無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

新しい年を迎えるにあたって

    明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 武道の稽古をはじめて、もう何十年も新しい年がやってきます。この長い年月の中で様々なことを見てきましたが、武道を続け常に向上している方は、どれだけ稽古していても常に自分自身の課題をみつけ謙虚に道に向かい合っている方でした。
 自分の課題を見つけることをしない方には続けることは難しいようです。自分の内では完成に近いものになっているから、なすべきことがないのです。
 また教える立場にいる方で謙虚に真摯に教えることができる方は常に向上しておられます。真に教える立場にあろうとすれば、自分の至らざるところが明白になり、自分が向上しなければ教えることができないことを知るからです。自分が今持っていることのみを教えることに満足している人に向上はなく、待っているのは下達です。
 貫汪館ではしかるべき段階になれば、必ず教える立場に立たねばならないことにしています。常に向上していただくことを求めているからです。
 今年も向上し続けてください。
 
  1. 2016/01/01(金) 08:30:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

木を見て森を見ず

 物事の細部に気を取られて、全体を見失ってしまうことです。
 いつも言うように形は結果にすぎません。刀が重く速いのを見て、同じことをしようと思い筋力を精一杯使って小手先で技を使っているのは、体の動きを見ていないからです。中心がつかえていれば、ゆっくりゆるゆると体を使っても刀は重く速く動きます。本質を見なければ形だけになり、本質を見て深く求めていけばやがて上達します。
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  1. 2016/01/02(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

桂馬の高上がり

 将棋の桂馬が前に進みすぎて進退にこまってしまうように、出すぎて身分不相応の地位に上ってしまい、失敗、失脚してしまうことをいうようです。
 実力が伴わないのに状況も見ずに目立とうとし、何でもかんでも前に出たがる人が武道の世界にもいます。貫汪館では強く戒めるところですが、実際に実力がないものが前に前にでしゃばれば、すぐに切り倒されてしまうことは明らかなことです。自分一人のことであればそれもよいかもしれませんが、組織や所属する団体に被害を及ぼすこともあります。生育過程で身についてしまったものは修行によって正すしかありません。それも修業です。
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  1. 2016/01/03(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

虚仮の一心

 愚かな者でも一心に一つのことだけに心をかたむけてやれば、目的を達成できたり優れたことができたりするということという意味のようです。
 私も居合の師匠が言われた「頭がよすぎる。馬鹿になれ」「力を使うな」ということの意味を一心に求めて突破口を開きました。
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  1. 2016/01/04(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

ごまめの歯軋り

 実力のともなわない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、その行為が無駄であること言っているようです。
 居合の師匠の指導は時には厳しく「頭がよすぎる。馬鹿になれ」と何度も高校生のころからいわれたことがあります。成績も低く頭は悪かった(というより勉強しないので頭を使っていなかった)私は、先生が私を上達させたいと思われている心も考えずまれに「ごまめの歯軋り」をしたこともありました。そんなところからは何も生まれません。
 奥深く本当のところを求めれば、そのような状態から脱することは容易です。
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  1. 2016/01/05(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

大巧は拙なるが若し

 本当の名人は見かけの小細工をしないないので、下手に見え、また、自分の芸を自慢することなどしないから、拙いように見えるという意味です。
 はたから見れば何の変哲もないような動きで、派手ではなく、ゆるゆると行っているだけなのだけれども、対した相手にとっては重く速く如何ともしがたい動き。
 そういう方の動きは見る目を持った人にしか見ることができません。
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  1. 2016/01/06(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

勝って兜の緒を締めよ

 戦いに勝ち息ついたとき、ふいに敵が襲ってくる場合があり、油断せず、さらに用心せよという意味で、武道でいう残心に相当します。
 以前もお話ししたことがありますが、私が航空自衛隊幹部候補生学校の学生だったとき演習場で敵の陣地を分隊で攻略するという状況を与えられました。その時私は分隊長の訳だったのですが、陣地攻略後すぐに分隊を集合させ人員確認をしました。そこで指導を受けました。確かに陣地は攻略しても残余の敵が物陰に隠れて狙撃してくる可能性があるので、そこまでしっかり確認しなければなりませんでした。まだまだ武道が身についていませんでした。航空自衛隊が地上戦闘をするのは地上にいる航空機や対空ミサイルを破壊するのは空中にある航空機やミサイルを破壊するのよりもはるかに容易で安価に済むため、敵のゲリラが基地を攻撃する可能性があるからです。
 余談は置いておき、形、手数の稽古では、たとえば10本続けて稽古するときに1本ずつ気を抜かず10本を1本として使わなければなりません。また1本として使ったとしても礼法が終わり退場するまでは続きであり気を抜いてはいけません。それは残心がないことになります。残心をもっと広げていえば日常の起居進退全てに係ることになります。
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  1. 2016/01/07(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

断じて行えば鬼神も之を避く

 不退転の決意と同じ意味になろうかとおもいます。固い決意をもって行なえば、何者であってもそれを妨げることはできないという意味です。
 その決意がない人は到達することが難しいため、本来は入門するときにその決意を持たなければならないものですが、今の時代それも難しいことなので、稽古される方の中でその決意がある方だけが上達していきます。致し方ないことです。自分にその決意がない場合は上達していく方を見て羨んでもどうにもなりません。
 たとえ稽古時間が少なくとも「断じて行えば鬼神も之を避く」という心を持っていれば道場にいなくてもいくらでも稽古ができます。そのような覚悟がある方は稽古時間の多少にかかわらず上達していきます。
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  1. 2016/01/08(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 1

昨年末の日本武道学会中四国支部会で発表した「長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について」を載せていきます。時間がなかったため周辺資料に十分に当たることができませんでしたが、概要はお分かりいただけると思います。
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Ⅰ はじめに

来嶋又兵衛(1817-1864)は長州藩士であり,喜多村家に生まれ来嶋家の養子となった。禁門の変(1864)に際しては進発論を唱えて遊撃隊600名の兵を率いて奮戦したが,薩摩藩兵に狙撃され助からぬことを悟り自刃した。
来嶋又兵衛に関する伝記および資料は『来嶋又兵衛傳(復刻版)』(三原清堯著:小野田市歴史民俗資料館発行,1992)に詳しく,来嶋又兵衛自筆の資料は『新資料 来嶋又兵衛文書』(瓜生等勝編著:西圓寺発行,1997 第二刷)および『続新資料 来嶋又兵衛文書』(瓜生等勝編著:西圓寺発行,1997)に収録されている。
 来嶋又兵衛は天保12年から天保14年にかけて柳河藩の大石進種次(1797-1863)のもとで修行しており,天保14年4月に免許皆伝を授かっている。天保15年(1844)の『要用日記』1)には来嶋又兵衛が免許皆伝後,長州藩の大石家への留学生を連れて再度大石進種次のもとで修行した際の2月22日から5月12日までの記録である。
本研究は主に『新資料 来嶋又兵衛文書』に収録された『要用日記』を用いて行い,来嶋又兵衛が大石進のもとでどのような稽古をしていたのかを明らかにしようとするものである。

『要用日記』(天保15年2月22日~5月12日) 
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  1. 2016/01/09(土) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 2

Ⅱ 来嶋又兵衛について

来嶋又兵衛の略歴を以下に記す2)。
来嶋又兵衛は文化14年(1817),喜多村家に生まれ幼名を亀之進といった。天保7年(1836)に来嶋家の養子となり光次郎と改名した。
天保11年(1840),長州藩内において初めて剣術における試合法の採用を唱え,天保12年(1841)に自費で柳河藩の大石進のもとへ留学し,天保14年(1843)4月に大石進より免許皆伝を授かった。天保15年には再び長州藩の大石家への留学生を連れて大石進種次のもとで修行した。弘化2年(1845)5月には長州の平岡弥三兵衛より新陰流の免許皆伝を授かっている。
弘化3年(1846)には江戸在番,稽古懸となり,江戸で盛んに稽古を行っている。その後帰国と江戸での勤務を繰り返し藩主と行動を共にすることが多くなった。その後の政治的活動は省略するが,元治元年(1864)の禁門の変では遊撃隊600名の兵を率いたが,薩摩藩兵に狙撃されて自刃した。
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  1. 2016/01/10(日) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 3

Ⅲ 来嶋又兵衛が稽古した流派について

1.馬術(流派名不詳)
 幼少時,萩の馬術師範楢崎四郎兵衛のもとで内弟子として生活したというが流派名は不詳3)。またこのとき,剣術,柔術も修業したというが同じく流派名は不詳である。柳河藩では大石進のもとで馬術も稽古したとされている4)。大石家には馬場があり,門人への指導の記録は残っていないが大石家は個人的に馬術の稽古をしていたと考えられる。
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  1. 2016/01/11(月) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 4

2.剣術(大石神影流)(新陰流)
 来嶋又兵衛は天保12年から天保14年にかけて柳河藩の大石進種次のもとで修行し,天保14年4月に免許皆伝を授かった。
 長州藩では来嶋又兵衛のように大石神影流を学ぶ者が多かった。柳河藩の大石進種次と大石進種昌父子の総門人数は655名で,九州地方に233名(柳川藩の門人を除く),中国地方に71名,四国地方に76名,近畿地方に10名,その他の地域に12名の門人がいたが,長州藩士の門人は陪臣を含め43名にのぼった5)。その中には長州藩の新陰流の剣術師範であった内藤作兵衛,片山流の剣術師範であった北川辨蔵とその子甲吉,新陰流の剣術師範であった平岡弥三兵衛の子平岡七郎治や平岡唯一,同じく新陰流の剣術師範であった馬木勝平の子馬来勝平などがいた。
 来嶋又兵衛が萩で新陰流を修行し始めた年は明らかではないが,幼少時の馬術修行とともに始めたのではないだろか。弘化2年(1845)5月に萩の平岡弥三兵衛より新陰流の免許皆伝を授かっている。来嶋又兵衛は自分の門人に大石神影流と新陰流の2流派を指導している。
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  1. 2016/01/12(火) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 5

3.槍術(大嶋流)
 柳河藩の大石進は槍術師範も兼ねており大嶋流槍術を指導していた。来嶋又兵衛は大石進のもとで剣術だけでなく槍術の稽古も行っている。
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  1. 2016/01/13(水) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 6

Ⅳ 旅程

 来嶋又兵衛は天保15年2月22日に西厚保(現山口県美祢市西厚保町)を出発し,2月27日に大石進が居住する柳河藩宮部に至った。同行したのは北川萬蔵,井上半三郎,山縣誠之助,馬来平馬,中村晋太郎である。長州藩からはすでに鈴木廉蔵,英春吾が留学していた。宮部までの行程は以下のような経路をたどった。
2/22 西厚保出発→吉田→下関, 2/23 下関→大里→小倉→黒崎, 2/24/ 黒崎→木屋瀬→内野 2/25 内野→大宰府→山家, 2/26 山家→府中→羽犬塚→瀬高, 2/27 瀬高→宮部

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  1. 2016/01/14(木) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 7

Ⅴ 稽古内容

 来嶋又兵衛が柳河藩宮部の大石家に着いてからの行動を表にまとめる。ただし、帰途は久留米の神陰流剣術師範 加藤田平八郎門人との試合までを記した。

表省略

1.剣術の稽古
 稽古の量について人,面,本という数え方が用いられているが,いずれも防具着用の稽古をした相手の人数をさしていると考えられる。
稽古を開始した2月29日から稽古を終えた4月23日までの総日数54日のうち稽古をした日数は46日である。平均して1日10.3人と防具着用の稽古をしている。
 風邪で稽古を休んだ日が4日あるが,当時は無理をせず用心をすることが一般的であったと考えられる。
2.槍術の稽古
 大石進は柳河藩の大嶋流槍術の師範を兼ねていたが来嶋又兵衛の滞在中の槍術の稽古は6回しか行われていない。
 天保8年(1837)に土佐の樋口真吉が大石進のもとで修行したときには1か月の間に15回槍術の稽古が行われているのに比べ槍術の稽古の頻度は少なくなっている。大石進のもとに剣術の留学生が増えると,大石進は他藩からの留学生の槍術指導は加藤善右衛門に譲ったとされているので,槍術の斯道の頻度が少なくなっているのは,その過程である可能性がある。
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  1. 2016/01/15(金) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 8

Ⅵ 大石家への廻国修行者の訪問について

来嶋又兵衛の宮部滞在中に廻国修行者が大石進を訪ねてきている。その中にはそのまま入門したものがある。
1.荒木兵蔵 (岡田右門)
 3月10日に訪れてきた荒木兵蔵(岡田右門)は柳河出身でもともと大石進種次の弟子であり,江州大津代官に仕えた人物である。
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2.浜田一,奥山辰次
 3月10日に訪れてきた浜田一,奥山辰次は今治の出身である。4月7日に大石進に入門している。
3.井上才九郎,辻隠岐之助
 延岡藩の井上才九郎,辻隠岐之助の姓名がはっきり記されているのは4月3日であるが,4月7日に大石進に入門している。
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4.猪熊才造
 3月14日に訪れてきた猪熊才造は神道流で伯耆国出身である。来嶋又兵衛に「しなへはとかく下手ニて御座候」と評されている。
5.薩摩修行者
 3月21日に訪れてきた薩摩の修行者2人の流派は直心影流であり,来嶋又兵衛に「至而気位の弘き遣ひ口也。薩州の勇気噂には聞侯へども、誠ニ出合候事今始也」と評されている。
6.槍術修行者
 4月17日には槍術修行者が大石進が槍術師範でもあったことから大石進を訪ねてきており,長州からの留学生3人が試合の相手をしている。
  1. 2016/01/16(土) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 9

Ⅶ 留学生について

 上記Ⅵの浜田一,奥山辰次,井上才九郎,辻隠岐之助は大石家で稽古(試合)をしたのち改めて大石進に入門して稽古を始めているが『要用日記』に登場する人物で留学生とわかる長州以外の人物を挙げると五郎川嵯久磨(肥前小城藩),並木軍八(鹿嶋藩),宇部精一(大村藩)がいる。
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  1. 2016/01/17(日) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行につい 10

Ⅷ 久留米藩 神陰流剣術師範 加藤田平八郎導場での試合

 来嶋又兵衛は帰途,久留米の加藤田平八郎導場で試合を行っている。試合は次のように行われ,当時の廻国修業の平均的な試合の手順を踏んでいる。
 松屋宿泊(修行者宿)→宿の亭主が加藤田へ取り次ぎ→加藤田が迎えにくる→役人臨席のもと試合→試合後,加藤田が英名録持参→酒宴
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  1. 2016/01/18(月) 21:25:00|
  2. 武道史

長州藩来嶋又兵衛の大石神影流剣術修行について 11

Ⅸ おわりに

 大石進種次がはじめて江戸に出て試合をし,突き技と胴切の技を用いて江戸の剣術家に勝ったのが天保4年(1833)であり,二度目に江戸に出てその剣技を老中水野忠邦に認められ褒賞を受けたのは天保10年(1839)である。
『要用日記』が記されたのは天保15年(1844)であり,大石進種次の名はすでに世に知れ渡っていた。このような時期に大石進のもとで他藩からの留学生がどのような稽古をしたのか興味深いものがある。
 天保15年には来嶋又兵衛はすでに大石神影流の免許皆伝を授かっており手数(大石神影流では形を手数という)の稽古の記録はない。大石進は手数の稽古を大切にしており,大事な試合の前には必ず手数の稽古をしたといわれ,「手数の稽古は相撲の下稽古のような者である。」と語っていたといわれる。しかし,幕末の剣術の稽古の中心は形稽古よりも防具着用の稽古にあったことは間違いないであろう。
 本研究にあたっては西圓寺ご住職瓜生等勝様に大変お世話になりました。ここに感謝申し上げます。



1)瓜生等勝編著:『新資料 来嶋又兵衛文書』、西圓寺発行、pp.2-18、第二刷、1997
2)三原清堯著:『来嶋又兵衛傳(復刻版)』、小野田市歴史民俗資料館発行、1992
3)三原清堯著:『来嶋又兵衛傳(復刻版)』、小野田市歴史民俗資料館発行、p.6、1992
4)三原清堯著:『来嶋又兵衛傳(復刻版)』、小野田市歴史民俗資料館発行、p.10、1992
5)森本邦生、『大石神影流『諸国門人姓名録』について』、日本武道学会第40回大会発表抄録、2007年8月30日
  1. 2016/01/19(火) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流剣術3級作文 1

昨年末に行った大石神影流剣術3級の昇級審査の作文を載せます。
子供の気づきや考えは大人よりも深く広いものがあります。よく読まれてください。

剣術の稽古をして身についたこと

 僕が、貫汪館に入って身についたことを、礼法、剣術、稽古の終わった後について書きます。
 礼法では、靴を、入口の真ん中を開けてそろえておくこと。稽古場に入る前に稽古場に一礼すること。稽古前に、神前に礼をすることが身につきました。
 なぜ、入口の真ん中をあけておくかと言うと、後に来た人が、真ん中に靴をおけるからです。自分の家などでも、おなじようにしたいです。
 剣術では、下段の構えは刀をしずめる。脇中段の構えは、刀をそのまま下して真剣にするのではなく、頭の中心を通して真剣にする。裏付けの構えは、足を逆にしないよう気をつける。敵と対する時の礼は、刀を逆向きにしないように気をつけることです。ほかにも、剣の動きを間違えても、止まらないことが身につきました。
 稽古の終わりには、神前にも、先生にも、礼をすること。その後、刀を片づけて、稽古場に一礼をして出ることが、身につきました。

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  1. 2016/01/20(水) 21:25:00|
  2. 昇級審査作文

大石神影流剣術3級作文 2

剣術の稽古をして身についたこと
                                  
 私が、剣術のけいこをして身についたことは、「受ける」ということだけでなく、「流す」ということも大切だということです。例えば、友達に本気じゃないのに嫌なことを言われて、受けてしまうと、とてもいやな気持ちになります。でも、「本気じゃないから、大丈夫。」と思って聞き流すと、相手もあきらめるのです。
 あともう一つは、何事にも慌てず、冷静に行動することです。自分がみんなと少し遅れてしまっても、急いでぱっぱと終わらせず、最後までやり通さなければなりません。
 剣術で身についたことは、それをけいこに用いるだけでなく、日常生活でも活用されることなのです。
 私は、今けいこで、相手の打ち込みの強弱に合わせてけいこすることを、意識しています。自分より弱い者に勝とうとせず、同じ力で返すことと、自分より強い者に力ずくで勝とうとせず、力をぬいて、うでで打ち込もうとしないことです。
 私は、自分が上手だなんて、思ったことはありません。どんなに私が上達しても、上には上があります。だから、私は「○○さんより上手になろう。」とは思いません。でも、私は私なりに、気になったところを先生に聞いたり、練習したりして、少しずつ、上達できたらなと思っています。
 これからも、剣術を続けていきます。
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  1. 2016/01/21(木) 21:25:00|
  2. 昇級審査作文

大石神影流剣術初段論文 1

武道における礼と大石神影流剣術における礼法について

1.武道における礼
私は高校で弓道を、社会人になってからは柔術を習いました。この中で、それぞれの礼法を学びましたが、その違いや理由については深く考察してきませんでした。
弓道では、道場に神棚があり、この神棚に向かい神前礼拝を行っておりました。神棚への礼でしたので、神社での礼拝と同じ二拝二拍手一拝でした。最初に習った時に、稽古で怪我がないよう神様に祈るのだと伺い、特に疑問を持ったりせず、よって礼法の意味を考えることはありませんでした。宗教上の理由から、礼を行わない人もいましたが、それはそれで良いと思っていました。今改めて調べ直すと、深い理由があるようで、その理由に気づかせるために神前礼拝を行っている道場もあるようです。
柔術では、稽古場として体育館を利用していましたので、神棚はありませんでしたが、神前と決めた方向に向かい、先生と一緒に礼を行っておりました。その礼法は、正座して体を屈してゆき、畳に左手をつき、さらに屈して行き右手をついて礼をするものでした。手をつく位置は、無雙神傳英信流の刀礼とは異なり、もっと体に近い位置で、体を屈していったときに、ちょうど鼻の位置になる所でした。
この時に習ったことは、以下の3点でした。
①いつ攻めこまれても対処できるように、利き手である右手は最後に出し、また礼の後も右手から収める。これにより隙のある時間を最小限に抑えること。
②礼の最中に頭を押されても鼻が潰れないように、手のひらを少し曲げ、鼻を守ること。
③親指を切られると刀を持てなくなるから、礼の前後では親指を切られないように、常に隠すこと。
神前への礼ですら、気を抜かないのですから、稽古相手への礼も、同じく気を張り詰めた礼でした。
柔術は、立ち技と、正座でつま先立ちになった状態の跪坐の2つの姿勢があります。立ち技での礼は、両手の親指を隠したままで軽く会釈するもので、相手から目を離さないように注意されました。跪坐での礼は、神前への礼と同じ礼法でした。頭を下げるため相手の動きは見えませんが、気を張り相手の動きを察することを学びました。
弓道と柔術を習うことで、礼法にも流派ごとに作法が違うこと、礼の意味も全く異なることに気づきました。また、柔術の礼法を学ぶことで、弓道の礼拝のように、その場の礼で礼法が終わるのでなく、礼が終わった後の稽古でも、気を張り注意することを心がけるようになりました。ただ日常生活ではすっかり忘れ、稽古に来て、礼法の時に気を張るスイッチが入るといった事の繰り返しでした。稽古と日常生活が解離していたように思えます。
今振り返ると、礼法は毎回行うものですから、どの技より多く稽古するもので、ただ漫然とおこなっていたのでは、その裏にある重要な何かを悟ることなく、進歩もしないものではないかと思っています。当時の先生から伺った言葉で、一番印象に残っている言葉は「万年稽古」です。正しい稽古を積み重ねないと、何年経っても微々たる進歩しかしません。これを回避するために、正しい稽古を指導してくれる師を選ぶことの大切さや、師を探すには3年かけてでも探す努力の必要性を教わりました。柔術は転勤のため、やめてしましましたが、その後の数年間は、通勤の際に歩き方や、立ち方を工夫してみました。いずれ武術を再び習うつもりでしたし、その日のために、少しでも動ける状態を作っておきたいと考えていたからです。この時に気をつけたことは、柔術の稽古の際によく指摘された、力を抜くことと、いつでもどこから敵に襲われても動ける状態を作ることでした。残念ながら、この数年の間に進歩は全くと言ってよいほどありませんでした。それは、一人で稽古をしていたのでは、正しいのか、間違っているのか評価されないからだと思います。いつ敵に襲われるか分からない時代なら、襲ってきた敵により評価できますが、現在ではそれが無いため、評価できません。師のいない稽古は、評価が無いため、万年稽古に陥ることを、身を以て知りました。
貫汪館に入門することで、万年稽古から脱することができました。柔術をやめてから、課題にしていた正しい立ち方や歩き方は、未だに納得できる所まで至っておりませんが、先生に今の動作が良かったのか、悪かったのか評価を頂ける度に、進歩したことが分かります。特に立ち方は、自分では気付かなかった前かがみの癖をご指摘頂き、自分でも大きな進歩があったと自負しています。また、先生の礼法や技を拝見する度に、進むべき方向が見える気がします。

武道における礼は、各流派により異なるもので、その作法や意味はそれぞれです。武道を稽古することで、礼が身に付いたり、相手への感謝の心が現れたりするなど、人により千差万別のとらえ方があります。どれもその通りだと思いますが、それだけではないと思います。礼は稽古の前後に毎回行うものですので、ともすると、この道場の規則だと捉えがちで、その瞬間から万年稽古になってしまいます。私の場合も、弓道と柔術ではそうでした。演武会などで他の流派の礼法を拝見するに、どの流派も先生が前に出られて、礼をされ、弟子はその後で礼をしています。毎回の稽古で先生の礼を見るわけですから、そこから何が学べるのか、自分の動きは合っているのか、思考することで武道の上達に寄与するものと思います。


2.大石神影流剣術における礼法
大石神影流剣術での礼法は、帯刀したままで、片膝と両拳を床につけます。このときの手の付き方は、爪甲礼です。爪甲礼は、拳を握って床につく礼で、武家流茶道での基本の礼とされています。掌を床につけず、拳をつけるのは、畳は歩く場所であるため、不浄な場所を掌で触ってからの点前を嫌ってのためです。大石神影流は、神社境内での稽古であったり、庭先での演武が行われたりしていたため、このような礼法になっています。
最初に礼法を拝見した時、刀礼が無いのは、略式からだと思いましたが、正式な礼法であることを先生から伺いました。刀礼が無いのですから、礼法の最中でも刀が抜ける状態にあります。
また立った状態から、片膝を床につけるまでは、力を抜きストンと落ちるのではなく、隙を作らないために、ゆっくり同じ速度で動くようご指導いただきました。柔術では、まさに、力を抜きストンと落ちることで、相手にかける技がありましたので、先生のご指導がなければ、いつまでもそのように動いていたと思います。柔術の経験は、見るべきところを見えなくしてしまっていたようです。この経験が稽古の妨げにならないよう、できるようになったと思った動きでも、何度も見直す必要があると思います。
さらに、礼法の前後の立ち方も、膝を伸ばして骨格で立つのではなく、いつでも左右前後に動けるように、膝を軽く曲げることも学びました。骨格で立っていると力がいらないので、楽ですが、瞬時に動くことができません。弓道では骨格を使って弓をひきますので、立ち方も、骨格を使うと良いと勝手に考えておりました。これも先の経験が妨げになった例でした。
私は、まだまだ礼法の意味を理解するまでには至っていないと思いますが、刀礼が無いことや、同じ速度で動くことや、膝を曲げて立つことで、いついかなる時も気を抜かず、相手への対応ができる状態になれることを、大石神影流剣術の礼法から学びました。
これからも、礼法に内在する意味を読み取るように注意しながら、再び万年稽古のような停滞状態に陥らないよう、注意したいと思います。そのためには、礼法の稽古をおざなりにせず、真剣に行うことが重要だと思います。
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  1. 2016/01/22(金) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

大石神影流剣術初段論文 2

武道における礼と大石神影流剣術における礼法について

 これは、武道における礼と大石神影流剣術における礼法について論じるものである。

 その前に、まず自分の立ち位置を確認することから始めたい。
 私は齢四十五にして初めて武道の世界に足を踏み入れた。貫汪館の門を叩いてからまだ一年ほどの初心者である。
 入門当初は武道に関して知識が浅薄であるというよりも、ほぼ無知ともいえる状態であった。武道が現代武道と古武道に分けられることはおろか、武道とスポーツの境界線すら私の頭のなかでは曖昧だったのである。
 「初めて武道の世界に」と先に記したが、中学校から高校までは体育の必修科目の一つとして剣道や柔道の授業が年に数回あり、武道とスポーツをひとつに括ることができるのならば「まったく初めて」とは言えないかのかもしれない。したがって私が武道について何か論じるとすれば、その体育の時間にスポーツの一環として触れた武道を出発点としなければならないだろう。
 長年にわたり武道およびそれに関連する行事に真摯に取り組み、日々研鑽を重ねる館長や先生方、そして兄弟子たちからすると異質な感じを受けるかもしれないが、初心者が論じることはある意味で、ごく一般的な現代人から見た武道の一側面が見えるのではないかと思う。

 武道における礼について

 結論から言えば、現代武道における礼は形骸化しているといえるだろう。
 道場に入る時、稽古や試合が終わった時、道場を出る時、師に対して或いは相手に対して「礼」という動作を行う。
「礼に始まり礼に終わる」とはよく聞くが、初心者の私から見ればその動作は小学校で教わった「きりつ、きょうつけ、れい」となんら変わらない。師や相手、道場や道具に対して各人の心に尊敬の念が存在することはもちろん否定できないが、「敬う表れとしての礼」というよりも「礼をしているので敬っている」という免罪符的な匂いを先に感じてしまう。
 また戦後に武道が競技化し加速度的に世界に広がっていく流れの中で、本来の礼の意味はますます失われている気がする。一言に纏めればどこかしら「失礼」なのだ。中身を伴わない儀式的動作であり、文句をつけられないための免罪符的動作であり、試合相手を確認するための競技的動作でもある。あくまでそれは自発的な動作に納まるだけであって、そこに他者や物(道場や武具)を含んでいないことが多いのではないだろうか。


 礼とはそもそも何であったか

 儒教における思想の一つが、社会に秩序をもたらすための道徳的な規範として現代まで脈々と受け継がれてきたものという。
 確かに、親しい仲で礼を失えば縁が切れ、集団同士で礼を失えば揉め事となり、国同士が礼を失えば戦争になる。礼は人と人との関係、人と社会との関係、社会と社会との関係を円滑にするための装置でもある。
 また人間はその五感においては己しか感じることができないが、周りに広がる空間や他者を使って己の存在を認識するという矛盾した存在である。自分が欠けても、相手が欠けても、存在としては不安定な生き物なのである。その不安定さの中に礼というものが根付くことによって、他者や宇宙とのつながりを感じ、社会の中で円滑に活動することができる。
 社会生活においては他者への敬いの気持ちを保ち、武道においては決して相手の尊厳を奪わない(他者や対象物への尊厳を奪えば、それによって成り立っている自分自身が存在できないからである)ということが礼の基本だと考える。
 そしてその基本を保ち続けている武道や流派はそう多くはないのかもしれない。以上をふまえて、次に大石神影流剣術の礼法について考察する。


 大石神影流剣術の礼法について

 大石神影流剣術の礼法は、まず神前、上座、正面への礼は右膝を着いてこれを行う。立った状態から右足を軽く引き右膝をつき、上体を腰から折って両拳を床につけて頭を下げる。相互の礼は、お互いに向き直り軽く会釈する。そして、一般的な剣術や居合と違って刀に対する礼が存在しない。
 これら一連の動作は初心者からするとあまり馴染みがないものである。というのも現代的な一般武道における形式的な礼や、テレビの時代劇などで都合よく簡略化、またはデフォルメされた礼法に見慣れてしまっているためで、私のように安易に「正座が最も礼儀正しく敬意を表している」と誤解している人は多いだろう。
 しかし大石神影流剣術の礼法の特異性については、その歴史から振り返ると極めて合理的であるといえる。正座の礼がないのは、柳川藩で上覧を行う際、屋内にいる貴賓に対して庭で演武を行ったためであると伝え聞く。このように時代や社会、そして風土などによって最敬礼の形が変わるのは想像に難くない。大石神影流剣術の礼法についても、そうした背景があって成り立っていることを常に頭にいれておかなくてはならない。それは礼法に留まらず、歩法や形などの根底にも流れているものだからである。
 従って、片膝立ちであるから略式であると考え違いをせず、神前、上座、正面への礼は最高の敬意をもって行わなくてはならない。さらにお互いの礼もまた同様に、軽い気持ちで行わず、敬意を表しながら油断なく行う。
 しかしながらこの部分が、稽古を重ねるごとに一番難しさを感じるところである。
 形式的な礼ではなく、稽古の初めから終わりまで、神、師、相手、剣、道場、時間など自分を取り巻くすべてのものに注意深く敬うのが必要だという。そしてそれは先に記したとおり、礼とは「自分という存在を生み出す他者や周りへの敬いそのもの」という考え方に通じるからだ。
 またその考え方が根底にあることで、自分より弱いものに強い力を誇示したり、自分より力のあるものに同じ力で立ち向かうこともないだろう。実のところ、大石神影流剣術の形の中には「勝ち切らない」「いなす」という動作が存在する。これらは剣術の形のひとつでありながら、礼法の中にしっかりと内包された動きにも思えるのである。そう考えると「礼法」はすべてを含む大きなひとつの形といえるだろう。絶対に見失ってはならない一番大事な形である。

 礼法をひとつの形として考える中で、触れておきたいことがある。
 知人に草月流の華道家がいる。師範にして異端ともいわれる作風が日本のみならず、海を越えて外国の地でも大きな評価を得ている人物である。彼曰く「流派の形は大事。とにかくすべての形を極めなくてはならない。形を極めた上で、次の時代を切り開くものが『形破り』。形を極めず、都合よく自分勝手な解釈をするものが『形崩れ』である」と。
 この言葉は武道にも当てはまるのではないだろうか。「形破り」になるのはあまりに先の話で今は考える必要もないが、「形崩れ」には今すぐにでもなる危険がある。自分が稽古を重ねていく上で、先達が積み上げてきた大事な「形」を都合よく崩していないか、常に自問していかねばならない。
 また華の世界では「花」を切る瞬間に、生命の誕生と死にゆく定めを一手に受け入れ「華」へと昇華させていくという。赤子が臍の緒を切られ、人として生まれると同時に死にゆく定めを負う流れを花の世界に見出していくのだ。そこには形式的な礼法は一切無いのだが、一連の動作の中に「生命を敬う」また「生かし生かされている」という哲学としての礼が明らかに存在している。
 これを武道に置き換えるとどうであろうか。
 武道を習う身であっても武士ではないので、真剣に構えたところで生死を賭けた勝負にはならないが、ここで礼を見失えば、武器を手にしたただの暴力になりうる。または勝敗のみを目的としたただのスポーツとなってしまうだろう。「生かし生かされている」という自発的かつ他発的な考えが基本となる敬いの精神、つまり礼が、武道を武道たらしめるのではないだろうか。


 最後に

 大石神影流剣術の礼法は、礼にあって、ただの礼にあらず。
 剣術のすべてを内包したひとつの大きな器であり、己を見出させてくれる森羅万象への敬いを有した礼法である。大石神影流剣術を学ぶ一人として、今後も稽古を重ねながら礼の意義を常に問い、礼法の形を崩すことのないよう心して努めなくてはならない。
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  1. 2016/01/23(土) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

居合を稽古すれば柔術がよく理解できる

 昨年末から今年の初めにかけてオーストラリア支部長のマイケルが来日しました。来日してすぐに参加したのが横浜講習会で、澁川一流柔術の鎖鎌と無雙神傳英信流抜刀兵法の太刀打を稽古しました。
 他の日は稽古納め以降の稽古ということもあり、廿日市でほとんど私がマンツーマンで指導しました。一日中または半日の稽古で、初めに大石神影流剣術、次に無雙神傳英信流抜刀兵法、最後に澁川一流柔術の稽古という順に稽古しましたが、稽古が終わってマイケルが「居合の稽古をした後に柔術の稽古をすれば柔術がよく理解できる。」と言いました。
 無雙神傳英信流抜刀兵法も澁川一流柔術も基本的には単純な動きで構成されています。体の運用や手の内に働きに共通性を見出したようです。
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  1. 2016/01/24(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

我田引水

 他の人が言っていることの真意を考えようとせずに、自分の都合が良いように解釈したり物事を行ったりすることをいうようです。
 これは武道の稽古においてありがちなことです。人は自分の経験から物事を判断しようとしてしまうので、年を重ねれば重ねるほど自分の都合の良い見方や考え方をしてしまいます。
 私が武道以外の新しいことを試みてきたのは自分の持っているこだわった見方をなくすためでもあります。機織り、草木染、ケーキ作り、がま口バッグづくり・・・。すべからくそうです。
 年齢が若くても「我田引水」となる方がおられます。素直な方が上達が速やかなのは「人が言っていることの真意を考え、自分の都合が良いように解釈したり物事を行ったりしない」からです。

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  1. 2016/01/25(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

体の動き、刀・木刀の動き

 ひとたび臍下丹田と木刀がつながれば、体が動いて木刀が動いても、木刀が動いて体が動いても、どちらの動きでも体も心も乱れることはありません。
 たとえば大石神影流の「太陽剣」や「白虎」などの手数、無雙神傳英信流抜刀兵法の運剣や「向拂」の刀の振り戻しなど刀・木刀が先に動いた方が調和が取れる場合があります。体が整い刀・木刀と一つになるのを感じたら試みてください。
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  1. 2016/01/26(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上段

 大石神影流剣術と無雙神傳英信流抜刀兵法では同じ「上段」という言葉を用いても内容はともかくその構えは異なります。大石神影流では初めから上段の稽古をしますが、無雙神傳英信流では大森流が一通りできるようになってから太刀打の稽古をしますので、同時に稽古を始めた方には大石神影流の上段の印象が強く無雙神傳英信流の太刀打ちに大石神影流の上段を用いてしまう傾向があります。
 違いを述べると、大石神影流の上段は通常右足前で切先は右上に位置します。一方、無雙神傳英信流の上段は通常左足前で切先はまっすぐ後方に斜め45度くらいの角度に位置します。
 同じであるのは二つの流派の上段ともに上がったところで止まるのではなく、臍下中心に体は沈み両肘は引力に従い、刀が落ちる直前の状態にあることです。
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  1. 2016/01/27(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

煩悩の犬は追えども去らず

 あまり馴染みのないことわざですが、人の煩悩はいくら追い払っても離れないものであるという意味のようです。
 稽古も同じ、ここまで努力して此処まで達成したと思って油断していると、いつの間にか煩悩が起こってきて知らない間にまた上達する前の自分に戻りつつあるというのは私にもよくあることです。常に自分自身に厳しくなければいつの間にか後退しています。常に自分自身を見つめている人が上達します。

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  1. 2016/01/28(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

下段から攻める

 無雙神傳英信流抜刀兵法の「独妙剣」、大石神影流剣術の「ニ生」など下段で相手を攻める形・手数があります。
 下段から攻める形・手数は難しく、初心者の方はただ切っ先を下におろして前に進むため隙だらけになっています。下段から攻めるには、ただ切先が下がっているのではなく、体が沈むことによって切先が下りていること。臍下丹田から切先へ至る気がそのまま下から上と相手を浮かす心持が必要な事。下段から振り上げて斬るだけでなく、そのまま突くことができる状態であること。などの状態が備わっている必要があります。自分がどのような状態であるかを確認してください。

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  1. 2016/01/29(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

点滴石を穿つ

 雨垂れのような小さな水滴であっても、同じところに長い間落ちていれば、堅い石に穴をあけてしまうことから、小さな努力であっても、根気良く続けていることで成果が出ることを言います。
 ただし、雨だれが石に当たらず直接土の上に落ちていると石に穴が開くことはありません。無駄な努力となってしまいます。努力は正しい方向にしたときに成果を得ることができます。

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  1. 2016/01/30(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

眼の奥で見る

 居合の師である梅本三男貫正先生が教えてくださったことです。
物を見るのに目の表面で見ようとせず、眼の奥、表面からずっと奥で物を見るような感覚を持ちます。この稽古を続けていくと体と動きが天地に沿うようになり、頭で考えずに体が働くようになります。試みてください。
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  1. 2016/01/31(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!

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