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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 11

10月の稽古場所等の変更をお知らせします。
・10月12日(土) 原小学校体育館 9時(大人10時)~12時
・10月19日(土) サンチェリーサブアリーナ 9時(大人10時)~12時
・10月26日(土) 出雲大社奉納演武会前日のためお休み



      「無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」
                                   
 「無雙神傳英信流抜刀兵法」は、林崎甚助重信を流祖とする戦国時代から続く流派で「無双神伝流」ともいい、土佐藩に伝承された居合の流派です。古くは「無雙流」ともいい、土佐藩では「長谷川流」または「長谷川英信流」とも呼ばれていました。
 戦国時代は年齢に関係なく戦場へ赴き、戦わなければいけない時代です。その様な時代だからこそ、「力」に頼らない「業」と「心」で戦う方法が生まれたのではないかと考えられます。そうして、江戸時代においても変わる事無く、当時の武士たちによって修練された武術は力に頼らないものでした。現代の武道には現役の選手から引退するということは当たり前の事ですが、武士達にとっては武士である以上は刀と共にあり、刀と共にある以上は引退するなどと言うことは考えられる事はありませんでした。「力」に頼らず「業」と「心」を修練することが、日本の武術の特徴といえると思います。
 しかしながら、現代に生きる我々は学校教育において西洋的な動きと姿勢を身につけさせられ、それをよいものとされてきました。それは、日本の武術においては絶対に否定されねばならぬことであり、それを否定することから稽古は始まります。また、武術の世界は相手をねじ伏せることは許されません。その様なことを続けていれば、やがては年齢とともに衰えてゆきます。武術の「業」は衰える物であってはなりません。そのため筋力を用いる者は、それを否定する事から稽古は始まります。
 以上の事から、まず「無雙新傳英信流抜刀兵法」を通じて最初に教えなければならないことは、日本の武術の「力に頼らない」・「無理無駄の無い動き」と言う特徴と、日本人の伝統的な姿勢・立ち居振る舞いであると考えます。
 まずはそれを「礼法」をもって稽古をしてゆきます。刀を手に持ち「神前の礼」・「刀礼」を繊細にじっくりと稽古します。
「神前の礼」は刀を右手に持ち、立ったまま礼を行います。しかし、この立ち姿勢は所謂「気をつけ」の姿勢ではなく地球の引力の線にそって、何処にも無駄な力は無く自然な姿でなくてはなりません。礼をする時は、「肚」を中心としてこれも無駄な力を用いずに行います。また、刀も力で持つのではなく極々柔らかな手で、なおかつ「肚」とのつながりを保ちながら持たなければなりません。そうして、「心」は神前である事から、いわゆる「無心」である事が望まれます。そのまま引力の線に沿ったまま、座姿勢へと移行します。あくまでも作った座姿勢ではなく、地球の引力に沿った無理無駄の無い自然な姿勢で無ければなりません。刀を自分の前面に横たえる動きも自分の前に立てる動きも、座姿勢による礼も「肚」から行わなければなりません。出す手も姿勢が前傾することによって行われるものであり、出るのであって出すことは無く、これも自然な動きであるべきです。
 「礼法」の次は「歩く」ということを稽古します。姿勢は座姿勢と同じく地球の引力に沿って立ちます。歩く事で注意するべき事は、座姿勢の礼と同じく「足は出すのでは無く出る」と言うことだと思います。こちらも「肚」を中心とし、足を出すために力を使うことはありません。まずは、刀を腰に差したまま歩く稽古を続けます。それをあるところまで行うと、次に刀を構えて歩きます。ここで初めて刀を鞘より抜き構えます。刀を構える事により、いままで「地球の引力に沿った線」、「肚」で力を使わずに立っていたものが刀を構える事で崩れてゆきます。刀を持つ事に囚われ、尚且つ「半身」をとることに意識が行き「力に頼らない」と言う前提が無くなってしまいます。
 このように「礼法」・「歩法」を通して武士が行っていた身体の使い方、日本の武術の「力に頼らない」身体の使い方の基本的なことを伝えて行きます。明治時代にもたらされた西洋的な身体の使い方ではなく、日本の伝統的な身体の使い方を教えて行くべきだと考えます。
 「無雙神傳英信流抜刀兵法」もそうですが、日本の古武道にはその流派特有の「形」が残されています。この「形」があるからこそ武士が行った修練を現代でも行うことができ、それが一つの流れとなって伝統が生まれています。そうして、この形一つ一つ稽古を重ねることによって、「自由な動き」・「無理無駄の無い動き」が生まれてきます。その様に、教習体系は組まれています。
 「無雙神傳英信流抜刀兵法」において、初めに教えられる形は「大森流」です。
 「大森流」は正座の姿勢が基本となっています。人は立つことによって地球の引力の影響を受けしっかりと立とうとします。そのことによって人の動きは制限され、足首、膝、股関節、腰などの下半身に力を入れ固めてしまいます。これは、武術にとって致命的なことで、その場に居着くことにつながり、動きは不自由となり、斬られてしまいます。武術における立ち姿勢は一見すると不動に見えますが、その内側はどのようにでも動ける自由なものでなければなりません。それゆえに「無雙神傳英信流抜刀兵法」では「大森流」において「正座」をすることで引力に抗していない状態を作り、足首、膝、股関節、腰の固まりの無い状態を認識させ、後の下半身の状態を稽古させています。そこには力に頼り瞬発力で動くと言う考えはありません。この様に「正座」を基本とし正しく無理無駄なく自然に座ることが出来ることによって、下半身が自然であるが故に上半身の腹、背中、胸、肩、首にも全く無理無駄な力が入らず、この姿勢のまま稽古をすることが業の上達に繋がってゆきます。そうして、ここで身につけた「力に頼らない動き」・「無理無駄に無い自然な動き」が後の形である、「英信流表」・「太刀打」・「詰合」・「大小詰」・「大小立詰」に生かされ、「英信流奥」へと繋がってゆきます。
 「大森流」の次に学ぶ「英信流表」においても同じことが言えると思います。
 「英信流表」では「大森流」とは違う座り方を行います。それは、「立膝」です。「大森流」で用いられる「正座」は江戸時代になってから一般化しますが、それ以前は「英信流表」で用いられる「立膝」が行われていました。この座り方は現代に生きる我々にはなじみの薄い座り方だと思われますが、そうであるからと言ってこの「立膝」を構えてしまうと大きな間違いを犯してしまいます。つまり、「大森流」と同じように、刀を抜くために心も身体も構えない姿勢であるべきものが、構えてしまうことによって、心も身体の固まり動けなくなってしまいます。「正座」であろうが、この「立膝」であろうが姿勢を作ることは無く、身体は地球の引力の線にそって真っ直ぐであり、自然の一部、地球の一部とならなければなりません。心も身体も構えない、その様な自然な姿、状態から業は生まれなければなりません。
 ここでは「大森流の正座」・「英信流の立膝」について述べましたが、「無雙神傳英信流抜刀兵法」には多くの方が残されています。どの形もこの「正座」・「立膝」が身についていないと上達はありえないと考えます。これらの座姿勢の限らず「無雙神傳英信流抜刀兵法」に残る「形」を正しく伝え教えることで、正しい伝統的な身体の使い方を学んでいただき、それを通じて「力に頼らない動き」・「無理無駄の無い自然な動き」を教えるべきであると考えます。
 次に、「無雙神傳英信流抜刀兵法」には、一人で稽古をする「形」と二人で行う「形」があります。一人で行う形は当然のことですが、そこには実際に斬るべき敵は存在しません。そこで稽古の時には、仮想の敵を想定し、その敵(想定)に対し抜き付けを行います。
 まず、ここで伝えなければならないことは、想定の動き、位置だと思います。それは、正しい想定があってこそ正しい動きが出来、「形」の意味することが見えてくると考えるからです。しかし、それをお教えしてもいざ稽古を始めると自分の都合の良い想定になってしまいがちです。敵は常に動き一時も止まる事無く自分へと向かって斬りかかって来ます。想定もその様であるべきで、決して自分の都合の良いように動くものではなく、ましてや斬られるために止まるものではありません。その様に自由自在に動く想定、自分に斬りかかって来る想定をおくことで、それに対処するにはどのように動けば良いか、その様な時の「心」の在り様はどの様であるべきかを学ぶ事が出来ると考えます。
 「大森流」の想定は自分に斬りかかって来る敵と言う、自分から離れたところから向かってきています。「英信流」は「大森流」よりも近いところ、自分の前後にあるいは、左右に座す者に対応するように作られています。想定の位地に違いはありますが、どの様な状況にあろうと焦ることはなく、心は平常で静かでなければなりません。ここを通してどの様な状況下においても、心は焦ることは無く、平常心であるべきであることを教えてゆかなければならないと考えます。
 ここにおいて自分にとって一見不利な状況下でどの様な動きがもっとも適しているか、どの様な心であるべきかを、そうして、心のありようはどのようであるべきかを学ぶ事ができると思います。これは、武術の世界だけではなく、我々が接する日常のあらゆる場面で生きてくることだと考えます。いつ自分の身に危険が降りかかるか分かりません。その様な、状況において「無雙神傳英信流抜刀兵法」を正しく稽古をすることで、焦る事無く平常心で、その様な危険に対処をすることができると考えます。また、危険な状況に限らず、「無雙神傳英信流抜刀兵法」を稽古することによって、日常生活における人に対する心のあり方、状況の変化に対する心のあり方を身につける事ができると考えます。「無雙神傳英信流抜刀兵法」の「想定」を正しくお教えすることを通じて、自分の身の回りに起りうる状況の変化に対処できる心をお教えすることができると考えます。
 それでは、二人で稽古をする「太刀打」・「詰合」・「大小詰」・「大小立詰」においては何を教える事ができるでしょうか。
 まずは、「太刀打」・「詰合」について考えてみたいと思います。
 「無雙神傳英信流抜刀兵法」は居合の流派ですが、この「太刀打」・「詰合」は純粋に居合というよりもほとんどの形が剣術の業であります。居合は剣術に対抗できるほどの力を身につけなければ無意味なものになります。そのため剣術の業の稽古は居合を専門とする者にとっては必要不可欠なものであるといえます。剣術の動きを知らない者が、剣術に対抗できない道理は当然のことです。しかし、剣術の稽古であるといっても、あくまでも今まで稽古してきた身体の使い方には変わりなく、無理無駄の無い動き方をしなければなりません。
 「太刀打」・「詰合」においては打太刀が遣方を導くように稽古をします。ですから業の進んだ者が打太刀をつとめます。
これらの形は遣方が打太刀に木刀を使用しますが、実際に斬り込んで行きます。また、打太刀が反対に遣方に斬り込み、それを遣方が受けたりします。この目の前に敵がいるだけで、いままで「大森流」や「英信流表」で、稽古していたことができなくなる方がほとんどです。身体は固くなり、焦りが出てきて心は平常心から程遠いものになります。ここを厳しく指摘し、「大森流」・「英信流表」の形となんら変わらず、「力に頼らない」・「無理無駄の無い自然な動き」をしなければならない事を、再度認識できるように教えなければなりません。
 また、「太刀打」・「詰合」では、実際に相手がいる為に学びやすいことがあると思われます。それは、斬り込むあるいは受ける拍子、適切な間合いであるかどうか、残心はできているかなどです。これらのことがきちんと適切にできていない場合は、打太刀は遣方に斬り込んで、隙のあることを教え導きます。これは「形」の稽古といっても、実戦の心持ちで稽古をしなければならないと言うことを教えるためです。その様な心で稽古をすることで、正しい動きや心が身につくものと考えるからです。
 次に「大小詰」・「大小立詰」ですが、これは相手に刀を押さえられ、抜くことができない状況にある時の稽古をします。「大小詰」は「立膝」に座って行い、「大小立詰」は立った状態で行います。どちらも相手に刀を押さえられているので、抜きつける事はできません。そこで、これらの「形」では相手を投げてこの危機的状況をきりぬけます。「大小詰」・「大小立詰」はいわゆる柔術技法といえます。柔術技法だからといって、先に学んだこと変わることは無く、「力に頼らない」・「無理無駄の無い自然な動き」で「心は焦ること無く平常心」で対処します。また、相手とは接している状況ですので、無理に力で投げる事はできませんし、投げようとしてもなりません。相手の力には逆らわず、自分を中心として相手と繋がり、相手との調和を持ったまま静かに動き、その動いた結果が業となり、相手を投げる事ができることを教えなければなりません。
 最後の「英信流奥」では、今まで稽古してきたことを基礎として、自由自在に業が使えなければなりません。抜付け・斬撃には「極め」を作ることは無く、水が流れるように動き何処にも終わりは無いその様な動きを身につける事ができるように教えなければならないと考えます。
 以上「無雙神傳英信流抜刀兵法」の「形」を通して何教えるかを考えてきました。次に「無雙神傳英信流抜刀兵法」の「歴史」を通して何を教える事ができるかを考えてみたいと思います。
 武道を稽古する方の多くは自分の流派の「歴史」や「歴史的背景」を詳しく知らない方がほとんどです。自分が稽古をする流派の歴史を知ること、学ぶ事は先人達がどの様にこの流派を創始し、どの様に工夫し、どの様に稽古を重ねて上達をしてきたかを知ることができると考えます。
 例えば、「無雙神傳英信流抜刀兵法」の中で最も古い形は「英信流表」であると考えられますが、稽古を始める上では「英信流表」の形ではなく、「大森流」から始めます。「大森流」は大森六郎左衛門から新陰流を習った林六太夫が「無雙流」の居合に取り入れて、始めに稽古をするように定めたとされています。この様に、それぞれの流派には独特の成り立ちがあり、それを知ることはその流派を稽古するものにとって大変重要な事であると考えます。また、現代の我々の生活様式と、先人達の生活様式は全くと言っていいほど違います。稽古とは昔(古)を考える(稽)事です。先人達がどの様に稽古をしてきたかを知ることができ、そこから多くの事を学ぶ事ができると考えるからです。また、流派の歴史だけではなく、日本の歴史を知ることも自分の身に成ることと考えます。ですから、「無雙神傳英信流抜刀兵法」を通して「先人の知識・知恵」を教えることもできると考えます。
 以上見て来ましたとおり、私は「無雙神傳英信流抜刀兵法」と通して、正しい伝統的な「形」を教え、「力に頼らない」・「無理無駄の無い自然な動き」・「焦ることの無い平常の心」を身につけて頂き、また「歴史」を教え「先人の知識・知恵」に触れて頂き、それらが、日常生活の中で生かすことができる、その方法を教えることができると考えます。

<参考文献>

1) 森本邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第11号抜刷 平成14年度」
   貫汪館 2003年3月23日
2) 森本邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第12号抜刷 平成15年度」
   貫汪館 2004年3月31日
3) 森本邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第13号抜刷 平成16年度」
   貫汪館 2005年3月31日

  1. 2013/10/06(日) 21:25:03|
  2. 昇段審査論文

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Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
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連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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