無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流昇段審査論文

武道における礼と大石神影流における礼法について

1.概要
日本では過去から現在において、礼や礼法は重要視されてきた。本論文は武道の礼と、大石神影流の礼法についての考察を目的とする。
まず本論文の概略を説明する。はじめに礼とは何かを再確認するために一般的な礼法として、普段行われている挨拶をもとに礼法の本質とは何かについて考察する。次に武道一般における礼および礼法について述べる。そして最後に大石神影流を中心に、貫汪館での武道における礼法について考察する。

2.一般における礼と礼法について
現在、世界各地においてそれぞれ特有の礼法が存在するが、その中でも特に挨拶について注目してみる。
我が国日本においては腰から上体を曲げ、頭を下げるいわゆる「おじぎ」が最も一般的な挨拶であると言えるであろう。おじぎには立って行う「立礼」と座って行う「座礼」があり、また角度や細かな作法によっていくつかの種類に分けられる。
また欧米においては手と手をにぎり合う「握手」が一般的な挨拶と言える。さらに地域や世代、性別、相手との関係性によっては握手の他に抱き合ったり、ほおにキスを行ったりすることもある。日本においても親しい間柄で挨拶として抱き合うこともあるが、欧米ほど一般的には行われていない。その他挨拶の方法として変わった例としては、ニュージーランドのマオリ族はお互いの鼻を合わすのが挨拶であるという。
このように地域によってその土地独自の礼法(挨拶)が存在するが、それ以外に時代や職業によっても特有の礼法(挨拶)が存在する例がある。
たとえば魏志倭人伝の中で、倭人の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」という一文が見られる。筆者は漢文の専門家ではないため誤解が存在するかもしれないが、この一文は「身分の高い人に敬意を表すときは、手を打つことで跪き拝むことに代える」と訳しても間違っていないであろう。すなわち、古代の日本人は現在神社で行われるような拍手を人間に対しても行い、それが脆拝に代わるような礼法であったということがうかがえる。
また、現代の軍隊や警察など一部職業において、右手を額の高さに掲げる「敬礼」と呼ばれる礼法が行なわれている。
このように地域や時代によってさまざまな様式が存在するが、それら全てが「礼法」あるいは「挨拶」として一括されている。ではこれらさまざまな様式を一括して扱えるような、共通する要素とは何であろうか。それは相手に友好的であると伝える手段であるということであろう。すなわち、相手に対し無防備、非武装であることを示すことで、敵ではないことを伝える手段であるということである。たとえばおじぎは首を相手に差し出すことで無防備さを、握手は相手に利き手を預けることで無防備さと非武装を表すのである。また古代日本で行われた拍手は、手を打ち鳴らすことで手に何も持っていないことを表したという説もある。
さらに敬礼は、元々は兜の目の保護具をずらし顔見せる動作であったという。これも自らの身分を明かし、敵ではないことを表す動作であると言える。
したがって、礼法とは根源的には相手に対し敵ではないことを示し、友好的な関係を築くための作法であったと考えられる。

3.武道における礼法
武道は礼に始まり礼に終わると言われるように、一般に武道は礼を重視すると思われている。実際に剣道や柔道、弓道など各武道では礼法を重視し、試合においては非礼な行いをした場合ペナルティを与えられることもあるという。しかし改めてよく考えてみると、礼と武道とは一見して関連がないようにも思える。礼とは第2項で述べたように、もともとは敵ではないことを示す作法であったと考えられるが、武道とはそもそも戦いの技術であり、敵対している相手に対する技術であると言える。ではなぜ武道において礼が重視されるのであろうか。ここでは筆者の考える、武道において礼を重視する意義を述べていく。
第一に、仮に武道を学ぶことで素晴らしい技術が身につくとしても、そこに礼がなければただの暴力に成り下がるということがあげられる。
武道を身につけることは武道を学んでいない人より強くなるということであり、ともすればそういった人の脅威になる危険性をはらんでいる。他人より力があるからといって傍若無人に振る舞うのは他人と協力し社会生活を営む人間として忌避すべきことであり、そのように導く武道が存在するとしたら、それは淘汰されるべきであると筆者は考える。したがって、戦いの技術を身につけることが目的の一つである武道を学ぶ者は、その責務として礼も学ぶ必要があるのではないだろうか。
次に、礼とは武道の観点から見ると大変合理的な手段であると考えられる。
上で筆者は武道を戦いの技術と書いたが、自分から積極的に相手と戦うように教える武道は少ないのではないだろうか。弓道などの特殊な武道は別にして、多くの武道はいたずらに争いを起こすのではなく、争いが起こってしまったとき、その争いをいかに安全に終わらせるかを教えていると筆者は考える。
さてこのような観点から武道を捉えると、そもそも争いを起こさないことが最も理想的であると言える。実際に難波一捕流の掟には「夏は日方冬は日隠を通候心得にて万端相慎み候事」とあり、争いを起こすことを避けるよう教えている。また貫汪館に伝わっている澁川一流には、攻撃してきた相手を押し返すのみの「礼式」があるが、これは相手と争わないという澁川一流の理念を表すものである。その他の流派においても争いを避け、争いを起こさないような教えが残されている。剣道や柔道といった現代武道は古武道を下敷きに発生したものであるので、現代武道も古武道と同様に争いを起こさないことを重視しているであろう。
第2項で述べたように、礼法とは相手と敵対せず友好的な関係を築くための作法である。礼を尽くすことにより相手と敵対しないことで争いを避けることは最も安全に争いを収める手段であり、武道の観点からみると大変合理的であると言える。
次に、武道の技と礼法とは本質的に共通しているという点が考えられる。
戦闘の場においては、間合いをはかり自分に有利で相手が嫌な場所に身を置き、相手の動きや心を読むことが大事であるが、これらは外に現れる形は違っても礼法に共通する。相手との間合いをはかることはそのまま相手との失礼ではない距離感をはかり、双方にとって心地よい場所に身を置くことにつながり、相手の動きや心を読むことはそのまま相手が何をして欲しいか読み、先回りして礼を尽くすことにつながる。
したがって、礼法において何かできないことがあるとすれば、それは同時に戦いの場においても技に不足があるということであり、日常において礼を尽くすということは、武道の稽古を行っているのと同じであると言える。
また、古武道においてはその流派が稽古されていた時代、地域の作法を残しているという点で貴重な意義が存在する。
その他まだまだ武道において礼を重視する意義や理由は存在するとは考えられるが、本論文においては主にこの四つについて注目した。

4.貫汪館の流派、特に大石神影流から見た礼と礼法について
ここまで広い意味で礼と礼法について見てきたが、ここでは主に大石神影流を中心として、貫汪館における礼と礼法について考察していく。
一般に古武道の礼法としてイメージされるものとは違い、大石神影流には正座での礼が存在しない。これは大石神影流が神社の境内などの屋外で稽古されていたことに由来する。また上覧の際にも庭先で演武を行ったため、神前や上座に対する礼は右足を引き、右膝を下ろし左膝を前に向ける折敷の礼となる。これも大石神影流が生み出された当時の状況を表すものとして大変興味深いものであるし、古武道の礼とは必ず正座をして行うものだというように、先入観を持つことは危険であるということも示している。
また大石神影流流祖、初代大石進が長沼無双右衛門と試合を行った際、大石進の突きの激しさと当時の面の不完全さから、大石進の突きによって長沼の眼球は抉り出されてしまった。しかし、その後長沼は大石進に入門している。自分の眼球を潰した相手を恨むことなく逆に入門したという事実は、大石進の技の素晴らしさとともに、その人格の素晴らしさをも表しており、その逸話から、試合相手といえども大石進は礼を尽くしたであろうことが推察される。そこで大石神影流を学ぶ我々は、流祖の思いを受け継ぎ、同様に他者を敬い、礼を尽くさなければならないと考える。
また第3項において、礼法と武道の技は本質的に共通していると述べたが、貫汪館においては動作そのものの本質も共通している。つまり、普段構えや手数などを稽古する際の注意点と全く同じことに注意する必要がある。例えば立つときや立ち上がるときには鼠蹊部や脚に力を入れないこと。膝を下ろすときは脚の力で曲げるのではなく、緩むことにより重力にしたがって降りていくこと。礼をするときは鼠蹊部やお尻に力が入らず、肚を中心に動くことなどである。
手数の稽古では相手がつくため未熟な身では相手につられて心や動きが乱れてしまうが、礼法では心が落ち着きやすく、その分自分に向き合うことが比較的簡単だと言える。したがって、特に初心の段階には礼法の稽古を十分につむことが重要である。
さらに貫汪館の稽古では、手数の手順を追わず、我や作為を無くし、相手と調和し、無理無駄がなくその場の状況に合わせて自然に生まれる心や体の動きを求めることを大切にしている。したがって、礼法においても同様のことを大切にしなければならない。いくら折り目正しく礼法の作法を行ったとしても、そこに心がこもっていなければ本当に礼儀正しいとは言えないのではないだろうか。あるいは、外国人のように違う文化圏から来た人に対し、相手に歩み寄るのではなく自分にとって正しい礼法を貫くのは相手に敬意を持っているとは言えないのではないだろうか。本当の礼とは、多少作法にのっとっていないとしてもその場の状況や相手に合わせたもので、また頭を下げようと思って下げるのではなく心がこもり、自然に頭が下がるようなものではないかと考える。そして貫汪館で古武道を学ぶ身としては、そのように礼ができるような心を求めていく必要があると痛感している。

5.まとめ
以上、さまざまな観点から礼や礼法について見てきたが、礼や礼法とは武道において大切なものであって、特に貫汪館の門人にとっては技に直結する大変重要なものであることがわかった。
貫汪館で学ぶ古武道は、一部の現代武道のように日常から切り離された試合の場を目的に行うものではなく、日常生活の延長線上にあるものである。したがって、日常生活の中で存在する礼は満足にできなければならない。貫汪館で古武道を学ぶ者として、礼法の本質を求めこれからも精進していきたいと思う。

参考文献
1)小笠原清忠:武道の礼法 財団法人日本武道館 初版第1版 2010年
2)森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
3)森本邦生:道標

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  1. 2016/12/20(火) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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