無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流昇段審査論文

武道における礼と大石神影流剣術における礼法

1.武道における礼
 一般的に武道は「礼に始まり礼に終わる」と言われますが、貫汪館で武道を学ぶまで「礼」というものを稽古の初めと終わりに行う単なる形式的なものと考えていました。それまで武道というものにほとんど触れたことがなかったため、礼というと学校教育で教えられる「起立・気を付け・礼」という号令によって行う礼のイメージがあり、武道における礼もそれと同様のものと考えていたように思います。
 昇段審査を受けるにあたり武道における礼とはどのような意味があるのか、学んだことを述べたいと思います。

 「礼」という言葉・思想は古来、中国から導入されてきたものですが、中国の哲学的思考が日本ではより実践的な行動規範として取り入れられてきました。
 新渡戸稲造の『武士道』では「礼」とは「他を思いやる心が外へ表れたものでなければならない」「それはまた、物事の道理を正当に尊重することであり、それゆえに社会的な地位を当然のこととして尊重する意味も含まれている」また「礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく」と述べられています。
 また小笠原清忠の『武道の礼法』には「例えば先生に対して稽古を求めるのであれば、稽古の中に、その先生に対する礼というものが常にあって、全身全霊でぶつかっていき、そして稽古の最後には、心から「ありがとうございました」という挨拶ができる、そのような稽古でなくてはならないのです。」また「なぜお辞儀をするのか、その意味である”気持ち”が先に立つことが大切です。」とあります。
 礼法とは形式ばった堅苦しいものと考えがちですが、ただ形式を押し付けるだけでは意味がありません。相手を思いやり、敬意を払う心からの礼の気持ちがあり、それを表現する手段として礼法があるということです。

 武道で行われる礼法には神前への礼や刀への礼、お互いの礼などそれぞれの場面で用いられる礼法があります。
 上述した「武道の礼法」には「礼とは「時・所・相手」に応じて臨機応変に正しい生活態度として、現れるべきものでありますが、このためには、正しい生活態度とはどういうものかをわきまえていてこそ、社会生活に当たっても正しく臨機応変に行動することができるものなのです。」と述べられています。
 目上の人に対する礼と、同輩への礼が同じであってはいけないように、礼法とは相手との関係性によって変化するものでなくてはなりません。そのため、その場の状況や相手との距離感、間について常に考える必要があります。自分と周囲に対して気を配り、広い視野をもって行動することが求められているのです。これはそのまま武道の技の稽古にもつながるものだと考えられます。

 このように武道における礼とは心を表現する手段として用いられ、「時・所・相手」に応じた正しい礼法を身に着けることにより、「心」と「体」の両方を修めることを目的としていることが分かります。

2.大石神影流剣術における礼法
 貫汪館では3つの流派を稽古していますが、流派によって礼法が異なることも興味深いことです。
 大石神影流剣術の神前への礼は片足を着いた折敷の礼ですが、これは当時の稽古が神社の境内などの屋外で行われていたことに由来するそうです。

 右膝を着き左足を立て、両手を軽く握って地面につけて礼をします。このとき注意する点として『道標』の記述を抜粋します。
「左右鼠蹊部は十分に緩んでおく必要があります。またお尻の力みも無くさなければなりません。」
「大石神影流剣術では礼法は簡素なものであるため、それほど時間を掛けて稽古することはありませんが、神前に折り敷いて礼をする動きは簡単なようですが余程稽古せねば出来るようにはなりません。私はいまだに苦労していますが、この礼が正しくできるようになれば、立姿勢での下半身の緩みはできるようになるはずです。」
 大石神影流の武術では下半身が緩んでいることが非常に重要です。天から頭頂部を通り、両足の間から地中に向かう重力の流れを感じます。礼をするときは鼠蹊部が緩むことによって前傾し、前後の立ち姿勢においてもどこにも力みがない状態でなければなりません。このように礼法を稽古することによって流派の基本姿勢を習得できるように導かれていることが分かります。

 神前での作法について『道標』には「神座に向かって刀を振らない、抜き付けない。このような当然の作法を忘れてしまうのは神座に神を感じる心を持たないからだと思います。たとへば、そこに神話の絵に出てくるような神がおられたとするならば決して神に向かって斬りつけることも抜き付けることもないでしょう。」と述べられています。
 神前への礼をするときも礼をする対象である神の存在を強くイメージする必要があります。そこに神がおられるということを感じなければ、形だけの心のこもっていない礼となってしまいます。
 また神前の礼をしたのち、お互いに礼をして形の稽古に移ります。そのため稽古を行っているときも神前であるということを忘れないようにしなければなりません。

 貫汪館の武道は「肚から動くこと」を重要視していますが、礼法の動作も当然肚を起点とした動作でなければなりません。私自身この肚から動くということは非常に難しいと感じていますが、「肚からの動き」と「考えて動いた時」の動作の違いは少しずつ分かるようになってきたように思います。礼をするときも頭を下げなければと考えると、頭だけを丸めた姿勢となり、また立つことを考えて立ち上がろうとすると脚に力が入ります。頭でこうしよう、ああしようと考えて動こうとするとその部分が動きの起点となり力みが生じるのです。
 礼の「形」を目指して動くのではなく、肚から動いた結果として「形」が表れているということが重要だといえます。

 『道標』には「体が整わない原因のほとんどが心にあります。」「速く動こう、強く動こう、力を込めよう、こうしよう、ああしようと思えば思うだけ体の動きは乱れていきます。心に波風を立てていては体もまた整うことはありません。業の上での「無念無想」を求めるしかないのですが、無雙神傳英信流抜刀兵法であれば礼法の間に、大石神影流剣術であれば神前での礼の間に、澁川一流柔術であれば礼式の間に静かに心を整えて、そのまま形の稽古に入って我欲を出さずに動いてください。」とあります。
 礼法は頭で考えて動いていないか確認するチェックポイントでもあります。礼法を行うことで自らの心を整え、稽古でも常に肚から動くということに注意しなければなりません。

3.終わりに
 貫汪館のホームページ『貫汪館について』には稽古の指針としてこのように記述されています。
「古武道における「礼」は形式的なものではなく、相手の立場を尊重し人と人との調和のある関係を尊ぶ心から生まれるものです。「礼」がなければ調和はなくなり、有形無形の争いに至りますが、争いに至らないために稽古するのが貫汪館の古武道です。」

 武道を学ぶにあたり「礼」を失すれば、それはただの殺人術となってしまいます。相手の立場を尊重し周囲との調和を求めることで、争いを未然に防ぐということは、もっとも基本的で、もっとも重要な「技」だと思います。
 貫汪館に入門して、ちょうど一年になりますが、稽古をすればするほどその奥深さを知り、同時に自分の至らなさを実感しますが、これからも礼の心を忘れず稽古に励みたいと思います。

【参考文献】
1) 森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
2) 森本邦生:道標
3) 新渡戸稲造(著) 岬龍一郎(訳):武士道 PHP研究所 電子書籍版 2005年
4) 小笠原清忠:武道の礼法 財団法人日本武道館 初版第8版 2015年

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  1. 2016/12/19(月) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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