無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術初段論文 2

武道における礼と大石神影流剣術における礼法について

 これは、武道における礼と大石神影流剣術における礼法について論じるものである。

 その前に、まず自分の立ち位置を確認することから始めたい。
 私は齢四十五にして初めて武道の世界に足を踏み入れた。貫汪館の門を叩いてからまだ一年ほどの初心者である。
 入門当初は武道に関して知識が浅薄であるというよりも、ほぼ無知ともいえる状態であった。武道が現代武道と古武道に分けられることはおろか、武道とスポーツの境界線すら私の頭のなかでは曖昧だったのである。
 「初めて武道の世界に」と先に記したが、中学校から高校までは体育の必修科目の一つとして剣道や柔道の授業が年に数回あり、武道とスポーツをひとつに括ることができるのならば「まったく初めて」とは言えないかのかもしれない。したがって私が武道について何か論じるとすれば、その体育の時間にスポーツの一環として触れた武道を出発点としなければならないだろう。
 長年にわたり武道およびそれに関連する行事に真摯に取り組み、日々研鑽を重ねる館長や先生方、そして兄弟子たちからすると異質な感じを受けるかもしれないが、初心者が論じることはある意味で、ごく一般的な現代人から見た武道の一側面が見えるのではないかと思う。

 武道における礼について

 結論から言えば、現代武道における礼は形骸化しているといえるだろう。
 道場に入る時、稽古や試合が終わった時、道場を出る時、師に対して或いは相手に対して「礼」という動作を行う。
「礼に始まり礼に終わる」とはよく聞くが、初心者の私から見ればその動作は小学校で教わった「きりつ、きょうつけ、れい」となんら変わらない。師や相手、道場や道具に対して各人の心に尊敬の念が存在することはもちろん否定できないが、「敬う表れとしての礼」というよりも「礼をしているので敬っている」という免罪符的な匂いを先に感じてしまう。
 また戦後に武道が競技化し加速度的に世界に広がっていく流れの中で、本来の礼の意味はますます失われている気がする。一言に纏めればどこかしら「失礼」なのだ。中身を伴わない儀式的動作であり、文句をつけられないための免罪符的動作であり、試合相手を確認するための競技的動作でもある。あくまでそれは自発的な動作に納まるだけであって、そこに他者や物(道場や武具)を含んでいないことが多いのではないだろうか。


 礼とはそもそも何であったか

 儒教における思想の一つが、社会に秩序をもたらすための道徳的な規範として現代まで脈々と受け継がれてきたものという。
 確かに、親しい仲で礼を失えば縁が切れ、集団同士で礼を失えば揉め事となり、国同士が礼を失えば戦争になる。礼は人と人との関係、人と社会との関係、社会と社会との関係を円滑にするための装置でもある。
 また人間はその五感においては己しか感じることができないが、周りに広がる空間や他者を使って己の存在を認識するという矛盾した存在である。自分が欠けても、相手が欠けても、存在としては不安定な生き物なのである。その不安定さの中に礼というものが根付くことによって、他者や宇宙とのつながりを感じ、社会の中で円滑に活動することができる。
 社会生活においては他者への敬いの気持ちを保ち、武道においては決して相手の尊厳を奪わない(他者や対象物への尊厳を奪えば、それによって成り立っている自分自身が存在できないからである)ということが礼の基本だと考える。
 そしてその基本を保ち続けている武道や流派はそう多くはないのかもしれない。以上をふまえて、次に大石神影流剣術の礼法について考察する。


 大石神影流剣術の礼法について

 大石神影流剣術の礼法は、まず神前、上座、正面への礼は右膝を着いてこれを行う。立った状態から右足を軽く引き右膝をつき、上体を腰から折って両拳を床につけて頭を下げる。相互の礼は、お互いに向き直り軽く会釈する。そして、一般的な剣術や居合と違って刀に対する礼が存在しない。
 これら一連の動作は初心者からするとあまり馴染みがないものである。というのも現代的な一般武道における形式的な礼や、テレビの時代劇などで都合よく簡略化、またはデフォルメされた礼法に見慣れてしまっているためで、私のように安易に「正座が最も礼儀正しく敬意を表している」と誤解している人は多いだろう。
 しかし大石神影流剣術の礼法の特異性については、その歴史から振り返ると極めて合理的であるといえる。正座の礼がないのは、柳川藩で上覧を行う際、屋内にいる貴賓に対して庭で演武を行ったためであると伝え聞く。このように時代や社会、そして風土などによって最敬礼の形が変わるのは想像に難くない。大石神影流剣術の礼法についても、そうした背景があって成り立っていることを常に頭にいれておかなくてはならない。それは礼法に留まらず、歩法や形などの根底にも流れているものだからである。
 従って、片膝立ちであるから略式であると考え違いをせず、神前、上座、正面への礼は最高の敬意をもって行わなくてはならない。さらにお互いの礼もまた同様に、軽い気持ちで行わず、敬意を表しながら油断なく行う。
 しかしながらこの部分が、稽古を重ねるごとに一番難しさを感じるところである。
 形式的な礼ではなく、稽古の初めから終わりまで、神、師、相手、剣、道場、時間など自分を取り巻くすべてのものに注意深く敬うのが必要だという。そしてそれは先に記したとおり、礼とは「自分という存在を生み出す他者や周りへの敬いそのもの」という考え方に通じるからだ。
 またその考え方が根底にあることで、自分より弱いものに強い力を誇示したり、自分より力のあるものに同じ力で立ち向かうこともないだろう。実のところ、大石神影流剣術の形の中には「勝ち切らない」「いなす」という動作が存在する。これらは剣術の形のひとつでありながら、礼法の中にしっかりと内包された動きにも思えるのである。そう考えると「礼法」はすべてを含む大きなひとつの形といえるだろう。絶対に見失ってはならない一番大事な形である。

 礼法をひとつの形として考える中で、触れておきたいことがある。
 知人に草月流の華道家がいる。師範にして異端ともいわれる作風が日本のみならず、海を越えて外国の地でも大きな評価を得ている人物である。彼曰く「流派の形は大事。とにかくすべての形を極めなくてはならない。形を極めた上で、次の時代を切り開くものが『形破り』。形を極めず、都合よく自分勝手な解釈をするものが『形崩れ』である」と。
 この言葉は武道にも当てはまるのではないだろうか。「形破り」になるのはあまりに先の話で今は考える必要もないが、「形崩れ」には今すぐにでもなる危険がある。自分が稽古を重ねていく上で、先達が積み上げてきた大事な「形」を都合よく崩していないか、常に自問していかねばならない。
 また華の世界では「花」を切る瞬間に、生命の誕生と死にゆく定めを一手に受け入れ「華」へと昇華させていくという。赤子が臍の緒を切られ、人として生まれると同時に死にゆく定めを負う流れを花の世界に見出していくのだ。そこには形式的な礼法は一切無いのだが、一連の動作の中に「生命を敬う」また「生かし生かされている」という哲学としての礼が明らかに存在している。
 これを武道に置き換えるとどうであろうか。
 武道を習う身であっても武士ではないので、真剣に構えたところで生死を賭けた勝負にはならないが、ここで礼を見失えば、武器を手にしたただの暴力になりうる。または勝敗のみを目的としたただのスポーツとなってしまうだろう。「生かし生かされている」という自発的かつ他発的な考えが基本となる敬いの精神、つまり礼が、武道を武道たらしめるのではないだろうか。


 最後に

 大石神影流剣術の礼法は、礼にあって、ただの礼にあらず。
 剣術のすべてを内包したひとつの大きな器であり、己を見出させてくれる森羅万象への敬いを有した礼法である。大石神影流剣術を学ぶ一人として、今後も稽古を重ねながら礼の意義を常に問い、礼法の形を崩すことのないよう心して努めなくてはならない。
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  1. 2016/01/23(土) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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