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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 7

大石神影流剣術4段の論文です。

   「大石神影流剣術指導上の留意点」
                             
世の中には様々な書物や、インターネットなどによる情報があふれています。それらの情報が正しいものばかりであればよいのですが、故意ではなくても誤った情報、さらには自己の都合がよいように操作された情報さえも存在します。古武道を学ぶ上で、私たちが学ぶ古武道が成立した時代と現代を比べるとこの情報の多さという面で様々なメリット、デメリットが出てくるのではないかと思います。たとえ古文書の原文に沿った解説書から情報を得る場合においてもその解釈によっては古文書を書いた人物の意図から外れてしまっていることも考えられると思います。そのため貫汪館では森本先生から常々、できる限り原文を読むことを進められています。情報の何が正しく、何が間違っているのかを判断するためには多くの書物にふれその知識を養っていく必要があります。その知識なしに古武道を学びそして伝える者が技術的な技能だけを向上させたとしても、後の人たちに正しく伝えることはできません。
新たに入門を希望し入会される方は、何の知識もなく私たちの演武などを見て純粋に始めたいと希望される方は別として、剣術の知識を入会に至るまで様々な形で情報を得ている事と思います。その情報源が時代劇の殺陣であったり、現代剣道であったり、武道史から興味を持たれたりと志望するに至った経緯は人により様々ではないかと思います。それらの情報から得た剣術に対するイメージによってはその後の指導の妨げとなることも存在します。そこでどういった経緯でその様な状態になっているのか、またそのイメージのもととなっているものはどの様なものなのかを知ることも、指導する者にとって必要なこととなるのではないでしょうか。
たとえば武道経験者を指導する場合、それが現代剣道経験者であれば、竹刀による打突の際の手の締め付けに留意することを指導されてきた方が大半ではないかと思います。またそのように注意させるよう書かれた指導書を目にすることがあります。これは貫汪館での指導とは大きく異なるものです。竹刀という獲物をより効率よく、またルールにより限られた時間内で有効となる打突を繰り出さなければならないという条件下に特化されたものと、触れれば切れてしまうという刃物を用い、禁じ手というものがなく相手が何をするか分からないという条件下では、違いというものが出てくるのは当然のことであると思います。また制限時間内に多く打突を繰り出すためには筋力と持久力を鍛えるという発想となり、際限なく時が続くものとなれば無理無駄なく自然に応じる動きとならなければならないという違いが出ることも理解に苦しくはありません。そういた違いを修業する者に理解させることで上達に大きく影響が出てくるのではないかと思います。
流派としての特徴、流派によって構えには様々な特徴があります。それは各流派が攻防に対して試行錯誤してきた結果もたらされた結果であり、流派の体の運用理論でもあります。こ流派の求める体の運用理論を正しく身につけるためには体の隅々まで流派の教えを浸透させていく必要があります。大石神影流剣術では上段や附けといった構えに特徴を持っています。それらを単に構えとしてしまえば大石神影流の求める体の運用理論とはかけ離れたものとなってしまいます。大石神影流釼術を正しく理解していくためには礼法からも体の運用理論を疎かにすることはできません。これから大石神影流釼術を指導する上で特に留意しなければならないことを述べてまいります。

1. 礼法について
 大石神影流釼術では神前への礼は折敷の礼です。これは大石神影流が屋外で稽古されていたことに関係するためだそうです。また大石神影流釼術では無雙神傳英信流抜刀兵法や澁川一流柔術のように正座からの稽古法はとられていません。大石神影流は武家において伝承されてきた流派であり武家においては正座が正しくできていることは当然のことであったためであると森本先生から伺ったことがあります。
まずこの正しく座れているとはどういうことなのかですが、以前、大石神影流釼術七代目宗家継承式で宗家をお伺いした折に、六代目宗家大石英一先生からお話をいただく機会がありました。「今の人は座り方が下手だ。今は足を悪くし座れないが昔は何時間でも座っていられたものだ」というお話でした。長く座れば足がしびれて座っていられなくなるのは当然のことと思い込んでいる現代人の私には到底想像ができない領域のお話でした。この正しく座ることのできていない現代人が先人たちと同等の感覚を養うことは、並大抵なことではありません。礼法の一つ一つの所作にすでに高いレベルの動きが求められています。
貫汪館ホームページ『道標』で森本先生は礼法について次のように述べられています。「右膝をつき左膝はまっすぐ前方を向くため右足はやや斜め後方に下げる。この時左右鼠蹊部は十分に緩んでおく必要があり、お尻の力みも無くさねばならない」、また「この礼が正しくできるようになれば、立ち姿勢での下半身の緩みはできるようになるはずである」と述べられています。ここですでに大石神影流釼術を修業するために必要な身体の在り方を求められていることを意味します。鼠蹊部の緩みができていなければ流派の動きを身につけることは困難となります。鼠蹊部の緩みと呼吸を徹底して指導する相手を導かなければなりません。

2. 構えについて
 まず刀を手にしたときに留意することは手の内です。この手の内が正しくできていなければ刀を生かすことが出来ないだけではなく、自身の体の自由さえ奪ってしまいます。手の内の在り方については『五輪書』に次のように述べられています。「太刀のとりやうは、大指ひとさしを浮る心にもち、たけ高指しめずゆるまず、くすしゆび小指をしむる心にして持也。手の内にはくつろぎのある事悪し。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし。敵をきる時も、手のうちにかわりなく、手のすくまざるやうに持つべし。もし敵の太刀はる事、うくる事、あたる事、おさゆる事ありとも、大ゆびひとさしゆびばかりを、少替る心にして、とにも角にも、きるとおもひて、太刀をとるべし。ためしものなどきる時の手の内も、兵法にしてきる時の手のうちも、人をきると云手の内に替る事なし。惣而、太刀にても、手にても、いつくとゆふ事をきらふ。いつくは、しぬる手也。いつかざるは、いきる手也。能々心得べきものなり」。貫汪館においても手の内は握らず、緩すぎず、赤子の手のように柔らかく密着するようにと指導されます。また中段に構えるときや、振り上げ振り下ろしのときも、手の内が変化しないよう留意しなければなりません。
『道標』において森本先生は「自分の自由にしようと思って対象を束縛してしまったらその対象そのものは働きを失ってしまうために、かえって自分の重荷になり自由にはならなくなるものです。この理が理解できないために刀の柄を握ろうとしたり、棒を握ろうとします。自分自身の執着をなくし対象を自由にすることで、自分と一体化するのだと観念しなければなりません。手の内は相手とのよい関係を保つためのものでなければなりません」と述べられています。この相手と良い関係を保つ手の内の工夫なく上達の道は開かれることはありません。
大石神影流釼術は中段(真剣)、上段、附け、下段、脇中断、脇上段、裏附け、車と様々な構えを有しています。構えにおいて留意しなければならないのが呼吸です。特に「上段」と「附け」の構えは直接その位置に刀を持っていくことなく、遠回りをさせ半円を描いてそこに位置させます。この動きにより肚を中心とし、呼吸に乗った動きを体得させるよう仕組まれています。ここで言う呼吸とは単に生命活動を支えている、吸って、吐くという単調な繰り返しを言うのではありません。対人関係における呼吸の調和を意味します。
構えについて『五輪書』では次のように述べられてす。「有構無構といふは、元来太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共、五方に置く事あればかまへともなるべし。太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もをりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構もくらゐにより少し中へ出せば中段下段共なる心也。然るによつて構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどいふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、さはるとおもふによつて、きる事不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁なり。ゐつくといふ事悪しし。能々工夫すべし 」。本来、刀は居つくことを嫌うので、構えは本来はない方がいいと述べられています。また刀は敵との縁により場所により、情況に従い、どんな持ち方をしても、その敵を斬りよいように持てば良いとあります。貫汪館ではこのことを貫心流の「糸引きの傳」をかりて指導されますが、構えにおいて目と目、体と体、剣と剣、心と心が張り過ぎず、緩まずの糸につながれた関係を保たれていなければなりません。
大石神影流の構えで足の開きと体の開きについても注意しなければなりません。この足の開きについて道標では「中段(真剣)に構えたとき正面に対する左足の開きと体の開きは用いる木刀や刀の長さ、柄の長さ、柄に対する両手の位置、自分の体の各部の寸法によって異なってきます。大石神影流では左足の開きの角度は90度までの開きを目安として各自異なります。手数で同じ長さの木刀を用いていれば身長が2mくらいある人と、160cmくらいの人では足の開き、体の開きは当然異なってきます。各自の適切な角度は各自で求めなければなりません。」とあります。この足と体の開きにおいても足はこの位置、体はこの角度でというものはなく、条件に応じたあり方を求めていかなければなりません。

3. 素振りについて
 大石神影流釼術で上段は柄が額の前に横たえるように位置します。斬り下ろしは刃筋が真すぐに下りてゆきます。この動きはよほど注意しなければ刃筋は斜めに下りてしまいます。普段からゆっくり正しく刃筋をとおす稽古を積まなければ身につくものではありません。この動きが正しくできていなければ手数の稽古に入ってから大きな妨げとなってしまします。素振りの刀の上げ下げは臍下丹田を中心とし意識して深い呼吸と共に行わなければなりません。呼吸を疎かにし浅い呼吸となれば重心が高くなり足を働かせることができなくなってしまいます。
 素振りが正しくできるようになり、ゆっくりと動く場合には臍下丹田中心の動きができているのに手数の連続打ちとなると重心が上がり中心が崩れてしまうことがあります。これは心が原因となります。素振りで徹底して心を収める稽古も行わなければなりません。
 素振りでの呼吸と臍下丹田中心の動きが体に染みつけば大石神影流の流派としての動きを体得したといっても過言ではありません。大石神影流の修業のなかで素振りは終始行っていかなければならない基本の稽古です。心して行わなければなりません。

4. 手数の稽古について
 構え、素振りの稽古で積んだ臍下丹田中心の動き、呼吸法、鼠蹊部の緩みは手数の稽古でも何一つ変わるものではありません。手数を行うときそれらができなくなったとすれば、それは自分自身の心の問題であり、構え、素振りの稽古を疎かにしていたということになります。手数の稽古は基本に基づき行わなければなりません。
 大石神影流の歩行は摺足を用いず、「歩み足」です。足を上げては降ろすの繰り返しの動きで歩んでいきます。これは鼠蹊部の緩みができていてはじめて可能となる動きで、疎かにすることはできません。この歩み足について以前、貫汪館顧問の岡田先生から現代剣道の大会が野外で行われた時のお話を伺ったことがあります。「野外での試合でみな地面を蹴って前に出る動きをしていたので足が滑って体が崩れて試合にならなかった。歩み足は理にかなった動きだ」というお話でした。何時如何なる場所においても使える体使いの条件は重心が上がらないということでしょうか。重心の上がらない動きを体得するためにも歩行においても十分に心して稽古を積まなければなりません。
 大石神影流では「有声の気合」をかけます。これを単純に大きな声を出すこととしてしまえば重心は高くなり、上半身を固めてしまう結果となります。素振りで稽古した肚中心の呼吸にのった気合を心掛けなければなりません。
 大石神影流釼術の手数の稽古は仕太刀は打太刀につれて動くことに留意しなければなりません。これは打太刀の動きを見て動くというのではなく、打太刀心の動きに応じて変化することを言います。貫汪館では貫心流の「糸引きの傳」を借り指導されますが打太刀、仕太刀が糸でつながるがごとく調和のとれた状態になければ、手数は手順だけを追ったお遊戯レベルの形だけのものとなってしまいます。相手の心を読み変化していくことを心がけねばなりません。打太刀は常にこのことに注意し、仕太刀を導かなくてはなりません。
相手の心を読む稽古が進んでも、適切な間合をとることができなければ手数として成立しません。仕太刀がいつもこのくらいの間合で刀が届くからと決めて動いたのでは相手が変われば切先が届くということもあります。相手の出方に応じ、自分の動きも変化させなければなりません。「糸引きの傳」を正しく理解することが重要です。打太刀は仕太刀の技量に応じて指導していかなければなりません。仕太刀の技量を超えて指導を行えば仕太刀の動きは間に合わせの小手先の動きとなってしまいます。このことをよくよく注意しなければ指導によって学ぶ者の道をそれさせてしまう結果となります。
例え手順のなかでの対人の関係ができるようになり手数が行えるようになったとしても、手数のなかには疎かにできない条件が存在します。たとえば「附け」に構えるとき、附けは突くための構えですが、これを手順として行えば本来は仕太刀が「附け」の構えで打太刀が身動きできないところから無理に攻めてくるという前提が崩れてしまいます。条件を満たすためには仕太刀の「附け」の構えは手順のなかで突くことはなくともいつでもつける状態になければなりません。また「斬組」においてもきり下ろしてお互いに切先が触れない間合が取れていなければ次に続くことができません。このように学ぶものに手数の理合いを正しく理解させなければ大石神影流とはなりません。
最も避けなくてはならないことは、剣術を剣による攻防ということだけに意識が行き、相手の刀をより強く張ったり、払ったり、隙があるところに切り込もうと考えて稽古をさせてしまうことです。武道を稽古する上で最も学ばせなくてはならないことは相手との調和です。対峙した相手との調和を求めた結果、そうなるべくして動きが生まれ、隙ができるから自然と斬り込んでいたという状態になければなりません。それは貫汪館の求める武道の在り方ではないかと思います。
最後に、森本先生が「道標」で「武の修業とは強い弱いを突き抜けたところを求めるものです。稽古を始めた動機はどうであれ、強い弱いというところに心がとどまっていては稽古を重ねた結果が名誉欲・自己顕示欲・支配欲を強くすることにつながりかねませんし、実際にそのようになった人たちも多くいます。強い弱いということに固執するならば、素手や刀の武道ではなく現代用いられる武器の使用法を主に研究すればよいのです。むしろ、その方が自分の至らぬところに気づく可能性が高いように思います。修行という観点から武道を稽古するのであれば、強い弱いから離れ敵として対峙する稽古相手と調和を保つことが不可欠です。そうでなければ武は戦いの術から抜け出すことはできません。」と述べられています。指導する立場にある者が最も指導しなければならないことは、修業する者に常に自分自身を疑いの目で見つめ、日々新たに自分自身を改めていくということではないかと思います。

「参考文献」
1.津本 陽: 武蔵と五輪書、株式会社講談社、第1刷 2002年
2.本庄 葆: 剣道の使術解説と教育指導の要点、株式会社近代文藝社、第1刷、1994年
3.森本邦生先生:貫汪館ホームページ「道標」

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  1. 2014/10/24(金) 21:25:27|
  2. 昇段審査論文

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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