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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文 3

昇段審査課題論文 (無雙神傳英信流抜刀兵法 三段受審)

『居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について』



居合は、居相、座合、抜刀、抜剣、鞘離れ、鞘の内などとも呼ばれ、立合に対して用いられた言葉とされる。「和漢三才繪図」の武芸十八般の一つ、「武芸小伝」の武芸九般のひとつに数えられている武術の一つである。10)
しかし元々は、抜刀術は剣術の一部である。刀を抜いた状態で敵に対する技術を剣術とすれば、未だ鞘から刀を抜いていない状態で敵に対する技術を居合術とするが、広く剣術として考えるほうが普通である。私が昔少しだけ稽古をした北辰一刀流にも抜刀術が含まれていた。江戸時代後期に誕生した剣術にも抜刀術の体系が含まれているということは、抜刀術は剣術の一部と考えられていた証左であると考える。
では何故、あるいはいつ、抜刀術が独立した武術として考えられたのか。それは「中興抜刀之始祖」とされている林崎甚助重信に負うところが大きい。剣術の一部であった抜刀術を体系立て、専門的に教導したのが、林崎甚助であった。この林崎の流れから多くの抜刀術の流派が生まれている。田宮流、一宮流、伯耆流、無雙直傳英信流、無雙神傳英信流などが挙げられる。また抜刀術の専門流派ではないが、関口流や水鷗流も林崎の流れをくむ抜刀術をその中核に据えている。2)
天文十一年(1542年)生まれの林崎甚助が抜刀術の工夫を続け、奥義を悟ったとされるのが永禄二年(1559年)である。1)
私は抜刀術の歴史はここから始まったと考える。わずか十七歳で奥義を悟ったことになるが、十三歳より父の仇を討つために百箇日の参籠修行を経たと言われており、現代の十七歳とは比較もできない経験を積んだことを考えると抜刀術の骨格はこの時に生まれたとしても大袈裟ではないと思う。
林崎の工夫した抜刀術はどのようなものであったのだろうか。現在も残る神夢想林崎流などで見ることができる形は、少なくとも仇討を果たしたのちの、人を教導するためのものであったと思う。もう少し素朴な技で刀法と体の運用方法を磨いたのではないか。
「八方萬字剣」という刀法が神夢想林崎流に残されている4)。上、下、左、右、袈裟、逆袈裟、袈裟切上げ、逆袈裟切上げの八つの刀法を納刀の状態から稽古する。敵のあらゆる攻撃に臨機応変に対応するためには、居合術者もあらゆる抜刀方法を習得しておく必要があるはずで、これこそが林崎甚助が独自に稽古した抜刀術の原点ではないか。長大な刀でゆっくりと八つの刀法を稽古することで、体の動かし方を学び、動きの質を変えることができたのではないかと考える。無理無駄を排した動きへの開眼があったのではないか。
議論が居合術の歴史から逸れてしまった観があるが、居合術の本質を考えるうえでその起源を考えることは重要なことである。
私には仇を討つために、なぜ林崎甚助が抜刀術を極めたのか不思議であった。いわゆる剣術を修行し、勝負をしようと考えるのが普通ではないか。今もその疑問は解けないが、林崎甚助が抜刀術を確立したお蔭で、後世の人間はそれをさらに深く極めていくことができた。剣術と違い、きわめて不利な状態を想定し、その中で最大限に体を有効に活用し抜刀し我が身を護るという技術は、心法の深化も促したはずである。いかなる時にも油断をせず、すぐに技が出せるように身体の姿勢や動作に気を配ることはもちろんであるが、刀を鞘から発する前に、礼儀や様々な駆け引きによって敵を作らず我が身を護ることを目指すようになったであろう。太平の世では、この心法のほうが重要であったのではないか。その中で、居合歌之巻にあるような境地「居合とは人に切られず人きらずただ受けとめてたいらかに勝つ」に至るようになったのだ。
また、座り込んだ状態からの抜刀は、体の有効な使い方を習得するにも絶大な効果を発揮したはずだ。師の森本先生は以下のように解説している。7)

「人は立つことによって様々な事を可能にするが、引力に拘束されるが故に、よりしっかり立とうとし、それが人の動きを制限してしまう。つまり崩れたくないために足首、膝、股関節、腰に不自由になってしまうほどの力みを入れ、それによって安心を得ようとする。しかし、武術における立姿は一見不動に見えながらも、そよ風が吹けばそのままふわっと動かされてしまうような自由自在な姿勢でなければならない。」

坐すことも含めた技術自体と稽古方法、想定などをひっくるめた居合術の体系全体で、身心の開発に寄与したのだ。どうして座るということに着想できたのかは分からないが、恐るべき慧眼というべきだと思う。
武術は本来、ルールのない戦いに生き残るための技術であり、そういう意味では不利な条件を想定して我が身を護る抜刀技法とそのための体術、心法を修行する居合術は武術の中の武術といえるかもしれない。武芸十八般の中に含まれて当然の武術であった。林崎以後、居合術は武術の一つとして確実に武士たちへ浸透していったのである。
これまで「中興抜刀之祖」と呼ばれた林崎の居合を中心に述べてきたが、もちろん林崎の居合とは直接関わりを持たない抜刀術も存在する。剣術の一部として存在することが多いと思われるが、香取神道流や立身流、無外流(自鏡流)、浅山一伝流などが現在も残っているようだ。中には優れた体系を持ちながら、失伝してしまった居合術もあるだろう。
しかし、現代にも残る居合術の多くは、林崎の居合と何等かの形で関わりをもつ流儀が大半となっており、居合の歴史は林崎居合の歴史と断じざるをえない。
現代に隆盛を誇る居合術は、無雙直傳英信流と夢想神伝流である。統計的には分からないが、おそらくこの二流派で居合術修行者の半数以上を占めるであろう。このうち、夢想神伝流は、明治期に無雙神傳英信流を学んだ中山博道が興した流儀であるので、便宜上、無雙神傳英信流の中に入れて考える。
無雙直傳英信流および無雙神傳英信流の流れは以下のようになっている。6)
林崎甚助重信(初代)以後、田宮兵衛業正(二代)、長野無楽斉槿露(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗続(五代)、万野団右衛門尉信定(六代)、長谷川主税助英信(七代)、荒井勢哲清信(八代)と代を重ねた。
九代の林六太夫守政により、土佐へ伝えられた。流名は当初、無雙流と呼ばれていたようであるが、その後には長谷川英信流、長谷川流と呼称される。さらに後の幕末の頃には師範であった谷村亀之丞と下村茂市の遣い方の違いから谷村の「無雙直傳英信流」と下村の「無雙神傳英信流」へと呼称が変化したようである。違いは一体どこで生まれたのか。
長谷川英信流が土佐へ伝えられたところから詳しく見てみる。
無雙流を土佐へ伝えた林六太夫守政は多芸異能の人であったようである。知行八十石の御料理人頭から最後には知行百六十石の馬廻にまで昇格している。柔術や剣術、書にも達している。林六太夫にとって居合術は余技であり、その技は代々林家に伝えられていくことになる。無雙直傳英信流の流れは、以下のように記されている。
林六太夫守政(九代)
林安太夫政詡(十代)
大黒元右衛門清勝(十一代)
林益之丞政誠(十二代)
依田万蔵敬勝(十三代)
林弥太夫政敬(十四代)
谷村亀之丞自雄(十五代)
五藤孫兵衛正亮(十六代)
大江正路子敬(十七代)
林家に伝えられた居合術がその時の優秀な弟子たちを間に挟みながら続いていることが読み取れる。
一方の無雙神傳英信流の流系は十一代以後、下のようになる。
松吉貞助久盛(十二代)
山川久蔵幸雅(十三代)
下川茂市定政(十四代)
細川義昌義馬(十五代)
この十二代松吉貞助久盛が「神傳」の鍵となる人であることがわかる。山川久蔵は当初「直傳英信流」の十二代林益之丞に師事していたのに、突如子弟の縁を切り、松吉貞助から伝書を受けている。わが師の森本邦夫先生が指摘8)されているように、松吉が林家の無雙流に独自の工夫を加え、それに山川が共感したというところが、「直傳」と「神傳」の違いになったのであろう。
しかし、もっと大きな変化が明治維新を境に両流派に訪れたと考えている。
明治維新は、直傳英信流では五藤孫兵衛と大江正路、神傳英信流では細川義昌の時代であった。特筆すべきは大江正路である。この人はそれまでの居合を整理統合し、無雙直傳英信流として世に出したとその弟子たちから認識3)されている。問題はその「世に出す」方法にあったのだと思う。
大江自身は、旧制中学の剣道教師であり、初期の門人はそのときの生徒たちだった3)。当時の日本は、欧州列強に伍していくため、子弟の教育に力を入れており、多くの生徒を一時に教えていかなくてはならなかった。そして西南戦争以後は学校教育の一環として剣道の授業が広がっていった9)。その指導方法は個々の技を分解して誰にでも理解しやすい方法がとられたのだと思う。それは、大江が明治中期以後に全国に普及させようとした居合術にも役に立つ方法であったはずだ。私自身、直傳英信流を初めて習い始めたころは、ひとつひとつの動作を指示してもらって技を覚えた経験がある。居合に初めて触れる人にはそのようにしか指導できないということでもあろう。大江もそのように教えざるを得なかったのではないか。それでも、継続的な指導を通して、ひとつひとつの動作を連携させ、さらには同時に動かせるようにし、最終的には無理・無駄のない動きを習得させることができれば、現在のように「直傳」と「神傳」の差は生じなかったはずである。大江の指導範囲は新潟や岡山、大阪を中心とする阪神地区、そして地元高知にまで至る。それぞれの場所で門弟を抱えたことであろうが、それらの門弟を継続的に指導するのは困難だったに違いない。かくして、個々の動きの連携がとれず、ましてや無駄な動きを排するところまで考えも至らぬ弟子が増えたことであろう。以上はあくまで推測であるが、その証拠として現在の直傳英信流の技や指導方法を挙げることができる。大江は普及を急ぎすぎた、もしくは広げ過ぎたのであろう。
この普及形と本来の形との相違に苦心しているのは、何も英信流居合術だけではない。神道夢想流杖術も普及形と古流本来の形の乖離が深刻な問題になっている。5)
ただ、神道夢想流杖術の場合は、同じ流名を冠し、また古流の形を守る人たちの存在も十分に知られているため、普及形から本来の形を志向することは容易である。
「直傳」「神傳」英信流の場合はそれほど簡単ではない。特に直傳には宗家と名乗る人たちが複数存在し、かつ日本剣道連盟と日本居合道連盟をはじめ、複数の団体に「直傳」の修行者が存在している。元を辿れば同じ流派とは言え、これでは双方の差を認め、本来の居合術を探求し、現代人の身心の開発に寄与することはほとんど不可能である。
無雙神傳英信流の歴史は、無雙直傳英信流の歴史の裏返しである。直傳英信流が広く普及していったのに対し、神傳英信流は細川義昌以来、植田平太郎、尾形郷一、梅本三男とまるでコップの水をそのまま次のコップへと移すように継承され、わが師森本邦生先生に至る。(ここでは中山博道の夢想神伝流は除いて考えている。)もちろん複数の門弟が指導されてきたことであろうが、その裾野は決して広くはない。しかし、確実にコップの水は移されてきた。
無雙神傳英信流の特質は、林崎甚助以来の刀法を代々の師家が発展させながら連綿と伝えてきたその歴史と歴史を裏付ける無理無駄のない刀法そのものに存在する。無理無駄のない動きは、大勢の人間が一斉に稽古するようなスタイルの教授法では教授しきれないことは「直傳」での実験で明らかだ。また、直傳ではほとんど伝えられていない大小詰や大小立詰などの柔術技法も残されていることも特筆に値するだろう。技はかからなければ意味がないが、柔術稽古では相手を立てて稽古するので実地に「相手にかかる技」とはいかなるものかを常に問われていることになる。その観点から抜刀術を見直すことが可能であるため、ともすれば華美に流れがちな居合から一線を画すことができたはずだ。
一言でいえば、直傳英信流は「形」を伝えるところで終わってしまい、神傳英信流は「動き」を伝えることに成功したと言えるだろう。
無理無駄のない刀法とは何かを稽古を通じて常に自覚し、また自覚を促すために個別指導を取らざるを得ず、またその指導法が無理無駄のない刀法を保存するという入れ子構造のようになっていることが、無雙神傳英信流の特質の一つであると思う。
また、稽古の体系にも無雙神傳英信流の特質が表れている。稽古の段階として、大森流、英信流表、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、英信流奥がある。
初期の段階の大森流と英信流表の一人稽古でいかに無理無駄なく動くことが難しいかを体感させることで自分の体と心を見つめる修行が始まる。
この一人稽古で十分に体を使う動きを体得させると、次に太刀打、詰合による対人稽古が始まる。ここでは、一人稽古で培った動きを対人においても発揮できるかが試される。一人稽古では、ともすれば自分勝手に想定した相手に対し技を振るうことも可能であるが、対人稽古では間合い、機、拍子などがいつも異なり、相手の動きに応じながら自分の動きを流儀の動きにしていかねばならない。
この段階を過ぎると今度は大小詰、大小立詰に入る。これも対人稽古であるが、抜刀しない。抜刀術の流儀であるのに、抜刀しない形が存在することを初めて知ったとき、私はとても驚いた。これは、先述したように、技がかかるとはどういうことか、柔術を稽古すればよくわかるので、稽古体系の一部に入れられたのではないかとも思う。もちろん、抜刀だけにこだわらず、いかなる事態、抜刀ができない事態にも対処できる、自由な心を養うために存在するのでもあるのだろう。鞘の内での自由な対応を目指す居合術にあっては、なくてはならない技術であるのだ。驚いたということは、己の不明を証言したということで、汗顔の至りである。
そして最終段階の英信流奥に至る。ここでは坐技、立技が存在し、想定の相手も複数になる。人ごみの中や、両脇、上がふさがれた状態という想定もある。ここで求められているのは、自由な心と体であるのだと思う。どのような状況、どのような相手であっても、流儀の心と体を維持すれば対処できるはずであるという声が聞こえてきそうである。この段階に至れば、おそらく型を離れてどのような状況でも刀を抜けるレベルになり、状況に応じた技を創作できる、いや、創作してしまうようになるのではないだろうか。そしてそれこそ流祖林崎甚助以来、代々の師家が求め指導してきた武術としての居合術であるのだと思う。
無雙神傳英信流の特質とは何か。それは居合という武術を習得するために極めて合理的に体系づけられた稽古体系にあると言える。
ここまで、林崎居合を原点とする居合術である無雙直傳英信流と無雙神傳英信流の歴史と無雙神傳英信流の特質を考えてきた。四百五十年に亘る技術の集大成を稽古できることの幸運に思い至る。この伝統を次代に伝えることができる実力を養うことに全力で取り組むことを誓って擱筆する。




【参考文献】
1) 朝倉一善:居合道の祖 林崎甚助の実像 居合道虎の巻 スキージャーナル株式会社 2008年
2) 朝倉一善:林崎甚助重信の門人たち 同上
3) 岩田憲一:古流居合の本道 スキージャーナル 初版2002年
4) 剣道日本編集部:神夢想林崎流居合 剣道日本2009年3月号 第439巻2009年
5) 松井健二:古流へのいざないとしての杖道打太刀入門 体育とスポーツ出版社 初版2011年
6) 三谷義里:詳解居合・無双直伝英信流 スキージャーナル 初版1986年
7) 森本邦生:無雙神傳英信流の形…大森流、英信流奥 広島県立廿日市西高等学校研究紀要第13号 2004年
8) 森本邦生:無雙神傳英信流の研究(1)
―土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察―
9) 大塚忠義:日本剣道の歴史 窓社 初版1995年
10) 谷口覓:居合道日本史 叢文社 初版1997年


昨日と同じときに撮った関門海峡の写真です。
kannmonnkaikyouDSC03978.jpg
  1. 2013/09/28(土) 21:25:03|
  2. 昇段審査論文

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