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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 10

大石神影流剣術4段の論文です。


大石神影流剣術の指導上の留意点

はじめに
大石神影流剣術を指導するに当って、留意すべき事項をこれから論述するが、私自身がまだ修行中である。よって、私が指導する場合の留意点という観点から論述することを許して頂きたい。

1. 指導前の留意点
2. 指導の中での留意点
3. 指導者の修行上の留意点
4. 終わりに

1. 指導前の留意点
(大石神影流は特殊な流派であることを指導者は肝に銘じること)
大石神影流は幕末に一世を風靡した著名な剣術流派である。九州の片田舎で指導された流派ではあるが、初代、二代の門弟の数は六百名を超える。
しかしながら、明治大正昭和と時代が進むとその修行者は減少の一途をたどり、現在ではわずかに森本先生率いる貫汪館でのみ修行が続けられている。
 つまり、学習者には経験者はいないということをよく理解する必要がある。武術流派の数は近年増えてきているようであるが、古武術、特に古来の剣術を指導できる道場は限られている。つまりほとんどの入門希望者は、古流剣術を知らず、ましてや大石神影流を知らないということを頭に入れておく必要がある。もちろん中には、剣道経験者や他流剣術の経験者もいるであろうが、それであっても事態は変わらない。いやむしろ初心者よりも注意をして指導をするきである。なぜならば大石神影流は特殊な流派であるからである。
 では、どこが大石神影流を特殊にしているのか。それは使用する得物に端的に表れている。長竹刀での突きで著名だった初代大石進により構築された大石神影流は、通常の木刀より長い木刀を用いて修行をする。力量抜群であった初代はもちろん文字通りに腕力もあったことと思われるが、残されている手数と呼ばれる形や素振りなどの稽古法からは腕力に頼った剣術ではないことが分かる。
 世間一般で目にする剣道とはまったく様子が異なる。また、他流ともよくよく見ると流派の違いという以上の相違点があることも分かるが、それは上記の理由による。臍下丹田を中心とし、体を弛めて遣うのである。他流にももちろん臍下丹田を大事にする流派はあるであろうが、そのレベルや意味合いは異なるものと思う。ここは大事なところであるので、大石神影流の特殊な体遣いを説明するとともに、初めの稽古である素振りをさせる中で十分に体得させる必要がある。
 特殊な流派というのは、技術的なことばかりではない。
著名で西日本中心にあちらこちらの地域で修行された流派である性格上、大石神影流を騙る人間が表れてくる条件が整っていることも見逃してはならない。近年特に一旦は途絶えた武術流派が、復元という形で修行が開始される事例がある。これ自体は決して悪いことではないが、嘆かわしいことにいつの間にやら伝来の武術であると標榜する場合があるようである。心無い人間に大石神影流を伝えることで、このような事例を作ってはならない。実際は指導する中で、学習者の人柄を見極め、慎重に指導をしていく必要がある。

2. 指導中の留意点
1) 理合いを理解することさせること
指導者は、学習者の進度に従って多くの手数を指導していく。得物も太刀から小太刀、鑓、長刀、棒と増えていく。これら多くの手数を正しく習得させるためには理合いの理解が不可欠である。理合いというのは、所作の理由である。なぜそのような動きをするのかをよく理解しておかねば、修行するうちに少しずつ技が変化していく可能性がある。やりやすい動きを人は求めるものであるから。また、人によって骨格や筋肉の付き方、内部感覚の相違がある。同じように体を遣っているようでも、人それぞれ現われてくる形が異なる。それが理合いにあったものであるかどうかが判断基準になるだろう。もちろん腕力や脚力を使って技を成立させているのは論外である。

2) 学習者の個性や進度を見極めること
先に述べたように学習者も千差万別で、骨格筋肉の違いはもちろん、体の柔らかさといった身体の差だけでなく、理解力や心の柔軟性といったメンタル面での違いもあることを留意すべきである。同じ指導をしているのに、すぐに自分のものに出来る人間とまったく動きもできない人がいる。これらの人を同じ場所、同じ時間で指導するのも問題であるかもしれないが、どのようにレベル分けをしても、学習者に差が生じることは避けられない。指導する側が学習者の個性を見極め、進度を確認しながら指導をしていく必要がある。
また、学習者にもそれぞれの個性を知らしめる必要がある。
習得に時間がかかる人間がいる。真面目に稽古をしてきたのに、後から入門してきた者に追い抜かれてしまう場合も発生するだろう。それは仕方のないことであるが、面白くないと思う人がいても不思議ではない。無理に楽しんでもらう必要はないが、何が足りないのか、どのように取り組めばいいのかを淡々と説明し、それぞれの当面の目標を明示することが必要だろう。
それに進度というものは同じペースで進むものではない。ある課題をクリアした途端、一気呵成に上り詰めるというケースも往々にして存在する。倦まず弛まず稽古を続けることが、その可能性を残す唯一の道であることを理解させねばならない。

3) 流儀の体遣いを体得させること
 基本となる流儀の体遣いを体得させる稽古を積ませなければならない。これこそが大石神影流と呼べる体の遣い方がある。先に述べたように、他流よりも長い刀を扱うにも関わらず、力に頼らないことである。そのために、呼吸に合わせた動きの習得が必須である。いかなるときも体を固めず、柔らかく遣う。これが第一番目に重要な体の遣い方である。
 多くの手数が存在するが、基本はすべて同じ。基本をいかなる状況下でも使えるようにするために、多くの手数があるとも言える。
 そのために、一つ一つの手数を確実にできるようになることも必要であるが、ある程度のレベルに至ったら、次の手数を指導することも可能であると考えている。様々な場面で流儀の体遣いを工夫すること。そうすることで、それ以前に学んだ手数の奥行が増すということを期待してのことである。
 もちろん、指導前の留意点で明らかにしたように、誰にでも簡単に教えてよいものでないことは言うまでもない。

4) 流儀の歴史を理解させること
 先にも述べたが、大石神影流は希少な流派である。現在では貫汪館でしか学ぶことができない。どのように流派の命脈が保たれ、どのような思いで先人たちが残してくれたのかを学習者は学ぶ必要がある。
 それが大石神影流を大切にすることにつながり、ひいては自分自身が伝統の中の一人、伝統を伝える役に立っているということを自覚させなければならない。

5) 言葉を使いすぎないこと
 身体の動きを言葉で表現するのには限界がある。一度に複数の動きをする身体を時間に沿った説明しかできない言葉が追い付くはずもない。また指導者の感覚が学習者の感覚に近いとも限らない。むしろ、身体感覚は異なると理解したほうがよい。動きの結果だけを見て、助言を与えるとこの問題を生じやすいだろう。自分に分かる動きしか分からないのであるから、誤解されても仕方がない。
 指導者は言葉を使いすぎないように注意をすべきである。
ではどうするか。師匠にも常々言われていることであるが、自分にできる最高の技を見せることに努力をすべきである。これが第一の指導である。この補足として自分はこのように動かしていると、あくまで自分がどうしているかを言葉で説明をし、学習者が自ら何かをつかんでもらうのを待つしかない。
指導には忍耐が必要であることを知るべきである。

3. 指導者の修行中の留意点
1) 謙虚であること
次に指導者の修行中の留意事項を考えたい。私も指導者の一人ではあるが、指導者としての経験が浅いのはもちろん、私自身の大石神影流の修行自体が始まったばかりである。まだまだ全貌は見えず、課題も多い。このような人間が指導をしているので、誤りや間違いもあるだろう。その点は、見つかり次第即座に訂正していく必要がある。誤りを見つけ、早急に訂正をする。分からないことについては分からないとはっきりと言うこと。あたり前のことではあるが、指導者としての体面を気にする場合も出てこないとも限らない。さらに、指導する中で発見することが多い。指導がすなわち学習である。指導しながら自ら学ぶためには常に謙虚であることが大切だ。大事な留意点である。

2) 学習者以上の稽古を自己に課すこと
自分の習得した以上のことは指導できない。もちろん学習者が指導者を乗り越えていかなければ、発展はありえない話であるので、指導できる内容やレベルは学習者にとって限界ではない。しかし、指導者は学習者が容易に乗り越えていけないように限界を遠いものにする努力を怠ってはならない。それは、自己の発展のためだけでなく、大石神影流の発展にもつながることである。

3) 防具を用いた稽古をすること
 大石神影流は他流との試合で名を挙げた。手数で培った体遣いを防具を用いた打突稽古で発揮したのである。また、他流試合の中から得たものも多かったであろうと推察する。伝説の領域かもしれないが、初代大石進が幕末の当時から剣豪と称えられた男谷精一郎との立会いで、互いに称えあい、親交を深めえたのは、他流との交流があったからである。技術だけでなく、剣を通して人を知ることができたのだ。
 そういう意味で手数稽古は基礎に過ぎず、手数稽古で練った心と技を打突稽古で自在に発揮できるように、さらに練り上げることが肝要である。
 大石神影流を学ぶものは、防具着用剣術を避けてはならない。
 私自身は今はまだ、手数を学ぶ時期にある。まだ流派の体遣いを実践に耐えうるほどには習得していないからだ。しかし、可能な限り早急に防具稽古も併用できるようにしなければならない。「剣と禅」の著者大森曹玄氏は直心影流の免許持ちである。氏の時代の稽古法は、形の稽古をまず行い、体が出来てくると面小手胴をつけて打込みの稽古(約束稽古)をし、十分流儀の技が使えるようになって初めて互角稽古(互いに自由に打ち合う稽古)に入ったものらしい。
 大石神影流もおそらく江戸時代や明治初期には同じような稽古をさせていたのではないか。聞くところによると、現代剣道の元になったと言われる北辰一刀流でも初心のものには、やはり基本となる形を教えてから、竹刀稽古に入ったという。
 あまり年を取ってから防具着用の稽古をするには無理があるように思える。むろん不可能ではないが、防具という不自由な装備をつけての進退は体が柔らかいうちに慣れておくのが望ましいだろう。
 ここでも留意点がある。
 防具を着装して自由に打ち合うようになれば、やはり勝ちたいという心理から、流儀の体遣いを忘れ、手足の力を用いて進退し打突する人間が出てくるであろう。そうした人間に打ち込まれる局面も十分に考えられる。
 たとえば、私が大石神影流の体遣いで全日本優勝者と竹刀稽古をすれば、簡単に打ち込まれてしまうことだろう。全日本優勝者を出すまでもない。ふつうの高校生にも打ち込まれるに違いない。竹刀を扱う技術がまったく違うので、それが当たり前である。しかし、大石神影流を学ぶ者が高校生剣道のようなことをしてはならない。ではあるが、打突できたか否かで判断する場合は大石神影流が著しく分が悪い。であるからこそ幕末には数多存在した古流剣術が、「剣道」に収れんされていったのだ。大石神影流を守るためには、歴史を繰り返してはならない。
 残念ながら、この問題に対する私の解答はまだ見つかっていない。しかし、おそらく心を押さえることが鍵になってくるのではないかという予感はしている。
 手数稽古では打突の機会をも学んでいる。つまり相手のとの心のやり取りを学んでいるのだ。つい実際の手足の動き、刀の動きに注意が向きがちではあるが、それでもたとえば陽之裏に「位」という形がある。これは、打太刀の打突の未然の気を奪い、動きを封じるものである。実際に刀を打ち合わせることもない。傍目には何をしているのかさっぱり分からない。心がこもらなければまったくの踊りになってしまう形である。この形で学んでいるのは、端的に「心」である。
 そういう目で学んできた手数を振り返ると、たとえば試合口の中心の取り合い、陽之表の無二剣など、心を用いる技が簡単に目に付くものがある。注意すればすべての手数に含まれている。あたり前の話で、まず心が動くから体が動くからだ。
 合気道では、ほとんど相手の体に触れずに相手を投げ飛ばすような達人がいたという。そういう人の談話を見てみると、要するに相手の気が発する前に、こちらが仕掛けをしているようだ。心を押さえているのである。
 心を押さえても、実際に体を動かせなければ意味がない。心法に堕す危険は打突をしている限り生じない。そういう意味でも手数での心の稽古を実際の打突稽古で活かす工夫をしなければならない。
 この工夫を凝らせば、先ほどの古流剣術と剣道との戦いにおいて見る人が見ればそれぞれのよい点が見えてくるのではないか。
 今はそう考えている。 

4. 終わりに
 以上、大石神影流剣術の指導上の留意点について、検討をしてきた。より技術的な詳細なポイントは敢えて述べなかった。述べられなかった。
 はじめにで書いたように、私自身が修行中の身であり、それぞれの手数のポイントを的確に抽出する力量に欠けていると思うためである。つまり、修行中の身である人間がどの点に気を付けて稽古に励んでいるか、あるいは励むべきであると考えているかについて検討を重ねたに過ぎない。
 そこでは、かつての私が修行した剣道に対する考察が長くなってしまったのはやむを得ないことと思っている。
剣道界でも、さまざまな異端が存在する。二刀を主に行う者、歩み足を多用する稽古を行う者など近年に至って多様化が進んでいる。しかし、日本剣術には流派らしきものが誕生してから四百年以上の歴史がある。そこには実にさまざまな流派が興り、相互に影響を与えながら発展してきた。これは文化的な財産であると私は思う。これがたった一つの「剣道」に収れんしてしまうのは、あまりに勿体ないことだと常々考えていた。
たまたま貫汪館に入門する機会を与えられ、たまたま師匠が大石神影流の指導を始められたのが、私の大石神影流修行の始まりである。幸運なことであった。この幸運を活かし、常々考えていた「剣道」一極の世界に揺さぶりを掛けたいと思う。大石神影流を世に問い、より多様な剣道のかたちが出てくれば、文化の発展にも寄与できるだろう。
いや、実際にはそんな大それたことを考えているわけではない。好きになった大石神影流をもっともっと修行し、剣道と交流できるレベルまで昇華し、大石神影流の素晴らしさを、今一度世の中に喧伝したいと思っているだけである。
ひょっとすると我が身におけるこの昇華こそが、指導する上での覚悟であり、留意点ではないかとも考えている。精進あるのみ。
指導上の留意点。いつかこの論文を見直し、加筆できるように修行を重ねていく所存である。

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  1. 2014/10/27(月) 21:25:51|
  2. 昇段審査論文

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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