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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 11

澁川一流柔術7段の論文です。

 「柔術とは何か」  

  はじめに 

 「柔術とはなにかと簡単にお答えください。」と尋ねられた時、的確に答えられる人はどのくらいいるでしょうか。
 「秘伝日本柔術」には、「柔術は狭義に解釈すれば打つ、突く、当る、蹴る、投げる、締める、固める、ねじる、抑さえる、などの攻撃法と、受ける、はずす、かわす、などの防禦方法を協調させて「素手を以て、素手の敵を制圧する」技法をいい、広義に解釈すれば「素手を以て、武器を持った敵を制圧する」「小武器(十手、短刀、隠し武器など)を利して、素手あるいは武器を持った敵を制圧する」となり、さらに延長線上に剣術、棒術、槍術などの各種武器術がある。1」と、柔術の定義について書かれてあります。ここでまず、原点にもどって、柔術の歴史、柔術はどのように発達したのか、今では柔道が世に一般的ですが、柔道の元である柔術はどうして柔道に変わっていったのか、武道とはなにか、この3点から考察していきます。


  1. 柔術はどのように発達したのか

 人類が生息するところ必ず論争が起こり、人それぞれ護身の法を研究、工夫をして、武術へと発達したものである。それぞれの人たちの研究、工夫の特色が流派となって確立していった。
 日本における柔術の発達には、次のような理由が考えられる。
1、 戦国時代においては、甲冑を着用した相手に対して、急所をねらうことはできず、当て身を用いて倒すことは困難であり、とにかく敵を組み伏せて、首を刈りとるのが目的であった。
2、 たとえ甲冑を着用していなくても、当て身による一撃で敵を倒すことはむずかしく、失敗が多い。
もしも当て身の一撃で敵を倒すことに失敗すると、敵に所持している刀などで切り倒されてしまうことになる。したがって、まず、敵に刀を抜かせないことが大切である。その反対に、刀を抜く側も反撃に転じるための方法が必要であった。以上のように、町民はもちろんのこと、武士にとっても心得るべきものであった。
 一般に武士は剣術、捕方や町民は柔術などと区別されることがあるが、たとえ武士であっても城内で刀を抜くことは禁止されていたし、また上級武士はたとえ戦においても、足軽相手に刀を抜くことは恥辱とされ、刀を抜かずに制圧する技術が必要であった。たとえば、関口流柔術などは、紀州徳川家の御流儀となり、家君自ら学ばれているし、大東流合気柔術は、会津藩においては高禄武士以上の者が学ぶことができる、秘密武術であったと言われている。2)
本書では、中央に出て広く知られている一部の流派や、あるいは現代武道のかげにかくれて、その存在を知られているが実態の知られていない、すぐれた四流派を紹介することにした。

竹内流
 日本柔術の源流といわれ、考証上において歴史上最古の流派とされている。
 他の流派にも伝説上の開祖は、竹内流より古いというものもあるが、現当主から十三代もさかのぼるまで存在や経歴が明らかなものは、竹内流のみである。

柳生心眼流
 甲冑武術の遺風を今に伝える希少な流派である。
 この流派には日本武術には珍しい、拳法、柔術、武器術に共通する一人稽古用の型が伝えられている。また、日本の柔術の中では、珍しく当て身の研究・工夫が深くされている。

諸賞流
 一つの技法を表、裏、ほぐれ、変手、手詰などに変化させて使い分ける。
 とくに裏と称する肘あてと足当て(蹴り)の当て身を重要とし、その威力は鎧胴を貫くといわれている。

大東流
 この流派の代名詞にもなっている合気柔術は、素肌柔術の極致ともいわれ、合気を利して行なう玄妙の技法は“神秘の柔術”とも称される。この流派の一部の技法は「合気道」の名で広く知られている。

 これまでに多くの武術書が出版され、すぐれた貴重なものの多い中で、独断と偏見によるものや、自己の周囲のみを誇大に宣伝することを目的で出版されたものも、かなりの数にのぼっている。
 また、自己の名声や財を求めるために、師を欺き、世を欺いて、自らを「創始者」「宗家」と名のったり、あるいは関連系図を附会して、自己の学んだ流派や師をないがしろにし、古い流派に見せかけて純真で無知な青少年をだましている武術家も少なくはない。これらの流派は自らのいう説の中で、決まって大きな誤りを犯している。
 このような「偏執狂」や「妄想狂」のような輩がいることが、今一つ武術が世間から迎えられず、しかも他の文化にくらべて低く見られることになっている大きな原因であろう。先人たちの命がけの体験と研究・工夫によって考案された武術の技法も、現在では反復練習を惰性で行っている人や、あるいは娯楽・体育の目的で行なっている人も多く、ぬるま湯にひたっている武術家も少なくはない。
 したがって暴力から身をまもることに関しては、スポーツ格闘競技(空手・ボクシング・レスリング・現代武道など)より勝るべきはずの武術であるが、その真剣さにおいては名誉と生活をかけて試合を行なうスポーツ選手にもおとり、古武道の大家が空手の無段者に敗れることすらある。3)でも、今では戦もなく、平和な世の中であるが、違う面で物騒な世の中である。いまこそ、柔術を心得て物騒な世の中を生きていかなくてはいけないのではなかろうか。けれども、現代では柔術は影が薄くなり、柔道に変わってしまっている。

  2. 柔術はどうして柔道に変わっていったのか
 
 柔術の歴史から柔術が柔道へと変わっていったところに焦点をあててみることにしました。ここでは、「武道文化の研究」から「柔術から柔道への名辞の変遷について」という論文を参考に考察していきます。
 
  柔術は、小具足腰の廻り、和、俰、組打ち、柔術等の名称で呼ばれていた。
 その中で最も早く現れたものに、竹内流腰の廻りがあり、剣や組打ちで相手を制し、縄でもって縛るという捕手をさしていた。まだ、この頃には技名が列記されているだけで、精神面についての詳しい説明はなかった。
 十七世紀前半には、和や俰の名称で呼ばれる柔術が現れ、良移心当和が有名である。
 柳生十兵衛三厳が祖父石舟斎と父宗矩の言い残したことを一冊にまとめた「神陰流月之抄」には「和の事、是は七郎右衛門工夫により目録とす。此一流良移心当和と云う。意趣は、わが体に剛弱骨折あるを知らず、剛なる者は編に剛と知り、弱なる者は力足ず。先師の曰、力不力、遅速自にして、何を以秘術といはん、幾千万の工夫をめぐらして剛を父とし弱を母としてみれば、敵に引かれても動かず、押されても動かず、強きことを良く覚え、敵押さば押すに従って勝、引かば引くに従って勝事を覚える事也」と記れ、敵に引かれても押されても動かない剛の面と、敵の押す引くにしたがって和らかく動き勝利する『和』の二面を兼ね備えよ、と説かれている。
 「和」と同じくやわらと呼ぶ流派に「俰」があり、日向飫肥で行われた「定善流俰」があった。「定善流俰極秘自問自答」によれば「俰は和と同じヤハラと訓じ、敵と争う時、力身無理なる所を此習で去って和らかにする」と記され、力身を去り、体を和らかにすることが大切だと説かれている。又一方、中庸の「中和」の道理により「強でもなく弱でもなく基中和を用いて勝ち、又敵の位によって偏よらず中和にして基宜しき節に従て勝つ」と記され、中庸の未発の思想を採入れ、強弱相備えて勝て、と説かれているなお、技術に関しては「夫俰は無手にて白刃をひしぎ、敵の働きに勝習いで、是を取手という。たとえ剣術者でも、最後は組打ちの勝負となる。依て諸々の武芸は皆和の習いを教えよ」とされ、和は無手でもって相手と戦う組打ちの術であったことが伺える。和といい俰といい、いずれも心の命ずるままに体を和らかく動けるようにする術の意味で使われたものであった。
 ところで、柔術という名辞が盛んに使われるようになったのは、慶安以降(一六四八~)のことといえる。井沢蟠竜著「武士訓」には「慶安以来、柔術の妙技は曽て唐土にもなく紀州関口柔心、独り柔能制剛の理を悟り初めて基術を工夫し柔術と名付けた」とある事からして、関口柔心の創始した関口流をその初期のものとみなしてよいだろう。寛永八年(一六三一)柔心の書ける「柔新心流自叙」には、冒頭に老子の「天下之至柔、天下之至剛を制せんとす。

 幕末につくられた代表的な流派には、天神真楊流柔術があった。この流派は楊心流と真之神道流を合して作ったものである。平服組打技として生まれてきている。当流柔術の大意については、「夫大意と申すは、武具をしたがえず、今出生したる所のあかはだかの理を極め、極意の大事を極む。基上にて武具を従へば、内外則合体、心は身に随ひ、身は武具を随がわしむるの儀なり。武具に身を随がわしむるうれいなし。格成故、戦場組打の為に今日身体自由の業をなす。」と記され、戦場にて心の命ずるままに、身体が自由自在に動けることだ、と説かれてる。この流派の技は、居捕と立合から成り、当身技、逆技、締め技といった危険な技が多かった。
 このようにみてくると、柔術というのは戦場にて弱力の者が剛力の者を倒す術、いわゆる「柔能制剛」術であり、そのために心の命ずるままに、身体が自在に動けることが大切とされた。その稽古法としては、刀剣での攻防や当身、逆技といった危険な技が多かったため、「形」でしか実施できない流派がほとんどであった。一方、精神面では実際の戦場において、自ら身を守り、相手を殺傷するという勝負に勝つことが第一の目的であり、そのため戦いに臨んでの不動心や無心が重んじられた。又、術は武士的人格形成の手段とも考えられていた。
  柔術の意義は、身体を心に柔順にして、自由自在に動けるようにすることである。自分の力は捨て、相手の力を利用して倒す。そして、殺傷し勝負に勝つという実践的なものであった。こうした点で、危険な術とされてきたのである。
  明治に入り、文明開化の名のもと、武術が廃れる中で、日本の柔術に興味を抱きその肉体的、精神的に価値あると認めた嘉納治五郎は、明治十五年、古流柔術を集大成して講道館柔道を創始した。とりわけ新しい時代に即応するように、名称もこれまでの柔術を避け、一、二の流儀でしか使われていなかった柔道の名称に変えている。
  これまでの柔術は、咽喉を締めたり関節を挫いたりして、相手を殺傷する武技であったが、今度自分が作ったものはそういう危険なものではないことを示すために柔道に変えたというのだ。嘉納は、当身や逆技といった危険な技は省き、老若男女が自由に攻防できる乱取を創案した。更に「往々世間には柔術を一種の見せ物にして、木戸銭を取って相撲や軽業を成す場所で人に見せたりするものが出てきた所から、世の人は益々柔術を賎しいもののように成って参りました。そういうものと同一視されるのがいやさに柔術という名を避けました」とも記され、そういう賎しいものではないということを示すためにも、名称を柔道にしたというのである。
  この他にも柔術と柔道の目的の違いについて記してある。
柔術は、投げ殺す、捕縛する、当て殺したり、取り押さえたりすることを目的とする。
講道館柔道では、体育と勝負と修心との三つのことを目的とする。勝負を争うだけではなく、体を鍛え、精神を修養するという三つが同時に学べるように工夫し、イメージを一新したのである。
 
 ここでいう柔術には悪いイメージがついてしまっているが、身体精神の鍛錬修養といった教育的意義の面からみても、現代で、柔術は通用するのではないかと考える。

  3. 武道とは何か

 最近、武道が見直されてきている。中学校では、必修科目として武道が取り入れられてきた。これも、身体精神の鍛錬修養といったことに教育者が注目してきたのではないか。
 注目されてきた理由としてはなにが考えられるのか。
1) 挨拶、返事、礼儀など自己の修養
2) すぐれた人を育て、伝統を保持する
3) 技術の上達や、しっかりとした芯の強い精神の具体化
などが、あげられる。これらのことを習得しながら、成長していくことで、武道の目指すところである「自己の完成」につながるのではないか。
 その上ではじめて執らわれの世界から「真」の世界へと心を転じる修練を積むことが出来るはずである。我々は心の内にいろいろな執着を抱いて生きているものである。物欲や名誉に対する欲、そして嫌いな人などといった心の闇の部分があるとする。この執らわれは怖いもので、どんどん流されてしまい、妬みや、嫉妬などの感情を生じさせ、そのまま生きてしまえば、とても下手な生き方となってしまう。逆に心の真理の世界があるとしたならば、その先にある世界に向かって歩んでいくことが上手な生き方であり、人として美しい生き方ではないか。その為の道標となるものが、偉大なる先人たちが残してくれた教訓や、師匠や親たちの後ろ姿である。4)
 武道は、そう簡単には習得できるものではない。その道のりには自己に対する嫌悪感などいろいろな思いをめぐらせて鍛錬していくしかない。
 先人たちの残してくれた教訓の中で、柳生宗矩は「兵法家伝書」においてこう記してあります。
  
 かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習のたけを出さんと一筋におもふも病、かゝらんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと、一筋におもいかたまりたるも病也。何事も、心の一すぢにとゞまりたるを、病とする也。

 勝つことばかりを思うこと、兵法を上手に使うことばかりを思うこと、習ったことの成果をひたすら出そうと思うこと、敵に掛かっていこうとばかり思うこと、逆に、待つことばかり思うこと、病を治そうとばかり思うこと、このように、何事においても、心が、ある一つのことに執着し、それによって他のことが疎かになってしまうような状態、心と気の関係で言えば、心が何かに囚われてそこから発せられる気が滞ってしまうような状態、それが病(病気)である。
 では、この病をどのようにして取り除くのか、宗矩は「病をさるに初重、後重の心持ちある事」として、病を克服する初心の段階の「初重」と、応用段階の「後重」の二つの方法を次のように提示している。

  病をさらんとおもふは念也。心にある病をさらんとおもふは渉 念也。又病と云も、一筋におもひつめたる念也。病をさらんとおもふも、念也。しからば念を以て、念をさる也。念をされば、無念也。

 病を克服しようと思うのは念である。心にある病を払拭しようと思うのは、念じ続けることである。病というものは、一筋に思いつめている念である。病を克服しようと思うこも念である。そうであれば、念を以て念を克服することができる。念が去れば、無念である、という。
 
  病氣をさらんとおもふは、病氣に着した物なれども、以其着病をされば、着不残程に
 
 とあるように、病気を克服しようと心に思うこと自体が既に病気ではあるが、その思いを心に強く抱き、唯一病が去ることを思い続けることが、結果的には病気を克服する道である、というのである。
 この初重の境地は、自分自身を客体化するところに特徴がある。例えば、何かに執着している場合、執着している自分と、それに気付き、克服しようと思う自分とは分けて考えられる。この場合、克服しようと思っている自分が主となれば、何かに執着している自分は客体化される。主たる自分は、先ず現状を認識し、そこに更なる執着を加えていく。その行為の加重の中から、客体化された自分自身の回復を図っていこうとするものである。

 これでも病の克服が出来ない時は、応用段階である後重の境地として、病にまかせて、病と同居することが説かれている。

  一向に、病をさらんとおもふ心のなきが、病をさる也。さらんとおもふが病氣也。病氣にまかせて、病氣のうちに交て居が、病氣をさつたる也。

 病を払拭しようなどと思う心がなくなれば、病は自ずと去るのである。病を払拭しようと思うこと自体が、既に病気なのである。病気に任せて、病気と一体になっていれば、病気が去ったことになる、というのである。

 人間は誰しも、相手と向かい合うと心が緊張してくる。普通は、その緊張感を和らげようと努力するのが一般的な処置法である。しかし、この後重の段階では、緊張をなくそうとする心までも否定するのである。病の中にあっても、それを克服しようとは思わず、いわば「一病息災」のように、病と同居することで「病である」という意識を無くし、それによって病を克服せよ、というのである。

また、宗矩は禅とも深い関わりがあった。仏の道からの視点に変えてみたらどうだろう。

  着をはなれたる僧は、俗塵にまじりてもそまず、何事をなすも、自由にして、とゞまる所がなひ者也。

 仏の道では、着することを非常に嫌うという。この着することを克服した僧は、俗塵の世界にあってもそれに染まることなく、何をするにも自由であり、極まるところ思い通りに、望み通りになる。という。紅塵遠きところにたつのではなく、まさに俗事に交わってもそれに染まることのない心を養うことの大事さを、宗矩は説いたのである。

  みがゝざる玖(アラタマ)は、塵ほこりがつく也。みがきぬきたる玉は泥中に入ても、けがれぬ也。修行をもって、心の玉をみがきて、けがれにそまらぬようにして、病にまかせて、心をすてきって、行度様に、やるべき也。

 磨いていない掘り出されたばかりの璞(あらたま)には塵やほこりが付いているものである。磨き抜いた玉は、たとえ泥の中に入っても、汚れることはない。修行を通して、心の玉を磨いて、俗事に染まらぬようにして、例え病に罹っても病にまかせて迷う心を捨てきって、心のいきたいようにさせたらよい、という。
 心の玉を磨く修行、それは、つまるところ、心の病を「無心」で克服していくことに他ならない。念や着を捨てきって、心の行きたいようにすればよい。一旦、そのような境地になれば、病に罹っても、それに囚われることは決してない。心を解き放ち、自由な状態に置くこと、つまり「無心」が宗矩の描く、理想的は兵法者の心の境地といえる。

  また、宗矩は禅とも深い関わりがありました。
 
 不動と申し候らいても、石か木かのように、無性なる義理にてはなく候。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動き度きように動きながら、卒度もとまらぬ心を、不動智と申し候。(不動智神妙録)

 無心だからこそ、相手の剣の動きに自由自在に対処できるわけです。禅では坐禅中に睡気と惰気を振り払う為に自分の股に錐を刺したという話があります。ある意味で禅は自分との戦いです。戦いに勝てば、厳しい忍耐力と強い意志力が養われるのです。その積み重ねがいわゆる「禅定力」となって、いつも「無」の状態にもどる力となります。
常に「無」の状態に自分を取り戻すことに関しては、武道も禅も共通しているようである。
 

武道は、心身の健康を育む教育としても研究が進められている。

ほとんどの武術は呼吸を重要視しており、その源流はヨーガや禅にみられるようである。
共通する点は、吸気が短く呼気が長いことであろう。「3の2の15」と言われる呼吸法では、3秒で息を吸い、2秒でそれを「臍下丹田」に満たし、15秒かけてゆっくり吐き出す。吸気には横隔膜を下げる必要があり、その拮抗筋である腹筋群や背筋群などの体幹筋は緩んでしまう。逆に呼気時にはこれらの筋が収縮し、体幹の安定性が高まる。5) 

  おわりに

現代では、昔のように刀をもっている人はいないので、刀に対して素手で対処する柔術は必要がない。けれども、現代では無差別に人を殺してしまう人がいる。自分が万が一そのような目に合わなくもない。その時に自分の身は自分で守りたい。でも、余程の達人でもないかぎり、悪人には対処できないが、防ぐことはできる。今まで述べてきたように、自分を鍛練し、平常心を養わなければならない。先人達が説いた柔術の身の鍛練法を見習い、現代を生き抜いていかなければならない。


  後注
1) 松田、1頁
2) 同上、2~3頁
3) 同上、3~4頁
4) 塩沼、19頁
5) 石井、17頁

1)細川景一 月刊 武道 武道の可能性を探る 日本武道館 2014/1月号
2)石井直方 月刊 武道 武道の可能性を探る 日本武道館 2014/ 3月号
3)加藤純一 兵法家傳書に学ぶ 日本武道館 2003年
4)松田隆智編 秘伝日本柔術  新人物往来社 1979年             
5)塩沼亮潤 月刊 武道 武道の可能性を探る 日本武道館2013/6月号
6)藤堂良明 武道文化の研究 渡邉一郎先生古希記念論集刊行会編 代表 入江康平 第一書房 1995年

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  1. 2014/10/28(火) 21:25:53|
  2. 昇段審査論文

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