無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術初段 論文 2

 私が若い頃に取り組んだ経験がある武道・競技を振り返ると、勝敗にこだわり相手を圧倒する事を奨励されていた為、少々の反則を使ってでも、いかにして勝ち星を挙げるかに腐心し、礼などは形式的な決まり事程度の認識しか無かった様な気がします。
 勝てばガッツポーズ、負ければ地面に物を投げつける。内容が悪い試合をすると勝ったとしても頭を叩かれる。これは相手への敬意と品位に欠ける行動であったと思い出されます。
 ホームラン王の王貞治氏はホームランを打っても喜びを表現せず、抑制が効いた表情で坦々とベースを踏んでいったといいます。失意の相手投手を慮っての態度でこれこそ礼節と言えるかも知れません。相撲でも外国人横綱が、勝った喜びを表現して品格を問われるという事がありました。観客受けを狙って闘志剥き出しのパフォーマンスをしたり、相手を小馬鹿にして挑発したりするとテレビの視聴者には興味を持たれるでしょう。格闘技では興行を盛り上げるファンサービスの一環ですが、青少年が見るとどう思うでしょうか。将来有望とされる若い選手が、大人のコマーシャリズムに迎合してインタビューで、大言壮語するのを見るにつけ、客は呼べても尊敬される事はないのではないかと、残念に思う次第です。武道を知らない外国人選手であっても、立派な試合をする選手は風格と威厳を備えています。相手が挑発しても、汚い反則をしても動揺する事なく毅然に対処します。少し脱線しましたが「礼」という言葉を知らない外国の方であっても、質が高い方は相手を尊重し切磋琢磨しあう気持ちをお持ちです。「礼」の中には「謙虚」というものがあります。遠慮深い、引っ込み思案ということではありません。これ見よがしに自分の実力、もしくは誇張した実力をさらけ出すのではなく、心身に実力を持ちながら、いたずらに表に示さないことこそ「謙虚」であり礼法の基礎と考えるべきだとされています。「武」という文字は「矛を止める」といわれています。単に矛を持っていても使用しないという解釈もありますが、常に技量を磨きながら、それを表に出さない、謙虚とは実力に裏付けられる事によって「礼道の要は心を練るにあり、礼を以って端座すれば兇人剣を取りて向かうとも害を加ふること能はず」と言われるように、座して存在するだけで攻撃をさせない威厳を得る事が可能であると新渡戸稲造が「武士道」の中で小笠原清務の言葉を引用しています。
 武道は礼に始まり、礼によって終わると言われていますが、ただ初めと終わりにお辞儀をする事だと考える人は意外に多いのではないかと思います。かくいう私もそうでした。先生に対して稽古を求める時は、稽古中に常に先生に対する礼を保ち、稽古の終わりには心から感謝を表す、そのような稽古でなければなりません。刀礼の際は太古から現在まで続く刀を護り、発展させた数多の先祖と宿った魂に、自分が使わせて頂く事に感謝を表します。日本には八百万の神が存在します。神は至る所に遍在します。意識を持って感謝せねば感じることはできません。礼法は敬いの心を形で表すものであり、その動きには無駄がなく合理的で折り目正しく、且つ優雅であり安定感が備わったものでありたいものです。
 小笠原流の「修身論」では「本朝武家の六芸は、礼軍射御書作なり。これすなわち糾法の立つところなり。そのことに替わるといえども一理は不断にして暫くも止まず。しかも向上のところは常に至るになおまた一に帰す。故に常の一字を大事にして始終の修行あるべし。かくの如きといえども、礼は六芸の甲にして、こと自然不断なり。もっとも軍射御等の入門もまたこの内にこもれり」とあります。礼こそ六芸の最優先事項であり、始終不断の修行が求められるとあります。礼の心を求める事は、続く芸の修行を含むとも述べられています。礼の思い入れ薄ければ、形をなぞるだけで続く稽古にも向上はありません。礼の修行が「一字万事、万事一事」あらゆる修行に通じるとも考える事ができます。「例えば一つのことをよく自在にする時は、万事に通ずるなり。万事もまた一事に通ずるなり。何とすれば、心不変にして気の切れることなく、詰まることなく、進むことなくして、一事に達せば、一にあっても少なきことなく、万にあっても多いなることなきものなり。しかれば一字万事、万事一事なるべし」始まりの礼がおろそかであって、続く稽古が向上する道理は無いということでしょうか。わたしも反省すべき部分随分が思い当たります。もっと言えば、道場への入り方、稽古に向かう道すがら、あるいは日常生活から「一字万事、万事一事」を意識しなければなりません。
 礼の気持ちを持ち合わせていたとしても、それを他人に伝える方法(作法)を知らなければ相手に伝わりません。心と表現する作法の両方が備わって礼となるのではないかとも述べられています。人の心はそのまま見せることが出来ないので、心を人に見えるように様式化したのが「形」であり「形」に託して心を伝えれば、見るほうも又「形」を通じて心を受け取るものではないかと思います。小笠原清忠の『武道の礼法』では礼法は実用的であり効果的でなければならないとあります。無駄な動きを省き、必要最低限の機能を使用する事が大切で、この二つが自然にできるようになると、見る人には美しく調和が取れていると感じられる様になるとあります。まさに大石神影流剱術に通ずるものではないでしょうか。礼法と剱術が分離したものと考えてはいけません。大石神影流剱術の素振り、試合口の手順のみを意識していては、真の理解を得ることは出来ないのではないかと考える事ができます。無理無駄ない動きは礼法から始まり、心身の硬直を離れ、形の中にあって自由の獲得を目指すことが稽古の本質なのかも知れません。
 小笠原流礼法に4つの教えがあります。
「正しい姿勢の自覚」「筋肉の働きに反しない」「物の機能を大切にする」「相手に対する自分の位置を常に考える」
 まったく大石神影流剱術の要と置き換えて問題があるとは思えません。この事からも礼法と剱術が通じていると理解してよいと考えられます。礼法は「形」といわれますが「かたち」には「形」と「型」があるといいます。「型」は心なき鋳型で手段に過ぎないと述べられています。「形」は多くの先祖の精進と時には命を賭した経験の蓄積によって導き出された真理です。一個人の浅はかな感覚ではなく、脈々と受け継がれた先達の英知が昇華されたものです。「形」に対して、この様な所作に意味があるのか。この動きは非効率ではないか。などと、一個人が考えるのは愚かな事です。先達の教えに静かに耳をすますが如く、「形」に体を寄り添わせ、素直に動く事で尊き声を聞く事ができるのではないでしょうか。初心は手順を追う事のみに必死ですが「型」の鋳型から離れ、「形」によって囚われのない自由の獲得を目指さなくてはなりません。礼法も大石神影流剱術も「型」の鋳型ばかりを稽古しても心と体が修まらなければ、思慮浅く軽々しい所作となり、穏やかで慎み深い所作とは言いがたいのものとなるでしょう。しかし修身とは一朝一夕で身につくものではなく、繰り返しの稽古で「形」の声を聞き、品格と共に徐々に身に着けていくものであり、そうありたいと考えています。
【参考文献】
小笠原清忠『武道の礼法』日本武道館 初版第7刷 2014年
  1. 2015/11/23(月) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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