無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術五段 論文

大石神影流を通じて何を教えるべきか


1.はじめに
まず、古武道を稽古するということはどういうことであろうかを考えてみる。そもそも、武道は先人が培った伝統的な技や精神を稽古することを通じて伝承するとともに磨き上げ、習得することである。特に、古武道においては、個人の思いつきで勝手に手を加えたりすることのないよう、伝統的な技を正しく伝えるということが非常に重要なことである。このことが所謂「練習」ではなく「稽古」であり、字義から「稽古」を「古(いにしえ)を考える」と解釈されるところである。明治時代以降に創始された現代武道では、統一されたルールの下での試合形式が盛んに行われ、競技化することでスポーツ的性格が色濃くなってきたことにより発展してきたが、伝統的な技や精神の伝承が十分になされていないように感じる。その弊害として、近年では、オリンピック金メダリストの卑猥事件や体罰などの暴力事件まで発生してしまった。いくらオリンピックで金メダルを取ろうともそれはその競技での結果であって、個人の人間を評価したわけではない。講道館では、柔道を学ぶことを「柔道の目指すところは、立派な人間をつくること。柔道を学ぶことで、礼の精神を身につけ、心身ともに強く立派な、進んで社会に貢献できる人間をめざそう(1)」としており、武道憲章では、第1条にその目的として「武道は、武技による心身の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、 有為の人物を育成することを目的とする」(昭和62年4月23日制定 日本武道協議会)とされている。暴力事件等を含む近年の不祥事では、おおよそ目標とはかけ離れた方向に向かってしまった。また、競技化した結果、勝利することを第一とすることの弊害として、伝統的な技に個人で改良を加えたオリジナリティに富む技をもって勝利を重ねる選手も多数見られるが、現役を引退するとその技も消滅する。つまり、現代武道はスポーツ化したことによって純粋に伝統を伝承しているといい難いと感じる。礼節を重んじる武道での不祥事は、一般人からすれば古武道であれ現代武道であろうと、武道という言葉からすれば同じものと受け止められる。幼い子供を持つ親からすれば、礼儀正しさを身につけさせるために武道をさせることも珍しいことではないが、昨今の競技化されたスポーツ武道では古来からの武道のイメージが大きく変わりつつある。他方、古武道においては型稽古を主体としていることで大幅に改良されることもなく、また、競技でもないので型稽古を繰り返すことが主となり、自分勝手に手を加えることは許されない。つまりこれから先の未来に是まで正当に伝統を伝承されてきたものを変わることのないよう後世に引き継がなければならない。そのためにはどのような方法で何を教えるべきかを常に考えなければならないのである。

2.指導のあり方
(1)指導を受けるもの
古武道の指導を受けるものの心構えを述べればきりがないが、武道とは稽古を通じて自分自身を磨くことだと強く自分に言い聞かせなければならない。そのため、もっとも大切なことは、常に正しい心で自己研鑽を積むことであり、また、指導者に対しては謙虚な心で接するという精神を身につけるよう心がけることが重要である。

(2)指導するもの
現代まで正しく伝えられてきた伝統文化である古武道を次世代に正しく伝承させるためには、歴史や文化を学ぶことも重要である。また、指導される側が常に謙虚であるためには、指導者に対する礼の意義を理解させなければならない。また、指導者は過度に威圧感を与えてはならない。自己の力量を見せつけたり、優越感に浸るようなことをするべきではない。さらに、自分の力量以下のものをいつもでも育成するのではなく、やがて自分以上の優秀な師になるよう弟子を育成しなければならないのである。そのためには、自己が長年苦労して習得した技術や心構えを教示することも必要であるが、簡単に教示すべきではない。それはそれ相当の力量がなければ、教示されたところで指導されていることの意味が理解できないからである。それぞれの力量に見合った段階でそれ相当の指導をすべきであろう。

3.指導することについて
稽古を指導することを考えるにあたり、そもそも江戸時代にはどのような指導「教え」をしていたのかを伝書により考えてみたい。

(1)「不動智神妙録」の教え
不動智神妙録を武道伝書とは言い難いが、沢庵が将軍家剣術指南役の柳生但馬守宗矩に対し、剣禅一如について説いたもので、柳生新陰流のみならず多数の流派に大きな影響を与えた書として有名である。ただし、不動智神妙録では技術的なことより専ら禅の思想と剣術は一体とみなされている。教える者として、また、教えられる者としての心構えから人間としての生き方が説かれている。その中から以下を引用して参考にしたい。

一向の愚痴の凡夫は初めから智恵なき程に萬に出ぬなり。又づつとたけ至りたる智恵は早智恵がいでざるによりて一切出ぬなり。なま物知りなるによって智恵が顔へ出で申し候て、をかしく候。今時分の出家の作法ども嘸をかしく思し召す可く候。
理の修行、ことの修行と申す事の候。理とは右に申し上げ候如く、至りては何の取り合わず唯一心の捨てやうにて候。段々右に書き付け候如くにて候。然れども事の修行を仕らず候へば道理ばかり胸に有りて身も手も働かず候。事の修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれば身構への五箇に一字のさまざまの習ひ事にて候。理を知りても事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取りまはし能く候ても、理の極まり候所の闇く候ては相成る間敷く候。事理の二つは車の如くなるべく候(2)。

何事もわからない人間は、もともと智の働きがないから表面に表れることはない。はるか深いところまで達した智恵は、表面に出ることはない。中途半端に知っているものは知識をひけらかそうとする。つまり、教えることも教えられることも中途半端ではならない教えである。体をいかようにも使うことのできる事(わざ)の修行は当然ながら、何事にもとらわれない無心になることが理(こころ)の修行で、両方をバランスよく修行することが必要で、両方そろってないと結局は役に立たない。事の背後には常に理が存在しており、密接不可分であると説明している。指導する者とは、技だけでなく心もかなりの修行を積んだ者でなければ指導できないということである。

(2)古武道伝書による教え
古流には元来その流派独特の教授法がある。多くの場合、各流派で洗練された「型」であり「形」の稽古である。その稽古についてであるが、多くの流派の伝書では、専ら教えられる側の心構えが記され、その後、心の持ちようから体の使い方が教えられている。以下にいくつかの伝書の内容を考えてみたい。

(イ)「五輪書」の教え
宮本武蔵の五輪書地之巻では、そもそも「兵法」とは、について、次のように記している。

  夫兵法といふ事、武家の法なり。将たるものは、とりわき此法をおこなひ、卒たるものも、此道を知るべき事也。今世の中に、兵法の道慥にわきまへたるという武士なし。(中略)大形武士の思ふ心をはるかに、武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道におゐては、武士斗にかぎらず、出家にても、女にても、百姓巳下に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死するところを思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事におゐても人にすぐるる所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ。是、兵法の徳をもつてなり。又世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。その儀におゐては、何時にても役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也(3)。

将も兵も兵法を知るべきであると説いているにもかかわらず、その当時でさえ、兵法をたしかにわきまえた武士はいないといっていることは非常に興味深い。また、武士が考えていることといえば死ぬことであるが、性別や職業に関係なく誰でもいつかは死ぬのであるから、何事も人より勝り、主君または自分の名声を博そうとするものも武道の効果である。また、兵法の道として、もっとも大切なことは何時いかなるときにでも兵法が役立つよう稽古し、そして教えることが真意であると書かれている。さらに、地之巻の最後には、

右一流の兵法の道、朝な朝な有な有な勤めおこなふによつて、おのづから広き心になつて、多分一分の兵法として、世に伝ふる所、初而書顕はす事、地水火風空、是五巻也。我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり(4)。

として、次の九条を示している。

第一に、よこしまになき事をおもふ所
第二に、道の鍛錬する所
第三に、諸芸にさはる所
第四に、諸職の道をしる事
第五に、物毎の損徳をわきまゆる事
第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
第七に、目に見えぬところをさとつてしる事
第八に、わづかななる事にも気を付くる事
第九に、役にたたぬ事をせざる事 (5)

これら学ぶ者に対しその心構えとして、「師は針、弟子は糸となって、たへず稽古有るべき事なり。(6)」と説いている。

(ロ)「兵法家伝書」の教え
兵法家伝書とは、江戸時代初期に柳生宗矩によって著された柳生新陰流の思想を記した武道書である。この中の「無刀之巻」には次のように記されている。

一 とられじとするを、是非とらんとするにはあらず。とられじとするをば、とらぬも無刀也。とられじとられじとする人は、きらふ事をばわすれて、とられまひとばかりする程に、人をきることはなるまじき也。われはきられぬを勝とする也。人の刀を取るを芸とする道理にてはなし。われ刀なき時に、人にきられまじき用の習也。
一 無刀といふは、人の刀をとる芸にはあらず、諸道具を自由につかはむが為也。刀なくして、人の刀をとりてさへ、わが刀とするならば、何がわが手に持ちて用にたたざらん。扇を持ちて也共、人の刀に勝つべし。無刀は此心懸なり。刀もたずして、竹杖つひて行く時、人寸の長き刀をひんぬいてかかる時、竹杖にてあひしらひても人の刀を取り、もし又必ずとらず共、おさへてきられぬが勝也。此心持を本意とおもふべし(7)。

必死に取られまいとしている相手の刀を何が何でも取ってしまえというのではない。取られまいと必死に防御しようとしている刀を取らないのも無刀術である。取られまいとする相手は、そのことだけに心が居ついてしまい人を切ることから心離れてしまうことにより、結局人を切ることができなくなってしまうのである。無刀とは、相手の刀を取るものではなく、さまざまな道具を使いこなすためのためである。自分が何も持っていない時を想定し、何を手にしても相手を制圧しなければならない。つまり、切られなければよいわけである。そのためには心居付かせることなく、また、どのような事態でも冷静に判断し、的確に反応することこそ無刀の本来の意味であろう。

(ハ)大石神影流の教え
大石神影流の形稽古である手数の中に大石進種継により創始された思想が含まれていると言うことができる。稽古において我々がただ単に「型」として受け止めたのであれば、大石進種継以来先人たちが築いた技術や思想は崩れ落ち、本質部分が失われてしまうということである。これを古武道の指導方法である上意下達方式で指導し、理解させなければならないのである。
大石進種次の教えを「大石神影流を語る」から考えてみたい。

また進は試合前に予め型の研究をして、剣の技法身のさばきを鞏固にして場に赴くのを常としている。ある門弟がその理由を尋ねると、試合の前に型を研究するのは力士が下稽古をして場に赴くのと同じことだといつて型を重視し、門弟にもこれを勧めている。
進は抽象的観念な説論を避け、出来る限り具体的な指導を行つた。これが当時剣術修行者にうけて、諸国から陸続と入門者がつめかけた大きな理由と考えられる。
進が創作した剣道教歌にも、その特徴がよく表われている。教歌を数首拾つてみよう。

 稽古をは誠の敵とおもいつつ 仕なをしらぬことを忘るな
 いろいろにたくみをおもになすならは 敵の変化に陥るものなり
 突太刀の曲尺は手前にあるぞかし 後手のかねに櫂ありとしれ
 太刀先のあがるは心の動としれ 気の掛るには下るものなり
 突場をは脈のしらするものぞかし 眼にみては間に合わぬなり
 我稽古持前よりも引下げて 下手とおもわは成就程なし
天保以降進の名声があがり各藩の士が多数入門して盛行をみるにつれ、有名無名の剣客が武者修行のため足を止めるようになった(8)。

ここで、「試合前に予め型の研究をして・・・」とあるが、大石進は竹刀の長さを長くし、防具の改良をするなど、研究家であり工夫家であったことが伺える。また、教歌にも稽古の大切さが謳われ弟子にも勧めていたことから、やはり形稽古が重要であるということであろう。さらに、教歌では心の持ちようが謳われており、数々の試合をこなした大石進ならではの具体的な指導内容である。
剣術は当然ながら相手に勝つことが必要で、そのための方法はいかにするべきかを教えている。剣術の試合においてたまたま勝ったなどということはありえないことで、刀を手足の延長として操ることができなければならない。稽古をおろそかにせず、理を知りよく考えながら稽古することが重要であると教えている。さらには、型稽古の重要性も説明されているが、その目的はその場その場に応じ、臨機応変に応じられる形が遣えなければ真に稽古したとはいえない。そもそも十分に基本技が身についていれば、変化にも咄嗟に対応できるはずである。

 以上、代表的な伝書からその教えを考えてみた。詳細な技術的内容は、流派の違いにより若干異なることもあるが、共通して言えることは、心の持ちようが深く説かれている。各流各派により、型そのものの違いはあるものの、教えることは共通することが多い。特に心法を伝え、敵と戦う場合の心構えや気持ちの応じ方等が記されている。その他にも、技術的な内容として、無理な動きはしないことや無駄な力を排除しなければ相手に対する柔軟な対応はできないと教えている。これは多くの流派でも説かれていることから、もっとも元になる部分である事がよくわかる。つまり、この部分ができていなければスタートラインにつけていない状態であるといえる。

4.結論
今回、各伝書を参考に、江戸時代には師として弟子に対しどのようなことを教示していたかを検討し、どのようなことを教えなければならないかを考えてみた。自分が大石神陰流を通じて教えなければならないこととして、まずは、入門するに当たっての心構の重要性である。師の教えを疑いなく素直に聞き入れる謙虚さが最重要であり、これができないようであれば技術を教える術がないことを十分理解させる。その他に主位的立場である仕太刀と従位的立場である打太刀の関係をよく理解し、打たれるのではなく打たせ、突かれるのではなく突かせることの重要性を理解させる。このようなことを常日頃意識することこそが、ひいては日常的な行動に役立つことになり、逆に日常的行動が稽古の役に立つことへの理解につながるものと考える。
稽古には少年から人生経験の豊富な方までさまざまな方が来られる。また、それらが誰にも十分に理解できるよう工夫し、指導することが指導者の重大な課題であると思われる。


後注
(1) 公益財団法人 講道館: (http://kodokanjudoinstitute.org/learn/ (2015.8.20アクセス)。
(2) 沢庵 宗彭著:「不動智神妙録」徳間書店 19刷 1970年10月15日 
池田 論 訳 41~42ページ
(3) 宮本 武蔵著:「五輪書」 岩波書店 第6刷 1997年9月16日 
渡辺 一郎校注 11~13ページ
(4) 同上 36~37ページ
(5) 同上
(6) 同上 17ページ
(7) 渡辺 一郎:「兵法家伝書 付新陰流兵法目録事」岩波書店 第14刷
1999年11月16日 98~99ページ
(8) 藤吉 斉 : 1963年10月20日 52~53ページ

参考文献
1.藤吉 斉  :「大石神影流」
2.中村 民也 :「今、なぜ武道か -文化と伝統を問う-」 日本武道館 初版 
2007年8月23日
3.佐藤 成明 :「高め合う剣道」 日本武道館 初版 2012年10月10日
4.曽根 喜美夫:「武道教育論」 日本出版放送企画 第一版 1997年4月7日
5.宮本 武蔵著:「五輪書」 岩波書店 第6刷 1997年9月16日 
渡辺 一郎校注 
6.沢庵 宗彭著:「不動智神妙録」徳間書店 19刷 1970年10月15日 
池田 論 訳
7.渡辺 一郎 :「兵法家伝書」 岩波書店 第14刷 1999年11月16日
8.湯浅 晃  :「武道伝書を読む」 日本武道館 初版 2001年7月10日
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  1. 2015/11/27(金) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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