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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 3

大石神影流剣術3段の論文です

「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について」

        1.はじめに
 大石神影流剣術は、筑後柳河藩が生んだ大石進種次が創始した流派である。種次は剣術修行に出て他流試合をし、大石神影流剣術の名声を高めていった。歴史上の人物でも有名な剣術士男谷精一郎がいる。この男谷精一郎をはじめ江戸の高名な道場を片っ端から破った折の江戸の騒ぎは明治維新の騒動以上であったという。進の出現がいかにセンセーショナルな事件であったようである。1)大石神影流剣術の歴代の人物像、伝系、剣術修行での大石進種次の活躍から、大石神影流剣術の歴史をみてみようと思う。

2. 大石神影流剣術の歴代師範

大石進種次(大石神影流流祖)
 大石進種次(後七太夫、隠居名武楽)は、寛政九年(1797)、父種行の嫡男として、宮部村に生まれた。大石家宗家の下總より数えて、第十四代となる。
 文政三年(1820)、祖父種芳より,槍術の免許をうけ、二年後の文政五年(1822)、同じく祖父種芳から愛州陰流の免許を受けた。この年の四月には祖父種芳が死亡し、更に三年後の文政八年(1825)、種次二十九才の時、父種行が死亡するに至った。2)
 種次は幼時より、祖父種芳について愛州陰流剣術と大島流槍術を学んだ。進は生まれつき左手利きであったので、修練の結果、従来に愛州陰流になかった「突き」の手を加えた、大石神影流を創始し、勇名を轟かすに至る。
 大石神影流のもととなった祖父種芳が相伝を受けた愛州陰流剣術の伝系を記す。

愛州陰流      足利日向守愛洲惟孝
           奥山左衛門大夫宗次
上泉武蔵守藤原信綱
     長尾美作守鎮宗
           益永白圓入道盛次
           吉田益右衛門尉光乗
           石原傳次左衛門尉正盛
           村上一刀尉源長寛
           大石遊剱入道種芳
           大石太郎兵衛尉種行
 大石神影流 流祖  大石七太夫藤原種次
           大石進種昌
           大石雪江
           板井真澄
           大石一
           大石英一
           大石 馨   森本邦生

 柳河藩は藩祖宗茂以来尚武的な土地柄で、先づ武を重んずる政策がとられてきた。旧藩時代の年中行事として、正月九日には年賀の挨拶に藩士は総登城する。その日御前試合が遂行されて士気が鼓舞されるが、こういうところにも尚武政策の一端があらわれている。
 ある年の御前試合に進も出場した。立台の結果は予想を裏切っていとも簡単に敗北してしまった。
進は武道師範の家に生れ、幼少より槍剣の達人である祖父の薫陶をうけ、六才のときには槍剣の手数を上覧に供して藩候より賞嘆されている。これをみても進は自己の武技に対して過分の自負心を抱いていたことは、疑いない。進が試合に敗れたとき、これまでの自負心は一挙の崩壊し落胆の度合は非常に大きかったと想察される。巷間に少年時代の進はなにをさせても駄目であったという鈍愚説がある。
 少年進は確かに天才肌の剣士ではなかった。しかし剣にかけては相当腕も立つ少年であった筈である。もし進がはじめから剣術下手であれは自己の武技に対して少しの自負心もなかろうし、御前試合に敗北してもそれ程発憤興起もしなかったであろう。この敗北を契機に進は剣術に心魂打込むようになる。
当時愛州陰流剣術においては唐竹面と長籠手をつけ、袋撓をとって稽古している。ある日進はこの教習法に疑問を抱いた。
 この剣法では、防具に面と籠手のみ使用するから、当然面と籠手打ちの技以外はできないわけである。ところが実戦に使用する刀剣は、斬るばかりではなくその先端は尖っていて突くようにできている。然るに刀法には突技がない。また人間の胴体は五臓を内包した極めて重要は個所であるのに、生死を争う大事に際してこれを斬る技がない。これはどうみても実戦的ではないという結論に達したのである。
 ここにおいて進は胴斬りと諸手突の技を考案し、それに生まれつき左手利きであったのでこれを活用して左片手突という奇抜は技を案出した。
 胴斬りの技は進より以前に他流によってわずかに行われていたが、愛州陰流においては初めてのことである。しかし諸手突、片手突はともに進の独創であって、これまでの撃剣にはみられなかった。
 剣技にともない竹刀や防具も新作したことはいうまでもない。このようにして独自の撃剣を始めたのが十八才のときだった。3)

大石進種昌(大石家十五代・大石神影流二代目師範)
 武楽(大石進種次)の二男として、文政七年(1824)七月二十五日、宮部村に生る。
 幼名 駒太郎、通称 進士、後、父武楽の名を継いで進となる。種昌も柳河藩槍術師なり、大石神影流二代目として大石道場を承継した。容貌が父武楽に酷似しており、小進と称されたという。身長も武楽程ではなかったが六尺有余と言われている。
 種昌の妻は、山門郡上長田(現瀬高町)に在った同藩の武家 板井家の出で、板井角弥(親雄、徳治の名あり)の二女ヤス(俗に八十と言う)で、その兄は後に大石神影流を継ぎ四代目師範となる板井真澄の父板井一作である。一作は種昌より一才年長で柳河藩槍剣術師範(家川念流、宝蔵院流)であった。一作の父角弥と、武楽とは親交があり、その関係からヤスが種昌の嫁として迎えられたのであろう。4)

大石雪江(大石神影流三代目師範・白銀大石家の祖)
 大石雪江は武楽の六男として、天保十年(1839)、八月十三日、宮部に出生した。又六郎と称したが後年名を雪江と改めた。
 色が黒かったので村人は「黒又」さんと称したそうで、後に色白と思わせる名にしようと「雪江」と改名したとも伝えられる。又、寡黙な人と伝えられているが、何か面白味のある人柄だったようである。雪江も幼時から父武楽や兄種昌に剣道の指導を受け、兄の祐太夫等と共に諸藩を廻遊して修行に努めたが慶応元年(1865)二十七才の時、大石神影流の免許皆伝を受け、大石家より分家して宮部村に近い池田村白銀に居を構え、大石分家の始祖となる。
 明治十一年(1878)、十二月、雪江が四十才の時、兄の種昌が死亡したので、同門の推挙により兄弟子の今村広門と共に、大石神影流三代目師範となった。
 雪江は大石道場で多くの門弟を育成した外、晩年には戸長を勤め、明治二十一年(1888)から数三池集治監の剣道師範となり、又、明治三十一年((1898)八月には大日本武徳会福岡地方委員となる等、地方自治、剣道界に亘り、多大な功績を残した。5)

板井真澄(大石神影流四代目師範)
 板井真澄は、安政元年(1854)十一月十八日、柳河藩士板井一作の次男として出生した。
 幼名乙三郎と称したが、後真澄と改名し号を小道と称した。6)真澄は幼時より、父一作について家川念流を学んだが、後大石雪江門弟となり、大石家の後見人となり、大石神影流の免許を受けた後、大石道場の第四代師範となる。真澄は後見人として大石家のある宮部に移住したが、その後も政治活動を続け、大牟田町長、三池郡郡会議員、福岡県県会議員等の要職を続けていた。7)

大石 一(大石神影流五代目師範)
 大石一は、明治五年(1872)十一月十五日、大石雪江の長男として出生した。五才の頃より父につき大石流を学び、宮部の道場においては、今村広門の薫陶を受け、十四才の時、截目録を伝授された。それより十七年遂に陰之巻皆伝となった。一は、小学校教師として勤務し
ながら大石流剣道師範として、白銀の自宅に道場を開設して子弟の指導にあたった。
 昭和初年(1926)八百餘名の門人有志によって白銀川畔に寿碑が建立されたことをみても、清廉な人格と徳望の高さを推知することができる。後年銀水村の村長を務めた。8)
  
3.剣術修行
 
文政五年(1822)
 進は独創の剣法を他流に試較するため、最初の武者修行に赴いた。
 先づ肥前島原に渡りこの地で試合をした。目新しい剣法であったからこれが大評判になり、噂は直に島原候の耳に達した。槍剣の型を披露し、酒、料理を賜わり、目録を賞与された。ここを振出しに、長崎、大村、佐賀の各所を廻遊したが、試合をしたのは、島原のみで、他は、他流試合禁制のため剣を交えることなく帰国している。進は愛州陰流の極伝を受けた文政五年(1822)この年有名な剣客と立合った。9)当時豊前国中津藩に長沼無双右衛門といって、界隈に無敵を誇る達人がいた。立花家御一統の勧めによって、進は長沼と立合うことになった。
 長沼は幸いにも在国していたので、進が中津の長沼道場を訪ねると直に立合うことに決まった。ところが、七日間は門人が入替わり立替り相手になるばかりで、主人の長沼は一向に立合う様子がみえない。痺れをきらした進が試合を申し入れたところ、八日目にやっと立合うことになった。
 さて、長沼は七日間を漫然と過ごしたのではなかった。進の剣法を秘かに研究していたのである。長沼は門人の立合をみて、進に立ち向かっては不利だという結論に達したので、立合う前に生竹で竹刀を拵え、これを進に渡している。進は渡された竹刀で長沼と五、六本試みたが、噂の程はないと感じた10)。隙をみた進は気合をかけると同時に踏込み、特技の左片手突を放つと、長沼がつけていた鉄面が破れて、眼球が面の外までとびだしてしまった。
 その後、長沼は傷を養生して門人十八名を引連れ進の門に学んだのは、文政八年(1825)のことである。
 長沼と立合って自信を得た進は、その後豊後路より久留米辺にかけて武者修行に出かけた。久留米では四十人の出席者と一面も残さず試合をしたが、進の表に立ち得るものは遂になかった。この頃より進の剣名は俄に近国に高まっていった。11)

天保三年(1832)
 大石進種次聞次役として江戸へ出立する。
 江戸では、剣術道場と言えば、直心影流の長沼道場、一刀流の中西道場、北辰一刀流の千葉道場、神道無念流の斎藤道場、鏡新明智流の桃井道場等高名の道場が軒を連ねていたが、これらの道場より優位にあって別扱いをうけたものに男谷精一郎がいる。12)剣術は日本一の名人という評判で剣名は有名であった。
 進は聞次役を命ぜられて出府したが、それは表向きのことで実は男谷精一郎と試合をして打勝ち、柳河藩の武名を天下に誇示するよう内命が下されていたのである。男谷精一郎と試合をすることになるが、最初は勝負がつかず、その試合での反省点を考え次の試合に活かし、その理論を明快に立証することができたのである。進の活躍が柳河藩候の耳に達したので、帰国を命ぜられた。
 この出来事があり内命を果たした進は、柳河城において賞賛の云葉を賜り、褒美として三十石を加増され、本知合わせて六十石となった13)。男谷精一郎との試合は終わったわけではなく、その後も男谷の方から、柳河藩の屋敷まで出掛け、数回に亘って剣を交えているが、遂に進の技に及ばなかったのである。14)

天保十年(1839)
 この年は藩命によって出府し、老中水野忠邦邸に招かれて試合している。この時は多数の剣士と立ち合い、島田虎之助とも試合をしたらしいがその結果は詳らかでない。翌十一年に帰藩すると十石加増された。
 進はさらにもう一度江戸へでているらしいが、その年月日は判然としていない。
 進の剣名をしたって入門するものは柳河藩だけではなく、近隣諸藩の士も多かった。15)

 柳河藩槍剣門人百二十二名、他藩の門人では三池藩の七十九名を筆頭に、土佐藩六十 名、長州萩藩四十三名、肥前小城十三名、筑前秋月藩十一名とつづき、総門人数六百五十六名にのぼる。これは文政年間より明治三年(1870)までの入門者で、進父子の取立てた門人である。16)

各地の大石神影流
 土佐藩士に寺田小忠次兄弟並びに樋口真吉甚内兄弟は早期の入門者で大石流に熟達して土佐藩に大石流を普及させた。17)
 三池藩には種芳からの深い関わりがあった。種芳は柳河藩の槍剣師範ばかりでなく、後年は三池藩の師範も兼ねていた。三池藩は、雄藩肥後境界を接しており、軍事上重要な地理を占めている。そこで一旦緩急あれば武力に依存しなければならなかったので、一万石の小藩三池は数を恃む大藩に匹敵するだけの個人の武を鞏固にする他はなく、日頃より武を練る必要があった。当時、三池藩には有能な師範家がいなかったため、三池藩領から近隣に移住する種芳へ師範を命ぜられた。これによって、三池藩と大石家との交渉はこのときに始まっている。種昌は、三池藩の師範にはなってはいないが、三池藩藩士多数が随身して大石神影流を学んでおり、まさに三池藩の師範家たる観はあった。18)
 このことにより、土佐藩、三池藩には門人が多かったようである。
 
3. 大石神影流の特質
(1)防具
 従来の唐竹面では、突が止まり、また破れる危険があるので、鍛冶屋に依頼して十三本穂の鉄面を拵えた。次に新しい技として胴斬りの技を考案したのでこれら新に防具が必要になり、竹腹巻(胴)を作り、長籠手を半籠手に改めて腕の活動を敏速にした。なほ突技のために工夫した防具で喉当がある。これは布と革より成り、喉に当て面垂の不備をカバーするもので、他流にみられない大石流独特の防具である。19)
(2) 竹刀
 進は従来の八つ割袋撓が突に耐え得ないので、これをコミ竹刀に改めている。
 当時の竹刀の長さは三尺二三寸位を常寸としたのを、進は五尺三寸に伸し、弦に琴の絃を二筋捻台せて堅牢なものにした。20)二代目進種昌になると、体格はそれ程ではなかったので、竹刀の作りも縮小したらしく、弦に琴の絃一筋を使っている。板井真澄、大石進(三代目)について学んだ真鍋氏の実見談によれば、大石家の床間に四尺八寸の竹刀があったのを見たという。これが種昌の竹刀であろうと思われる。竹は孟宗竹の根本を使っているから、筋の間が狭く、相当の重量があって、手に取るとまるで鉄棒を握っているように感じたそうである。切先は一筋分の長さだけ四角は棒状の木片が入れてあり、打を入れても竹がなかへ凹んだり、突いた場合四枚の竹が動かないように固定してある。柄頭には四枚の竹の内側に切込みがあって、正方形の鉄板をはめ込み、竹が動かぬように工夫されている。それから牛革であるが、現在のなめし革をかぶせてある。五尺三寸の竹刀は進だけで、その門弟は五尺以上の竹刀は使っていないようである。大石流では、胸の高さをもって竹刀の全長としたので、五尺四五寸の人は慨ね四尺二寸が適当な長さになる。大石雪江や柿原宗敬も四尺二寸を遣っているし、以後大体この位の長さを遣ったものが多い。21)
(3) 構え
 「真剣」「上段」「附け」「下段」「脇中段」「脇上段」「車」「裏附け」がある。
 突技や胴切は手数の中に多く表されているということはなく、手数の中では突技にいつでも入れる体勢を重んじています。22)

4 おわりに
  大石進種次によって、剣術修行からもわかるように、諸国に柳河藩大石神影流剣術の名を響かせた。その戦績を残したことによって、柳河藩には多くの門人が増え、多くの地域に伝わっていった。この現代まで、大石神影流が正しく相伝されてきたことは貴重なことである。先日、大牟田市の道の駅に立ち寄る機会があり、元大牟田市でアナウンサーをしていた方とお話した時、私達が大石神影流の門人だとお話しても、大石神影流のことは初めて耳にするようでした。館に設置してある大牟田市を紹介してある看板にも大石神影流のことはまったく書かれてありませんでした。大石神影流の門人として、残念な思いがしました。昔、諸国を驚かせたような大石神影流をまた現代で甦らせることができることを願っている。  
   

後注
1)藤吉、25頁 
2)板井、12・13頁
3)藤吉、7~9頁
4)板井、24頁
5)同上、30~31頁
6)同上、42頁
7)同上、43~44頁
8)藤吉、85頁
9)同上、11頁
10)同上、12頁
11) 同上、13頁
12) 同上、21頁
13) 同上、22頁
14) 同上、24頁
15) 間島、74頁
16) 藤吉、55頁
17) 同上、63頁
18) 同上、68頁
19) 同上、47頁
20)同上、48頁
21) 同上、49~50頁
22) 森本先生、HP


参考文献
1)藤吉 斉 大石神影流を語る 第一プリント社 昭和38年10月20日発行
2)板井 真一郎 大石神影流の周辺 フタバ印刷社 昭和63年5月3日発行
3)間島 勲 全国諸藩 剣豪人名事典 ㈱新人物往来社 1996年3月20日第一刷発行
4)森本邦生 貫汪館ホームページ 大石神影流剣術 流派の歴史
http://kanoukan.web.fc2.com/oishi/hstry/index.html2014・8・15日取得

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  1. 2014/10/19(日) 21:25:46|
  2. 昇段審査論文

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