無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術初段 論文 1

本年度の昇段審査の論文を載せていきます。
大石神影流剣術初段の論文です。

武道における礼と大石神影流の礼法について

1 はじめに
「礼に始まり礼に終わる」と言われるように、武道には、古くから礼という言葉が存在する。今日一般に使用される「礼」には、作法・制度など社会の秩序を保つための生活の規範、敬意を持った振る舞い、またお辞儀などの意味が含まれている〔新村出 広辞苑(礼)〕とされる。
それでは「武道における礼」とは、挨拶や礼儀作法といった私たちが日常で意識する礼と本質的に違う武道独特の意味を持つものなのか。戦う技術である武道と礼とはどのような関係なのか。また、大石神影流の礼法に礼がどのように織り込まれているのか。
本稿では、これらについて歴史的経過を紐解きながら、武道とりわけ大石神影流にどのように向き合っていくのかという観点から標題について考えるところを述べたい。
なお、武道という言葉を用いるにあたり、剣道や柔道と江戸期以前から伝わる剣術や柔術とを対比させた「武道・武術」という言葉の使い方はここでは考慮しない。

2 礼の持つ意味
「礼」の字源を尋ねると、旧字の「禮」について、「醴酒(甘酒)を用いて神に饗するときの儀礼をいう」〔白川静 字統(礼)〕、「神に事えて福を致す所以なり」〔説文解字〕と字義解釈なされるように、本来宗教的な観念をあらわすものとされる。そして、この祭祀の礼は、やがて社会生活全般に対応するための形式化が図られ、社会の制度や秩序原理としての礼となったと言われている。理想国家としての周王朝の再現を目指して徳治主義を唱えていた孔子にとって、礼とは、仁(思いやり・慈しみ)を基本とした道徳基準であり、社会に秩序をあらわすための規範であるとともに、為政者の素養とされる(末次美樹 「武道における礼の教育的価値」駒澤大学総合教育研究部紀要第3号 2008年 p309-310)。孔子を始めとする儒家にとって、礼は単なる形式的な制度や秩序ではなく、理想的な国家を運営するために、理想的な人間として備えておくべき徳目であった。
また、「武」の元々の意味は、武器である戈を手に力強く地面を踏みしめて進むこと〔白川静 字統(武)〕であったが、これが、春秋戦国時代以降に儒家によって徳治主義が唱導されて以降、戈を止めることと解釈され、武は「威嚇」から「威徳」へ思想的転換を遂げ、単なる暴力的な武という意味から普遍化された。(杉江正敏「日本の武道」日本の武道-日本武道協議会設立30周年記念-日本武道館編 平成19年 p37)
こうした礼・武の概念は、やがて日本に伝来し、その後も大陸から様々な思想的な影響を受けつつ、独自の展開を遂げていく。

時代が下り、武術の実用期だった戦国期を経て、平和で安定した江戸期になると、武士は為政者にふさわしい人間的素養を儒教などの学問とともに武術によって習得しようとした。江戸時代には「武道」という言葉は、戦う者の生き様・流儀をあらわす「武士道」と同じ意味で用いられ、今日の剣道・柔道という「武道」は、当時は「武芸」「兵法」などと呼ばれていた。つまり、武士の生き方をあらわす時には「武士道」「武道」という言葉が使われ、武士が身につけるべき戦いの技術を示すときは「武芸」という言葉が使われていたという。(菅野覚明「武士道から武道へ」日本の武道-日本武道協議会設立30周年記念-日本武道館編 平成19年 p41)
武芸の観点から見れば、徳川幕府の文武兼備政策の下、戦う技術としての威力を内に秘めた武の技法を練磨し備えることが、無用の争いを避けるための抑止力になるとされた(杉江正敏「日本の武道」同上p37)という部分もあったろうが、ここに武士が修めるべき道として、武と礼の密接不可分な「武士道」という概念が完成したといえるだろう。

3 武道における礼と礼法
日本人の精神構造を広く欧米に紹介した新渡戸稲造は、その著「武士道」の中で、「礼とは、社会秩序を保つために人が守るべき生活規範の総称であり、儀式、作法、制度等を含むものである。また礼は、儒教において最も重要な道徳理念として説かれ、相手に対して敬虔な気持ちで接するという謙譲の要素がある。他人の安楽を気遣う考え深い感情の体現化であり、形だけの礼を虚礼とし、真の礼と区別しなければならない。」(新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年p55-64)と述べている。
真の礼は心と言動が調和した状態でなければならない。儀式や作法だけ繕っていても相手に伝わることはない。また、たとえ「礼の精神」を内面に持ち合わせていても、それを適切に体現できなければ相手に伝わることはない。「礼の精神」と「礼を表現する作法たる礼法」の両方が備わって初めて礼を体現できるということである。

大石神影流剣術を指南されている貫汪館では、この礼と礼法についてどのように説かれているのか、貫汪館HPから礼法に関して表明されている箇所をいくつか挙げてみたい。

武道は人との関係において成り立ちます。「和」がない武道は暴力に過ぎません。相手との「和」を保たせる基本が礼です。
神を畏怖し敬う心がなければ「神拝」は形だけのものにすぎません。神を畏怖し敬う心があれば神前において無作法な振る舞いをすることはありません。たとえ、その場における作法を知らなくても不敬な動きにはならず。神との関係は保たれます。
 稽古も同じです。相手をたんに稽古の対象と考えていては見えるものも見えてきません。見えるものが見えてないのは「我」中心で、和は存在しないからです。見えるものが見えないというのは、相手も自分も、またその手数・形を工夫された流祖や、それを伝えてこられた代々の師範の心も見えていないということです。
また、師に対する畏怖の念や尊敬の念がなければ、見えるものも見えてきません。話されたことも聞こえず、示されたことも見えません。
(道標「礼」2014/12/15)
 
礼法では「心のある礼法が正しい手順で行える。」ことを審査の目安としています。
「心のある」とは形式的ではなく、神前であればそこに神がおられるという意識があるのか、刀礼は刀魂に頭を下げているのか、また稽古相手を敬う心はあるのかということを意味しています。稽古で形式的に礼を行っているだけでは身につかないと思います。
「正しい手順で行える。」とは間違えずに行えると言うことなのですが、~礼に心がこもれば同じ手順を行ったとしても一つ一つの動きが本質的に異なったものとなります。
(道標「昇段審査会に向けて(礼法)」2014/08/18)

武道とは戦う技術であることを根本とするだけに、礼がないと互いに傷つけ合うためだけの技術に堕してしまう。武道が真に崇高で価値あるものであるためには、挨拶や礼儀作法という日常の礼を超えて、神への畏敬、流祖や師への敬意、稽古相手の尊重と自らの謙譲、感謝の心など広く深い礼の認識が求められる。そして、これらの認識は、礼法として凝縮され、同時に稽古におけるすべての所作に反映されている。心なき礼では武道に求められる道が開かれることはない。
 次に具体的な礼法の所作に着目した記述を掲出する。

大石神影流剣術では礼法は簡素なものであるため、それほど時間を掛けて稽古することはありませんが、神前に折り敷いて礼をする動きは簡単なようですがよほど稽古せねば出来るようにはなりません。この礼がただしくできるようになれば、立姿勢での下半身の緩みはできるようになるはずです。
(道標「礼法」2014/06/08)

大石神影流の礼法は、「右足を引いて膝を着き、両手を床に着ける」というものである。静かに重心が下りながら右足はするすると引かれ、膝はいつの間にか床に着く、上体を折り曲げるのではなく、沈むように両手が床に着く由、稽古日記に表現されているように、文字に即した動きを体得することは初心者には非常に難しく、「立姿勢での下半身の緩み」といった大石神影流で求められる身体操作の要諦があらかじめ要請されている。

初心の内に、これを単なる儀式と考え、手順をしっかり確実にという事に主眼を置いて稽古してしまえば、後々の自分自身の稽古はそのレベルを基準にしてしか進みませんので、上達は困難を極めます。自分で初心に戻って礼法から稽古しなおさなければならないのですが、人の心はそう素直ではなく、手順を覚え、体に染みついたものを再度壊してやり直すことほど難しいものはありません。神に礼をする、刀に礼をする、師に礼をする、互いに礼をするのは礼の心が大切であり心なくして礼の形を作ってしまえばそれは礼ではありません。目的のない動きなのですから、それ以後いくら形を稽古したところで形のみを求めてしまう癖からは逃れることはありません。~
戦う技術ではない、たかが礼法ですが、それ以後のすべてをきめてしまいます。
(道標「礼法」2012/09/04)

さらに、貫汪館では、礼法の手順を外形的になぞるような「心なき礼」は論外として、丁寧に確実に手順を行う姿勢すら「礼の形を作る」ことは「目的のない動き」として排斥される。手順に心を置いた瞬間に、礼から心が離れているというのである。手数(形)の稽古においても同様、「形のみを求めてしまう癖」により、本物の武道に似て非なる手数という形枠を上手に演技するだけの技に陥ってしまう。礼法や手数の稽古における心を置く位置は、かくも繊細で玄妙な境地が求められている。

4 おわりに
 これまで述べてきたように、私たちが今日、武道とりわけ大石神影流を稽古するに当たっては、「心のある礼」を志向した高度な内省と自律が求められる。その礼を体現する形が礼法であり、礼法の稽古により「礼の心」を磨く必要がある。しかし、礼法という形に囚われては「礼の心」はするりと逃げてしまう。無形の形とでもいうような境地を模索し続けなければ本質に近づくことには繋がらない。
 私は、こうした限りない営為に魅かれ憧れているのだと思う。初心を胸に師に範を仰ぎ、稽古の道を歩んでいきたい。



≪参考文献≫
1)末次美樹「武道における礼の教育的価値」駒澤大学総合教育研究部紀要第3号 2008年
2)菅野覚明「武士道から武道へ」日本の武道 日本武道館編2005年所収
3)杉江正敏「日本の武道」日本の武道 日本武道館編 2005年所収
4)新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年
5)前田勉「山鹿素行における士道論の展開」愛知教育大学日本文化研究室「日本文化論叢」2010年


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  1. 2015/11/22(日) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

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