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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

海外での指導 7

 観て取ることができる人たちでした。相対して行う形や手数の稽古で、二日目、三日目になると動きを正すのに言葉はいりませんでした。私が動きで示すだけで、自分の悪いところを正されるのです。
 初日に吸収されたものが多いので、自分自身を見つめることができたようです。日本人によくある「わかりません」という事がありませんでした。

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  1. 2017/10/01(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

海外での指導 8

 体を使う事になれているのだろうと感じました。宿泊させていただいたインディアナポリス支部長の家もホームパティーでもてなしてくださった方の家も豪華で素晴らしく新しく感じた家でしたが中古を購入してご自身で新しくされたのだそうです。
 体を使うことになれている方は無理無駄のない動きがどういうものであるかを理解しておられます。

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  1. 2017/10/02(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

教えられていない

 海外に指導に行くと、なかには複数の日本人によるセミナーを受けた経験がある方がおられます。そのような方に共通しているのが「先生が話されるような詳細なことは教えてもらったことがない。」と言われることです。どういうことかというと、外形だけを教えられているのです。
 海外で教えられる日本人が、あえて教えないのか、また知らないから教えることができないのかはわかりませんが、日本人に教えなければならない事は、海外の方にも教えなければならず、大切なことを教えていなければ海外の方が日本の武道を学んでくださる意味がありません。どうせ外国人だからわからないだろうと教えずに済むようなことではありません。

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  1. 2017/10/03(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

ダブルスタンダード

 貫汪館では他の古武道を習っている方の入門は認めていません。これは流派間で難しい問題が生じることを恐れるためだけではありません。
 たとえば他流派の居合で、初心の内から動きの正確さを細部まで求められ、「振りかぶった刀の角度は」「斬り下ろした刀は床から〇〇cm」「抜き付けたときの腕と体の角度は」「抜き付けは敵の眼を切る」という指導を受けていたら、無雙神傳英信流で「振りかぶりは丹田中心に、脇が閉じていれば腕が止まるところがある」「斬撃は刀が振りかぶる前の状態になれば自然に止まる」「体を開き、腕を使わなければ抜き付けの開きは自然に生まれる」「抜き付けは敵の右側面」という指導とは相容れず、無雙神傳英信流の上達は不可能に近いからです。
 そのような意味から、他流派に所属する形の入門はお断りしています。また、貫汪館に所属して居ながら、他流派に所属することも禁じています。

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  1. 2017/10/04(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古道具をまたがない

 刀、木刀、竹刀、棒等々の稽古道具は私たちにとって大切なものですから跨いではなりません。
 もし他者の稽古道具が通路を邪魔しているようなときには所持者に断わってから動かしてください。無断で他者の稽古道具を動かすことがないよう心得てください。もし、所持者がおらず、どうしようもない場合には動かさなければなりませんが、その場合でも必ずあとから所持者に動かした旨を伝えてください。
 稽古道具をどこにおいたら邪魔にならないかを考えるのは当然のことです。

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  1. 2017/10/05(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

思い

 居合や剣術の稽古を始めたばかりの方の多くが、「思い通りに素早く刀を動かしたい」と思われ、柔術の稽古を始めたばかりの方の多くが、「思い通りに相手を投げ抑えたい」と思われます。このように思うのは普通のことでしょう。
 しかし、この思いがなくならなければ上達し始めません。いかに心身を有効に用いていくかを工夫した結果、上記の状態に近づけるのであって、初めから結果を求めて稽古すると何も得ることがなくなってしまうのです。茶道や華道の稽古をしているという感覚で稽古できる人の方がかえって上達はすみやかです。

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  1. 2017/10/06(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

わからなくて当然

 指導されたとおりに動いているのかどうかわからず、不安であるのは当然のことです。稽古年数がそれほどでもないのに自分自身が分かるようになっていれば、そのレベルは中級者の域に達しています。自分自身でわからないからこそ、師があれこれと導いてくれます。自分自身でわかるようになるというのは自分で自分を正せるレベルにあることを意味します。
 自分自身がよくわからない人は、教えられたことを会得しようと、教えられたままに努めることで、やがてわかるようになってきます。わからないからと言ってそこに自分の思いを加えてわかるようにしてしまうと、道を外れてしまいます。

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  1. 2017/10/07(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

立会

 半棒の「立会」は棒を扱う時の手の内を習うためには最適の形です。打方の斬り込みを右にかわしたときに棒を横たえ、棒に斬り込ませますが、この時に棒を握りしめていたら棒は半転しません。緩みすぎていたらたたき落とされてしまいます。また、臍下丹田とつながっていなければ手の内だけを整えても歪な廻り方しかしません。うまくできなければ何十回でも繰り返して稽古しなければなりません。自分で半転させるのではなく打方の斬り込みによって自然に半転するように工夫してください。

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  1. 2017/10/08(日) 21:25:00|
  2. 柔術 業

手の内

 居合の手の内も、剣術の手の内も、柔術で相手をとるときの手の内も基本的に変わることはありません。
 親指の働きが大切で他の四指は決して握り込むようなことはしません。掌が接したところに意識を持つのではなく、その先の切先や相手の体の中心にまで働く(気が通る)手の内でなければなりません。

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  1. 2017/10/09(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

受け取る

 初めの内は教えられたことは全て受け取り消化する覚悟が必要です。教え方にも伝統のある古武道の流派を習得しようとするのに自分の考えを入れて自分なりに解釈し、自分なりに稽古していては道から外れてしまいます。難しいことかと思いますが自分を無にして先入観を捨てて、そのまま受け取るように努めてください。

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  1. 2017/10/10(火) 03:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

見せて教える

 あるレベルにある方には見せることによって教えてください。初心者に対しても理解できる範囲は、あるいは少し上のレベルを教えるときにも極力言葉を避けて教えるべきです。言葉を多用して教えてしまうと教える者自身の動きが自ら発した言葉にとらわれやがて、旧式のロボットのようにインプットされたようにしか動けず、武道の稽古ではなくなってしまいます。
 相対した稽古は勿論の事、素抜き抜刀術のように一人で動く稽古でも、極力見せてください。

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  1. 2017/10/11(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

立姿勢での鼠蹊部の緩み

 立つということそのものが地面を蹴ろうとする動きになりがちで、そのため足首に力が入り、膝を伸ばそうとし、鼠蹊部も伸ばしてしまいます。このような状態になると上半身と下半身はばらばらになり臍下丹田は意識できません。
 座姿勢で臍下丹田を意識できるのに立姿勢で意識できない方は座姿勢に戻り、下半身がどのような状態にあるかを確認して、立っていてもその感覚と違わない状態を求めてください。

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  1. 2017/10/12(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について

 無雙神傳英信流抜刀兵法 3段の論文を載せます。非常に良く書かれていますので参考にしてください。

 先ず、初めに(武術流派としての)居合とは何か?について考えてみたい。所謂素抜き抜刀術と呼ばれるものは現在、居合の流派のみならず多数の剣術流派の中に体系として存在している。最も古い剣術流派の一つと言われる「天真正伝香取神道流」にも素抜き抜刀術はあり、私が貫汪館で学んでいる剣術流派である「大石神影流」、柔術流派である「渋川一流」にも素抜き抜刀術は存在している。しかし、素抜き抜刀術が存在しても「大石神影流」は剣術流派であり、「渋川一流」は柔術流派である。抜刀術がある=居合の流派ではない。
 剣術流派、柔術流派、居合術流派それぞれをその流派たらしめているものは何だろうか? それは流派の根本的な動き、「身法」を会得するために何を稽古の中心に据えているかであると考える。剣術流派である「大石神影流」は剣術の「形」を稽古することが中心であり、剣術の形稽古によって身法を身につけていく稽古体系になっている。また、柔術流派である「渋川一流」は「履形」等の素手対素手の形稽古を始めに稽古することにより流派の身法を学んでいく。そして居合術流派である「無雙神傳英信流抜刀兵法」はその体系に剣術の形である「太刀打」、柔術的技法である「大小詰」「大小立詰」を含みつつも稽古の中心はあくまで素抜き抜刀術の稽古なのであり、素抜き抜刀術の稽古により流派の身法を身につけていく。
 居合の流派としての歴史は素抜き抜刀術を稽古の中心に据えたことから始まると考えられる。そして抜刀術中心の稽古体系を最初に確立したとされるのが「中興抜刀之始祖」といわれる林崎甚助重信である。林崎甚助重信は天文11年(1542年)、出羽国楯山林崎(現山形県村山市林崎)に生まれた。父は楯岡氏六代目の楯岡満英に仕えていた浅野数馬源重治、幼名は民治丸といった。林崎甚助が武術を志したのは仇討ちのためと伝えられる。父浅野数馬が天文16年(1547年)熊野明神での囲碁の帰途、坂上主膳の闇討ちに逢い暗殺された。民治丸は父の仇討ちを志し、天文23年(1554年)13歳にして仇討ちのための剣法上達を祈願して楯岡城武芸師範東根刑部太夫に入門し、修行に励んだ。永禄2年(1559年)18歳にして民治丸は開眼し、元服して村名を姓として「林崎甚助源重信」と名乗り仇討ちの旅に出た。永禄4年(1561年)林崎甚助は京都で仇の坂上主膳を討ち果たし本懐を遂げる。甚助は帰郷して熊野大明神に刀を奉納し、これより林崎流を称したといわれる。
 現在に伝わる「神夢想林崎流」の特徴は必ず稽古に相手を置き、敵が九寸五分の小刀にて突いてくるのを自分は三尺三寸の刀を以って突く前に切り止める修行を行うものである。相手が小刀、自らが三尺三寸の刀での超近距離での攻防の想定は非常に特異なものに感じられる。闇討ちに逢った父浅野数馬の仇討ちを志した少年浅野民治丸(林崎甚助の幼名)が現在の「神夢想林崎流」に伝わる形のような修行をしたのだろうか? 仇討ちという直接的な目的があるならもっと単純な技法を修練したのではないだろうか?余談であるが私が以前学んだ中国武術「八極拳」には小さい鉄球を入れた麻袋を掌で一日数百回叩くという練功法があり、仇討ちのために手を凶器化するものと伝えられていた。浅野民治丸少年がどのような修行を行ったかについては謎のままである。しかし、13歳で修行を始め20歳で仇討ちの本懐を遂げるほどの強さを身に付けたのは本人の才能、努力も大きな要素であったと思われるが、修行の方法に革新的な要素があったと思わざるを得ない。その要素とは何であろうか? 私は大きく二つの要素があると考える。
 一つは座姿勢からの抜刀という特殊な状況での修練により極めて高度な身法を会得することが出来たのではないかということである。座る姿勢の方が立つ姿勢より重力に抗しない、無理無駄のない身体の状態を会得することを容易にすることに気づいたのではないだろうか。
 もう一つの要素は三尺三寸という長大な刀での抜刀の修行がやはり、高度な身法の会得へと繋がったのではないかということである。「無雙神傳英信流抜刀兵法」では身長により多少長さに差はあるものの、概ね二尺八寸から三尺の長さの刀で稽古を行っている。私は現在、二尺八寸の刀で稽古を行っているが(身長は168cm)入門当初は先生から貸していただいた二尺五寸の刀で稽古を行っていた。入門から半年ほど経て注文していた刀が届き、初めて二尺八寸の刀での稽古を行った時の驚きは今でも忘れられない。全く刀が抜けないのだ。
 先ほどまで差していた二尺五寸の刀なら不調法ながらも抜けていたものが全く抜けない。わずか三寸の長さの差が体感的には倍の長さにも感じれられ、正座のまま身動き出来なくなってしまった。短い刀なら「手」を使いそれなりに抜くことが出来ても長い刀は手で抜くことは出来ない。身体を使い、身法で抜かなければ抜くことは出来ない。三尺三寸という長大な刀で修練を行った林崎甚助が高度な身法を身につけたことは想像に難くない。
 居合術流派を確立した林崎甚助重信は私が学ぶ「無双神伝英信流抜刀兵法」の流祖でもある。林崎甚助重信以降の伝系は以下のとおりである。

 林崎甚助重信(初代)、田宮平兵衛業正(二代)、長野無楽入道僅露斎(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗読(五代)、萬野団右衛門信貞(六代)、長谷川主悦之助英信(七代)、荒井兵作信定(荒井清哲)(八代)、林六太夫守政(九代)、林安太夫(十代)、大黒元右衛門清勝(十一代)、松吉八左衛門久盛(十二代)、山川久蔵幸雅(十三代)、下村茂一、坪内清助長順(十四代)、細川義昌(嶋村善馬)、嶋村右馬允(丞)義郷(十五代)、植田平太郎竹生(十六代)、尾形郷一貫心(十七代)、梅本三男貫正(十八代)、森本邦生貫汪(十九代)

 現在の「無雙神傳英信流抜刀兵法」を考える上で歴代伝承者の中でエポックとなる人物が第九代 林六太夫守政である。林六太夫守政は寛文3年(1663年)土佐国(現高知県)に生まれた。父は土佐山内家の御料理人頭であった林政右衛門。林六太夫守政は江戸勤務の際に第八代 荒井兵作信定(荒井清哲)より居合を学び、第九代の伝承者となった。この林六太夫守政により土佐に居合が根付くことになり、以降英信流の居合は土佐居合とも呼ばれるようになった。また、現在「無雙神傳英信流抜刀兵法」では「大森流」をはじめに稽古し、次に英信流を稽古することになっている。この「大森流」は新陰流の伝承者大森六郎左衛門によって編纂されたものである。
※一般には「大森流」は新陰流に小笠原流礼法を取り入れて編纂したというのが通説である。しかし、私の師匠である森本邦生先生が高知県の自由民権記念館の細川家寄託文書にある「大森流居合術名覚」(これは慶応2年に十四代 下村茂一から十五代 細川義昌(当時は嶋村善馬)に出された大森流の伝書である)を研究した結果、「大森流」は新陰流・無楽流・一宮流・柳生新陰流・一刀流を学んだ大森六郎左衛門がそれらの流派を基に編纂されたという推論も成立することを発表している。
 林六太夫守政は大森六郎左衛門より新陰流を学び、「大森流」を無双流の居合に取り入れた。これ以降、片膝立ちの座法の英信流の前に正座法の「大森流」を稽古する体系となり、「無雙神傳英信流抜刀兵法」の稽古体系の骨格が確立されたと考える。
 林六太夫守政が「大森流」を取り入れたことによって確立された現在の「無雙神傳英信流抜刀兵法」の稽古体系は以下のとおりとなっている。

1. 大森流
(1)初発刀(2)左刀(3)右刀(4)当刀(5)陰陽進退(6)流刀(7)順刀(8)逆刀(9)勢中刀(10)虎乱刀(11)抜打
2.英信流 表
(1)横雲(2)虎一足(3)稲妻(4)浮雲(5)山下風(6)岩浪(7)鱗返(8)浪返(9)瀧落(10)抜打
3.太刀打
(1)出合(2)附入(3)請流(4)請入(5)月影(6)水月刀(7)独妙剣(8)絶妙剣(9)心妙剣(10)打込
4.詰合
(1)発早(2)拳取(3)岩浪(4)八重垣(5)鱗形(6)位弛(7)燕返(8)眼関落(柄砕)(9)水月(10)霞剣
5.大小詰
(1)抱詰(2)骨防返(3)柄留(4)小手留(5)胸留(6)右伏(7)左伏(8)山影詰
6.大小立詰
(1)袖摺返(2)骨防返(3)鍔打返(4)〆捕(5)蜻蛉返(6)乱曲(7)電光石火
7.英信流 奥
(1)向払(2)柄留(3)向詰(4)前後詰(5)両詰(6)三角(7)四角(8)棚下(9)虎走(10)人中(11)行連
(12)速達(13)行違(14)夜太刀(15)追掛斬(16)五方斬(17)放打(18)抜打(19)馳抜(20)抜打

 「大森流」は前項で説明したとおり第九代 林六太夫守政によって英信流に取り入れられたもので英信流との最も大きな違いは英信流が片膝立ちの座法を取ることに対して正座で座すことである。大森流で最も大切なのは正座であり、正しく座ることが出来れば「大森流」を半ば会得しているといっても過言ではないだろう。私の師匠である森本邦生先生は「大森流」の正座について以下のように説明している。
 「大森流の基本は正座にある。正座こそがすべてといっても過言ではない。人は立つことにより様々なことを可能とするが、引力に拘束されるが故に、よりしっかり立とうとし、それが人に動きを制限してしまう。つまり、崩れたくないために足首、膝、股関節、腰に不自由になってしまうほどの力みを入れ、それによって安心を得ようとする。しかし、武術における立姿は一見不動に見えながらも、そよ風が吹けばそのままふわっと動かされてしまうような自由自在な姿勢でなければならない。正しく無理無駄なく自然なままに座れることが、後の業に繋がっていく。つまり、居合いにおける正座の姿勢では足首、股関節、腰は自然に引力によって正され無理無駄な力は全く入っておらず、また、下半身が自然であるが故にそれにのる上半身の腹、背、胸、肩、腕、首にも全く無理・無駄な力は入らない。この姿勢のまま動けることが武術としての居合いの業となっていく」
 「大森流」に続いて稽古を行う「英信流 表」の特徴は最後に行う「抜打」を除いて(「抜打」は大森流の「抜打」と全く同じであり正座で行う)立膝の姿勢で行うことである。正座と立膝の違いはあるが、座すためのポイントは「大森流」の正座と同様であり、正座が正しく出来ていなければ動くことは難しい。特に4番目に行う「浮雲」は「無雙神傳英信流抜刀兵法」の全ての技法のなかでも1、2を争う難易度であり、立ち姿勢でも座った時と同様の無理無駄のない状態になっていなければ満足に動くことは到底不可能である。
 「英信流 表」に続いて稽古を行うのが「太刀打」である。「大森流」「英信流 表」は相手を想定して一人で稽古するものであるが、「太刀打」は打太刀、仕太刀に分かれて二人で稽古を行う剣術の形である。大切なことは相手がいても「大森流」「英信流 表」で培った無理無駄のない動きが出来るかということであり、「大森流」「英信流 表」が正しく出来ているかチェックすることができるということである。
 「太刀打」に続いて行うのが「詰合」である。「太刀打」同様、二人で行こない、目的も「太刀打」同様であるが、前半はお互いに座姿勢から行う。剣術と居合の中間的な技法を学ぶものである。
 「詰合」に続いて行うのが「大小詰」「大小立詰」である。大小とは太刀と小刀のことであり、太刀を押さえられた状態から相手を崩す柔術的技法を学ぶものである。柔術的技法といっても身法は今までの稽古で培ってきたものと同様であり、無手で行う居合といってもよいものである。
 「無双神伝英信流抜刀兵法」の修行者が最後に学ぶのが「英信流 奥」である。ここで再び一人稽古に戻ることになる。今までの稽古で身に付けた身法をもって自由自在な動きを身につけることが目的である。

 最後にまとめとして私が思う「無雙神傳英信流抜刀兵法」の特質について述べてみたい。
私は「無雙神傳英信流抜刀兵法」の特質は以下の3点であると考えている。
1.無理無駄のない動きであること。
2.太刀打ち、詰合、大小詰、大小立詰が伝承されていること。
3.集団教授法を採用していないこと。
 1は無駄な力を使わないこと。特に手足等の末端の力を使わず丹田からの力を伝えることにより全ての動きを行うことで、加齢により筋力が衰えることがあっても武道としての動きは衰えない。江戸時代の武士は年を取ったからといって現在のスポーツ選手のように引退することはなく、戦う準備をし続ける必要があった。このため生の筋力に頼った動きに価値が見出されなかったのであろうと思われる。
 2は所謂、素抜き抜刀術だけでなく、剣術技法である太刀打、居合と剣術の中間的技法である詰合、柔術的技法である大小詰、大小立詰を体系に含んでいること。大森流、英信流表、英信流奥は所謂、素抜き抜刀術であり、相手を想定し一人で修練を行うものである。一般の人が居合と聞いて思い浮かべるのがおそらくこの部分であろう。利点は相手を想定し、一人で行うために自身の動きを内省的に把握することが比較的容易なため、自身の動きを修正し、高めていくことができることである。問題点は相手を想定するといっても自身の都合の良い想定になってしまいがちであり、独りよがりな動きに陥る危険性があることである。太刀打、詰合を行うことにより、素抜き抜刀術の想定が正しいか、実在の相手からのプレッシャーを掛けられた状態でも正しく動くことが出来ているかを確かめることが出来る。また、柔術的技法である大小詰、大小立詰を行うことにより、居合(素抜き抜刀術)が正しい身法で行われているか確認することができる。大小詰、大小立詰の身法は居合い(素抜き抜刀術)と同じであり、大小詰、大小立詰で力に頼らず技をかけることができていれば、居合い(素抜き抜刀術)も力に頼らずに動くことができているといえるのである。
 3は現在行われている所謂武道スポーツが集団教授法を主体にしているのに対し、無双神伝英信流抜刀兵法では号令に合わせて1、2といった動きで練習することはないことである。※師と一緒に抜くことはあるが、あくまで師の動きを目に映して動くのであり、集団教授法とは異なる。
 集団教授法は大勢の人間に効率よく「かたち」と「動きの順番」を指導することには優れており、剣道、柔道、空手道等が学校で教授される際に考案されたものと考えられる。当初は初心者や短期間練習する者向けのものであったものが時代を経るに連れ次第に集団教授法が練習の主体になっていったものと思われる。以上のような経緯からも判るように集団教授法では「かたち」と「動きの順番」の取得が第一の目的とされるため、古伝の武術が目指す無理無駄のない精妙な身法、その身法を支える心法の取得は難しいものと言わざるを得ない。
 古伝の練習法には現代に生きる私達には一見効率の悪いものに見えるものもあるが、流派の体系として深い意味があり目先の効率に拘り安易に変えてしまうと本当に大事にしなければいけないものを失ってしまうことを心に留めておかなければならない。

【参考文献】
 森本邦生:無雙神傳英信流の形・・・大森流、英信流 奥 
広島県立廿日市西高等学校 研究紀要 第13号
学研:歴史群像シリーズ 日本の剣術 2006年1月19日 第2版
貫汪館ホームページ 無双神伝英信流の歴史、形
 
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  1. 2017/10/13(金) 21:25:00|
  2. 居合 総論

拝見する態度

 上位者の形の演武を道場内で拝見するときには正座で拝見するのが基本です。これは必ず守ってください。はじめからあぐらをかいて座るということはありません。
 柔術などの稽古で師が動きを見せたいときには、立ってこの位置にくるように指示しますが、たとえ立っていたとしてもどのような態度で拝見してもよいということはありません。あくまで礼節を保った態度で拝見しなければなりません。
 他流派の先生の演武を拝見させていただくときにはなおさらのこと、礼儀を欠いてはいけません。

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  1. 2017/10/14(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

道場を共有する場合

 公共の道場などで他流派、他武道が同じ空間で稽古をされている場合、不用意に拝見することは慎まなければなりません。自分が休憩している場合などに、ついつい目が行きがちになるものですが、それでも拝見することは慎まなければなりません。
 本来ならば仕切りがあり、壁があってしかるべきなのですが、そういうわけにもいきませんから、しかたなく同じ空間で稽古しています。許可もないのに拝見することは礼を失することになります。

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  1. 2017/10/15(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

初心者

 高知県立歴史民俗資料館で大石神影流剣術の体験会をしたとき、全くの初心者の方が稽古してくださいましたが素晴らしいと感じたことがあります。それは相手の動きをよく観ておられることです。
 初めて木刀を手にする女性の方も多く居られましたが、お互いにお互いの動きをよく観ておられいい加減なタイミングで動くことはされなかったのです。体験してみようと思われる初心者の方ですから皆さん真摯な態度であり、指導されたように動かなければ危ないという思いもあったのかと思いますが、初心者の持たれている良い面を伸ばすことの大切さを強く感じました。

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  1. 2017/10/16(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一人稽古

 私は高校生の時に入門させていただいた時に居合の師は無雙神傳英信流抜刀兵法の梅本三男貫正先生だけと決めていましたので、大学で広島を離れ茨城県に行った後も他の師につくことはありませんでした。したがって広島に帰った時以外は大学の古武道場で一人稽古をしていました。また、就職してからも6年間は広島を離れていましたので一人稽古が続き、広島に帰った時に先生に教えを受けていました。
 一人で稽古しているので広島では先生にいろいろと変な癖がついているのを修正され「また下手になった。」と言われることもありましたが、一人稽古を続けることによって自分自身がより理解でき、先生に指導を受けときに先生のご指導が、深く理解できるようになったと感じていました。
 一人で稽古を重ねるときには自分自身の心と体をより深く観察し、稽古を続けてください。

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  1. 2017/10/17(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

無念無想

 形稽古で一つ一つを正確にと、手の高さ、足の向き、切っ先の高さ等々を考えながら稽古してはいけません。頭をつかって計算しながら稽古をしていると一つ一つの動きに居着いてしまい、全てがバラバラになってしまいます。
 無念無想というのは宗教的な無念無想をいうのではなく、居着かないための無念無想です。そのためにはなるべく頭を空にして、頭ではなく体が働くようにしなければなりません。一度体が働くことを理解すると、あとの稽古は楽になっていくはずです。

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  1. 2017/10/18(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 1

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 9月に行われた日本武道学会第 50 回記念大会での私の発表を数回に分けてあげていきます。

日本における銃剣道の起源について
The origins of jukendo: bayonet combat in japan


Ⅰ はじめに
 銃剣道は剣道や柔道と異なり日本発祥の武道ではなく,幕末に西洋砲術をとり入れた際に付随してとり入れられた銃剣(槍)術がはじまりである。その後,明治時代になって西洋を起源とする銃剣(槍)術に改良が加えられ日本式の銃剣術を確立し現在の銃剣道に至っている。本研究の目的は幕末における銃剣(槍)術の実態を明らかにすることにある。

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
1.高島流砲術の成立
 文化4年(1807)にエトロフ事件が勃発すると,長崎ではそれまで佐賀・福岡両藩によって交代守備されていた古台場の外に,港内に7カ所の台場が新たに設けられその守備を地役人が受け持つこととなった。高島秋帆(1798-1866)の父である高島四郎兵衛がそのうちの一つである出島を受け持った。四郎兵衛は荻野流増補新術を習得し文化7年(1810)に免許を受けた。高島秋帆は父の着眼と指導によって西洋砲術の研究に没頭したとされる1)。
 高島秋帆は文政6年(1823)に長崎出島のオランダ商館長となったヨアン・ウィルレム・ド・スチュレルから西洋砲術を習った。スチュレルは14歳のときにオランダ陸軍に入隊し,砲手となり,商館長着任当時は陸軍大佐であった2)。
 高島秋帆が高島流砲術を称したのは天保6年(1835)で,天保8年(1837)の肥後藩有吉一郎兵衛からの高島宛て起請文には
一、荻野流の事
一、同新流の事
一、高島流の事
一、西洋銃陣の事
とあり当時高島秋帆が荻野流,荻野流増補新術,高島流砲術(西洋砲術),西洋銃陣の4項目を指導していたことがわかる(のちに荻野流と荻野流増補新術は削除される)。このうち西洋銃陣はオランダの教練書によるもので,一般条項及び各個教練,中隊教練,大隊教練,リニー教練の4種の教練書によったものである3)。銃剣(槍)の使用法はこの西洋銃陣にふくまれていた。

  1. 2017/10/19(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 2

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
2.銃剣の使用について
(1)銃剣と銃鎗(槍)について
 銃の先に装着する武具にたいして銃剣または銃槍という言葉が用いられ,明治期には銃剣術を銃槍術とも言った。銃剣も銃槍も使用方法は異ならない。銃剣と銃槍という用語の違いはその形状にあり,刃がついており刀の形状をしているものを銃剣と言い, 棒状の先端が鋭利にとがっているものを銃鎗(槍)といったが,混用されている場合もある。
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(2)ヨーロッパにおける状況
 16世紀における小銃の有効射程は100メートルで2分間に1発程度の発射速度であり火力単独では敵を防御できず,長剣を銃手に携行させた。また騎兵の襲撃に対する歩兵の援護手段として槍を集団的に使用していた。1660年代にフランス兵が短剣を銃口に縛着して敵陣に突入したところから,銃剣の使用が始まり,1703年にはフランス陸軍制式兵器となって軍における槍の装備は騎兵を除いて逐次姿を消していった4)。この状況はヨーロッパ各国においてもほぼ同じであったと考えられる。
  1. 2017/10/20(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 3

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
2.銃剣の使用について
(3)高島流における銃鎗(剣)の使用とその批判並びに擁護論
 天保10年(1839)にアヘン戦争が起こると高島秋帆は西洋砲術の採用を願う「天保上書」を長崎奉行田口加賀守に提出した。田口はこれを江戸に進達し,その結果天保12年(1841)5月9日に徳丸原で演練が行われることになった5)。

 高島秋帆は次のように演練を行った。

モルチール筒にてボンベン玉仕掛打 但し、八丁目印小旗これを建つ
一番
二番
三番
  同筒にて焼打玉
四番
五番
  ホーイツスル筒にて小形ボンベン仕掛横打 八丁目印同断
六番
七番
  同筒にて数玉
八番
馬上筒 往返二筋
鉄砲備打
 右下知
野戦筒三連 但し、一連四人づつ
小筒打方
 以上

このうち鉄砲備打ではゲウェール銃が用いられ,人員は99人であった。また備打は下記のように行われた6)。
   ゲウェール備打
一、一文字備へ備へ中、左右へ打方
一、右一文字へを変じ、後打方、また元の備へになる
一、一文字備へその儘、左備へに取り直し打方
一、三方備へに変じ打方
一、ゲウェールへ鎗を付け、一重備へに変じ、敵に突かけ打方
一、一重備へ則ち三重備へ、また一文字に変じ
一、小口引きになる
一、乱足野路押前
一、一重備へ隠れ石火矢備へ、四切に乱打
一、石火矢押出し早打
一、追打ちに変じ打方
一、繰引だ方
一、輪備へに変じ打方
一、一文字備へに変じ打方

 ゲウェール備打のうち銃鎗(剣)の使用は「ゲウェールへ鎗を付け、一重備へに変じ、敵に突かけ打方」という部分である。
 この銃鎗(剣)の使用に対して幕府鉄砲方の井上左太夫は次のように批判している。
 「また、筒先に鎗穂の如き物取りはずしに仕り、日本の筒より便利の様に相見え候へども、…中略…日本にては鎗、長刀ならびに間近に相成り候へば帯刀の業もこれあり候故、鎗の如きものは不要にて」7)
 この批判に対して、井上左太夫の意見を問答形式で論評した金令山人(鈴木春山または江川英龍8))は次のように銃鎗(剣)の使用を擁護している。「また日本においては鎗、長刀間近に相成り候へば、帯刀の業もこれあり候故、鎗の如きものは不要云々と申し候へども、鎗、長刀、のうへになほまた鉄砲にも鎗付きをり候はば、それだけが助けと存じ候」9)
 また、『江川坦庵全集 別巻』には江川英龍が銃鎗(剣)を擁護する立場であり、江川坦庵全集には井上左太夫の論に対して、「彼らはまた吾國には長刀太刀槍あるが故に銃槍は不用なりというが、それ吶喊して敵陣を突くの戦法を知らざるの言なり。鐡砲組にして槍組を兼ね得ると兼ね得ざるといずれが便なるや。」10)と弁駁の要旨が記されている。

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  1. 2017/10/21(土) 21:25:00|
  2. 未分類

日本における銃剣道の起源について 4

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
2.銃剣の使用について
(4)高島流の発展と銃剣の使用
 高島流砲術と西洋銃陣は高島秋帆から皆伝を許された者たちによって発展していく。西洋銃陣は西洋における発達にともない,日本でもその翻訳書をもとに習練された。
 佐賀藩の武雄領では領主鍋島十左衛門茂義が天保3年(1832),家臣の平山三平に高島秋帆の父高島四郎兵衛に西洋砲術を学ばせた。ついで天保5年(1834)には鍋島十左衛門茂義自ら高島四郎兵衛・高島秋帆に入門した。天保11年には佐賀藩主鍋島直正は西洋砲術の親閲をおこない,病臥中であった鍋島十左衛門に代わり坂部三十郎が砲の射撃を指揮し,平山醇左衛門と浦田八郎左衛門が西洋銃陣の指揮を行ったという11)。
 薩摩藩では天保9年(1838)に荻野流砲術師範であった鳥居平八・平七の兄弟を高島秋帆に入門させた。兄弟は翌年には免状を得て帰藩,さらに天保12年にも高島秋帆のもとで学んだ。薩摩藩は天保13年(1842)に演習を行い射撃および銃陣の教練を行った12)。
 田原藩では天保13年に村上定平が高島秋帆に師事し皆伝を許され,台場の築造替や大砲鋳造,銃陣訓練を行った13)。
 越前藩では弘化4年(1847)に高島秋帆の弟子で幕臣であった下曽根金三郎に藩士十数名を入門させ,西尾源太左衛門父子が皆伝を許された。藩主松平慶永は西尾父子が指揮する銃陣調練を検閲し,嘉永4年(1851)に御家流と改称して全藩の砲術を御家流に統一した14)。
 幕府では徳丸原での演練後,江川英龍と下曽根金三郎が高島秋帆より皆伝を得て,教授を開始した15)。安政3年(1856)には講武所が設置され,文久2年(1862)には陸軍が設立された16)。さらに慶應2年(1866)からはフランス軍事顧問団による幕府陸軍への教育が始まった17)。
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  1. 2017/10/22(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 5

Ⅲ 号令の日本語化
1.高島秋帆のオランダ語号令の使用
 高島秋帆はオランダ人より西洋銃陣の教授はオランダ語によることを厳命されていたという。その理由は表向きは「〇蘭人、日本詞ヲツカフ事、御禁法ナリ、〇西洋流ヲ修行ナスモノニハ必西洋辞ニテ銃陣ヲツタフヘシ、其故ハ後世、原書渡り、追々翻訳モ成ル時ニ至リ、辞を解セザレハ用ヲなさす」ということにあったとされるが,その実は日本進出を図る欧米先進諸国の中で日本との交易活動や学術文化の交流を優位に進めようとするオランダの文化的戦略があったと考察されている18)。
2.オランダ語号令に対する批判
 高島秋帆が徳丸ケ原の砲術調練を行った際、先述のように幕府鉄砲方の井上左太夫はこれを批判しているが,この批判の中にオランダ語による号令の使用に対する批判も含まれていた。井上は下記のように述べた。
 「一、鎗付小筒にて備打ち候節、異体の服、笠等用い、殊に蘭語にて進退指揮仕り候は、心得違いの義と存じ奉り候間、堅く御差留め仰せ渡され候方、然るべきやと存じ奉り候」19)
 これにたいして金令山人は「かつまた蘭語相用ゐ候義一通りならざる義云々と申し候は、何故に蘭語を用ゐ候へば一通ならざる義に御座候や。実に然るゆゑんも候て、異国の語を用ゐ候ては一通ならざる義に候はば、まづ我が国にてこおれまで用ゐ来り候異国詞より、改め候方然るべくと存じ候。そもたばこと申し候者は、慶長の蛮国より渡り候て、我が国の貴賤おしなべてこれを嗜まざる者これなき位に御座候。たばこは蛮語にて唐土、天竺、和蘭は勿論、バンコク皆たばこと唱へ候。またたび、かつぱ、めりやす、さらさ、さんとめ、びろうど、らしや、ごろふくりんの類、数多御座候て、かぞふるにいとまなく候。…中略…畢竟異国後に候とも遣ひ馴れ候へば、自国の語の如に相成り候ことに御座候。愚案には、唐音にても蘭語にても、軍兵を指揮仕り候如きは、便利を主と仕り候て、よろしきに随ふ方しかるべく候はん。」20)
3.鋭音号令
 上記のように指揮の号令は便利な言葉を用いた方がよいと金山人は述べているが,『幕末期日本におけるオランダ語号令の受容とその日本語化問題』で指摘されているように21),天保14年(1843)5月21日付の江川英龍から高島秋帆門下の同門である下曽根金三郎,小野金三郎,秋元宰介,兼松繁蔵あて書簡に下記のようにあることから,号令の日本語化の試みは高島秋帆の徳丸原での演練後まもなくはじまったらしい。
 「當流備向下知言葉之儀、蘭語混雜相用候も如何ニ付、師家存付を以夫々相改流儀中者いつれも一様ニいたし、誰下知にても自在相成候様いたし度候間、去々丑年中師家((秋帆))滯府中も右之趣、精々申談歸鄕後も文通を以て、申遣相成候儀承知には候得共、未及其儀、彼是致し候打ち、於彼地御吟味ニ相成候儀ニ而右一件落着迄は尚見合、是迄其儘ニ相用來候得共、今般御鐡砲方之御用被仰付候上は前條之次第に拘り罷在候而は都而私之筋ニ可相當哉御皆傳之儀ニ付、一應及御相談候、御存意無、御伏臟御申聞御座候様奉存候 以上」22)
 江川英龍は高島秋帆の徳丸原での演練後すぐに秋帆と号令の日本語化について話し,秋帆が長崎に帰った後も文通でその日本語化を相談していた。
 その後,江川英龍は「鋭音号令」と呼ばれる現在に通じる号令を考案した23)。オランダ語をたんに和訳しただけでは勢いがないため「右へ廻れ」を「廻れ―右」,「銃を肩へ」を「肩へ―銃(ツツ」)」,「刀を付け」を「付け―剣」とするなどの工夫を行った24)。それにともない次の「Ⅳ 実技の内容」にみるように銃剣(槍)術に用いる号令も日本語化された。
銃剣(槍)術に用いる号令の日本語化を銃剣(槍)術の日本化の始まりととらえることができる。
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  1. 2017/10/23(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 6

Ⅳ 実技の内容
 銃剣(槍)術の修錬は翻訳洋書によって行われており幕府はフランス人教官の着任まではオランダ陸軍の教練書に従った。幕府陸軍所の元治元年12月の『官版 歩兵練法 第二帙』25)は1860、61年版オランダ歩兵教練書の翻訳であるが,その第六部第二教に銃槍術の項目がある。教習は教師の号令に従って各個にその動作を行うもので、実際に相手をつけての練習については記されていない。
 第六部第二教には,次の順で号令による銃槍術の教育について述べている。
1.号令によって集団教授する人数と拙い者への教育。
2.教育するときの隊形と構え及び基本的な突き技のための体の動かし方。
3.前後左右への体の動かし方
4.異なった突き方と防御方法
5.応用動作

『官版 歩兵練法 第二帙』第六部第二教の要点を記す。なお同書には具体的な動きを表す絵図が載せらえていないため,慶應2年(1866)またはその前年に発行され,講武所の服装のスタイルをしているとされる26)『早合点調練双六』27)の絵図を付す。また,英国のスタイルではあるが, 『官版 歩兵練法 第二帙』第六部第二教の構えと突いた状態の説明と合致する『英国尾栓銃練兵新式』28)の絵図も付す。

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  1. 2017/10/24(火) 21:25:00|
  2. 未分類

日本における銃剣道の起源について 7

銃槍術
第百六十章
 銃槍の教習は12名以内で行う。4名以上の場合は2列とする。
第百六十一章
 教師ははじめに模範を示し,その動きを解説する。
 新兵で拙いものがあるときには,その者は他と別に教育し他の者は休憩させる。
第百六十二章

姿勢及び侵襲
第百六十二章
(号令)右(左)開き=進メ
 (銃槍術の訓練の隊形)
  前後の距離を4歩取らせ後列のものは前列の者の間に来るようにする。銃は体側に立てる。
第百六十三章
(号令)右(左)閉め=進メ
  元の隊形に集まり,銃は肩にかつぐ。


『英国尾栓銃練兵新式』
第百六十四章
(号令)戦争=用意
  (号令の前に歩兵・剣騎・槍騎のいずれに対するかを告げる)
  銃槍を構えた姿勢。
  左つま先を前に向け右足の中心が左足のかかとの真後ろになるよう右足を50cm後方へ引き,両膝を曲げる。体重の半分以上は右足にかける。
  頭は左に向ける。
  同時に銃を構える。銃槍の先は敵の胸につける。

第百六十五章
(号令)拍子=一
 (重心が右足にあることを確認するため)左足を上げ足の裏で地面を打つ
第百六十六章
(号令)正面
  銃を側面に立て,気をつけの姿勢になる。
第百六十七章
第一(号令)半襲(はんがかり)=一
戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)のまま重心を左足にかけ左膝を曲げ右ひざを伸ばす。
第二(号令)却(ひ)き=一
  左膝を伸ばし右膝を曲げ重心を後ろにかける。
第三(号令)故トへ
  戦争の姿勢に戻る。
第百六十八章

『早合点調練双六』
 第一(号令)襲(かかり)=一
  前足(左足)を遠く前に出し,後足(右足)を伸ばす。左足の膝はつま先の上に位置する。
第二(号令)却(ひ)き=一
  左膝を伸ばし右膝を曲げ重心を後ろにかける。前足(左足)を挙げる
第三(号令)故トへ
  前足で地を地面を打ち,戦争の姿勢(銃を構えた姿勢)に戻る。

転回,進退,飛躍,逃避
第百六十九章
 (号令)右(左)へ=転(マハ)れ
  左足(前足)球で左右に回転し,これにともない右足(後足)を移動させる。
第百七十章
 (号令)右向き=回(カヘ)れ
  左足(前足)球で回転し後方を向く。
第百七十一章
 (号令)足前へ=進メ
  左足(前足)を36cm前に出し後足(右足)を引き付ける。
第百七十ニ章
 (号令)足後とへ=却(ひ)ケ
  左足(前足)を36cm後ろにひき右足(後足)もこれに従い同距離しりぞく。
第百七十三章
 (号令)前(後ろ)へ飛び=進メ
  右足(後足)を左足(前足)の前75cmにだし,ついで左足を50cm右足前方に出して戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)となる。
  後方へ飛ぶのは左足(前足)から動かす。
第百七十四章
(号令)右へ避へ=進メ
  右足(後足)を右に約36cm移動させ,左足(前足)を右足(後足)よりも大きく移動させて,ついで左に回転する。
第百七十五章
 (号令)左へ避へ=進メ
   左足(前足)を左に約36cm移動させ,右に回転し後方に飛び下がる。
第百七十六章
(号令)二(三 四等)歩(飛)前(後)へ=進メ
 この号令によって,二三四歩あるいは二三四飛前後へ続けて進退させる。

衝突(ツキ)および遮(ウ)護(ケ)
第百七十七章
(号令)前へ=突ケ
 半襲(足を移動せず,重心を前に移動)させ右手を中心に左手手の内を滑らせながら突く。銃の床尾は胸の高さ。突いた後に戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。
   敵の下半身を突かせるときには,教師はあらかじめこれを告げておく。
第百七十八章

『英国尾栓銃練兵新式』
(号令)襲前へ=突ケ
 左足(前足)を大きく前に踏み出して突く。突いた後に戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。

第百七十九章
(号令)擲げ=突ケ
   半襲(足を移動せず,重心を前に移動)させ左手を離し右片手で突く。ただし左手は銃の下部に位置させ,突いた後に戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。
第百八十章
(号令)襲擲げ=突ケ
   左足(前足)を大きく前に踏み出して左手を離し右片手で突く。突いた後に戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。
第百八十一章
(号令)短く=突ケ
   「短く」で半襲(足を移動せず,重心を前に移動)させ銃を後方に引き,「突ケ」で突いて突いた後に戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。

『早合点調練双六』
第百八十ニ章
(号令)右を=防ケ
   左手で銃を少し右に押し出し,防御の後もとの戦争の姿勢にもどす。以下防御の場合にはかならず戦争の姿勢にもどす。
第百八十三章
(号令)左を=防ケ
   両手で銃を返し,右手を前に出しながら左ひじを伸ばす。
第百八十四章
(号令)高く右を=防ケ
   両手で銃をあげ少し右によせ,左肘を伸ばす。
第百八十五章
(号令)高く左を=防ケ
   両手で少し銃をあげ少し左によせ,左肘を伸ばす。
第百八十六章
(号令)低く右を=防ケ
   左手の高さを変えず軸とし,右手を顎の高さまであげて銃を返す。
第百八十七章
(号令)低く左を=防ケ
   左手の高さを変えず軸とし,右手を顎の高さまであげて銃を返し,すこし銃を左に寄せながら左足(前足)を右足(後足)に引き付ける。
第百八十八章
(号令)下(した)右を=防ケ
   左肘を伸ばし銃口を下にして少し右に寄せる。
第百八十九章
(号令)下左を=防ケ
   左肘を伸ばし銃口を下にして少し左に寄せる。
第百九十章
  翻転
(号令)右(左)飜れ (注:ひるがえれ)
   右手を少し上げ銃槍の先を少し下げて敵の銃の下をくぐらせて小円を描き左(右)に出させる。
  仮突
(号令)右(左)仮突
   まっすぐ突くように見せて右(左)翻転をし,左足(前足)を大きく前に踏み出して突く。
第百九十一章
  教師は諸種の運動を合わせて一つとしてこれを行わせる。ただし,初めの内は二つの動きをひとつとし,熟達しても四つの動作までとする。
(第一) 短突以外の突きは必ず左足(前足)を大きく前に踏み出して突く。
(第二) 左足(前足)を大きく前に踏み出して突く倍にも大きすぎるのは良くない。またすぐに戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。
(第三) 防御の後はすぐに突きを行い,またすぐに戦争の姿勢(銃槍を構えた姿勢)にもどる。
 (第四) 防御は左足の進退を伴う。
 (第五) 突きは目標を定め敵の胸あるいは下体にむけ迅速かつ強く行なう。
 (第六) 防御は敏速に行い,動きは大きすぎないこと。

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  1. 2017/10/25(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 8

銃槍兵の警戒
第百九十ニ章
 (第一) 歩兵に対するときは正面を突き,剣騎や槍騎に対するときは擲(な)げ突きをする。
 (第二) 敵の突き,斬撃,打撃を防ぐには銃槍を用いる。
 (第三) 銃で敵の兵仗を打撃して姿勢を崩して突く。
 (第四) 敵の銃によって打撃され自分の姿勢が崩れたときは飛び下がって姿勢を整える。
 (第五) 敵の銃を打撃したり,敵の動きが荒く隙ができたときにはその虚をすぐに突く。
 (第六) 仮動や翻転で敵の動きを誘いその虚に乗じる。
 (第七) 敵兵が未熟なときは擲(な)げ突きが有効
 (第八) 敵の銃槍の位置が高ければ,銃を上に押し上げながら入り,短突をする。
 (第九) 敵が急迫したり飛躍して迫ってくるときは右足(後足)を引き、短突きをする
 (第十) 騎兵が急襲してきたときは,必ず命中させることができないのであれば,射撃しない
 (第十一)銃槍で騎兵に向かうときは馬の鼻を打ったり,後足を折ったりして騎手を突く。
 (第十二)剣騎に近づくにはその左から近づき,槍騎の場合にはその右から近づく。
 (第十三)騎兵の襲撃を受けるときには,自然の姿勢で敵が近づくのを待つ。
 (第十四)騎兵が歩兵に向かってきながら,躊躇して止まった場合は,こちらから打ちかかる。
 (第十五)騎兵が歩兵にむかってくるときには,これを避けたのち擲(な)げ突きをする。
 (第十六)騎兵が歩兵を侮って輪乗りをするときは,馬の後ろに付き突く。
 (第十七)騎兵が輪乗りをするときは,輪の外に出る。
 (第十八)騎兵がかかってくるときは,騎兵の槍を自分の銃槍の下にして,間を詰めて短突をする。
 (第十九)戦場の地形が平らでないときは騎兵を高所に位置させる。

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  1. 2017/10/26(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 9

Ⅵ 銃剣術の日本化についての模索のはじまり
 長州萩藩の高杉晋作は西洋の戦法と日本の戦法を比較した『兵法問答書』を著わしている。そのなかで銃剣の使用に関する「鐡砲と刀は一人之身に備られ候得共、鎗鐡砲とは用られす候、士隊にも銃隊にも變し候得は、鎗は捨て候に而ても有之候哉」という問いに対して以下のように述べている。
「兵器の用、各長短夕、相兼ること不能候、鐡砲は間の外に利有りて、血戰の用を無さす、刀鑓は血戰の利にして、間の外に用なし、弓矢は騎馬に用ゆへくして、鎗は歩戦ならされは用ひられす候、夫故に西洋に而ポタコルテ製の劍銃に行はれ、敵合になれば間之外に而打放し、直につゝさき掛けて血戰を致す事に而候得共、劒の製造利刃ならさる故、其鎗拙ふして、我鎗術之精鍊なるには比すへきも無之候△西洋戰争之繪巻物を見て、其鎗法之拙きこと相知れ候、且我鎗の術精鍊なるは彼等も又深く賞嘆することにて、和蘭よりは刀鎗の術修行として少年の若連越し長崎に稽古いたし候〇去れは我利刃の鎗を以て銃劍とし、精鍊の法を以て遣へ候得は、是に過れたる便利の器は無之候、是彼の劍筒我に用れは十分の利に候得共、方今西洋銃隊を用るに、大抵劍を用ひさるは、未た實用の利を究得さる故にて有之候、然は是か相掛りの騎戰を去る事にて、時に取ての鎗も又翻る處有之り、一概に廢すると云ふにはあらす候」29)
 高杉晋作は西洋の銃剣は質が悪く西洋の銃剣の使用法も拙いので銃剣を日本製にし,その使用法も槍術を応用して使うべきだと述べている。
 この考えは明治になってからの西洋の銃剣術の日本化につながるものであり,その萌芽がすでに江戸時代にあったことを証するものである。

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  1. 2017/10/27(金) 20:17:38|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 10

Ⅴ 戊辰戦争における銃剣の使用
 戊辰戦争の記録に銃剣の実用が散見されるので以下にその記述を載せる。
1.『南柯紀行』
 『南柯紀行』は大鳥圭介(1833-1911)によって記された戦記である。大鳥圭介は江戸開城時,歩兵奉行であり,『南柯紀行』には江戸開城後の慶応4年(1868)7月11日より函館戦争終結後の明治2年7月29日までが記述されている。
 『南柯紀行』中に記述された銃剣の実用についての記述は以下の通りである。
(1)慶応4年(1868)5月6日:今市での戦闘
 「高木銓之助は…中略…敵の発砲盛なる胸壁に近づき兵士等をして剣を附けしめ、胸壁に駆登り敵を逐いちらし」30)
(2)慶応4年(1868)6月24日:会津での戦闘
 「士官は刀を抜き兵士は剣を附け、声を揃えて胸壁より飛び出し、谷川を渡り切り入りし」31)
(3)明治2年4月14日:箱館戦争
 「剣を附けて胸壁の外に躍り出て、敵二人迄衝き斃し、終に戦死したる者あり」32)
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  1. 2017/10/28(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 11

2.『北国戦争概略衝鉾隊之記』
 『北国戦争概略衝鉾隊之記』は今井信郎(1841-1918)によって記された戦記である。衝鋒隊は,幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門が江戸開城後に結成した部隊で,関東,越後,箱館を転戦したが,今井信郎は副隊長を務めた。
(1)慶応4年(1868)5月26日:北越戦争
 「木村令シテ鎗ヲ銃ニ付け鬨ヲ揚テ乱軍中ニ衝キ入リ短兵接戦夾撃ス」33)
(2)慶応4年(1868)5月29日:北越戦争
 「我兵火ヲ縦ツテ村中ニ乱入、銃槍ヲ以テ敵兵ヲ衝キ殪シ追撃」34)
(3)慶応4年(1868)10月14日:箱館戦争
「敵兵銃先ヲ並ベ連発ス。我兵撓マズ競ヒ進ミテ銃槍ヲ閃メカシ塁壁ニ乗入リ、五人ヲ衝殪シ首ヲ揚ゲ」35)
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  1. 2017/10/29(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 12

3.『蝦夷之夢』
『蝦夷之夢』は『北国戦争概略衝鉾隊之記』と同じく今井信郎によって記された戦記であり,箱館戦争を中心に記されている。
慶応4年(1868)11月15日:箱館戦争
 「伊奈誠一銃槍を振い渡り合い三カ所の傷を受く…中略…銃兵山田友吉銃槍にて二人を衝き殪す。そのほか渡辺左仲、相馬助次郎等皆銃槍をもって敵を衝殪し討取二十四人」36)

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  1. 2017/10/30(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 13

Ⅶ まとめ
 銃剣(槍)術は高島秋帆によるオランダ砲術と西洋銃陣の研究にともなって日本に導入された。その後,号令の日本語化に伴って,銃剣(槍)術の号令も日本語化された。これを銃剣(槍)術の日本化の始まりととらえることができる。
 技術的には西洋諸国の教練書を翻訳して用いていたため銃剣(槍)術は日本化はしていないが,拙い西洋の銃剣(槍)術の技を日本の槍術の技におきかえようとする考えがあったことが高杉晋作 の『兵法問答書』にみることができた。
 銃剣(槍)術の指導においては教師の号令に合わせて訓練を行う集団教授法がとられており,明治以降の武道の集団教授にすくなからず影響を与えた可能性が考えられる。

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  1. 2017/10/31(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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