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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 12

              「柔術とは何か」

 「柔術とは何か」を考えるにあたって、その成立過程・歴史と稽古方法などから考えてみたいと思います。あわせて、我々の稽古する「澁川一流柔術」についても考えてみたいと思います。まずは、柔術の一般的な成立過程・歴史を知らなければならないと考えます。享保十四年(一七二九)に起倒流の寺田市右衛門正浄が偏述した「登假集」が有ります。その中の「武藝の終始組討に極る事」の中で次のように述べています。

「夫兵器品々有る事、戦場の間数によりて、弓鉄砲或は鑓長刀太刀かたなを以って戦ふ也。何れも理の極る所は、間近く取入りて組討と成るもの也。その上、身の分限により、常に弓鉄砲鑓長刀等を持事なし。喩へ長道具熟し、棒鑓得たりとも、仮初の優會に用意も成るべからず。又は君前、私家、風呂、茶湯等、無拠無刀の場多し。また大将たりといふとも、戦場にて追詰らる々節有り。又大名・高家の御身の上にも、場所悪しく家来も付ざる席にして、不意の口論抔数多有る事なり。体術組討の道疎き故、残念至極の儀ども、其数をしらず。又戦場にて甲冑を着したる者は、組討なくて利を得る事有べからず。」

と述べています。つまりこの中にもあるように、自分の身近に得物の無い時に自分の身を守るためにあった体術組討が柔術へと発展していったものと考えます。また、戦場では敵の首をとり戦功を立てる為には必要なものであったと考えます。
 また、その他にも次のような文献があります。日向飫肥藩伊東氏の家臣小野祐清が宝永五年(一七〇八)に著した「定善流俰極意秘自問自答」によると次のようにあります。

 「夫俰ハ空手ニシテ白刃ヲ拉ギ、敵ノ働ニ勝習ニテ候。是ヲ取手トモ可申ヤ。此取手ハ匹夫下賤ノ藝ニシテ、好士上輩ノ業ニテハナキ様ニ思ヘル人モ可有候得ドモ、一向左ニテハ無之ト存知候。縦バ剱術之達人ナリトモ、太刀打ニ雌雄ヲ不決セ、手詰ニ仕掛候ハバ、組合ノ勝負ニ成リ可申候。就中戦場ニテ互ニ甲冑ヲ帯シ候ハバ、太刀打ニテ埒ノ明ヌ事可多候。然時ハ何時モ、可為組打候。鑓長刀ニテモ少ノ所ヲ悞テ仕損ジ、敵不意ニ手本ニ参リ候ハバ、是モ取合ニ成リ可申候。弓鉄炮モ二三間ノ場ニテ、自然空ト射外シ、二ノ矢ヲツガフ間モナク、間ニ不容髪ト飛懸候ハバ、刀ヲ抜ヒマモナク、自シト和ヲ用ル場ニ成ル事モ可申候。勿論、酒酔或ハ狂人、或ハ狼藉者杯ハ、即時ニ切リ殺シテハ悪敷事ノミ可有候。ヶ様ノ時、就中和の術ニアラズンバ、功有間敷物カト存候。右之道理ニテイヘバ、諸之武藝ニハ、皆和ノ習ヲ交テ教度事カト存候。又コ々ニ、存寄タル事ノ候序ニ御物語可申候。」

ともあり、ここでも同じく自分の間合い近くに敵がある状況での業の重要性が述べられており、狼藉者等を殺す事無く捕らえる事が出来る業、自分の身を守る業としてこのような術が必要で有る事が述べられています。そうして、このような考え方、必要性が柔術の成立の根底にあり、柔術の重要な理論であると思われます。

 また、この頃の武士は組討をどのように修行していたのでしょうか。「登假集」の中の「古より相撲を以て柔術修行の事」のには次のように述べられている箇所が有ります。

 「古より武藝の始終組討なる事、雖能知、柔組討といふ名目なく、唯武士の若き者集まり、相撲を以て身をこなし、理気味を去り、躰を和らになして、一心正しくする事のみ執行せし事なり」

とあり、柔組討と言う名目は有りませんでしたが、その修行方法は、「理気味(力み)」を去り、身体を柔らかく使い、ただただ心正しく修行をしていたようです。この頃から、基本的には柔術の稽古をしていたように考えます。そうして、この柔術と言う名称が生まれる前の流派として、天文頃から文禄に至る戦国期の人、竹内中務大夫久盛を開祖とする「竹内流」が有ります。竹内久盛は、或る日、夢の中に異人が現れて、木刀を二つに切って小刀として小具足術を教え、また七尺五寸の縄で敵を捕縛する早縄術をも伝授されたそうです。そうして、この竹内流を「竹内流小具足」あるいは「竹内流腰の廻り」と称していたようです。
 次に、「体術」あるいは「組討」と言う名称からどのようにして柔術と呼ばれるように成ったのかを観てゆきたいと思います。同じく、「登假集」の中の「福野七郎右衛門和を発明の事」にはこのように有ります。

 「中比、福野子といふ浪人有り。相撲の上手にて、夫より和といふ事を工夫仕出し、故に諸流の元祖也。唐土には古来より専ら柔術あり、軟家といふ。武備志に是を拳法と云、手縛ともいふ。今日本に用る所の柔術也。近世、陳元贇といふ者大明より渡り、武州江戸麻布の国正寺に寓す。其頃、福野氏も彼寺に寓居して衆寮に有りしが、或時元贇語りて曰、大明には柔弱にして剛強の人を捕の術あり、我能其技をみること多年なりと。福野子、其術を聞、其技を見て、我が工夫する所の柔術と兼学して、其業を仕出し、其事に熟せり。凡そ和の起り、右の士より世に広く弘まる。元贇其術を知りて教たるには非ず。全く福野子が工夫発明より出て、今諸方に遍分して数流有る事也。比術の工夫は、柔能剛を制するの理にして、敵と不争、屢勝ん事を不求、虚静を要とす。物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。是拳法の秘なりといふ。江州大津にも住居し、其後洛東粟田口にも住すと云。」

ここには、相撲を得意とする浪人の福野七朗右衛門がその特徴である「和(柔らかい)」と言うところを工夫したことが書かれています。彼が、工夫した点は「柔能剛を制するの理にして、敵と不争、屢勝ん事を不求、虚静を要とす。物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。」と言う点であり、その過程は、彼が当時の中国の明より渡って来た陳元贇と出合い、陳元贇の知る明の武術を学び工夫する事で「柔術」が出来上がった事が示されています。また、陳元贇の知る中国武術も「柔弱にして剛強の人を捕の術」であったと書かれています。おそらく多くの学びや気づきがあった事でしょう。彼の工夫した技が柔術となり、彼のもとで多くの者が学び、今日へと続く諸流派が出来あがったと考えられます。

また、嘉永六年(一八五三)常州土浦藩の野崎原道が遍術した「新心流柔術書」(抄)には次のように書かれています。

 「(前略) 夫ヨリ以来、百有余年ヲ降テ、同ク明ノ萬暦ノ頃トヤ云ヘリ、漢人陳元贇トイヘルモノ、我邦﨑陽ヘ来テ、儒ヲ業トシテ住メリ。傍ニ兵法ヲ論ズルニ謂テ曰、摶打ハ陽ヲ本トシ、剛ヲ尊ビ、発動ヲ主トシテ専ラ勝ツ事ヲ宗トスレバ、敵ノ強ニ当レバ、ヨキハ必善シト雖ドモ、敵若シ柔ヲ以テ之ニ應ジ、其余力ヲ引堕シテ、柔順各其節度ニ当ラバ、剛ハ却テ反復シテ、不測ノ卑敗ヲ取ン事、堅木ノ風ニ覆ルガ如ク、柔ハ却テ柳枝ノ暴風ニ自若タルガ如ケント。直ニ摶打師ヲ招テ、彼此精実ノ枝葉ヲ比ベタリ。其時、摶打師エラツテ打突スト雖ドモ、元贇其應ズル事、風中ノ浮雲、翺翔ノ燕雀ノ如クニシテ、一ツモ微敗スル事ナシト云ヘリ。故ニ元贇其術ノ敵ノ剛ニ対セン処ヨリシテ、其業ヲ以テ柔ト名号シテ、敵剛ヲ以テ来レバ柔ヲ以テ應ジ、敵又柔惰ナレバ、乍チ剛ヲ以テ打ヒツグ。故ニ柔トハ、敵ノ剛ニ対シタル應名也。故ニ柔心翁、元贇ニ柔ヲ学ブノトキハ、元贇剛ヲ以テ客位ニ坐シ、柔心柔ヲ以テ主位ニ坐サシメラレ、彼此剛柔應変ノ扱ヲ教ヘラレシ也。」

ここに出てくる柔心と関口弥六右衛門氏心のことで、彼は柔心と号していました。そうして、江戸時代の始め頃に関口流を創始しました。ここでも、明国の陳元贇が関口柔心に業を教えた事が記されています。
以上のように、柔術の成立過程は、戦場あるいは日常生活において、自分の身の周りに得物が無い場合、敵に間合いに入られた場合に用いられた組討または相撲の柔らかく対応する技を工夫していた、福野七朗右衛門あるいは関口柔心が明の陳元贇から技や思想・理論を研究する事で出来上がったと考えることが出来ます。
それでは、次に柔術はどのように稽古をし、その目的は何であったのかを考えてみたいともいます。
まずは、先程の「登假集」の「福野七郎右衛門和を発明の事」には次のように有ります。もう一度その箇所を観てみたいと思います。

「比術の工夫は、柔能剛を制するの理にして、敵と不争、屢勝ん事を不求、虚静を要とす。物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。是拳法の秘なりといふ。」

と有りました。ここにあるように、「敵と争そわないこと」・「勝事を求めないこと」・「静かであること」などが目的であることが分かります。日常生活では、何が原因で争いとなるか分かりません。その様な時にあえて相手と争そうことはせず、その場を納めるか。あるいは、戦場ではいかにして生き延び、戦功を上げることが出来るかを学ぶ事が目的と考えることができると思います。又、自分の身の回りにいつも得物があるとは限りません。その様な時にどのように対処するかを身につける事ができると思われます。そうして、やむをえず争いとなった時、敵の力に逆らわずに敵を制し、傷つけずに取り押さえる事も目的であると、初めに紹介した「定善流俰極意秘自問自答」にも述べられていました。そのため「柔能剛を制する」事を工夫しなければならないし、「物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。」ことを稽古し身につける事が大切であると述べられています。
それでは次にどのように柔術を、稽古をすればよいのかを見てゆきたいと思います。稽古をする上で大切なことを観て柔術とは何かを考えてみたいと思います。先ほど引用した「新心流柔術書」(抄)には、関口柔心が陳元贇より次のように学んだことが述べられていました。

「故ニ柔心翁、元贇ニ柔ヲ学ブノトキハ、元贇剛ヲ以テ客位ニ坐シ、柔心柔ヲ以テ主位ニ坐サシメラレ、彼此剛柔應変ノ扱ヲ教ヘラレシ也。」

と有るように、常に柔(柔らか)に対応し、稽古したことが分かります。それは、「風中ノ浮雲、翺翔ノ燕雀ノ如クニシテ」と表現されています。また、その他の文献としては、万延元年(一八六〇)に土佐藩の片岡健吉の著した「體術道標」には柔術を稽古する上での注意点が色々と述べられていますが、その始めには次のように述べられています。

「夫體術者四體和ラカニシテ自カラ力ノ行届クヲ専要トス 第一未熟ノウチハ業コズマヌ様ニ只大業ニ捕習ベシ 相手ニキケヌヲ辱テ己カ作意ヲ加レハ必藝不進モノナリ
 修行タラズシテ先師ノ仕置タル業ヲ難シ吾作意加ベカラズ 吾作意ノ業ハ相力ヨリ目下ノ人ナラズハ勝事アタハズ 先師ノ仕置タル業ヲ熟習スルトキハ萬敵ニ向ヒテ勝利疑ナシ 故ニ當流ノ極意平常ノクセトスル様ニ心得ベシ」

ここには、柔術は体全体を柔らかくして、体の内からの力が体のすみずみまで行き渡ることが重要であると述べられています。そのためには、稽古を始めた当初から体を縮こませ業を小さくせずに伸び伸びと大きく業を稽古する事が大切で有る事述べられています。その際、無理無駄を省き、呼吸に合わせ、無理をせず自分の速さで、正しく動くことが重要です。また、その際教えが難しいからといって、自分の考え、想いで稽古することは厳禁であり、「平常のように」が極意に繋がる事が分かります。
また、「體術道標」の中には他にも稽古の上での注意点が述べられていますので、それを観てみたいと思います。

・ 「常ノ稽古ニ業半途ニシテ止サル様にスヘシ」
・ 「業ニ上中下前後左右アレトモ時トシテ出合ノ違事アレハ業ノタクミナシニ出向フヘシ譬ヘ上ノ業ヲ中ニ出合 中ヲ下前後左右モ亦同ク出合ノ違事アルヘシ 此時心クラマズ格體クヅレヌヤウニシテ敵ニウタシテ入込心持有ハ平負ニハナラヌモノナリ 未熟ノウチハ敵ヨリ仕掛ル業ヲ上ヨ下ヨト疑ヒ 打レテハナラヌト思 是非ニ請ンスル故 心迷テ氣ノ移リヲソキガ上ニ格體乱ルル者ナリ 又タマタマ敵ノ仕掛ニ応ズレハ必勝ヲイソキテ業ノ整ザルモノ也 常ヅネ修行ニ心持アルヘシ」
・ 「人ノ器用強力ヲウラヤミ我器用柔弱ノ身ト吾ヲウラムハ修行ノ志シウスキ故ナリ」
・ 「氣ニ力ヲ入テ業ノ相シタカウヲ専用トス」
・ 「體術は格體トテ半體ニシテ體ノカワリヲ肝要トス」
・ 「常ノ稽古ニ相手ノ非ヲ見テ吾業ヲカヘリミ吾非ヲ改ル様ニスベシ 又相手ノ拍子ニ付ヘカラズ 只氣ニ應ズルヲ肝要トスベシ」
・ 「敵ニ勝ヲ急ガズ我負ジト身守リ心ヲ残シテ 敵ニモツルコト肝要ナリ」

と以上の事が重要であることがわかります。そうして、日夜稽古したからといって上達するものではなく、理をしっかりと理解し、業と理をひとつにして稽古をすることが重要だと締めくくられています。また、この「體術道標」の中にも「柔術とは」について述べられている箇所があります。

 「體術ハ組詰ノミニアラス 體ヲ守ノ術也 治世ニハ我身ヲ全シテ忠孝信ノ心不怠時ハ天下ニ敵トナル人モナカルベケレト 此體術腰廻ノ秘業朝夕策励シテ緩怠ノ心ナキ時ハ 霊スハリ如何ナル所ヘ出合トモ驚動事アラズ 其上乱心盗賊取籠者等世ニタユマヌ者ナレバ彼等ガ為ニモ心苦ナカルベシ 又業熟シテ應変ノ氣不怠ハ馬上或ハ屋根ナトノ様ル高キ処ヨリ落ルモ怪我有ヘカラズ 且河岸ナトヨリ大勢ニセリコカサルル時 其ノガレ有事也」

とあり、ここでも柔術とは自分の身を守る術であり、平和な世の中では柔術の理念を基に忠孝信を心がけ敵を作らないようにすることであると述べられています。また、柔術を稽古することで、心が落ち着きどのような事が起ろうとも平常心で望むことが出来るとも述べられています。平常心で望めば怪我をすることも無く、争いごとから逃れるようになれるとも書かれています。これは、前に紹介した「登假集」・「定善流俰極意秘自問自答」・「新心流柔術書」(抄)にも述べられていることであり、多くの柔術流派に共通する理念ではないかと考えることが出来るのではないでしょうか。
 以上見てきたように柔術は、まず戦場で弓鉄砲などの遠い間から鑓長刀太刀の間になり、最後は自分の間近くになった時に後れを取らないようにあった組討、または平時の時にはあらゆる事故や危険から身を守る体術が先人の工夫により発見された柔らかい業として生まれました。そうして、彼等先人が当時の中国・明の陳元贇の業や、敵と争わない事、あえて勝を求めない事、冷静であり決して焦らず慌てない事、調息・深い呼吸を大切にそる事などの理論を習い吸収することから柔術は生まれたものと考えます。その柔術を身につける方法も常に相手の力とは争わず、柔らかく稽古を心がける事が大切です。つまり、柔術とは何かとは、「自分の身を守る護身の術であり、戦時や危険と言ういざと言うときには敵を制する業として、日常生活・平和な時には其理念を基に忠孝信を心がけ敵を作らないようにする武術であり、または敵とあるいは人と争わない、自分と相手(自分を中心とする世界)との間に調和を求める術である」と言うことが出来ると思います。
 それでは、我々が稽古をする「澁川一流柔術」はどうでしょうか。澁川一流柔術は幕末に首藤蔵之進満時によって創始されました。彼は、叔父で宇和島藩浪人の宮崎儀右衛門満義を師として、渋川流・難波一甫流を習得し、さらに他所で浅山一伝流をも習得をして、この三流派を統合して「澁川一流柔術」を創始しました。
 また、或る日、広島城下に出ていた首藤蔵之進は、五・六名の広島藩士と争いになりましたが、「澁川一流」の業でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士の目に止まり、その推挙により松山藩に仕えることとなりました。これは、天保十年頃のことと伝えられています。この逸話からも分かるように「澁川一流柔術」は護身の術で有る事が分かります。
 それでは次に澁川一流柔術の稽古を考えてみたいと思います。稽古の始めには体のあらゆる所にある力みを無くす事から始めます。「柔らかく」成ることを第一の目的とします。始めの形「履形」を通して今まで身についた無理無駄な動きや体の固さを取り除き、力(筋力を使った力)を使うことを否定して動けないところから始めます。そうする事で、「柔らかさ」を身につけます。また、稽古中は形の動きは最初から最後までは止まることはありません。「柔らかい」とは流れ続けることです。止まる事は「固さ」につながりますので否定しなければなりません。柔術の成立過程・歴史でも見てきたように、柔術は自分の身近くに得物が無い時に自分の身を守らなければなりません。稽古中においてもそのことを意識し、動きが止まると言うことは「死」を意味することとしなければならないと思います。そうして、無理無駄が無くなり、固さや力みが無くなり、「柔らかさ」が身に付いて来ると、自分の中心線が見えてきます。それは、地球の引力と同じである事が分かると思います。
 次に、柔らかくなり中心線が感じられると、次第に自分の身の重さを感じられるようになります。また、自分の身の重さを感じる事で身体は沈みます。身体は沈む為には呼吸が重要に成ります。深い呼吸を意識するようになり、臍下丹田が意識出来るようになり、臍下丹田から動けるようになります。足は地面(床)を蹴る事無く動くようになり、腕は身体から離れることが無くなり、全ては臍下丹田を中心として統一されます。そうして、さらに柔らかく動けることが出来ます。また、深い呼吸をする事で、心が落ち着き、焦りが無くなり平常の心になります。身体が整い、心が焦らなくなると自分の中に調和が生まれてきます。
 それから、注意しなければならに事は、しばらく稽古をして行くと「形」を行ううえで「上手く投げよう」・「形を見事に行おう」・「技を極めよう」等と思いが出てくることがあります。それらの思いは自我であり、心の固さにつながり心の固さが身体の固さへとつながるからです。稽古は「形」・「業」にこだわる事無く、身体も心も柔らかにして、流れるように止まる事なく行うことが重要です。心を絶対的に素直に純粋に保つべきです。次第に呼吸を深くし、心静かに稽古を重ねることも重要です。「~をしたい」と言う欲(自我)を無くし、心を柔らかく何ものにもとらわれる事無く、自然で無理無駄の無い稽古を心がける事が重要であると思います。その様な稽古を心がける事で、「自分の中の調和」が「相手(敵)との調和」へと広がります。そうして、いずれは自分を中心とする空間(世界)と調和してゆきます。調和が生まれる事で争いはなくなります。
澁川一流柔術は、流祖・首藤蔵之進が争い事からその身を守ったように「護身術」ですが、しかしその稽古の目的は柔らかくなり調和を求めていくものと考えます。つまり、「争わないこと」が、澁川一流柔術の理念であると考えます。その理念を表わしたものが、形の始めに行う「礼式」で敵を押し返す動きにあります。この「礼式」をただの「始まりの形」と捉えて行うか、「争わない」と言う理念を心に留め行うかとでは、稽古の成果としては大きな違いが生まれます。
以上見てきたように、歴史的な成立過程においても、また我々が稽古をする「澁川一流柔術」においても、「柔術とは」歴史的には戦場においては間合いが近くになり、自分に得物が無い不利な状況でいかにして戦功を上げ生き残るための業、そうして平和な時代には自分に降りかかる危険や争いから身を守るための護身術、日常生活ではその理念を基に争いごとを作らず避ける為の処世術と言う表の一面がありますが、別の一面として、稽古を通じて自分自身の調和、自分以外の人(自分に危害を加える者も含め)との調和、自分を取り巻く空間(世界)との調和、つまり「何事とも争う事無く調和を求める武術」と言うのが「柔術とは」の答えであると考えます。

<参考文献>
1) 石岡 久夫・岡田 一男・加藤 寛 「日本の古武術」 新人物往来社
   第一刷発行 1980年10月1日
2) 森本 邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第11号抜刷 平成14年度」
   貫汪館 2003年3月23日
3) 渡辺 一郎 「武道の名著」 株式会社東京コピイ出版部 1979年6月19日

  1. 2013/10/07(月) 21:25:03|
  2. 昇段審査論文

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