも聞こえず、示されたことも見えません。…(道標「礼」2014/12/15)

…手数・形稽古も機をうかがって打ち突きするのは初心の段階であり、相手と心と心でつながっていれば打つとも突くとも思わずに、自然に自分の体と心がしかるべき時にしかるべきところへ入っていきます。理論を頭に入れてその通りに動こうとするのとは異なりますし、ましてや機をうかがうのとも異なります。相手と心と心でつながる(つながろうと思わなくてもつながる)方法は稽古の時にお伝えしてあります。疎かにしなければやがて理解できる時がやってきて、そのときに私たちが稽古しているのが何なのかということが分かります。…(道標「心と心をつなぐ稽古」2018/02/09)

  それでは、どのような実際にどのような動きであるのか、澁川一流柔術で初めに稽古する形のグループ「履形」の礼法は次のとおりである。
 礼法の動きとしては、①互いに蹲踞して、前に両拳を着き、礼をする、②互いに立ち上がる、③受が右手で突いてくるので、捕は後方に下がりつつ左手でその手首を下から取り、そのまま背を向けさせる、④捕は、右手のひらでポンと相手の右肩を軽くたたき、その後両手で相手の腰を押し放つ、⑤向き直った受とその場に片膝を付いた捕の双方が胸の高さに両手を位置させ、気合とともに水平に両手を広げる、というものである。
  この①②の動きにおいては、臍下丹田から息を吐きながら引力の方向へ身体を沈め、立つときには臍下丹田に息を吸い込みながら静かに動くことが大切とされ、呼吸に合わせた不用意に力を用いない動きが求められる。また両拳を着く際にも、両拳を着くという意識があると上半身中心に動いてしまい臍下丹田中心の動きではなくなってしまうので、臍下中心に回転した結果として両拳が床に着いたという動きを稽古する必要がある。(道標「履形の礼式」2016/07/30より)
 ③④の動きにおいては、後方に下がる時に床を前脚で蹴ることなく、鼠蹊部(股関節)の力みをぐらぐらになった様に感じるまで、つまり極限まで抜くことにより重心を後方に下げることによって下がる。相手の手を取ったり押す際には相手を腕力で操作せず、自分の体を用いて操作することを学ぶことになる。また、相手の肩をポンと軽く叩くのは「もうするなよ。」と言うことであり、そのあとの間で相手の体の声を聴かなければならない。ポンと叩いたのにもかかわらず、相手はまだ反撃しようとするのか、あるいは素直に従おうとするのか、それがわかる為の間であり、ただ焦って早く押し放したり、気を抜いてしまったりしては全く稽古にはならない。それぞれの動きは重力を意識し臍下丹田を中心に行うこととし、指先、さらにその先へと「気」の流れを意識すべきである。それは、身体に力みがないか、指先まで自分の身体として感じられているか、ということと一体である。(道標「礼式(初心者のために)1」2016/03/04より)

 …澁川一流柔術において礼式は動きを練るうえで非常に大切な稽古です。相手を押し返したのち、受と捕の双方が胸の高さに両手を位置させますが、両手の位置が高すぎると上半身中心の動きになりがちで、低すぎると天地が通らなくなる傾向があります。両手指先は澁川一流でいう檀中に正しく位置させなければなりません。檀中は胸に手をあてて心の奥底で思索する時や、神仏に手を合わせるときなど一番心が落ち着く位置です。礼式の時両手の指先の位置が檀中より下がってしまうと心が虚になってしまいますし、高くなってしまうと臍下を中心とした体が虚になってしまいます。両手の指先はどこでもよいということは無いのです。…(道標「礼式1」2016/05/07)
 
…初心の内に、これを単なる儀式と考え、手順をしっかり確実にという事に主眼を置いて稽古してしまえば、後々の自分自身の稽古はそのレベルを基準にしてしか進みませんので、上達は困難を極めます。自分で初心に戻って礼法から稽古しなおさなければならないのですが、人の心はそう素直ではなく、手順を覚え、体に染みついたものを再度壊してやり直すことほど難しいものはありません。神に礼をする、刀に礼をする、師に礼をする、互いに礼をするのは礼の心が大切であり心なくして礼の形を作ってしまえばそれは礼ではありません。目的のない動きなのですから、それ以後いくら形を稽古したところで形のみを求めてしまう癖からは逃れることはありません。…(道標「礼法」2012/09/04)

このように、修行する場全体に対する礼、相手に対する礼、自らを省みる礼に加えて、和、繋がりを意識することが、古武道の稽古を進める上で不可欠とされている。また、澁川一流柔術の礼式は、鼠蹊部を緩めた肚からの動き、相手の手を取ったり押したりする際の力を用いない無理無駄のない動き、相手とのつながり、和を重視する動きなど、柔術に求められる動きそのものである。
形を追い求めるという姿勢が上達を阻害するとの同様に、礼を形式だと考えて疎かにしてしまうと形の上達どころか、稽古自体が前に進まない。礼法は、具体的な稽古にかかる第一関門であり上達するために不可欠なものであると、貫汪館においては、再三にわたり様々な表現を通じて我々に警鐘を鳴らしている。これは、進むべき道を違えやすいからこそのことだろう。このように、技術と徳目とに分かれるものではなく、礼法として表現される徳目は技術と表裏一体に歩むことが真の上達への道であるということであり、澁川一流柔術における礼法の意図するところであると私は思う。

4 おわりに
  いざ実際に稽古を始めると、少なくとも私は身体が鎮まらないまま中身の伴わない稽古になっていることに気ばかり焦り身体がついていかないなど、身体の使い方や心の置き方一つ一つについてこれを実践することの難しさに直面してしまう。そうであればこそ稽古の序章であり、稽古を通じて体得する流派の動きの総括とも言える礼法に立ち返っての稽古が重要になると考えている。虚心坦懐に師に範を仰ぎ、今後とも稽古の道を歩んでいきたい。



≪参考文献≫
1)魚住孝至「武道の歴史とその精神」国際武道大学付属武道・スポーツ科学研究所編集『武道論集』第1集 2008年
2)末次美樹「武道における礼の教育的価値」駒澤大学総合教育研究部紀要第3号 2008
3)中村勇、濱田初幸『柔道の礼法と武道の国際化に関する考察』鹿屋体育大学学術研究紀要第36号 2007年
4)新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年


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  1. 2020/02/02(日) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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