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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 5

柔術の歴史における澁川一流柔術の歴史とその特性

柔術とは、徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。
相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ること(護身)を重視する流儀の多いことは、他国の武術と比較して大きな特徴である。
このような技法は広く研究され、流派が多数存在した。

江戸時代以前
戦国時代から合戦のための武芸である組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われており、確認できる最古の源流は、天文元年(1532年)に竹内久盛が開眼し、その子竹内久勝が広めた「竹内流」である。
また、柔術は江戸時代になってからの呼び名であり、戦場における組討の技術(弓・鉄砲、槍、刀剣の間合いに続く格闘における技術。敵将の首を取ることも行われた。)
武士の小太刀、小刀(小脇差)、脇差などでの護身術。(小具足など。)
相撲。(武士は相撲も組討のための鍛錬方法とした。)
治安維持のための捕手術、捕縄術などが柔術の源流である。

「竹内流」は日本武術の流派で、歴史を遡る事が出来る最古の日本柔術の流派と言われている。
羽手、小具足、棒術、剣術、居合、十手などの総合的な技術を今に伝える流派である。
流祖は中世から戦国時代に垪和を拠点とした垪和氏の竹内久盛であり、天文元年(1532年)に創始したと伝わっている。
「竹内流」は日本の多くの武術流派に影響を与えて来た流派であり、この流派からは多くの分派、支流が派生している。
「竹内流」は、流祖から現在まで、現在の岡山市北区建部町角石谷にある竹内家で伝承されている。
現在は、宗家である藤一郎家、相伝家である藤十郎家の伝承が残っている。
正式には竹内流小具足腰之廻と言い、小具足、捕手術、棒術などが特に著名な流派である。現存している柔術流派の中では最も古い文献や記録が残っているため、日本柔術最古の流派と言われる事が多い。
宗家、相伝家では一般で言う柔術の事を羽手(はで)と称する。
・江戸時代初期
戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力技ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。
また、中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。
ただし、これらの流派でも読みは「やわら」であることも多い。
また、この時期に伝承に柳生新陰流の影響を受けて、小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。
・江戸時代、幕末頃
武者修行の流行とともに全国的に各流派の交流、他流試合が盛んになり、素手の乱捕用の技が作られ始めた。
現在ではどのようなルールで行われていたか不明であるが、真剣勝負の場合以外当身技は除かれたようである。
また、乱捕は組討に相当するもの、組討の鍛錬になるものとも見做された。
これらの乱捕の技術が現在の柔道の乱取と試合の源流である。

「澁川一流柔術」は、幕末に首藤蔵之進満時によって「澁川流」「難波一甫流」「浅山一伝流」をもとに創始された柔術である。
澁川一流の澁の文字は「澁川流」に、一の文字は「難波一甫流」と「浅山一伝流」の一に基づくものと伝えられており、澁川一甫一伝流の意から「澁川一流」と命名された。

「澁川流」は、澁川伴五郎義方が開いた柔術の流派である。
系統によって異なるが、柔術以外居合、剣術、その他の武器術も含む系統もある。
母体である関口流(関口新心流)とともに、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつである。
澁川伴五郎義方自身は「澁川流」を称せず「関口流」を名乗っていたこともあって、母体である「関口流」と混同されることもある。(「関口正統澁川流」等とも名乗った。また初期の江戸の澁川家の「澁川流」は、「関口新心流」と内容の多くが共通する。)
関口流同様、この流派から分かれた流派は多い。
主なものに井澤長秀が開いた関口流抜刀術(肥後流居合)、岩本儀兵衛が開いた転心流、平山行蔵が開いた忠孝心貫流などがある。

「難波一甫流」流祖・難波一甫斉久永は、天正年間(1573年~1590年)の人で、備前岡山の浮多家の家臣(家元文献)といい、他の説では長州の人で元和年代(1615年~1623年)の人といい、この差が50~60年あるが、そのどちらとも定めにくい。
難波一甫斉久永は、竹内流三代・竹内加賀介久吉の門弟といわれ、この流派は長州、広島に多く伝わり、一甫斉流、一甫流、一歩流、難波一方流、難波一甫真得流などと呼ばれている。
広島藩で最も勢力が大きかった柔術が「難波一甫流」であり、「難波一甫流」は江戸時代初期、長州より広島に伝わり、城下では代々矢野家を中心として伝えられた。
「難波一甫流」は農村地帯にまで広がり広範囲に修行者を持った。
武術の内容は和(やわらー狭義の柔術)・剣術・槍術・その他の武術に及ぶ。
「難波一甫流」の伝系
流祖 難波一甫斉久永
前原七太夫久永
福原九郎兵衛元綱
佐久間半右衛門元方
矢野次郎右衛門清方
矢野長右衛門清政
矢野新右衛門清忠
矢野徳十郎清次
矢野春蔵清良
(後見)藤井源二左衛門主好
矢野徳三郎
宇高宗助直常

「難波一甫流」の術技の根幹は意治術にあります。
意治術というのは、いわゆる臍下丹田術で、呼吸により丹田を充実させ体を統一し、筋力以上の力を出す方法で、全身の無理無駄な力、力みを排除した上で呼吸法によって丹田から全身へ筋力に頼らぬ力を伝えていきます。
「難波一甫流」を治めた方には、「力」に関する話が多く残っています。

「浅山一伝流(淺山一傳流)」は「一伝流」と略して呼ばれることも多く、剣術、居合、棒術、柔術、陣鎌(鎌術)などが含まれていた。
「浅山一伝流」の流祖は浅山一伝斎とされているが、この人物については、名前も「浅山一伝斎重晨」のほか、一伝流居合の流れを汲む不伝流の伝承では、「浅山一伝一存」、薩摩藩に伝承した系統(朝山流とも呼ばれる)では、「朝山一伝斎三五郎」とするなど、伝承によって異同がある。
以上の浅山一伝斎重晨、浅山一伝一存、浅山(朝山)一伝斎三五郎は生年、没年が大きく異なり同時代人とは思われないため、同一人物ではないとする説もがあり、実像を確定しがたい。
浅山一伝斎の師についても、「浅山一伝流」を伝えた森戸家(後述)の伝承では、師はおらず丹後の山中で自得したと伝えられている。
丹波市にある岩瀧寺はその修業の地とされ、護摩堂には門下生が残した額がある。
この他に、塚原卜伝を浅山一伝斎の師とする伝承があり、『本朝武芸小伝』では国家弥右衛門なる人物を浅山一伝斎の師とするなど、複数の異なる伝承がある。
江戸時代に第8代の館林藩士・森戸朝恒(初代 森戸三太夫)が江戸に道場を開き、浅山一伝流の名が広まった。
森戸朝恒より流儀を継承した森戸偶太は、当時の江戸で今枝良台(理方一流開祖)、中西子武(中西派一刀流第2代)、比留川彦九郎(雲弘流第3代)と並び称されるほどの達人であったという。
森戸家は代々、浅山一伝流を伝承し、森戸家の道場には、諸藩の江戸詰や参勤交代で江戸に出てきた藩士が多く入門したという。
これにより「浅山一伝流」は全国に広まった。
歴代で最も著名なのは森戸金制(森戸三太夫)である。
森戸金制が目黒不動に掲げた奉納額には1600人以上の門弟の名が記されており、その繁栄がうかがえる。
「浅山一伝流」は比較的古い流派であるが、現在に残る系統が殆どないためにその歴史は不明な点が多い。
また、「浅山一伝流」から派生、分派やその技法の一部を導入した流派も非常に多いといわれている。
浅山一伝一存の弟子とされる伊藤長太夫(伊藤不伝)が開いた不伝流居相(居合)は、江戸中期に松江藩に伝えられ、松江藩の御流儀となった。
また、水戸藩には浅山一伝流の柔術が伝えられ、浅山一伝古流、浅山大成流、浅山一伝新流など複数の系統に分かれて伝えられた。
水戸藩の系統の浅山一伝流柔術は逆手技を中心とした内容で、現存する大倉直行系の浅山一伝流体術との関係をうかがわせる。
この他にも、久留米藩士・津田教明(津田伝)は森戸金制に浅山一伝流を学び、教明の子の津田正之によって津田一伝流が開かれた。

「澁川一流柔術」の流祖である首藤蔵之進満時は幕末の人で、彼の叔父で宇和島藩浪人と伝えられている宮崎儀右衛門満義に連れられて、広島藩安芸郡坂村に来住しました。
首藤蔵之進満時は宮崎儀右衛門満義を師として「澁川流」と「難波一甫流」を習得し、さらに他所で「浅山一伝流」をも習得して、「澁川一流柔術」を創始しました。
伝系は以下の通り、
流祖 首藤蔵之進満時
   宮田友吉國嗣
車地國松正嗣
畝重實嗣昭
森本邦生嗣時
ある日、広島城下にでていた首藤蔵之進満時は五・六名の広島藩士と争いになりましたが、「澁川一流柔術」の技でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士がこの見事な働きを見ており、その松山藩士の推挙により松山藩に仕えることになりました。
これは天保十年頃(1839年)のことと、伝えられていますが、その後、首藤蔵之進満時は四国松山においても「澁川一流柔術」の指南を始めました。
明治維新以降、首藤蔵之進満時は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「澁川一流柔術」を伝え残し、明治三十年(1897年)に八十九歳で四国松山にて没しました。
「澁川一流柔術」の流祖、首藤蔵之進満時の墓は、愛媛県松山市道後湯月町の宝厳寺と広島県安芸郡坂町の二ヶ所にあります。

宝厳寺とは時宗の寺院で、時宗開祖一遍の生誕地であり、山号は豊国山。
時宗の宗祖は証誠大師 一遍上人で、浄土宗の一流、西山派の開祖 証空上人の孫弟子に当ります。
時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊とします。
この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、生命を身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えが時宗の教えです。
証誠大師 一遍上人はすべてを捨て去るために、片時も留まることなく諸国を歩き続け16年間で日本国中をほとんど歩きました。
証誠大師 一遍上人は下記のように説いています。
「念仏の行者は知恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるヽ心をもすて、極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてヽ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ、」
この言葉、澁川一流柔術流祖 首藤蔵之進満時は、彼の「澁川一流柔術」との関わりの中でどのようにとらえたのでしょうか。

「澁川一流柔術」は江戸時代、武士の時代に成立した武術の柔術であり、現代の柔道、現代の格闘技のジュージュツと状況、発想、目的などが異なっています。
それは、素手と素手、一対一でルールの中で技を競う現代の柔道、格闘技のジュージュツと違い、江戸時代の柔術は腰に刀を差していた時代の武術であるため、当然武士は事ある時には刀を用いますので、素手と素手で勝負して優劣を競うものと言う発想が全くなく、技術的な目標が最終的に、刀を手にした人間を素手で制するレベルにまで到達することにあります。
したがって、刀の動きを知らなければ刀に対処する業を身につけることは至難のことになってしまいます。
さらに、たまたま刀が側に無い場合に斬りかかられた、あるいは抜きあわす間が無いくらい急に斬りかかられた、懐剣で急に斬り付けられた際に、何とか素手で対処できるレベルに動きを高めるのが「澁川一流柔術」の業の上での目標になります。
それゆえ相手が刃物を所持していることを前提として多くの形が作られているため、相手との間合を重視しており、素手と素手による稽古はあくまで稽古の一部であり、そのほかにも相手が短刀や刀などの刃物を持っている形の状況があり、こちらが棒や十手など何らかの武器を用いてこれに対処する形もあります。
また、形の稽古のほかにも、鍛錬法として棒抜けや枕引きなども伝えられており、柔道の乱取りに相当する意治(地)稽古も伝えられていますが、意治稽古においても、投げたら一本という決まりはなく、関節を極めたり、絞め技が有効になるまで行われますが、あくまで稽古の一方法として行い、優劣を決めることはありません。
「澁川一流柔術」の稽古は、相手を抑えても、投げても、極めても、決して力んではならないということを稽古の絶対条件にしています。

上記のように「澁川一流柔術」の形は素手と素手、素手と剣術など徒手空拳で自己の身を守る術技と棒術(短棒・三尺棒・六尺棒)、十手、分童、鎖鎌、居合などの武器を用いて身を守る術技から成り立っており、形は相手の仕掛けの方法によって
・履形―中段・下段を突いてくるのを制す形。
・吉掛―肩を突き押してくるのを制す形。
・込入―両手で胸襟を掴み押すのを制す形。
・打込―懐剣で上段より打ち込むのを制す形。
・両懐剣―両手の懐剣で打ち込むのを制す形。
・互棒―懐剣で打ち込むのを短棒で制す形。※短棒は一尺六寸位
・四留―両手で両手首を握り押すのを制す形。
・拳匪―両手で合掌する手首を掴むのを制す形。
・枠型―両手で右手を掴み引くのを制す形。
・引違―四つに組み押してくるのを制す形。
・袖捕-両手で両袖を掴むのを制す形。
・二重突―両手で前帯を掴み押すのを制す形。
・一重突―右手で前帯を掴み押すのを制す形。
・片胸側-右手で胸襟を掴み押すのを制す形。
・壁沿―胸襟を掴み壁に押すのを制す形。
・睾被―馬乗りになるのを制す形。
・上抱-後方より抱きつくのを制す形。
・裏襟―後方より裏襟を引くのを制す形。
・御膳捕―並座して右手で左膝を押さえるのを制す形。
―対座して懐剣で打ち込むのを制す形。
・鯉口―行き違いの際、抜きつけようとするのを制す形。
・居合―上段より刀で斬り込むのを制す形。
・胘入-罪人に縄をかける。
・三尺棒―三尺棒で打ってくるのを制す形。
―懐剣で打ってくるのを三尺棒で制す形。
・三尺棒御膳捕―対座して懐剣で打ち込むのを三尺棒で制す形。
・六尺棒―六尺棒対六尺棒の基本の形。
・六尺棒裏棒―六尺棒対六尺棒の応用の形。
・刀と棒―刀で斬りかかるのを六尺棒で制す形。
・小棒―懐剣・刀で斬りかかるのを小棒で制す形。※小棒は指先から腕曲までの長さ
・十手―刀で斬りかかるのを十手で制す形。
・分童―刀で斬りくるのを分童鎖で制す形。
・鎖鎌―刀で斬りかかるのを鎖鎌で制す形。
・居合(抜刀術)
にグループ分けされています。
『履』には「ふみ行う、実行する」という意味があり、初めに習う履形の三十五本の形が全ての形の基本となっています。
また、「澁川一流柔術」には、それぞれの形のグループに「礼式」があり、受を制することなく押し返す動きがあり、これは「澁川一流柔術」の理念が人と争わないことをあらわしています。
「澁川一流柔術」の形は飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するように組み立てられています。

参考文献
広島藩の武術~貫心流・難波一甫流・澁川一流を中心として(森本先生にいただいた資料)
貫汪館H.P
Wikipedia



貫汪館が応援する劇団夢現舎の俳優益田喜晴さんが「ONE DAY MAYBE」に出演します。
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  1. 2013/09/30(月) 21:25:18|
  2. 昇段審査論文

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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