無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

介錯

 『旧事諮問録』は明治24年頃から、旧幕臣に幕府について質問した記録です。その中に介錯について記してあります。
問 首を落とす時は皮を残す、という事を聞きましたが、全くありましたか。
答 否、そういう事はいたしません。

 皮を残すという事はよく言われますが、幕府では行われなかったことのようです。
 藩や流派によった事なのかもしれません。私は実際の記録(日記等の確実なもの)で皮を残したという記述をみたことはありません。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の足踏みの口伝等々についてはすでにお教えしてありますので忘れぬようにしてください。

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  1. 2015/10/01(木) 21:25:00|
  2. 武道史

将軍の稽古

 『旧事諮問録』は明治24年頃から、旧幕臣に幕府について質問した記録です。
 この中に幕府の将軍の武術の稽古について言及した部分があるのでご紹介します。
 朝食後は学問、「それから柳生但馬守が出て剣術をお遣いになる。私どもか勤めた内で、慎徳院殿などは六十一歳でご他界になったが、晩年に至るまでも、やはり経書の講義を聴き、弓馬槍剣を講ずることはしなければならぬことになっておった。老年に至っては、少しは、修行より運動のためということになったのですけれども、必ずすることの法が立っているのでずいぶん束縛したもので、けれども考えれば大人しかったのです。それから小南市兵衛が出て槍を遣う。五十三間という馬場があって馬を乗る。また大的を射るとか、御休息の入側で巻藁を射るとと、こういうように、五ッ半時から何やかやあって、それが昼まで。」
 将軍の稽古のほうが、現在の我々の稽古量よりもはるかに多く、以前の片岡健吉の研究でも述べたように、まんべんなく稽古しており、得手不得手はあっても、好き嫌いは通らないことがわかります。
 古武道の世界とはこういうものてす。


  1. 2015/10/02(金) 21:25:00|
  2. 武道史

できない

 お教えした事がすぐにできるようなる方は少数で多くの方はすぐにできるようにはなりません。
 しかし、できない方にも2種類あります。 
 これまで全く行ったことがないため体がいうことをきかず「できない」。これは良質のできないですから、続けていて時がくれば必ずできるようになります。大器晩成型ですので、焦らずに師の教えを聞き、しっかり地道に稽古してください。
 もう一つのできないは、本人ができないとは思っていない「できない」です。教える方からみれば全くできていないのに、指導を受けても本人はそこまできていないとは思わず、ある程度はできていると思い込んでいる。このような状態の方は自分自身が自分の至らなさに気づくまで上達しません。悟りを開いてください。


  1. 2015/10/03(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

修行

 『絵で見る幕末日本』という題名の本の中に日本の修行についての記述があります。ただし、町人の手仕事の修行です。
 「手仕事の修行は十年間の奉公であって、親方は弟子を宿泊させ、着物を着せ、食べさせるが、給金は全然出さない。しかし、奉公が終わり、いよいよ一人前の職人となれば、煙草銭くらいのポケットマネーくらいはやる。だが、職業の教育はまだまだこのくらいではすまない。…中略…二十五歳にならなければ一人前の職人にはなれず、こうなれば親方から暇をもらい、独立して小さな工場をもてる道具一式を恩恵として与えられる。」
 武術の修行とよく似ています。10年という修行期間、師範代、独立して自分の道場を持つこと。
 以前もお話しましたが、津軽塗の職人に聞いたお話では最初の2年間は雑用ばかりで、その間に師や兄弟子の仕事をみて、何がよいのかという目を養う。
 武術も同じで善し悪しもわからなければ技の身につけようがありません。最初の1年、2年が辛抱できてはじめてものになります。



  1. 2015/10/04(日) 21:25:00|
  2. 武道史

写真から学ぶ

 貫汪館では奉納演武や講習会など、いろいろな機会に写真をとり、ホームページやFacebookなどにアップしています。
 自分が写っている場合にはどこが至らないかは見てとれなければなりません。私はやっと最近になって、まあこの程度のレベルかと思える写真もあるようになってきましたが、以前は失望の連続でした。
 自分が写っていない場合には人の良いところが見てとれるようにしてください。あの人はここが素晴らしい、この人はあそこが素晴らしいと、自分が学ぶべきところを見つけてください。
 写真を十分に活用し、みてとる力を育てて下さい。


  1. 2015/10/05(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達の早さは探求力の深さ

 人によって上達の早さは異なります。それぞれに生まれてからこれまでの経験が違うので当然のことです。たとえ人生経験は短くても良質の経験をされたかたは有利で、人生経験は長くても質の悪い経験ばかり重ねられた方は不利になります。それらの要因をなくした場合、上達の早さは探求力の深さと直結します。
 課題を与えられ似た動きをして安易に、だいたいできたと思ってしまう方、本質を考え本当に身につくまで求め続け、まだできぬ、まだできぬと求め続ける方とでは将来の上達は全く異なって来るのです。
 多くの同門や門人をみてきましたが、深く求める方のみが上達できます。


  1. 2015/10/06(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

掟・定・教え

 全日本剣道連の『剣道の歴史』からご紹介します。私たちの世代には常識であった事でも、若い人たちにはわからないことも多いようです。しっかり考えてください。
 「古くから三年待ってもよい師を求めよ!といわれる。三年待つとは、ただ漫然と待つのではなく、自らが探し求めることを意味する。他人からよい師といわれても本人はそう思わないかもしれない。自ら確かめて師と仰ぐ人を選ぶことが肝心である。そのようにして師を選び入門したからには、その流派の掟や定に従うこともまた当然となる。…」
 武は文の裏付けがなければ、たんなる暴になりかねません。故に多くの流派・道場さらには師にはそれぞれの教えがあります。
 それに従うことなしに修行はなりたちません。

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  1. 2015/10/07(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

技術の習得

 昨日に続き『剣道の歴史』からです。
 「入門してからの技の習得は、個人指導方式によって行われる。初めは防具を着用せず、師が打太刀となり、弟子は仕太刀となって、師が打ち込むのを弟子は師の教えの法則に従って応じ、その技と技の間に師が示す心と体に生じた隙に、弟子が打ち込んで悟らせるようにした。」
 防具着用稽古が始まったころについて述べてありますが、大切なのは「師の教えの法則に従って」という箇所です。自分の勝手な解釈によってでも、自分の経験によってでもありません。あくまでも「師の教えの法則に従って」です。
 流派武術の修行において素直な方のみが上達していく由縁です。


  1. 2015/10/08(木) 21:25:00|
  2. 武道史

蹲踞

 『剣道の歴史』の「試合の開始と蹲踞」の項に下記のように記されています。
 「座という、より日本的な待つ姿勢の一つとして蹲踞という姿勢があることを再認識する必要があるように思われる。その意味からも、蹲踞は相手と立ち会う前の待つ姿勢であるとともに、相手との間合や自分自身の身構えをはかる大事な所作であるといえよう。したがって、『始め』の合図とともに、蹲踞姿勢から跳び込んで技を繰り出すことは認められないのである。」
 蹲踞には上記のような深い意味があります。
 幕末、初代大石進が水野忠国の前でその家臣と試合をしたときには、相手は蹲踞して礼をしているときにいきなり打ちかかりました。大石進は相手の考えを事前に読み、簡単に応じて水野が褒めたという事例があります。油断は禁物です。(当時の礼法は現代剣道とは異なっています。)

 また、最近ではほとんど行われなくなりましたが銃剣道には初一本という考えがあります。銃剣道は蹲踞をしませんが、立ち姿勢のまま、「始め」という合図と同時に突進し直突することを言います。初一本は浅くても1本とされました。戦場の武技ですので一瞬の遅れが命取りになるため、初一本が尊ばれたと思います。
 槍術の入身試合でも短い槍を持った者は長い槍を持つ者の手元に走り込んでいたようです。
 武術がかわれば考え方も異なるのですから、油断は禁物です。


  1. 2015/10/09(金) 21:25:00|
  2. 武道史

河田景与

 『剣道の歴史』の「済寧館の試合と竹刀の長さ」の項の記述に「済寧館は明治十六年九月、麹町区紀尾井町に七間四方の広さをもつ剣場として開設された。九月一日、宮内大輔杉孫七郎、同省御用係山岡鉄舟が、二十一日には、元老院議官の鷲尾隆聚と河田景与が同館御用係を命ぜられている。十月五日には、開場を記念する剣槍術試合が実施された。この試合では山岡、河田ら五名が剣術検証取締を、前田忠挙ほか四名は剣術検証を勤めている。」
 ここに記述される河田景与ですが、河田家は鳥取藩士で代々大阪詰で大阪にいました。家伝の一刀流の道場を開いており、長府の多賀虎雄に大石神影流を習い、後、二代大石進種昌が文久三年に藩主に従い大阪に出たとき、弟子となり、以後は一刀流 兼 大石神影流を名乗ります。以前の武道学会中四国支部会での発表でもふれた通りです。
 貫汪館で稽古される方は記憶にとどめてください。


  1. 2015/10/10(土) 21:25:00|
  2. 武道史

幼少の稽古

 幼少の者の質のよい稽古には年長者が見習わなければならないところがおどろくほどに多くあります。
 横浜支部の二人の子供たちの稽古を先日拝見しましたが、すばらしかったところをいくつか述べてみます。

動きに全く無理がない。
邪念がないので、強くとか速くという不必要な動きを歪ませる要素がないのです。

動きに無駄がない。
心が素直なので、動きを飾ろうとはしないのです。

打太刀、仕太刀の動きに調和があり、全てが自然。
心に邪念がないため、こうしよう、ああしようという余計な思いがなく、二人の動きにぶつかったり、角張ったりすることがなく、すらすらと自然なのです。

太刀の重さが自然と備わっている。
邪念がないので太刀を振ってやろうということがなく、無意識のうちに体の中心で振れているので、自然と太刀は重くなります。

 横浜支部長の指導が適切で、小さな子供たちを型にはめず、素直なままに育てられている事が大きいと思います。また、保護者の方の家庭教育も素晴らしいのだと思います。
 小さな子供たちを指導する際には子供から学ぶという姿勢が不可欠で、決して歪ませてはなりません。


  1. 2015/10/11(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

居物切(すえものぎり)

 堀正平の『大日本剣道史』は日本武道学会の発表でも参考文献とされるほど詳しく記述されていますが、内容にはずいぶん偏りがあり、私の研究と照らし合わせても間違った部分があります。しかしながら、正しく書かれた所も多いので、少しこの書についてみてみたいと思います。
 「居物切(すえものぎり)」という項に以下のように記述されています。
 「刀を試すに、罪人を斬るには沢山な礼をせねばならぬので、其代りに藁を巻いて中に竹を入れて、これを試す者が生じた。之は徳川の初期かららしく、明治になってからは、殆ど此の巻藁試し許ばかりであった。」
 貫汪館で稽古する方に覚えていていただきたいのは「刀を試すに」という箇所です。試すのはあくまで、刀であり、現在のようにパフォーマンスとして、あるいは武道の一部であるかのように腕前を試すために行われたものではないということです。


  1. 2015/10/12(月) 21:25:00|
  2. 武道史

防具・竹刀

 堀正平の『大日本剣道史』の「剣道具の改良」の項の記述です。
 「胴は筑後柳河の藩士大石進が考案したものである、猶面籠手も従来のよりも大石が余程改良して、大体今日の道具と同じで、只粗末な丈けが違うたのである。竹刀は大石進が遣った事は慥かである、従来の袋竹刀では五尺三寸以上の長竹刀にすれば腰が弱いから、竹刀の祖は大石の考案と認らるる。」
 
 天保3年から4年にかけて、藩命により江戸で大石進が試合をしたときに、すぐに江戸では「大石流の道具あります。」と売り出されたそうですから(大石家家伝)、大石進が用いた防具は先進的なものであったのではないかと思います。
 ただし、おそらく胴と籠手は槍術のものを改良し、剣術用に使いやすくし、面は柳河で槍術に用いられていた鉄面の穂を13本に増やし、突きに対して安全なように改良したのだと考えます(槍術の稽古用のタンポ槍の先は竹刀の先よりかなり大きいので面を剣術に用いるためには横金の間を密にしなければなりません)
 竹刀に関しては従来の袋撓では長くすると先が刀と逆反りになってしまうので、大石進が袋撓をやめ、コミ竹刀(現在の竹刀と同じ)をつくり切先が下がらないように、琴の弦を用い(弦)て工夫したものだと思います。


  1. 2015/10/13(火) 21:25:00|
  2. 武道史

『大日本剣道史』の嘘 1

 堀正平の『大日本剣道史』の「大石進と剣界」の項の記述です。
 「後に天心一刀流の白井亨が、三尺六寸の撓を、以て初め下段から一本、後に上段から一本、都合二本とって遂に大石を破ったといふ。」

 この話は榊原健吉の談を園部正利から聞いたということになっていますが、以前述べたように、天保4年には榊原健吉は5才にみたぬ子供であって、剣術を経験してもいない年齢です。
 伝聞の伝聞の伝聞を確証もなく、載せています。また、当時江戸では三尺三寸内外の竹刀が主流なのに白井亨の竹刀が三尺六寸とされているのも、不可思議であり、50歳ころの白井が試合をしていたとも思われません。


  1. 2015/10/14(水) 21:25:00|
  2. 武道史

『大日本剣道史』の嘘 2

 堀正平の『大日本剣道史』の「大石進と剣界」の項の記述です。
 「それから大石も自信を失い、世人も大石與し易しと思う様になった、而して後大石も天保六年五月二十六日同じ陰流系の男谷下総守の門に入つて隨心更に修行したといふ。」

 この記述は全くの嘘で、大石進は二回目に江戸で試合をしたときには水野忠邦から直々に報償をもらい、各藩からの入門者が急激に増えた時期です。男谷に入門というのも捏造であり、堀正平の人物を信じることができない部分です。
 もっとも、以前、堀正平の研究者の方から堀正平は薙刀にこてんぱんに負けたことがあり、長物は苦手であると教えていただいたことがあり、拒絶反応からメチャクチャな事を書いているとも考えられます。
 このような点から考えると『大日本剣道史』の大石進以外の人物についても、信用できない記述がある可能性があります。


  1. 2015/10/15(木) 21:25:00|
  2. 武道史

『大日本剣道史』の嘘 3

 堀正平の『大日本剣道史』の「長竹刀に拠る剣の変化」の項の記述です。
 「足遣ひの変化、柄が八寸以内の竹刀の時は、常に歩む通りで宜かつたが、長竹刀に変わると柄も随って長く一尺三寸許りにもなつたので、歩んだのでは構へが動揺する、夫れを動かすまいとすれば窮屈であるから、形の様に歩んだのを止めて、右左と順に足を運ぶ様に変わった。今日の足遣ひは、この時からで昔の足遣ひに比して板間で早い事をするには便利であるが、地面に於いては、ハズミが出ぬから沢山は進み悪い、故に実地では左右又は右左右と歩まねば、広い所では届かぬ、足場の悪い所では、送り足では殆んど進まれぬ、故に旧法の歩む足遣いが実戦に適することは慥かである。」

 堀正平は現代剣道の人であるが故にこのようにしか思い至らなかったのでしょう。現代剣道では相手に正対します。飛び込んで打つためには相手に正対したほうが体が使いやすいのは明らかです。正対してしまえば柄が長ければ送り足の方が適しています。
 しかし、流派剣術の多くは半身をとりますので柄の長さによって送り足をしなければならなくなる事はありません。
 大石神影流の長刀(なぎなた)を使っても柄が長いからといって送り足になることはありません。
 堀正平が古武道に関して無知すぎたのだと思います。


  1. 2015/10/16(金) 21:25:00|
  2. 武道史

剣道

 山口県美祢市の西圓寺御住職瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年2月25日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 このとき来嶋又兵衛はすでに初代大石進から大石神影流の免許皆伝を受けており、長州藩士を連れて再び大石進に学ぶため、宮部に向かう旅の途中で太宰府天満宮に立ち寄りました。
 「夫より道を急ぎ漸四ツ時ニ宰府江行。天満宮江参詣致し候処其風景景題(境内)にて楼門の内より参詣の群出候分、神前江参り拝礼致し、国家安全武運長久修行中剣道上達の祈を願、」
 江戸時代には一般的に剣術という言葉を用いましたが、来嶋又兵衛は剣道という言葉をすでに用いている事がわかります。
 この剣道という言葉が当時、どのような人々によって、どのように用いられていたのか興味深いところです。


  1. 2015/10/17(土) 21:25:00|
  2. 武道史

手土産

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年2月27日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 この日、来嶋又兵衛は宮部に着き、大石進に面会します。
 「先生宅に参候処稽古最中、先生江相対致し候。廉蔵、春吾も来り宿之(欠)作次方相極、荷物おろさせ候事。夕方髪結、連中不残先生方江参り候事。銘々土産差し出し、自身には干大根壱把、弁当こうり、しようちう一(欠)持参候事。」
 今も昔も先生を訪ねるのに手土産を携える事はかわらないのだなあと思います。
 私も大石先生をお訪ねするのに手土産は欠かしたことがありませんし、梅本先生、畝先生の御生前にはどこか遠方にでかけた際には高価なものでなくても、その土地のお土産を欠かした事はありませんでした。
 気持ちをお届けしていました。


  1. 2015/10/18(日) 21:25:00|
  2. 武道史

馳走

  瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年2月28日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 この日、来嶋又兵衛は宮部到着二日目です。
 「今日、大先生、若先生、松岡五郎、今村五一取持として鈴木廉蔵、英春吾、塾中より招き御頼み入として馳走之事。酒六升銘酒、肴鯛のさしみ、烏賊の木のめあへ、ほらの色附、吸物鯛、鯛麺壱鉢、玉子其他色々、暮過まで賑々敷饗応之事。」
 大先生とは初代大石進種次のこと、若先生は二代大石進種昌のことです。松岡五郎、今村五一は大石門下の高弟です。
 長州から柳河藩の宮部まで行き、これから習おうとする者が、先生や高弟に稽古をつけていただく礼として、ご馳走をしています。料理の内容は現代からみても美味しそうです。


  1. 2015/10/19(月) 21:25:00|
  2. 武道史

レクリエーション

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月1日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 この日、来嶋又兵衛は宮部で稽古を始めて4日目です。
 「夕方、兎狩に参り、塾中よりも不残参り、兎壱羽取り、山にて酒持参呑候事。人数拾八人也。外先生父子、武一と相添二十一人也。」

 兎狩りが残酷かどうかはおいておいて、道場中の全員が参加して山で酒盛りをしています。
 今風にいえばリクリエーションと懇親会を兼ねたものであったのでしょう。
 楽しそうです。


  1. 2015/10/20(火) 21:25:00|
  2. 武道史

剣槍併修

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月7日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。

 「稽古、若先生、英、山田、井上、馬来已上。鎗、山久、若先生以上七人。北川萬公より柄皮貰候事」

  防具着用稽古の相手の名前を挙げています。
 初代も二代も大石進は柳河藩の剣槍師範で、二代の末弟大石雪江もまたしかりでした。
 したがって剣術修行に赴いた来嶋又兵衛も大嶋流の槍の稽古をしています。後の蛤御門の変で来嶋又兵衛が馬上で槍を手にして指揮していたのは知られている話です。
 大石進の剣は剣槍の稽古から生まれたものですので、剣槍の稽古をしなければ師の大石進に近づくことはできないと考えるのが弟子としては当然の考え方であったでしょう。
 貫汪館でいえば、無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術のすべてがあって今の私の全てがあります。どれかが欠けてもいずれの流派も今のレベルにはありません。貫汪館では三つの流派を稽古するのが当然ということになります。




  1. 2015/10/21(水) 21:25:00|
  2. 武道史

大石進と相撲

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月12日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
  「稽古跡にて角力御座候処、右門伊吉始、先生弥八始、若先生、伊吉、右門、私。大先生、大力大力、中々立突候もの無御座候事。」
 初代大石進種次には田で牛がひく鋤を、余興で自分がひいて農民たちを楽しませたという逸話があるくらい力がある方であったようです。
 時の横綱が大石進を評して、しばらく本格的に相撲の稽古をしたら大関あたりが困る相撲取りになると言ったほどで前頭あたりでは大石進に太刀打ちできなかったようです。
  しかしながら、大石神影流には力任せの技はなく、よく他流にあるように打たれたら失神したとか、箸をもてなくなったとか、突かれたら、喉が腫れ上がり食事ができなかったなどという話はありません。
 また、大石神影流の修行者の日記にも組み討ちに関する記述をみません。
 大石神影流は防具着用稽古においても当時から繊細で、防具着用稽古は触れれば斬れる真剣のための稽古でした。


  1. 2015/10/22(木) 21:25:00|
  2. 武道史

心の伝授

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月15日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「晩方、酒弐升、玉子拾五、作次江持せ、先生方江参り、萬蔵公、平馬公三人連にて馳走に相成候事。先生方にてまんちう食ひ、四ッ時に帰り候事。」

 大石神影流の修行者は稽古外に、よく大石進先生にお話しいただく機会をもっています。残念ながら、先生からの話の内容は記されていませんが…。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の細川義昌先生の日記にも植田平太郎先生に招かれて香川に指導に行かれた時には、毎晩のように植田先生が旅館を訪ね、懇談した事が記されています。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の我が師梅本三男貫正先生も機会あるたびに私を喫茶店に連れて行ってくださり、個人的にお話をしてくださいました。
 澁川一流柔術の師畝重實嗣昭先生も稽古のあとのお話の時間を十二分にとってくださいました。
 大石神影流の師大石英一先生もまたしかりです。
 古武道というと、とかく技だけがクローズアップされ、あたかもそれが全てであるかのように、一般の方に大きな誤解を与える人達もいますが、武道の修行は心の伝授なしには成就しません。貫汪館では心なき武道に価値をみいだしません。


  1. 2015/10/23(金) 21:25:00|
  2. 武道史

大石進と馬術

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月20日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「夕方、先生乗馬にて来り馬を先へかへし、夫より作次を宮部へ遣し酒を取り寄せ壱升五合、肴玉子求、先生へ馳走致候事。」

 大石進が居住した宮部は柳河城下から車でも30分かかるほどの藩堺にあります。
 柳河藩では必ずしも藩士の城下集住は行われず、実力のある武士に藩境に領地を与え、警護に当たらせたようです。したがって柳川藩では城下に住んでいた剣槍の師範もいますが、農村地帯に住んだ師範や武士たちも多くいました。
 大石進は城下の武士に指導に行くときには馬に乗って通ったようです。また宮部の大石家の小さな道場の横には馬術の稽古のための馬場がもうけられていました。


  1. 2015/10/24(土) 21:25:00|
  2. 武道史

息抜き

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月24日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「早朝より清水参詣催し先生方へ行、正五郎方へ相集り、夫より近道上や原通り山を越へ、清水観音へ参り色々見物致し、夫より馬芝居見物し、夫より元吉の町へ下り、久留米屋と申宿にて弁当を仕廻、酒を相催し候事。夫より若先生、後藤徳蔵、山田熊之允、英春吾帰り、残り之人数、北川、井上、山縣、来嶋、馬来、鈴木、中村、浜岡、友清以上十一人也。又、馬芝居見物致し候事。夫より七ッ過ころ雨降り出し、元吉町の久留米屋へ泊り候事。晩、風呂入。夫より北川、鈴木うなきやへ茶つけを、食候事。夜、連中酒を催し候事。」

 剣術修行に大石進のもとへ留学した人たちは毎日が稽古でしたが、たまに息抜きもしています。
 来嶋達は泊まりがけで清水観音まで参詣したようです。また、この息抜きには二代目大石進種昌もつきあっています。
 うなぎ屋の茶漬けがどのような料理だったのか、気になります。
 遠方から貫汪館の稽古に来ていただく各支部長にも本来なら広島の旧所名跡をご案内したいのですが、双方仕事を持ちながらの稽古であるため、なかなか実現せず申し訳ないと思っています。


  1. 2015/10/25(日) 21:25:00|
  2. 武道史

稽古量の数え方

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年3月29 日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「稽古帰り風ろ入候事。昼後算用相済シ、宿札ニ札拾匁宛差出候事。晩、酒を呑候事。二月二十九日より今日迄稽古出席数廿八度、面数二百□□三面遣候事。」

 稽古量の数え方を稽古への出席回数と防具着用稽古をした相手の人数で計算しています。「面」というのが相手の人数です。稽古するたびに毎回記録をつけています。
 香川県の金刀比羅宮の江戸時代の奉納額にも何面試合したと記載したものがあったと思います。


  1. 2015/10/26(月) 21:25:00|
  2. 武道史

稽古場の整備

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年4月1 日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「早仕廻、稽古場の草を取り、そうじ致し候事。御神酒として壱升、北川、山縣、三人呑候事。肴玉子、荒しやく之事。」

 宮部での大石門下の大石神影流の稽古は主として屋外で行われました。大石邸に隣接する早馬神社の境内が主な稽古場でした。
 その稽古場を整備するために草抜きをし、掃除しています。
 堀正平が長竹刀では柄も長くしたがって歩み足ではなく、継足となり、板間ではない地面の上では実用的ではないと述べていましたが、半身であれば柄が長くなっても歩み足が可能で、地面の上でも働きができるのは、先日述べた通りです。
 堀が自分の現代剣道の体験のみに基づく机上の空論を展開していることがわかると思います。


  1. 2015/10/27(火) 21:25:00|
  2. 武道史

稽古の検分

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年4月2 日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「稽古出席致候処、柳河城下より稽古見分として役人三人、十時弥兵衛、小田部嵯久磨、清水太郎左衛門孰れも中老なり。番頭役相勤候事。稽古数、鈴木、北川、井上、荒木、英、若先生以上六人。午後、月代致候事。稽古後、相撲有之事。」

 宮部は柳河城下から車でも30分はかかり、大石進は馬で城下へかよっていたのは既に述べた通りです。
 役職として稽古の検分に番頭がやってきています。これから研究を進めなければなりませんが、柳河藩の藩校には各流派に武術を稽古させる武道場がなかったようです。そのため、稽古の検分も、城下から出向いて来たのでしょう。
 藩校に武術の道場がなかったので藩による流派の統一もなく柳河藩では流派の多様性を保っていたようです。


  1. 2015/10/28(水) 21:25:00|
  2. 武道史

雨天の稽古

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年4月3日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「雨天 稽古出席数、松崎、野田、山田、藤本、伊藤、荒木、英、友津、井上才九郎、辻隠岐之助、内藤、馬来、高洲、楢原、中村晋、浜岡、奥山以上拾七人。大先生、馬乗り宿へ来り、酒を出し肴に玉子ぐち其外。松崎伊吉、井上才九郎来り、其後、英春吾来。今日、馬皮一枚買候事。」

 雨天でも稽古しています。雨天であれは、神社の境内ではなく大石邸の小さな道場を用いて稽古したものと思います。雨天に屋外で稽古したら、防具や竹刀の革の部分が痛んでしまうからです。
 この日も大石先生は乗馬で来嶋又兵衛達の宿を訪ね、酒を飲み話をしています。


  1. 2015/10/29(木) 21:25:00|
  2. 武道史

加藤善右衛門

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年4月12日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「天気宜 稽古出席致数、七面遣候事。夫より支度致し、柳川城下へ罷越候事。其人数、若先生、北川、馬来、山田、井上、鈴木、中村、英、楢原、高洲以上十一人。八ツ時より出、柳川へ七時過に着致、加藤へ進士と計参り候所、善右衛門先生留守故、田尻へ参り捨水先生へ皆々相対致、夫より修行者宿、井手橋亀や孫兵衛方へ参り休足致し候事。夜中、若先生来り酒を出し候事。」

 加藤善右衛門は大嶋流槍術師範で相面試合(入身試合と異なり、双方が自由に行う試合形式)で知られ大石進と同じく全国からの多くの留学生をかかえていました。
 柳河範は大石進のように剣術と槍術の師範を兼ねる者が多く、加藤も大嶋流槍術の師範であると同時に新陰流(愛洲陰流:大石進種次の父、祖父はこの流派の師範です)の師範を兼ねていました。
 来嶋たちは、剣術の試合をするために加藤を訪ねています。
 なお、進士とあるのは二代大石進種昌が進を名乗る前の名です。
 文中の修行者宿とは廻国修行者に便宜をはかるために藩がもうけたもので、宿泊代、飲食代は藩がもちました。柳河藩は早くから他流試合の廻国修行者をひきうけていたため、全国的にみて、修行者宿の設置が早くに行われています。


  1. 2015/10/30(金) 21:25:00|
  2. 武道史

試合の不成立

 瓜生等勝先生の『来嶋又兵衛文書』中の天保15年4月13日の来嶋又兵衛の日記に下記のようにあります。
 
 「日和 連中不残□鍛冶久廣方へ行、其外見物致し候事。凡、九ツ時に加藤善右衛門、石橋猪十郎両人来り候事。夫より昼飯を仕廻候処へ若先生来り、後藤徳蔵来り候事。夫より支度相調へ宿より出懸候処、吉弘忠太来ら、少し内膳支り有之候に付稽古之儀は相断候段申来に付、俄に当惑致、夫より別に家川念流師家に瀬戸口十兵衛と申方よりも来候て、田尻之門弟と加藤之方へ参へしといふ事故、不残参候処、一向出席之趣無之。夫より田尻之方へ帰へり候処、先生、若先生、萬蔵、平馬不残居、殊外障り出来、萬蔵、平馬両人城下へ残し其夜は田中久馬方へ参り候事。残りは早速亀やへ帰り支度致し城下七ツ過より出立、急き中嶋へ帰り一休ミ酒を催し、江の浦へ帰、うなきのかは焼食候事。其夜其所へ休み候。廉蔵、晋太郎、瀬平
以上四人。」

 この日、いろいろ動きはあるものの、結局試合は成立しませんでした。当時は電話もなく、試合も行き当たりばったりの事が多く、よく試合が不成立になることがあります。
 その当時から柳河では、うなぎ料理が有名であったこともわかります。


  1. 2015/10/31(土) 21:25:00|
  2. 武道史

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Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
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