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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 10

受審課題 :無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきかを論じなさい。

前書き
 課題である「無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」を論じる前に、まず私にとって「無雙神傳英信流抜刀兵法とは何か」を論じてみたい。
 またそのために、私自身の半生を振り返ってみたい。その人の生い立ちと武道歴は、その人の武道観とは切っても切り離せない関係であると考えるからである。あるいは、そのものと言えるかもしれない。

生い立ち
 私は昭和45年(1970)東京都品川区南大井に生まれた。東京と言っても下町で、お世辞にも上品な場所とは言えなかった。東京湾のすぐ近くで、週末には最寄り駅から大井競馬場へ行きかう人の波がすごかったことを覚えている。当時の競馬をやる人たちには今のようにおしゃれな人達はおらず、あまり小奇麗とは言えない服装の人たちが、無言でぞろぞろと歩く姿には、一種異様な雰囲気があった。

 これは最近になって知ったことだが、最寄り駅である京浜急行線の立会川駅周辺には、旧・土佐藩山内家の下屋敷があったそうである。江戸に剣術の修業に来ていた坂本龍馬は、その下屋敷に滞在していたと。駅から200mほど先の勝島運河周辺には浜川砲台が設置され、龍馬はその警備にあたっていたとのことである。立会川駅のすぐ近くには子供の頃よく遊んだ公園があるが、最近では坂本龍馬の記念像が立っているらしい。
 坂本龍馬と言えば土佐の人物で、土佐と言えば無双神伝英信流抜刀兵法の発祥の地でもある。これには不思議な縁を感じる。
また、山内容堂公の墓も所在している。山内容堂公と言えば、無双直伝英信流山内派の代名詞でもある。

 当時は公害が社会問題の一つになっていて、工場は元より、道を行きかう自動車の排気ガスがすごかったことを覚えている。そのせいもあってか生まれてすぐぜんそくになった。かなり重症だったため、学校は休みがちで、遠足や修学旅行も不参加が多かった。
 少し走っただけで発作が出るので、運動のたぐいはほとんどできず、当然、運動は苦手であった。体力もなく、乗り物も苦手で、すぐに乗り物酔いになるので旅行も苦手だった。なにしろ移動が苦手なのだから、移動が大半を占めると言っても過言ではない旅行が、楽しい思い出になるはずもない。

 昭和55年(1980)横浜に転居した。ちょうど10歳、小学校5年生になる春のことである。当時はよく理解できていなかったが、親の会社の都合であったことを後になって知った。
 小学校、中学校とぜんそくは相変わらずで、運動はまったくの苦手なままであった。
 高校になって硬式テニス部に入部したが、上述のように運動が苦手なことと、目が悪くてボールがよく見えないこともあって半年で退部した。ただその後、体力がついたのか、二年生のときには皆勤で、三年生のときもほとんど休むことはなくなった。それでも運動らしい運動は、ほとんどしたことがなかった。

大学時代
 平成元年(1989)神奈川大学に入学。神奈川大学には給費生という制度があり、それに合格すると四年間の学費が免除される。他の大学の入試に先立って、毎年12月24日に試験が行われる。あまり深く考えることもなく、受かればラッキーくらいのつもりで受験した。残念ながら給費生としては合格できなかった(なにしろ合格率100倍と言われていた)が、一般合格は認められた。学費を払うなら入学してもよいということである。大学側としても、学費を免除するほどは優秀ではないが、ある一定程度の基準を満たした学生を早期に確保したいという思惑があったのであろうことは大人になってから理解できた。その後、他の大学も受験したが、どこも合格できず、結果として神奈川大学に入学した。給費生は試験が三科目で、国語、英語、政治経済で受験した。国語と英語はずば抜けて成績がよかったが、社会科一般は苦手でひどい成績だった。それもあって、他の大学は合格できなかったのであろう。神奈川大学に入学したことが、後に大きな意味を持つことになった。
 学部は法学部で、これもあまり深い考えがあってのことではなかった。なにしろ、受験用紙を記入する段階まで、外国語学部の中国語学科にするつもりだったのだから。一緒に受験用紙を記入していた友人が、やめた方がいいのではないかとこれもまた深い考えなしにアドバイスをくれて、なんとなくかっこいいからという理由で法学部にしたのである。しかしこれも、後に大きな意味を持つことになる。

 大学に合格した私は、もちろん社交的な性格などではなかったので、サークルなどには入らず運動系の部活に入部しようと考えた。少し体を鍛えたかったのである。かと言って純粋な運動にはついていける自信がなく、これまたなんとなく武道系にしようと考えた。
 神奈川大学には当時、柔道、空手、剣道、少林寺拳法、琉球拳法、テコンドー、弓道、合気道などの武道系の部活があった。柔道、剣道は中学高校からの経験者が入るもので、大学から始めるのは無理だと聞いた。空手は少し乱暴そうで性に合わない。少林寺拳法の見学に行ったが、稽古を見ることができなかった。たまたま合気道の勧誘をしていたので、そこに自分から声を掛けて、練習を見学することにした。合気道のことをまったく知らなかった私は、正直、変な武道だと思った。しかし、マラソンはしないし、稽古も楽だと聞いたので、とりあえず入部してみることにした。
 いざ入部してみると、マラソンはするし、筋トレはするし、技はよくわからないしで、入部して間もなく、やめようと思った。しかしある日、木刀を持って裸足で学校の外周をマラソンした後、校舎の屋上に駆け上がり、木刀の素振りが始まった。
 当時の神奈川大学の合気道部は、普段は西尾昭二先生の体術を稽古していたが、水曜と土曜の剣と杖の稽古では岩間の斉藤先生の技を稽古していた。一の素振り、二の素振り、三の素振りと、上段や脇構えから振り下ろすだけの今思うとなんということはない素振りに、当時は感動を覚えたのである。それで、退部することをやめたのである。

 剣がなかったら、きっと合気道部は続けていなかったであろう。そして、同じ合気道でも剣の稽古をするのは決して一般的ではないということを後になって知った。神奈川大学の合気道部でなかったら、きっと続かなかったに違いない。
 また法学部ではなく外国語学部に入部していたら、授業が忙しくてとても部活は続けられなかっただろう。当時、授業は適当で、教室よりも道場と部室にいる時間の方が長かった。大学の何学部かと聞かれると、法学部ではなく合気道部と答えたくらいである。それでも単位はきちんと取っていたので無事に卒業はできた。法学部はそういった融通が利いたのである。大学の授業では、法律よりも物理や哲学、スポーツ理論などの方が楽しかったことを覚えている。
 斉藤先生の剣と杖の他に、西尾昭二先生からは居合を教わることができた。当初は稽古の前に大森流を教えてくれたが、後にご自身で工夫考案された合気道用の居合を教えてくれるようになった。これは英信流が元になっているが、他にも荒木流や水鴎流、香取神道流などの動作も入っている。もともと空手柔道の出身である西尾先生は、よりよいものはなんでも取り入れるというリベラルな考え方の持ち主であった。横浜の松尾剣風道場で、当時一流の武道家との交流があったことも大きな要因だったのではないかと想像している。
 私自身も、西尾昭二先生の合気道と剣杖居合と並行して、岩間の斉藤先生の体術剣杖を習うことができたのはとても幸運なことだったと思っている。
 そして、武道は一つに凝り固まるべきではないという考え方の基礎も、ここに根があるのではないかと自分自身では感じている。

 また稽古のために、メガネをやめてコンタクトレンズを使用するようになった。極度の近視のためメガネでは視力の矯正がほとんど利かなかったが、コンタクトレンズでは視力の矯正が利くため、文字通り世界が広がった。知らない場所でも案内板が見えるし、人の顔が見えるから話しかけることもできる。
 体力がついて、車はまだ苦手だったが電車なら酔わなくなったこともあり、行動範囲は飛躍的に広がった。まったくどこにも行くことのなかった人間が、一人でどこにでも行くようになったのである。ただし、武道のためならば、という条件付きではあったが。
 毎日の部活練習の他に、夜は町道場の稽古に通った。若い学生が稽古に来ると、道場の人はよろこんで参加費も無料にしてくれるし、稽古後の飲食もご馳走してくれたりもした。また、やる気があっていいね、などとおだててくれるので、ますます調子に乗って稽古に通った。横浜だけではなく、逗子や東京、埼玉などにも通った。

就職後
 平成5年(1993)横浜市役所の職員となる。
 就職についてもとくに考えていなかった私だが、漠然と、民間の営業には向いていないだろうなとは感じていた。合気道部の後輩が公務員試験の勉強を始めると聞いて、自分も始めることにした。通常より1年遅れで勉強を始めたわけである。半年ほど勉強をして、国家公務員Ⅱ種、神奈川県高等、横浜市、大和市、東京都特別区を受験して、幸いなことに一次試験はすべて合格した。そして、勤務は家の近くがよいというだけの理由で、横浜市に就職することにした。幸い、二次試験も合格することができた。

 大学で合気道を稽古していても、就職すると稽古をやめてしまうことがほとんどである。理由はもちろん、仕事が忙しいからである。公務員となった私は、幸いなことに最初の配属はそれほど忙しい部署ではなく、稽古を続けることができた。その後も、忙しい部署に配属になったりもしたが、稽古は休まずに続けることができた。
 OBとして学生の稽古に顔を出したので、毎年5人前後の新入生を相手に、約20年間で述べ100人程度の相手をしたことになる。自分の稽古はもとより、人を見ることや、いろいろなタイプの相手に合わせること、アドバイスの仕方・タイミングなど、指導の勉強にもなったものと思う。

 当時の神奈川大学では、三年生で初段、四年生の春に二段まで取得していた。卒業後も稽古を続けていた私は、25歳で三段となり、28歳で四段となることができた。かなり早い昇段であったため、当時は周囲(大学OB)のやっかみがすごく、若いくせに、ろくに稽古もしていないくせになどと言われたことをよく覚えている。ただし昇段は自分の意思ではなく、師範である西尾昭二先生の強い勧めと推薦によるものであった。
 この頃から、合気道以外の武術武道にも目を向けるようになり、稽古するようになった。これはもちろん、西尾昭二先生の考え方によるものが大きい。
 「合気道の道場の中で、仲間内に技がかかっても何の意味もない。武道の価値は、他武道との比較の中においてなされる。」とよくおっしゃっておられた。
 実際、合気道の高段者のほとんどは、突きもまともに突けず、剣もろくに振れず、投げもまともに打てないのに、口だけは達者な人ばかりであった。
 そして、他武道の稽古をしていると聞くと、あいつは合気道に対してまじめではない、などと評する人が意外にいたりするのであった。

 中国武術は8年間練習した。最初は、金沢八景へ八極拳を習いに通った。当時の職場で、毎朝、新聞記事をチェックする担当になっていて、たまたま広告に目が行ったのである。家は横浜市の最北端、練習場所は横浜市の最南端である。練習時間よりも往復時間の方が長かったが、合気道の稽古で埼玉にも通っていた私は、とくに負担には感じなかった。
 練習を開始して間もなく、指導者がその場所を突然やめてしまった。のちに新宿で練習していると聞いて、今度は新宿に通った。そして、長拳、剣術、槍術なども練習した。
 長拳はいわゆるカンフーと呼ばれるもので、とても速く激しく動き、跳躍や旋回も行う。また中国武術では、武器は手の延長と考えられており、短い武器として剣か刀、長い武器として槍か棍をセットにして練習するのである。ここでも、何か一つだけではなく幅広く練習するのが当然のことであった。
 後に太極拳も練習し、いくつもある太極拳の種目のうち参加者が少ない種目であったとはいえ、たった3ヶ月の練習で神奈川県の代表として全国大会に出場したのもいまではよい思い出である。
 激しいトレーニングのせいで膝の半月板を痛め、腰を痛めたが、合気道で得意になっていた私がまったく通用せずに鼻っ柱を折られたのは中国武術である。実際に殴り合ったりはしない表演の世界ではあったが、指導者は中国のチャンピオンで、練習仲間にはアジア大会でメダルを獲得するような人もいて、大人になってから練習を始めた自分は、まったく中の下にも届かないようなレベルであった。
 とにかく基礎が足りず、筋トレと柔軟を毎日みっちりと行った。柔軟がどれほどきついものかを知ったのはこのときである。また、もともとほとんど運動経験がなく貧相だった体を合気道の稽古でそれなりに鍛えたつもりであったが実はまったく大したことはないということを知って、今でも大した体ではないがそれでも十人並みの体になれたのは、中国武術の厳しいトレーニングのおかげである。

 並行して、全日本剣道連盟居合の道場にも通った。全剣連居合は五段まで取得し、夢想神伝流も奥居合まで稽古した。
 太刀打と詰合は、師匠は、師匠の師匠から習ったとのことである。ただ、一通りの手順を覚えた後はまったく稽古しなかったので、今ではほとんど覚えていないと。また打太刀しか稽古しなかったので、仕太刀の動きはまったくわからないとのことであった。全剣連の競技選手として優秀だったので、試合や昇段審査に関係のない稽古には興味が持てず、時間と労力を割く気にはならなかったのであろうことは想像に難くない。
 幸いなことに、当時のビデオと文章が残っていたので、相手を決めて稽古をしてみた。しかし居合の他に剣道の経験もあるその人は、間と間合いの感覚に乏しく、手順の覚えも悪く、まったく稽古が進まず閉口した。なんとか十本を覚えて打太刀仕太刀を交代すると、またまったく動けなくなってしまうのである。全剣連居合の長年の稽古によって、決められた手順を演じることしかできない頭と心と体になってしまったのであろう。太刀打十本、詰合十本が伝わっていたのに、大変残念に思う。
 稽古は次第に全剣連の昇段審査のための稽古ばかりとなり、大森流すらろくに稽古をしなくなった。全剣連で三段四段になっても、大森流の順番すら覚えていない稽古生がだんだん増えて来た。高段者であっても、居合とは全日本剣道連盟居合十二本のこと、という認識しかなく、しかもその自覚すらない人たちばかりであった。武術・武道・兵法としての居合ではなく、あれではまったく、全剣連居合道競技選手の集まりである。

 神奈川県立武道館で開催される初心者教室には、剣道、空手、弓道などにも参加した。
 スポーツチャンバラ、なぎなた、アーチェリー、フェンシング、杖道など、体験可能なチャンスがあれば、なんにでもどこにでも行った。
 明治神宮や日本武道館の古武道の演武会も見に行った。
 合気道では長野、新潟、滋賀、大阪、北海道まで、中国武術では中国へも合宿に行った。

 きちんと稽古したのは合気道、居合、中国武術の3つである。
 中国武術は遅くとも10歳までには練習を始めて、20代後半では体が持たず引退するような世界であった。スポーツと変わることがない。
 合気道は西尾昭二先生亡きあと稽古したいと思える道場を見つけることができなかった。
 居合は稽古していたが、完全に現代居合道であり、全剣連居合が中心で、夢想神伝流はとても古伝とは思えない内容であることをだんだんと知るようになった。また一人で行う素抜き抜刀術のみの稽古であり、西尾先生と斉藤先生の合気道出身である私には、とても武道とは思うことはできなかった。次第に、これではない、という感が強くなっていった。
 合気道が中核にあり、中国武術で体を作り、なんとなく居合を続けていたというところであろうか。

貫汪館
 大森流は十一本(流派によっては十二本)の業で構成されている。昔から、業の名称に疑問があった。一つは抜打、もう一つは陰陽進退である。大森流は基本的に“○刀”あるいは“○○刀”という名称で統一されている。なのに、なぜこの二つは例外なのか。
 何に興味を持つかは人それぞれである。それこそ生い立ちに原因があるのであろうが、それを分析するのは難しいことであるし、少なくともここではあまり意味がないだろう。同じ武道を稽古する者でも、ある者は業を稽古することにしか興味がなく、ある者は業の理合に深い造詣を持ち、ある者は武道史に強い関心を持ち、ある者は業の名称に興味を持つ、などということなのであろうか。
 私の場合は、業の名称に深い意味があると考え、その業にその名前をつけた先達の深い考えに想いを馳せ、また名前の意味から裏に隠された理合を見つけることができるのではないかと考えている。科学的アプローチであると同時に、ロマンをも感じているのである。
 陰陽進退はなぜ陰陽進退なのか。なぜ“陰陽進退刀”ではないのか。そしてそもそも“進退”であれば、“陰陽”ではなく“陽陰”ではないのか。また、二文字または三文字の業名の中で、なぜこの業名だけ四文字なのか。どうでもいいと言えばどうでもいいことだが、私にはとても気になって気になって仕方がなかったのである。

 世の中は日進月歩で、インターネットというとても便利なツールが一般的となった。もう忘れられつつあるが、ほんの十数年前までは、資料はほとんど紙で、人づてか自分の足で歩いて探すしかなかったのである。それが現在では、インターネットの検索エンジンに単語を入力するだけで、たいていのことがわかってしまう。便利なものだ。
 そしてあれこれと調べているうちに、中国の陰陽思想に“陽進陰退”という単語があることがわかった。しかし、居合関連で“陽進陰退”がヒットしたのは当時1か所だけで、しかもとくになんの説明もなかった。
 ときおり思い出したように、“陰陽進退”あるいは“陽進陰退”などという単語を検索する日々が続いた。他にもいろいろな単語で、検索を繰り返していた。
 あるとき貫汪館のホームページがヒットした。大森流居合術名覚についてのページである。気になって、メールをしてみた。昔の私からは考えられない行動力であるが、大学で合気道を稽古して、コンタクトレンズになり、あちこちに一人で出向くようになってからの私としては普通の行動である。果たして、すぐにていねいな返信をもらうことができた。悪用しない事を条件に繊細な画像を送ってもらうことができた。研究紀要も実費で送ってもらうことができた。

 当時の貫汪館のホームページは今でもそうだが背景が黒で画像や動画もほとんどなく、詳細な業の説明もなく、しかし形名はすべて記載されていた。大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰。歴史についてきちんと記載がなされていた。
 ストイックで厳格なイメージがあり、敷居が高く感じられた。定期的に講習会が開催されていることはわかったが、軽い気持ちで参加できるような雰囲気には感じられなかった。ただこれも、後で述べるが、結果的には良い方向へと働いたように思う。

 全剣連居合でも得意になっていた私は、四段の一回目の審査には合格ができなかった。神奈川県の審査は、三段までは合格率100%だが、四段から突然厳しくなる。そのため、四段が一つの壁と言われていた。
 昇段審査では、傍目には、なぜあれが合格でなぜあれが不合格なのだろうかという現象がたびたび起きる。それも人の世の常であろう。ただ今思えば、たしかに少なくとも当時の自分はたいした技量ではなかったことがよくわかる。
 いつものことであるが、そのとき得意になっているのは自分だけで、あとになって振りかえってみるとたしかにひどいものだったとわかり、恥ずかしさのあまり顔から火が出るような気持ちになる。ただ、そう思えるのは今の自分が以前よりは多少はましになったからだろうと、自分で自分をなぐさめるようにしている。

 次の審査では、なんとか四段に合格することができた。とりあえずの壁を突破してひと段落した私は、以前から気になっていた貫汪館の講習会に参加してみることにした。
 平成19年(2007)初めて参加した貫汪館の講習会は、大森流と太刀打であった。大森流十一本、太刀打十本の約二十本を午前と午後の講習会で行ったが、礼法にかなりの時間を費やし、最初の1時間では初発刀までしか稽古をしなかった。午前はけっきょく順刀まで。午後は大森流の続きと懐剣の稽古をして、太刀打十本を一気に稽古した。当時、太刀打はまだ稽古をしたことがなかったので、見よう見まねで必死に稽古したことを覚えている。
 中国武術をそれなりに経験していた私は、速く激しく動くためには、ゆっくり静かに動く練習が必要不可欠であるという認識を持っていた。全剣連居合や夢想神伝流でもゆっくりと動く稽古を、周囲から奇異の目で見られながらも、独自に行っていた。
貫汪館では、ゆっくりていねいに動くことが基本になっていた。礼法は、礼法そのものがすでに業として認識されており、業としてのレベルを要求されていた。
 当初は、大森流は多少の形が違うであろう、太刀打は手順を体験できればよい、くらいの認識であったのが正直なところである。ところが、礼法からとても高いレベルを要求され、激しい衝撃を受けた。無双神伝英信流と夢想神伝流の違いは多少でしかない、という認識でいたが、まったく別の流派であることをあらためて認識した。それと同時に、それはとりもなおさず、貫汪館のレベルが高いことを意味していた。もしもレベルが高くなかったのであれば、単なる形違いという程度の認識しか持たなかったであろう。
 またもしも講習会への参加があと半年早かったら、貫汪館のレベルを理解することもできなかったであろう。自分のレベルが足りないからである。またもしもホームページに動画が掲載されていたら、講習会へは参加しなかったかもしれない。未熟で見る目のない私は、動画を見て間違った判断を下していたかもしれないからである。そうであれば今でも、貫汪館とはまったく無縁のままだったかもしれない。

無雙神傳英信流抜刀兵法とは
 無双神伝英信流抜刀兵法は、林崎甚助重信を流祖とし、長谷川主税之助英信を中興の祖とする。林六太夫はその剣術の師であった大森六郎左衛門が創始した大森流の居合を取り入れ、あわせて土佐に伝えた。
 細川義昌は大正年間、香川の植田平太郎に無双神伝英信流を伝え残し、以後、尾形郷一貫心-梅本三男貫正-森本邦生貫汪-と、現代まで伝えられている。
 一般に無双神伝英信流抜刀兵法とは何かと問われれば、伝系の別はあるにしても、上述のような説明になるであろう。
 しかし、私にとって無双神伝英信流抜刀兵法とは<貫汪館>の無双神伝英信流抜刀兵法のことに他ならない。
 他にも無双神伝英信流は伝えられているが、これは私にとっては同名の別流派である。伝系が違うというだけの意味ではない。それは、夢想神伝流や無双直伝英信流は、無双神伝英信流と名前は似ているが別流派なのと同じくらい別流派なのである。形の手順は同じでも似て非なるものなのである。

 貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法には、大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰の形が伝えられている。これらすべてで無双神伝英信流という一つの流派なのであるが、便宜上やむをえず分類するとすれば、抜刀術・剣術・柔術の三つの要素を持っていることになる。このうちのいずれか一つが欠けたとしても、武術としては成立しない。
 無双神伝英信流の形はいずれも素晴らしい物で、いずれも自分の稽古次第では、自己を高いレベルに引き上げてくれる。
 それは例えば現代武道の剣道と空手と柔道と居合とを並習したとしても、とても到達はできない境地である。現代武道は競技化が進み、それぞれにまったく互換性がなく、本来の武道とは異なるものとなっている。人の体は一つであり、いくつものことはできない。一つの流派として、共通の理合が必要なのである。寄せ集めは所詮、寄せ集めでしかない。

 貫汪館における無双神伝英信流抜刀兵法の要点はいくつかあるが、代表的なものは、
  無理無駄がないこと
  肚で動くこと、臍下丹田で動くこと
  無念無想であること、邪念妄執を捨てること、我意我欲を離れること
などである。
 他にも具体的な技術として、そけい部をゆるめることは大変重要である。また、刀を道具として扱わず、体と一体として扱うことも大変重要なことである。
 上述のことを身に付けるために、初心の段階から徹底的に、礼法、歩法、斬撃の稽古を行う。安易には業の稽古には入らない。
 逆に、上述のことが身に付きさえすれば、次々と先の形の稽古を行う。そこでは、稽古年数や肩書きなどは何の意味も持たない。

 貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法では、一般の居合の流派と比較して、長くて重い刀を遣う。これは上で述べた“無理無駄がないこと”“肚で動くこと”“刀を体の一部として扱うこと”などの要点を守って遣う必要がある。それを、筋力トレーニングをして腕力で振り回そうとしたりしてはいけない。また、身に余るからと短くて軽い刀を遣うようでもいけない。現代に伝わる居合の流派で三尺三寸を抜く流派もあるし、もっと長い刀を抜く流派もある。要は体の遣い方一つであろう。

無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか
 私にとって無双神伝英信流とは、貫汪館の無双神伝英信流のことであると上で述べた。そして、貫汪館の無双神伝英信流の無双神伝英信流たる所以は“無理無駄がないこと”“肚で動くこと”“無念無想であること”であるとも上で述べた。
 まずは、これを教えるべきである。これらは初心者には難しく、まずは外形を教える方が、教える方も教わる方も楽ではある。しかし、外形や形の手順は、数を稽古していれば覚えるものである。しかし、いったん身に付いてしまった悪癖は、容易には取り除くことはできない。重要な点は、稽古の初心の段階から徹底的に教えるべきである。そしてそれがとても重要であるということを、繰り返し伝えるべきである。それができるかどうか、どのレベルでできるかは別のことである。
 稽古する者のレベルが上がると稽古する形のレベルも上がるというようなものではない。技術に成長がない者ほど、新しい形を求める。技術に成長がある者は、単純な形であっても飽きず繰り返し何度でも稽古をすることができる。そこには、初心の形、上級の形などは存在しない。同じ基本の形を演じたとしても、そこには歴然とレベルの差があらわれる。高いレベルとは、いかに基本のレベルを高くしたかということに他ならないのである。

 貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法には、大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰が伝えられている。これはつまり、抜刀術だけでなく、剣術だけでなく、柔術の形までがきちんと伝えられている、ということである。そこに深い意味がある。
 現代武道は、剣道なら剣道、空手なら空手、柔道なら柔道と、それぞれ専門化・細分化がされている。ルールにより勝敗が決まるため、そのルールの中で最も有利に立ち回ることが、最も合理的な行動となる。剣道家は、剣道の試合に勝つことを至上とする。そこには、空手の技術や柔道の技術はまったく必要とされない。そんなことを身に付けるための時間と労力があれば、剣道の試合に勝つために特化された技術を稽古した方がよい。当然の思考である。空手、柔道などの他武道も同様である。
 しかし、本来の武道には、ルールは存在しない。こちらが剣を抜く前に斬り掛かられ、あるいは組み付かれるかもしれない。こちらが素手のときに斬り掛かられるかもしれない。これはできるがあれはできない、という言い訳の通用しない世界である。抜刀術、剣術、柔術などの区別なく、すべてのことができなければならない。
 礼法の稽古から始め、大森流を稽古し、大小立詰の稽古ができるようになるまでには、何年もかかるかもしれない。しかし最初からその存在を示すことで、無双神伝英信流抜刀兵法は単なる素抜き抜刀術ではない、ということを無意識に理解させられるはずである。
 そして、修業が進めば、無双神伝英信流抜刀兵法のみに留まらず、剣術や柔術の稽古もすべきである。無双神伝英信流抜刀兵法の体系はそれらを網羅しているとは言え、やはり専門の剣術や柔術の稽古はしておいた方がよい。幸いにも貫汪館には、大石神影流剣術と澁川一流柔術が伝えられているのだから。これを学ばない手はないであろう。

結言 
 技術としては、“無理無駄がないこと”“肚で動くこと”“無念無想であること”。
 心得としては、抜刀術、剣術、柔術にこだわらないこと。一つのことにしばられない。
 自由になる。臨機応変融通無碍、千変万化自由自在
  1. 2013/10/05(土) 21:25:44|
  2. 昇段審査論文

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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