無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

~無雙神傳英信流抜刀兵法指導上の留意点について~

無雙神傳英信流抜刀兵法四段の論文です。


1.はじめに
 本論文は無雙神傳英信流抜刀兵法を稽古するものが正しい道筋で上達していくため、指導者がどのような点に留意し、指導するべきかを論じるものである。
 まず基本となる思想・動きについて、次に居合術流派の大きな特徴である一人で行う素抜き抜刀術の稽古について、続いて二人組で行う稽古について、最後に貫汪館の大きな特徴である大石神影流剣術と澁川一流柔術との三流併修における留意点について述べる。

2.基本
 無雙神傳英信流抜刀兵法の形稽古はどのような状況でも対処できる自由な動きを身に付けることが目的である。そのためには心身が無理無駄のない楽な状態でなければならない。これは貫汪館で伝えている他の二流派、大石神影流剣術、澁川一流柔術にも共通することである。現代の生活で多くの人が身に付けている動きは体に力を入れて安定させ、動いたという実感を覚えながら体を動かすもので、貫汪館の古武道における楽な状態・自由な動きとは正反対のものである。人は今までの経験に沿って行動することに安心感を覚えるものであり、まったく異なる感覚を身に付けるためにはそれまでに身に付けた方法・知識を一旦崩さねばならず、これには多くの場合、かなりの苦労を伴う。しかし、この楽な状態・自由な動きは全ての基本となるもので、初心の段階から求めていかなければならない。基本を理解できないまま形稽古を行っても、ただ手順に合わせて外形を作っただけの動きとなり、流派の動きを身に付けることは決してできないからである。

以下に挙げるのは全ての動きに共通する要素である。弟子がこれらに適う動きをしているか、間違った方向に向かっていないか常に気を配る必要がある。

・動きの中心は常に肚(臍下丹田)であり、全ての動きは肚の働きから生まれる。
・呼吸は臍下丹田での深い呼吸であり、全ての動きは呼吸によって導かれる。
・力みを捨て、必要最小限の力で、体感的には全く力を用いないで動く。
・天から地へ体の中心を貫く重力の流れを感じ、重力の線と体の中心が一致している。
・全ての動きは自然の働きに導かれて生まれる。
 外形は上記の要素に従って体が働いた結果として勝手にそうなるものであり、自ら作為的に外形を作ってはならない。

 基礎的な稽古はこれらの感覚を身に付け、今までの生活で身に付けた動きとの違いを理解するのに適したものである。また古武道はそれが作られ、伝えられてきた時代の生活に根差した伝統文化であり、文化としての学びも現代における古武道の大きな意義であるが、基礎の稽古はそういった文化的側面を理解するためにも大切なものである。それらの稽古における留意点について以下に述べる。

(I)座る
 無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古において座るということは極めて重要である。正しく座ることがまさしく極意であり、全てといえる。座ることが出来なければ、技の上達はない。
 入門者が貫汪館で稽古を始める前の生活で身に付けてきた感覚は人それぞれ異なるが、多くの人に共通しているのは床に座した姿勢、特に正座はすぐには動けない、窮屈で不自由な姿勢という考えである。無雙神傳英信流抜刀兵法における座姿勢はそれとは正反対のものであり、稽古で目指す自由に動くことが出来る楽な状態そのものである。地面に完全に体を預け、下肢は重力から解放されており、体の中心は重力の線と一致している。そのまま前後左右に自在に動くことの出来る姿勢が居合術における座った状態である。これは何の作為もなく、自然の理と調和して、ただそこにあるだけ、という状態である。全ての技はこの座った状態を基本とし、前に出る技も、後ろに下がる技も、左右に変化する技も、立って行う技も体はその状態のまま、形の想定に従い、表に現れる形が変化している。故に座る稽古が不十分では流派の教えに適う動きは決して出来ず、上達することは不可能である。
 このように極めて重要な座姿勢であるが、座るというのは日常的に行ってきた動作でもあり、つい従来の感覚で行ってしまいがちである。座る動きの感覚を変えていくには繊細な稽古を繰り返す必要がある。動きの中で力みが出やすく、自分自身で気付きにくいのは以下の点であり、弟子がこれらに気付けているか、指導の際に留意するべきである。

<正座・立膝共通>
・呼吸が浅くなっていないか。肚で呼吸出来ているか。
・座る前の立ち姿勢で脚に力が入っていないか。鼠径部が固まっていないか
・袴捌きの際、腕力で袴を持ち上げていないか。袴の重さを感じられているか
・筋肉を使って脚を曲げることで座っていないか。下肢が緩むことで座っているか
・静かに腰を下ろしているか。周囲に振動が伝わるようないい加減な座り方ではないか
・尻側の重さによって上体が起きているか。自ら上体を起こし、背中が反っていないか
・鼠径部が緩んだまま座れているか
・脚の上に手を置こうとして腕を伸ばしていないか。
肩・肘はその重みで自然に納まっているか
・足首の力が抜け、踵が尻の外側に位置しているか。肚が沈み切っているか

<立膝>
・右足を出し、半身になる時、鼠径部が緩むことで足が出ているか
・半身のまま座れているか。座った時に上体が正対しないか

これらは動作的・技術的な観点での留意点だが、真に留意すべきはある程度稽古が進み、これらを出来たと思ってしまう心の働きである。繊細さは求めれば求めるほど限りが無いものだが、ある程度出来てくるとそこに停滞したいという思いが生まれてくるのが人の常である。しかし、出来たと思い、その時点のレベルに留まってしまうと、稽古はいい加減となり、繊細さを失し、一旦到達したレベルどころか、それよりも下の動きにしかならなくなってしまう。これは全ての動きで起こり得ることであるが、全ての基本である座る動きでは特に戒めるべきことである。座る稽古が繊細でなければ、他の稽古も繊細さを欠いたものになる。一回々々の座る稽古が繊細なものとなるよう指導していかなければならない。

(II)礼法
 礼法において最も重要なのは心である。神前の礼では本当に神に向かって頭を下げるのだという心が伴わなければならない。刀礼では刀をただの道具ではなく霊格のあるものだと考え畏敬の念を持って礼を行わなければならず、打方・遣方の互いの礼も相手の心を感じ、敬意を持って行わなければならない。全て敬いの心が必要であり、まさしく礼を尽くさねば礼法の意味は失われてしまう。このような心は一人の稽古で仮想の敵を想い浮かべる心、二人組での稽古で相手の心を読むことに繋がるものであり、初心の段階でその大切さをしっかりと理解できるよう導かなければならない。無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法は貫汪館の他の二流派と比べると手順としては最も長く、やや複雑である。動きに慣れない内は手順を追うことに終始してしまったり、ある程度手慣れてくると、ただ形式的に行ってしまったり、ということがしばしば起こるが、これでは大切な心の稽古にならない。このような傾向が見えたら、即座に諫め、どのような心持ちで稽古しているのか省みるよう指導するべきである。

隙が無い所作である、ということも礼法において重要な点である。古武道流派の体系に含まれる礼法であり、当然ながらその動きは武道の技そのものでなければならない。また上述した礼の心に真に適う所作が出来ているならば、気を途切れさせることなく、神・刀・相手、更には周囲の状況すべてに心を配り、把握し続けているはずであり、そこに隙は生じないはずである。稽古を重ね、このような心身の在り様を身に付けていけば、礼法と武道は等しいものになっていき、礼法の稽古が隙のない武道の技を身に付けるものに、武道の稽古が周囲に気を配る礼の心を身に付けるものになるはずである。このことは狭義には戦いの技術でしかない古武道を現代で教える意義の最たるものであり、このようなものとして伝えられないのであれば、現代において古武道を教える意味は無いと言っても過言ではない。

神・刀・相手への礼、更には刀を腰に帯びる所作までが含まれている無雙神傳英信流抜刀兵法の礼法は武士が行っていた日常の作法そのものであり、日常の礼、日常の武を体現する所作である。命を守るための隙の無い動作と周囲に気を配る礼の所作が等しいものだと学ぶことが出来るのが、礼法の稽古であり、弟子がこのことを意識して稽古するよう導かねばならない。

技術的な観点としては、全ての所作を極めて静かに行っているか、刀を扱う所作ではなるべく音を立てず、刀が揺るがぬようにしているかに留意すべきである。これらは力みを捨て、無理無駄なく、刀を体の一部として動く感覚を養うために大切なことである。また座して礼をする際の前傾しながら手を床につく動きは後述する抜付の動きと同質のものであり、この動きを繊細に稽古出来れば、抜付の上達に繋がるはずである。礼法・抜付の稽古双方で異質な動きになっていないかも気を配るべき点である。これらは先述した礼の心をもって稽古出来ていれば自然と理に適う動きになるはずのものであるが、動きから弟子の心の状態を見て指導するための点として留意すべきものである。

(III)歩き
 座ることと歩くことは一般的な感覚では全く別のこととして捉えられるものと考えられるが、無雙神傳英信流抜刀兵法においてはそのように捉えてはならない。座る稽古で求める地面に完全に体を預け、重力の線と体の中心が一致した自由で楽な状態のまま動けるよう稽古しなければならない。指導の際は以下の点に留意すべきである。

 ・地面を蹴って体を進めようとしていないか。重心の移動で動いているか
 ・各関節、特に鼠径部は緩んだままか
 ・呼吸を止めていないか。肚で呼吸しながら動けているか

(IV)斬撃
 刀を抜いて正眼に構え、数歩歩いて振りかぶり、振り下ろす、再度正眼に構え、元の位置まで下がる。極めてシンプルな稽古であるが、この一連の動きから学ぶことは多い。

 ・刀を抜く際、体の開きで抜いているか。腕を伸ばして抜いていないか
 ・正眼に構える際、肚で刀の重さを感じているか。刀と体が一つになっているか
 ・前進、後退の際、半身のまま歩けているか、歩きの稽古と同じように動けているか
 ・振りかぶり、振り下ろしで呼吸に乗せて肚を中心に動けているか

 刀を用いる際の基礎的な動きのほとんど全てがこの単純な稽古に含まれている。この稽古を繊細に出来ないようでは、形稽古での繊細さは望めない。繊細さを失した動きの例として肩中心に動いてしまうことがある。刀を抜く、正眼に構える、前進、振りかぶり、振り下ろしなど体勢が変化する際に刀を肩・腕で使ってしまうことが起こりがちである。そのように動いていないか気を付けなければならない。

4.一人の稽古 「素抜き抜刀術」
 一人で行う形は大石神影流剣術、澁川一流柔術にもあるが全体のごく一部である。それと比べて無雙神傳英信流抜刀兵法では一人で行う素抜き抜刀術が体系の大半を占めており、流派の大きな特徴と言える。この稽古の意義を理解し、これを通して流派の教えを理解できなければ、無雙神傳英信流抜刀兵法の上達はあり得ない。

 以下に素抜き抜刀術を構成する大きな要素毎の留意点について述べる。

(I)仮想敵
 一人で行う上での極めて重要な要素が仮想敵である。目前に仮想の敵を思い浮かべ、それを相手に形を行うのである。この際、大切なのは動かない人型の的のようなものではなく、生きた敵を想像することである。自由に考え、自由に動く相手を想定して稽古しなければ、己の技が生きて働くものになることはないからである。
 陥りがちなこととして、自分の体の動きばかりに意識を囚われ、仮想敵を忘れてしまうことがある。難しい動きをしようとする際や、より繊細に動こうとする時によく起こることだが、それでは対敵の技の稽古にならない。そのような様子が見受けられた時はすぐに正しい意識の持ち様を指導するべきである。

(II)気を途切れさせない
 手を掛ける、刀を抜く、振りかぶる、振り下ろす、など動きの区切りとして考えてしまいやすい所作が多いが、それらを区切って動いてはならない。心身をいちいち止めてしまっていては、そこが斬られる隙となってしまうからである。形の初めから終わりまで気を途切れさせることなく稽古しているか、気を配るべきである。形のグループに属する形を全て覚えたら、そのグループの最初から最後まで、気を途切れさせず稽古するよう導かねばならない。
初心の段階では難しいことだが、本来であれば道場に来てから退出するまで気を途切れさせるべきではなく、また居合が平時の危機に対処する想定の武道であることを考慮すれば自明であるが、目標とするのは日常生活の全てを繋がったものと捉え、気を途切れさせずに行動できることである。
気を途切れさせない、ということを常に神経を張り詰めた状態と勘違いする場合もしばしばあるが、それは自らの心の状態を作為的に作っているに過ぎず、貫汪館の稽古で求める自由な状態とは真逆のものである。これも気を付けなければならない点である。

(III)抜付
 無雙神傳英信流抜刀兵法における抜付は体の開きによって行われる。貫汪館の三流派の動きは全て自然の働きに導かれて生まれてくるものだが、抜付の稽古はその理を学ぶのに非常に適したものである。作為的に動きを作ることなく、最初から最後まで体と刀が自然に働いて動きが生まれてくるのを待つ繊細な稽古を重ねることで理を体得することが出来る。そのような稽古の留意点を述べる。

 ・体の開きによって刀が自然と抜けるのを待てているか
  抜き付けた形だけを求めて、作為的に刀を抜き付けた位置へ持ってきていないか
 ・体の働きによって自然に姿勢が変化するのを待てているか
  筋力で体を持ち上げ、抜き付けた姿勢を作っていないか
 ・仮想敵を意識出来ているか
  自分勝手な動きになっていないか

 この動きは高度なものであり、初めから正しく刀を抜けるケースは稀である。体が充分に働かず、抜けないことの方が多い。そのような場合、根が真面目な人ほど師が示した動きと同じことをしようとして腕を使って刀を抜いてしまい、間に合わせの形を作ってしまうことがあるが、それでは稽古の意味が失われてしまう。この稽古においては抜けないなら抜けない、動けないなら動けないのが正しいと観念することが重要である。これは他の二流派も含めた貫汪館における古武道の稽古全体に共通することであるが、素抜き抜刀術の抜付は一人稽古であり、また動きの性質的にもこのことを学ぶのに非常に適していると言える。弟子がそのような稽古をしているか、よくよく留意すべきである。

(IV)運剣
 抜付の後、刀を振りかぶる動作であり、力み・焦りが生じやすい部分である。ここでも抜付と同様に刀が自然に働くのを待つことが大切である。

 ・切先の重さに導かれて柄が頭上に移動しているか
  腕力で刀を持ち上げ、移動させていないか
 ・肚を中心に刀自体の重さによって自然に体の周りを廻っているか
  腕力で自分勝手に刀を振り回していないか

(V)斬撃
 振りかぶった刀を振り下ろす動作であり、ここも力みの起こりやすい部分である。それまでの動作を自然に行えていても、斬撃で力みが入り、動きを崩してしまうケースは非常に多い。主たる原因は心の働きであり、斬りたい、力強く刀を振りたい、といった思いが生じると腕力で刀を振り回す動きに変わってしまう。元々剣に憧れがあり、時代劇・漫画・アニメ等から剣を振ることについてのイメージを作り上げてしまっている人はなかなかそれから脱する事が出来ない。以下のことを理解し、意識を変えられるよう指導する必要がある。

・一刀両断にする必要はないこと
・力みが入ればそこで斬られてしまうこと
・速さ・強さは正しく動いた結果でしかないこと
・正しい動きを身に付けるにはゆっくり動く稽古を重ねる方が近道であること

(VI)血振るい
 斬撃で形が終わったような気持ちになり、血振るいで気が途切れるのはよく起こることである。血振るいでは残心を学ぶことが最も重要である。目の前の敵を確実に倒せたとは限らず、他にも敵がいるかもしれない、そのように気を途切れさせないことを稽古出来ているか留意するべきである。

(VII)納刀
 納刀も血振るいと同様の意味で気が途切れやすい部分である。想定上、敵を倒した後の所作なので、心が変化してしまいやすい。そのような状態になっていないか、血振るいに引き続き残心が出来ているか留意すべきである。
 また、納刀は抜付と表裏の動きであり、同じく体の働きによってなされる。単に刀を鞘に入れることに気を取られ、腕を伸ばして切先を鯉口に持って来るような安直な動きになっていないか気を配らなければならない。

4.二人組での稽古
 一般的に居合という言葉から連想されるのは前項で述べた素抜き抜刀術だと考えられるが、無雙神傳英信流抜刀兵法には二人で行う剣術的もしくは柔術的な技法も含まれており、それらも合わせての居合の流派である。以下にその留意点を述べる。

(I)素抜き抜刀術との関係
 同じ流派の体系に含まれる技法であり、当然ながら動きの理は共通している。別のものと考えて稽古してはいけない。素抜き抜刀術では静かに自然に動けていたのに、相手がついた途端、心に焦りや気負いが生じ、動きが崩れてしまうことがあるが、そのような場合は素抜き抜刀術で身に付けたことを思い出し、同じ心身の状態で稽古するよう指導するべきである。

(II)心を読む
 相手がいるため、実際の相手の状態を感じながら稽古できるのは組で行う稽古の利点であるが、それにも関わらず、形の手順に心を囚われて相手の心を読むことなく自分勝手に動いてしまう場合がある。形を立派に見事に行いたいという欲、もしくは失敗して相手に迷惑を掛けないようにしなければという思い、あるいは単純な焦り、これらが原因となり手順を追い掛けた動きになってしまうことがあるが、それでは武道の稽古とは言えない。弟子がそのような傾向を見せていないか留意するべきである。また、そういった傾向があるということは素抜き抜刀術の稽古で生きた仮想敵を想定出来ていないことを示唆している。一人の稽古、組の稽古双方でどのような心の状態で稽古しているのか気を配らなければならない。

(III)打太刀の位
打太刀は基本的に師、兄弟子などより上位の者が務める。これは打太刀が仕太刀を導く役目だからである。
仕太刀に怪我をさせるような荒い稽古をしてはならないが、それを過度に気にして、当たらない間合いで技を使ったり、全く威力のない打ち込みをしたりしては仕太刀が形を通じて流派の教えを学ぶことは出来ない。そのような稽古をしていないか気を配るべきである。
打太刀を務める者には仕太刀の心身の働きを読み取る余裕が求められる。仕太刀が全く対応できない動きをしては稽古にならず、仕太刀の現在の力量を読み取り、その一段上の動きをしなければならない。また仕太刀が形から外れた動きをしても落ち着いて対処できなければならない。そのような位に立って稽古することが出来ているかも留意すべき点である。

5.三流併修
 貫汪館の三流派は動きの根本は共通しており、どれかで身に付けたことは他の稽古にも活きてくるはずである。ある部分について一つの流派ではなかなか理解できないことがあっても、他の稽古を通して理解できることもある。それぞれの流派を通して多角的な見方を養うことが出来るのは貫汪館の稽古体系の特徴の一つと言える。その観点からもそれぞれの流派の違いを正しく理解するのは重要なことである。類似した部分について混同してしまうことがしばしばあるが、それでは異なる流派を稽古する意味が無い。また学問的観点において流派は一つの文化体系であり、それを後世に正しく伝えるためにも思想・技法の混同があってはならない。そのようなことが無いよう、歴史的背景も含めてきちんと学ぶことが出来ているか留意すべきである。

(I)大石神影流剣術との関係における留意点
 同じ剣を用いる武術であり、構え・形の想定には一見、類似したところがあるが、剣の用い様は異なっており、流派の思想には明確に違いがある。それを理解して稽古出来ているか気を付ける必要がある。

構えは特に混同が起きやすい。よく起こる例としては以下のものがある。
 ・見た目が似ている水月刀の構えと大石神影流の附けを混同する。
 ・上段に取る際、大石神影流の上段のように切先を右に向ける。

 構えを間違えたまま動いては流派の想定を正しく学ぶことは出来ない。初心の段階から今は何の稽古をしているのか、正しく理解して稽古できるよう導くべきである。

(II)澁川一流柔術との関係における留意点
 澁川一流柔術の動きに求められる体の状態は居合における座った状態と全く同じである。居合は苦手だが柔術は上手に動ける、またはその逆というのはしばしば見られることだが、それぞれの動きを別物と捉えているために起こることである。十分に動けるレベルに達しているのに心が別のことをしようとしているために一方の稽古で身に付けたことが活きないのである。どのような意識で稽古しているのか留意しなければならない。

6.まとめ
 以上、様々な観点から留意点を述べたが、全体に通底しているのは心の在り様が大きく影響を与えるということである。正しい動きに導くのも動きを崩してしまうのも心であり、心が全てを決めてしまうと言っても過言ではない。指導者は弟子が武道の稽古は心の稽古であることを心得て稽古できているのか留意し、弟子を導く自分自身の心の在り様にも注意を払い、常に向上を目指していかなければならない。

参考文献
1)森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
2)森本邦生:「道標」

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  1. 2018/06/22(金) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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