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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査論文

 昇段審査の優秀論文を載せていきます。初めは初段の論文です。

「武道における礼と渋川一流柔術における礼法について述べなさい」

この度、初段の昇段試験に臨むにあたり「武道における礼」を学ぶ為読んだ書物にあった『礼』について書かれていた箇所を抜粋してみる。
「礼が優れた護身の心得である。礼による護身は、腕力による護身よりもはるかに効率的でスマートだ。『礼』がどう身を護り、不作法がどう敵をつくって危険を招くかということを教えれば、それはきわめてレベルの高い、すぐれた武道教育になる」
「礼とは人の良識であり、ものの道理である」
「人の暮らしには「和楽」と「けじめ」の二つが必要で、礼が受け持つのは人と人との境目を明らかにすること」
「形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である」
「相手に不快を与えない(困らせない、怒らせない、淋しがらせない、心配させない、手数をかけさせない、いやがらせない、恥をかかせない、当惑させない)こと」
「自分本位、自己中心の考え方を克服する努力が必要」
「武道人の立居振舞いには「他人への敬意」と「隙のなさ」と「威」がそなわっていなければならない」
「武士としての気位と恥を教えなければならない立場の者が、自分に教えを請う者たちを「人」として扱わず、そのプライドを踏みにじるとしたら、それは大きな自己矛盾である。相手が子供であっても、敬意を払っている。少年たちに対する「礼」があったのである」
「敵を倒すための「間積もり」が、使い方次第で人に不快を与えない、人をいたわるための作法に転化するのである」
「『間合いをとることでいやな相手とも付き合える』互いに一定の間合いを保っていれば、勝負はつかないが共存はできる。隣人との付き合い方の知恵ではないか」

まだまだ細かく見落としている事が多々ありますが、「武道における礼」とは相手に不快を与えないという事を常に考えながら行動する事で、その行動が無駄に敵を作ることなく、自身を護る事になっているのだと解釈しました。
力を使わずとも、身を護れる術を日々の暮らしの中で自分のものにしておく事が根本にあり、心も体もいつ何時も柔軟に対処できる体制を整えておく。その為の心と体の間積りを習得する事が武道における礼を実践できるのではないかと思いました。
袴を着、刀を差している姿がカッコいいのでなく、その姿に恥じない生き方をしている姿がカッコいいと思わせているのだと分かりました。

「渋川一流における礼法について」は、道場に通うようになり真っ先に感動したことがあります。それは先に述べた「武道における礼」で「少年に対しても敬意を払う」との記述がありましたが、まさにその行動を先生方がとって下さっている事です。私は子供に何か習い事をと、探している中で渋川一流に出会ったのですが、まだまだ落ち着きのない息子に、ともすれば頭ごなしに言う事をきかせようとしてしまいがちですが、先生方は子供に対しても、諭すように子供の目線に下がりお話下さり、子供と思っていてもその真剣さは伝わる訳で子供の態度が変わるのを見て、こちらにお世話になることは子供にも私自身にも良い事だと確信しました。
子供に武道を学ばせたいと思った背景には、昨今の物騒な時代背景もあり、自分の身は自分で護る「力」を養って欲しい。でも自分から相手に向かって行くのではなく、やむなく向かってくる相手に対して対処出来る様になってもらいたい。という思いがあり、柔道や
空手は自分から相手に向かっていく勝手なイメージがあり、また近所の道場を見学した際、先生が竹刀を手にしているのを見て、あの竹刀でどうするつもりなんだろうと、不信感が沸いてしまい、通うに至りませんでした。書物にも 「自分に教えを請う者たちを「人」として扱わず、そのプライドを踏みにじるとしたら、それは大きな自己矛盾である」とありました。竹刀を持って指導をする先生のようになりたいと思う子はいないのではないかと思いました。また、そう思わせてはいけないのだと思いました。
渋川一流では形をまだ出来ない息子に、一見子供の悪ふざけに付きあっているかのように見える稽古風景で、子守をして頂いている様な、申し訳ない気持ちで私は自身の稽古をしているのですが、両腕を捕まれた時の逃げ方、抱きつかれたときの逃げ方などちゃんと子供の身についているんです。手加減とはまた違う、受取る側の許容に対して、それに相応しいやり方で習得出来るよう、対処して下さっているのだと感じています。書物にあった「形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である」の様に、こうきたら、こうする。と教えるのでなく、普段何気ない時に技が出来るよう教えて下さっているのだと思いました。実際子供が騒がしくしている時、両腕をつかんで話そうとすると、捕まれた手を振り払う動作をしてきますし、寝室に入る際「ここ道場ね」と言いながら一礼をして入る練習をしてみたり、普段の生活の中にちゃんと教えて頂いた事が活かされています。私のほうが形に囚われすぎて力が入り、心と体のバランスが崩れてしまっているのだと気づかされます。
この度、昇段試験で私自身「武道の礼」を学ぶ為、書物を読んで「文武両道」を勘違いしていたことに気づきました。私は「文」は学問の事だと思っていました。勉強とスポーツどちらも優れている人のことを言うのだと思っていましたが、「文」は礼節であり、武道人の行動律としての「礼儀作法」である。とありました。「文」は思いやり、謙虚さ、
といった内面の事だと学びました。
渋川一流は「武」の部分の技だけでなく、「文」の礼法も教われる環境なのだと思いました。それが、「こうだ。」と押し付けるのでなく、先生方の接する態度そのものが「文」の部分の指導になっているのだと思います。
稽古に通うようになってしばらくして稽古始め先生方を前に礼をする時、初心者の私は何年も稽古している小学生達より下座に座るべきだと思っていましたが、先生に大人の中での下座に着くよう言われ、良いのかと少しためらいを感じながら座っていましたが、書物を読んだ今は「年配者」と言うだけで敬うに値し、年少者は年配者に対して敬意をはらい、また年配者は「年配者」と言えども、長く稽古している「年少者」に対して敬意ある態度で接し、敬われるに値する大人にならなければいけない。手本となれる人にならなければいけないと言う事を教わったのだと感じています。
「心」も「形」もまだまだな私が、子供たちより上座に座るに値するのかと、いまだに恐縮する気持ちで列に並んでいますが、このまま精進し、まさに「文武両道」心と体を鍛えて行きたいと思います。
高校の時、週に一時間「礼法」と言う授業があった。商業高校だった為、ジビネスマナー取得の為の授業なので、食事のマナーはこう。席順はこう。と教わり実際社会人になり、役に立っていると思いますが、今思うのは、そこに「心」の部分の指導がなかったなと言う事です。実践できるスキルを教えるのが授業なのかもしれません。実際「礼法」の授業があり恥をかかず済んだ経験はあります。ですが「武道における礼」を学んで、心の大切さを理解しました。
今まで技の取得を目指していましたが、これからは心と技の取得に精進してまいります。

 先日訪れた桂浜の風景です。久々に良く晴れた海を見ました。
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  1. 2013/09/26(木) 21:25:09|
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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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