無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術五段 論文 3

~大石神影流剣術を通じて何を教えるべきか~

1.序文 ~現代における「古武術」指導の意義~
 本論文は大石神影流剣術の指導を通じて指導者が門人に何を教えるべきかを論じるものである。
 現代において大石神影流剣術は「古武術」である。まずは現代における古武術指導の意義から考えてみたい。
 「武術」という言葉の一般的な解釈は戦いのための技術ということになるだろう。だが、「古」という字が表すように古武術は過去の時代の形態を色濃く残しているのが特色である。大石神影流剣術であれば、江戸時代末期に初代大石進によって興された頃の形態を今に伝えている。よって単なる戦闘技術としてこれを教えることにはあまり意義を見出すことは出来ない。当然だが想定しているのが現代の戦闘ではないからである。単に戦うための技術を身に付けることを望む者にとっては、有事の際に戦闘に携わる軍事・警察関係の組織に所属するなどし、現代において想定される状況を前提とした現代式の戦闘教練を受ける方が余程理に適っている。また、そうした軍事・警察関係の人間以外が戦闘に用いることを主眼とした技術の積極的な習得および伝播を行うことは外部の人々から危険因子と見なされかねない行為でもある。先に現代の戦闘を想定した技術ではないと述べたが、それでも物理的に他者を害することにも用い得る技術ではあり、それを身に付けるということは武器を身に帯びることにも等しい。ほとんどの場合、古武術を習うのは民間人であり、単に戦闘技術を伝える場としての在り方は望ましいとは言えず、それ以上の価値を持つ場でなければならない。
 大石神影流剣術に限ったことではないが、古武術には神、師、刀などの武具、また周囲に対し礼を払うことを学ぶ礼法としての側面がある。また大石神影流剣術の手数稽古・試合稽古で学ぶ技術は単に相手を効率的に殺傷することのみを追求するものではなく、如何に争いを治めるかという思想に基づいて作られたことが読み取れる。流派の歴史を学ぶことでそれが作られた時代背景や、伝えてきた人々の価値観を知ることが出来る。そのような技術・知識・思想を学び、それにより新たな視点や価値観を身に付け、自己の人生に活かしていく行動学としての在り方にこそ現代において古武術を教えることの意義があると考えられる。

2.武術の目的 ~調和をもたらす技術~
 古武術を単に戦闘のための技術として捉え、習得することには意義がないこと、また大石神影流剣術がそのような技術ではないことは先に述べた。
 そもそも「武術」とは何を目的とすべきであろうか。積極的に対立状況を作り、それによって発生する戦闘に参加し、敵対するものの殲滅を図るのか、可能な限り争いを避け、自己と周囲の人々の生存のために用いるのかでは全く方向性が異なる。ただ敵対する相手を殺傷するための技術だと捉えるならば、もたらすのは破壊でしかない。そのような技術には学ぶ価値は存在しない。少なくとも民間人の立場ではそのような技術を学ぶべきではないだろう。争いを治め、調和をもたらす術としての在り方にこそ存在意義がある。争いが起きぬように周囲の状況に気を配り、起きそうなときは手を尽くしてこれを防ぎ、起きてしまった場合は自己と周囲の人々の生命を守りつつ状況を素早く見極め、敵対することになってしまった相手も含め最小の被害でこれを終息させる努力をする。敵対する相手をただ力で制圧するようなやり方では押さえつけられた側には憎悪が残り、後々に新たな争いの火種となる。可能な限り禍根を残さずに争いを治める。これが武術の目的とすべきところである。
 現実的には一個人、特に一民間人では出来ることは限られているが、社会秩序とはそれを構成する個々人の意識の積み重ねによって成り立っているものであり、先に述べたような思想を持った人間が多くなれば、大きな影響力と成り得る。指導者が力を尽くしてその目的たるところを教えれば、古武術の指導はそのような社会的意義を持つものだと考えられる。
 調和をもたらす術、という観点から大石神影流剣術の稽古を通じて教えるべきことを以下に述べる。

(i)他に心を配る
 大石神影流剣術に伝わる礼法には神前への礼と相手への礼がある。これらの動き方を教えることも流派を伝える上では大切なことだが、ただ「そういう手順の動き」として教えるだけではいけない。重要なのは気持ちのこもった礼、礼の対象にしっかりと意識が向いた礼が出来るよう指導することである。神前への礼では神の存在をイメージして、相手への礼では目に見えない相手の心に意識を配り、相手の心の働きを感じながら礼法を行うことを教えるべきである。これは手数の稽古にも通じるものであり、様々な形で相手の心を読むことを学べるように仕組まれている。例としては、陽之表の一本目「阳剣」では相手の起こりを捉えること、二本目「阴剣」では相手の働きに応じること、四本目「二生」では相手の変化するところを捉えて機先を掛けることを学ぶ。これらは自分勝手に手順通りの動きをすることに終始していては絶対に身に付くものではなく、相手の心を感じることを学ばなければ習得できない。
 大石神影流剣術の技術はすべて他との関係性の中で成り立っているものであり、自分本位に構成されているものは無く、相手と調和することを求めるものばかりである。稽古を通して教えるべきはこのような心の働きであり、これの習得は日常の社会生活においても他者との調和に寄与するものである。他者の心の状態を感じ取れるようになれば、相手の次の行動を予測して最適な対応をすることが出来るようになる。既に対立状況になってしまった相手に対応するだけではなく、家族・友人・同僚・上司といった人々との関係においても、相手の心に気を配ることで相手の望みを理解して尊重し、適切な言葉・行動で自分の思いを正しく伝えることで円満な関係を構築することが出来る。自らの周囲に調和をもたらすことは争いを未然に防ぐことにも繋がる。

(ii)多角的な視点
 物事を多角的に捉えられる視点を持つことも調和をもたらすために必要なことである。

 江戸時代以前、武術は単一の種目のみに偏らず、複数の種目を併修することが良いとされた。そのため、複数の流派に入門することも珍しい行為ではなかった。これはいざという時は戦場に出る必要のある武士はあらゆる状況に対応できるようにしておく必要があり、様々な技術を満遍なく学ぶことが求められたためである。剣ばかりを修行して戦場の主要武器たる火縄銃や弓矢などの飛び道具、または鎗などの長柄武器の技術は身に付けていないので、戦場に出ることは出来ない、といった状態では武士身分に求められた技能として不適格だと考えられる。町民・農民身分の者が自衛のために武術を学ぶことも珍しくなかったが、その場合も当時の盗賊の類は刀を持っているのが当然で、長巻や鎗などの長柄武器で武装している場合もあり、身を守るためには自らもそれらの業を知っていることが望ましかった。相手の出方を見てから対応していては身を守ることは難しい。相手の動きを予測することが求められるが、そのためには自分自身が相手の使う業と同種の技術を知っている必要がある。剣に対抗するためには剣を知らなければならず、鎗に対抗するためには鎗を知らなければならない。
 大石神影流剣術は剣を中心とする流派であるが、大小差しの内の大刀を用いる技術だけではなく、鎗・長刀・六尺棒を扱う業、剣術も鞘に納めた状態から用いる抜刀術、大小の刀を両手で用いる二刀、小刀で大刀を持った相手に対する小太刀、といった多種多様な技術を含んでおり、決して単一の技術に終始するものではない。また貫汪館では伝えている他の二つの流派、無雙神傳英信流抜刀兵法と澁川一流柔術も併修することを推奨しているが、無雙神傳英信流抜刀兵法も複数の種目で構成される流派であり、一人で行う素抜き抜刀術の他に剣術・柔術を含む、澁川一流柔術も同じく複数の技術を含み、素手対素手、素手で懐剣・刀などの武器に対する業、棒・十手・分銅・鎖鎌で剣に対する業がある。これらを併修する場合、さらに多種多様な技術を学ぶことになる。
 実技を学ぶ上では流派の歴史についても学ばなければならない。何故そのように技術体系が構築されているのかを理解するためにはそれが作られた時代背景についても知る必要があるからである。先に述べた江戸時代以前に複数の武術を学ぶことが当然であったこともそういった背景の一つであり、実技の本質を理解するためには歴史の学習は欠かすことの出来ない要素である。
 これまで述べた多種多様な技術の稽古、そして知識の学習を通じて教えるべきは物事を様々な面から見ることの出来る多角的な視点を持つことの重要性である。自分が今知り得ていることが全てだと思ってしまえば、その範疇の外にある事象を理解することは出来ない。自分の価値観の外にあるものを受け入れる余地を無くしてしまうからである。このような状態では不測の事態が起きた時、それに対処することが出来ない。そういった単一の価値観に囚われた状態に陥らないためには自分に見えているのは事象の極一部に過ぎないのだと観念し、別の視点から事象を理解しようとする姿勢を持たなければならない。多種多様な技術の稽古からは一つの方法論に偏らないことを、歴史の学習においては現代とは全く異なる文化背景について知ることを通じて今までの人生で身に付けてきたものとは異なる視野で物事を見ることを教えることが出来るはずである。
 多角的な視点を持つことは他者と調和することに繋がる。これは先に述べた他に心を配る、ということとも密接に関係している。他者と調和するためには相手を知ることが必要である。他者を理解するためには相手の立場に立って考えることが出来なければならない。自分とは異なる価値観を持つ相手を知るためにはその価値観を理解する必要がある。多角的な視点を持ち、様々な観点から物事を考える姿勢を持っていれば他者の立場、他者の価値観を理解でき、それは他者との調和へ繋がる。常に相手の立場・価値観を理解するように心掛けていれば、相手の意思・行動を不必要に阻害せず、無用な対立を招かずに済み、対立状況に陥ってしまっても相手の考え方・取り得る手段を予測して対立状況の解消のために有効な対策を考えることが出来るからである。

3.師は絶対のもの ~学ぶ者の取るべき姿勢と師の責任~
 指導者(師)と教えを受ける者(弟子)の関係も重要である。弟子にとって師は上位に立つ存在であり、その教えは絶対のものである。弟子が師の教えに疑問を呈したり、自分勝手に解釈したりすることは許されない。師は進むべき方向を示しているのに、それと異なった方向を向いていては教えを理解し、身に付けることは絶対に叶わないからである。上位にある師の理解と弟子の理解ではその程度に隔たりがある。師の示す動き、話す言葉は弟子の理解の程度より上位にあるものであり、弟子が現在理解できていることを基準に解釈していては師の教えの本質を捉えることは出来ない。師の動き・言葉の表面にあるものだけではなく、その奥、その裏側に込められたものを学び取るためには一切の私見を差し挟むことなく、素直に師の教えに従い、わからなければわかるまで努力を重ね、どうしても理解できないときは真摯に問う、という姿勢が必要である。こういった姿勢は武術に限らず、何かを学ぶときには必要なことであり、教えを受ける者が指導を受け始める以前から具えていなければならないことであるが、必ずしも充分に具えられているとは限らず、必要に応じて教えていくべきことだと考えられる。

(i)物事の本質を理解する
 このような姿勢を持つことは物事の本質を理解する能力を養うことにも繋がる。先に触れたように師の教えを受ける際はその表面だけでなく裏側にあるものも学び取ることが求められる。師が一時に示す動きや言葉はあくまで表面的なものだが、そこには師がそれらを修得する過程で得た経験、身に付けてきた知識が込められているからである。特に武術流派のように「形」で伝えられる技術体系はそれを組み上げた人物の膨大な経験が集積されたものであり、いま目の前にいる師だけではなく、流派を伝えてきた先人達の教えも込められている。先に述べた多角的な視点で見ることとも通じるが、あらゆる物事はその表面に見えているものだけで出来ているのではなく、それが成立するための背景がある。物事の本質を理解するためにはその背景についても知らなければならない。私見を差し挟むことなく、師の教えを素直に受け取り、その裏側にあるものを学び取る努力によって様々な物事の本質を捉える感性が養われるのである。

(ii)師の責任
 序文で述べたように武術は直接的に他者を害することに用い得る技術である。また武術に限らず多くの「技術」や「知識」は程度の大小はあるが、個人やあるいは社会に何らかの影響を及ぼす「力」であり、それの悪用は社会秩序の破壊に繋がるものである。例としては、医学・化学の知識は毒物の生成に、土木技術は大規模な破壊に、経済学・社会学・心理学・法学などは他者の生活に影響を与え社会的地位の喪失を招くことにも用い得る。このような観点で見た場合、武術の影響力は個人レベルのものであるが、それでも極めて直接的な「力」でもあり、その悪用は決して許してはならないものである。先に述べたような学ぶ姿勢を弟子に取らせなければならない理由がここにある。弟子は当然のことながら学んでいる技術についての理解は未熟な状態にあり、師の教えを唯一の道標として上達の過程を進んでいくものである。弟子が自分勝手な解釈で間違った方向に進むことがあってはならず、師は常に正しい方向へ導いていかなければならない。そのためには師自身が常に自己を顧み、正しい方向を向けているのか自問し続けなければならない。弟子をより良い方向へ導いていけるよう師自身が常に上達のため不断の努力を重ねる必要がある。そのような努力なしでは、指導は浅薄なものとなり、動きも言葉も弟子を導くのには不十分なものとなってしまうだろう。
 武術は師から弟子へ、盃から盃へ一滴も溢すことなく水を移すように伝えられていくものである。いま教えている弟子にはいずれ師となって次の世代の弟子に流派を伝えていってもらわなければならない。師の行動・態度のすべてが弟子にとっての教えであり、またそうであるように努めていく責任がある。

4.まとめ ~「行動学」 生きた文化として伝えるために~
 これまで述べたように大石神影流剣術を通じて教えるべきことは、他者に心を配り、多角的な視点を持ち他者と調和を図ること、師との関係から物事を学ぶときに取るべき態度を身に付け、本質を理解する力を養うことである。稽古を通じてこれらを学び、自己の生活に活かしていく行動学として在り方にこそ現代における大石神影流剣術を含めた古武術の存在意義を見出すことが出来る。他の技術でもそうだが武術には危険な側面もあり、身に付けた人間が間違った方向にそれを用いることは断じてあってはならない。これからの時代に生きた文化として大石神影流剣術が伝えられていくためにも、学んだ人間が自己の人生をより良い、豊かなものとしていくための学びの場として存在していくべきである。


参考文献
1)森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
2)森本邦生:「道標」

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  1. 2015/11/29(日) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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