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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 4

論文としての体裁がよく調ていますので参考にしてください。


大石神影流参段受審課題
「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について」

1.はじめに
 大石神影流剣術とは、幕末の筑後柳河藩において、大石進種次により創始された。大石進種次は、天保3年(1832)江戸に出て男谷精一郎と試合をした話は特に有名であり、その他にも幾多の試合をしている。多くの試合に勝利を得たことから大石神影流剣術は一躍有名になり、幕末の剣術界に旋風を巻き起こした。また、フィクションを含め多数の作家の作品にも取り上げられていることから、その影響力の大きさがうかがえる。本論文では、大石神影流の歴史を知るため、大石家の系譜を中心に調べてみた。

2.大石家の系譜
 大石家の家系の由来であるが、現在の福岡県大牟田市宮部に大石家が住みついたのは大石下総で筑前岩屋の城主高橋鎮種に仕えていた。下総以前の大石家の古い記録は残っておらず、いつのころから宮部に住み着いたのか定かでないが、高橋鎮種は大友氏の武将であったことから天正年間頃と推察される。下総は天正14年(1586)の大友氏と島津氏の戦に出陣し戦死を遂げたが、その際、長男七兵衛も主君鎮種とともに割腹した。その後、三代大石種重が加藤清正に仕えた後、立花宗茂に仕え、荒地開墾して地行三十石を受けたことにより宮部に定住するようになった。

 (ⅰ)大石神影流流祖大石進種次までの系譜
 初代  大石下総
大石家始祖として高橋鎮種に仕えたが、かねてから九州統一をはかる島津義久に攻められ、岩屋城の戦において、ついに天正14年(1586)弟の大石七右衛門、大石七左衛門とともに討ち死にした。
 二代  大石七兵衛
 大石下総の嫡男。父とともに岩屋城の戦に参加したが、父が戦死した後、岩屋城において主君高橋鎮種と共に命運を絶つ。
 三代  大石太郎兵衛種重
 大石太郎兵衛種重は最初高橋家に奉公していたが、その後、肥後の加藤清正家臣となり、さらに後、立花宗茂に仕えた。宗茂は、元和6年(1620)柳河藩主となる。太郎兵衛種重は横須村(現大牟田市)の荒地を開墾し地行三十石を領する。横須村の後、宮部村(現大牟田市)に移り住む。なお、大石家録高はその後十四代種次が加増されるまで続く。
 四代  大石蔵之烝種義
 五代  大石八左衛門尉種道
 六代  大石八助種久
 七代  大石源六種忠
 八代  大石七兵衛種明
 九代  大石七大夫種正
 十代  大石七左衛門種吉
 十一代 大石八左衛門種政
 十二代 大石遊剣入道種芳
 大石遊剣入道種芳は、塩見春伯方より養子として大石家に入った。若くして柳河藩剣術指南役村上一刀尉源長寛に師事し、愛洲陰流及び大嶋流槍術の免許を受けている。その後、明和2年(1765)、24歳のときに柳河藩剣術及び槍術の指南役を仰せ付けられる。
 十三代 大石八左衛門種行
 大石遊剣入道種芳には男児がなかったため、実娘に同藩の田尻藤太を養子として迎え、大石種行を名乗らせた。種行も養父遊剣入道種芳の後を受け、柳河藩において愛洲陰流剣術及び大嶋流槍術の師範を勤めている。

 (ⅱ)大石進種次以降の大石家(大石神影流の伝系)
 十四代 大石神影流流祖 大石進種次
 大石進種次(後七大夫、武楽)は、寛政9年(1797) 八左衛門種行の嫡男として宮部村に生まれる。文政3年(1820)に祖父遊剣入道種芳より大嶋流槍術の免許を受け、その2年後には遊剣入道種芳から愛洲陰流の免許を受けた。進種次29歳の時、父八左衛門種行が亡くなり、父亡き後は進種次がその後を継いで柳河藩の槍術・剣術指南役となった。その後、独自で工夫改変を重ねて大石神影流を創始する。その成立過程は正確にわかってはいないが、森本先生の調査によれば、「大石進種次によって大石神影流の体系が整えられたのは天保8年(1837)から天保13年(1842)の間の頃と考えられます 」とされる。
大石神影流第二代師範 大石進種昌
 大石進種昌は、大石進種次の次男として文政7年(1824)に生まれる。進種昌も柳河藩槍術・剣術指南役となる。また、大石神影流第二代として大石導場も継承した。進種昌は、天保8年(1824)小城藩主に手数を披露している。また、天保11年(1827)には対馬領田代、天保12(1828)年には平戸で剣術を指南し、翌13年(1829)には久留米、福岡、秋月各藩を修行し、弘化2年(1845)には長州萩、翌3年(1846)には肥前小城より剣術引立てのための招聘を受ける。嘉永2年(1849)には江戸に赴き、諸藩から多数の入門者があった。嘉永5年(1852)には、友清祐太夫、清水和作を従え土佐で指南している。さらに安政元年(1854)には再度土佐藩から要請があり、門下三名を指南のため派遣している。このように、進種昌は柳河へ留まることなく各地に赴き修行または指南しており、大石神影流の発展への寄与は顕著である。
 大石神影流第三代師範 大石雪江
 大石雪江は、大石進種次の六男として天保10年(1839)に生まれる。雪江も幼いころより進種次、進種昌に指導を受け、慶応元年(1865)27歳のとき兄進種昌より大石神影流免許皆伝を受け、大石本家より分家し大石分家の始祖となる。明治11年(1878)兄進種昌の死去にともない大石神影流第三代目の師範となった。
 大石神影流第四代師範 板井真澄
 板井真澄は安政元年(1854)柳河藩士板井一作の次男として生まれ、幼時より大石雪江の門弟となった。ここで、大石家子孫でない板井真澄が大石神影流を継承したことにふれると、大石神影流第二代師範大石進種昌には男児がおらず、長女(一女)登に婿養子として八女郡の森家より五十規を迎えた。二人の間には明治9年(1876)長男進(三代目)をもうけ、その後の明治11年(1878)大石進種昌が死去したことにともない五十規が大石家家督を相続した。五十規の子進6歳のときに母登、父五十規を相次いで亡くし、大石導場を継承する者がいなくなったため、親戚である板井真澄夫妻が後見人として宮部大石家に移り、その後の進を養育することとなった。進は幼少のころから将来の大石神影流後継者として、師範である大石雪江、板井真澄から厳しい稽古を受けた。しかしながら、進は大石神影流を継承することがなかったため、雪江及び大石進種昌の弟子で雪江と相師範となった今村広門亡き後、板井真澄が大石神影流を継承するにいたった。
 大石神影流第五代師範 大石 一
 大石一は、大石雪江の長男として明治5年(1872)に生まれた。幼時より父雪江に大石神影流を学び、明治35年(1902)大石神影流陰の巻免許皆伝を受け、その後実家近くに導場を建て、多くの門人を指導した。また、大石一は、大石神影流師範と言うだけでなく、尋常小学校校長、高校教諭として武道の普及及び教育界に尽力している。
 大石神影流第六代師範 大石英一
 大石神影流第七代師範 森本邦生

3.大石神影流の成立
 大石神影流は、大石進種次が祖父遊剣入道種芳から大島流槍術及び愛洲陰流剣術の免許を受けた後、面や籠手等の防具を改良し、さらに、突き、胴切を工夫して大石神影流と称した。しかしながら、上述のとおりどのような過程で大石神影流が成立されたのかは定かでない。大石神影流成立のうえでその基礎となった愛洲陰流、大島流槍術及び祖父遊剣入道種芳が免許を受けた村上一刀尉源長寛について以下に記載する。

(ⅰ)愛洲陰流
愛洲陰流は、愛洲移香斎久忠によって創始された剣術である。愛洲移香斎は通称太郎左衛門忠久といい享徳元年(1452)伊勢志摩で生まれている。若いころ、関東、九州及び明国付近まで渡航したことがあると伝えられる。幼少より剣術、槍術を好み稽古に励んだ。36歳のとき、日向鵜戸の岩屋に参籠して満願の未明に神が猿の形で奥義を示して一巻の書をさずけた。これにより一流を創始し陰の流と称する。その後、愛洲移香斎は諸国を修行し、晩年は日向に居して日向守を名乗り、天文17年(1538)に没している。愛洲移香斎についての詳細は不明な点が多いが、陰流はその後多くの流派に分かれ、それぞれ隆盛した。
愛洲陰流から大石神影流への系譜について、森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日>によれば、以下のとおり述べられている。
 
足利日向守愛洲惟孝――奥山左衛門大夫宗次――上泉武蔵守藤原信綱――長尾美作守鎮宗――益永白圓入道盛次――吉田益右衛門尉光乗――石原傳次左衛門尉正盛――村上一刀尉源長寛――大石遊剱入道種芳――大石太郎兵衛尉種行――大石七太夫藤原種次

 さらに、「大石神影流の系譜は奥山左衛門大夫宗次と上泉武蔵守藤原信綱の順番は書き伝えられるうちに逆になったものだと思います 」と指摘されている。

(ⅱ)大嶋流槍術
 大嶋流槍術の流祖は美濃の人大嶋雲平(のちに伴六と改称)吉綱。天正16年(1588)横江弥五右衛門の二男として生まれ、大嶋雲八光義の養子となった。幼少より四方に遍歴して槍術を学び、その後独創して大嶋流を始めた。大嶋雲平について、増補大改訂 武芸流派大事典によればこうである。

大坂役には前田利長にしたがって大いに軍功があった。元和年間の加賀藩侍帖に二百五十石とある。後、浪人して流泊し、越前宰相に招かれたが行かず、寛永十一年、柳生宗矩のすいせんで紀州徳川家につかえ、はじめ三百石から後に七百五十石にのぼる。正保三年、隠居して伴六と称し、安心と号した。明暦三年十一月六日病死、七十歳 。

大嶋流槍術は、その後雲平吉綱からその子雲平常久へと伝わった。
 
(ⅲ)村上一刀尉源長寛
 村上一刀尉源長寛についての詳しいことはわからないが、豊後の浪人で諸国を放浪し、日田において槍術、剣術を指南した。その後柳河藩に仕え愛洲陰流と大嶋流槍術を指南し、大石遊剣入道種芳に免許皆伝を与えた。

4.大石神影流の特質
(ⅰ)防具
 大石進種次は、愛洲陰流で従来使用していた防具を大石神影流用に改良新作している。それは、手数に突きと胴切を取り入れたことで、まず、面については激しい突技にも十分対応できるよう唐竹面を廃し、13本穂の鉄面とし喉当てを取付けた。胴には胴切に対応できるよう竹による巻胴を作り、籠手はそれまでの長籠手を廃し、籠手を短くして腕を覆う範囲を小さくした。そして、もっとも特徴的なのは長竹刀である。それまで一般的に使用されていた竹刀の長さ3尺3寸を5尺3寸とし2尺も伸ばしたことである。現在の手数稽古に用いる竹刀長さは総長3尺8寸であるが、当時これほどまでに長い竹刀を使っていた大石進種次とは、一体どのような体格をしていたのであろうか。「大石神影流を語る」によれば、以下のとおりである。

進の身長について確かな伝承はないものかと探していた折しも、高瀬町の板井氏より耳寄りな話を聞いた。板井家は古くより大石家と姻戚関係にあり、家屋もおよそ二百年を経て現在に及んでいる。当主の祖父も長身であったから、進が板井家を訪問した折鴨居で丈くらべをした。このときの調べで祖父六尺、進は六尺五寸あったという。このような長身であったから五尺余の竹刀も使えたが、常人がこれを使用したのでは、この割合からみれば相当長いものになってしまう 。

と述べられており、この恵まれた体格があったからこそできた業であることは疑いようもない。しかし、大石進種次以降師範及び門弟がみなその当時の平均的な体格より大きいことはあり得ず、竹刀長さが決められているわけではなかったが、使用される竹刀長さは自分の身長に応じ、概ね立った時の乳首の高さとされており、大石進の長身からすれば5尺3寸の竹刀も妥当な長さであろう。さらに同書によれば、

二代目進種昌になると、体格はそれ程でなかったので、竹刀の作りも進むより縮小したらしく、弦に琴の紘一筋を使っている。板井真澄、大石進(三代目)について学んだ真鍋氏の実見談によれば、大石家の床の間に四尺八寸の竹刀があったのをみたという。これが種昌の竹刀であろうと思われる。竹は孟宗竹の根元を使っているから、節の間が狭く、相当の重量があって、手に取るとまるで鉄棒を握っているように感じたそうである。…(中略)…五尺三寸の竹刀は進だけで、その門弟は五尺以上の竹刀は使っていないようである。大石流では胸の高さをもって竹刀の全長としたので、五尺四五寸の人は概ね四尺二寸が適当な長さになる。大石雪江や柿原宗敬も四尺二寸を遣っているし、以後大体この位の長さを遣ったものが多い 。

との記載されており、現代のように一定長の既製品があるわけではないので、皆が同一の竹刀を用いて稽古することはされておらず、それぞれの身長に合う長さの竹刀を使用していたことがわかる。しかし、竹刀を長くしたのはただ試合に有利になるよう用いたわけではない。竹刀長さが長くなれば、単に長くなったための扱いが難しくなるだけでなく、当然その重量も変わってくる。そのため、それらを自由に使いこなす動きと技を備えるための稽古をされていたことが想像できる。

(ⅱ)構え
構えには、「真剣」「上段」「附け」「下段」「脇中段」「脇上段」「車」「裏附け」がある。「附け」の構えは、左手掌で柄頭を抑え隙があればいつでも突くことができる構えである。しかし、大石神影流は突きに特徴があるとされているが、すべての構えから即座に突けるわけではない。

(ⅲ)掛け声
 掛け声は「ホー」と「エー」の独特な大きな気合をかける。大石神影流に限ったことではないが、気合は肚から発し、準備として胸に息をため込むことをしてはならない。また、構え、動きともに呼吸にのせることが重要である。

(ⅳ)動き
大石神影流の稽古において、その動きについては鍬で土をかぶせる動きと同様であることを森本先生からご指導いただいている。藤吉 斉によれば、「進はこのような境遇に安閑としていられず、馬を飼うと田畑を耕作して家運の挽回に務めた 」と述べられ、また、板井 真一郎も「大石道場四代目師範となった私の祖父の真澄も常に畑仕事に打ち込んでいた。それは衣食の為或いは体力増進の為もあったであろうが、常々門弟に対し、鍬を握る手が即ち竹刀を握る手で、これが大石神影流の一の訓えであると語っていた 」と、同様の教えの記述があり、どちらも剣術のための特別な動きをする必要ないこと、また、日常生活において意識することの重要性があらためてわかった。

5.大石神影流の影響
 大石進種次は、天保3年(1832)及び天保10年(1839)に江戸に出て試合をしている。誰と試合をしてその結果がどうであったか興味があるが、大石家に伝わった文書が散逸されてしまったため誰と立ち会ったかは不明である。しかしながら、明治15年(1882)11月に門弟によって建てられた「大石先生碑」に男谷精一郎との立会が刻まれていることからも、江戸にて男谷との試合は間違いない。当時の江戸にてもっとも著名な男谷精一郎との試合は、大石進種次が多いに活躍したことは明らかである。
 江戸における活躍もさることながら、柳河の大石導場には各地から各藩士が多数入門している。大石進種次、進種昌への門人数については、森本先生論文に654名について次のとおり調査されている。

柳川藩以外の門人の多くは柳川藩近隣の九州諸藩に属する門人であり、一例を挙げれば三池藩門人79名、肥前小城藩門人13名、筑前秋月藩門人11名、肥前熊本藩門人11名、蓮池藩門人9名、武雄門人17名、対州藩田代門人11名の姓名が記載されている。
  一方、柳川藩からは遠方の土佐藩には60名の門人の姓名が、長州萩藩には43名の門人の姓名が、備後福山藩に8名の門人の姓名が記されているなど遠隔地にも大石神影流の門人がいたことがわかる 。

江戸で大活躍した大石進種次のもとに全国から各藩士が教えを乞うため柳河藩に集まり
九州はもとより、中国、四国から北陸、信越地方にまでおよび、その活躍、影響力はかなり大きかったことがわかる。

6.おわりに
 幕末に創始された大石神影流が現在まで、途切れることなく連綿と継承されている名門大石神影流に感謝したい。また、従来の防具や竹刀を改良し、新流派を興すとともに江戸で活躍するとともに多数の門弟を指導育成した大石進種次の偉大さを改めて実感した。今後、これだけの著名な流派であるからこそ、一部のマニアや所謂武道オタクに侵されることのないよう、正しく伝えてゆくことが重要であると考える。

後注
 森本邦生先生,2013,「大石神影流に関する考察」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, http://kanoukan.web.fc2.com/oishi/hstry/kousatu.html).
森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日> ,貫汪館ホ
ームページ(2013年8月18日取得,
http://kanoukan.blog78.fc2.com/blog-entry-282.html).
同上
 綿谷 雪、山田忠史 編:増補大改訂 武芸流派大事典 、東京コピイ出版部、1978年 127頁
 藤吉 斉:大石神影流を語る、第一プリント社、初版、1963年 48-49頁
 同上 49-50頁
 同上 7頁
 板井 真一郎:大石神影流の周辺、フタバ印刷社、初版、1988年 13-14頁
 森本邦生先生 「大石神影流『諸国門人姓名録』について」日本武道学会第40回大
会発表抄録〈平成19年8月30日〉



参考文献
1. 藤吉 斉:『大石神影流を語る』、藤吉 斉、第一版、1963年。
2. 今井善雄:『日本武道体系第十巻 武道の歴史』、同朋舎出版、第一版、1982年。
3. 板井真一郎:『大石神影流の周辺: 附 大友流詫磨系の末裔』、板井真一郎、第一版、1988年。
4. 森本邦生先生:2013,「師範と伝系」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
5. 森本邦生先生:2013, 「大石神影流関係史跡」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
6. 森本邦生先生:2013,「大石神影流に関する考察」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
7. 森本邦生先生 「大石神影流『諸国門人姓名録』について」日本武道学会第40回大会発表抄録〈2007年8月30日〉。
8. 森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日> ,貫汪館  
  ホームページ(2013年8月18日取得,
).
9. 島田貞一:『日本武道体系第七巻 槍術・薙刀術・棒術・鎖鎌術・手裏剣術』、 同朋舎出版、第一版、1982年
10. 綿谷 雪、山田忠史 編:『増補大改訂 武芸流派大事典』 、東京コピイ出版部、第一版、1978年
11. 横山健堂:『日本武道史』、島津書房、第一版、1991年

昨日と同じ関門橋の写真です。海流が右へ流れていましたので左右の船の速さが異なっていました。
kannmonnkyouDSC03976.jpg
  1. 2013/09/29(日) 21:25:42|
  2. 昇段審査論文

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連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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