無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大事をは皆受取と思ふともみかかさるには得る道はなし

 当たり前のことですが、伝授される事とできるようになることは別ものです。
 昔、ダイビングをしていたころに、「ある団体の資格は講習会を受けたら取ることができる。別の団体の資格は講習会を受け、できるようになったら取ることができる。」という違いがあったように記憶しています。当然武術は後者のほうです。
 いくら教えたところでそれを習得する努力をしないことには自分のものにはなりません。知識があることと、できることは別物なのです。

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  1. 2015/04/01(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

目の前のます毛の秘事を知ぬれは只すみやかの一筋の道

 これも有名な歌ですが、自分にないものを身に付けようと一生懸命腕力を鍛えたり、握力を鍛えたりすることは不要です。
 技は自分の内に秘めたものを開き、磨いていくものであり、余分なものを身に付けていくことではありません。

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  1. 2015/04/02(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「一 新入之者古参之門弟中引合之通、堅相守可申事」

 難波一捕流の伝書に記されている掟の一文です。
 簡単に言えば先輩・後輩のけじめをつけなさいということが記されています。後から入門したものは先に入門したものに敬意を払い、先に入門した者は後から入門した者を教え導かなければなりません。後輩は先輩の教えを守り、先輩は後輩に道場内での作法や心構えを伝え実行させなければなりません。
 先に歩んでいる者には先に歩んでいる者の責任があり、言いづらいことであってもしっかり指導しなければならず、あとから歩む者は指導を受け入れていかなければ見えるべきものが見えてきません。

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  1. 2015/04/03(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「一 折方前取違有之候共善悪之論堅無用之事」

 こういうこともあったのかなあと思う掟です。折方前というのは受の仕掛け方のことです。受が仕掛け方を間違えたとしても、口論するなということなのですが、血気盛んなものはその程度のことでもかっとなることがあったのかもしれません。

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  1. 2015/04/04(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「一 他流之人柄出会之節自流賛談他流嘲口論堅無用之事」

 これはもっともな掟です。他流派の人と出会ったときに自分の流派を自慢したり、他流派をそしったりしてはいけませんよという教えです。
 優劣は多くの場合、流派によるのではなく人によります。自分のことならまだ我慢ができるでしょうが流派をそしられたら我慢はできないでしょう。

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  1. 2015/04/05(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「一 夏は日方冬は日隠を通候心得にて万端相慎み候事」

 夏に日向を歩く人は少ないから日向を歩いて人とぶつからないようにしなさい。冬は日陰を歩く人は少ないから日陰を歩いてぶつからない様にしなさいという教えです。争いになるようなことは少しでも避けなさいと教えています。

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  1. 2015/04/06(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

忍れと色に出にけり我恋は物や思ふと人のとふまで

 相手の動きには必ず兆しがあります。居合の稽古も柔術の稽古も剣術の稽古もこの兆しをとらえることができなければいくら形(手数)稽古を重ねも意味はありません。兆しをとらえる稽古を重ねるから余裕を持って動くことができるようになります。
 逆に見れば技をかけようとするほうが顔を怒らしたり、表情に表わしていては稽古にはなりません。

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  1. 2015/04/07(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

居合の稽古

 貫汪館では居合、柔術、剣術の稽古をしており居合と剣術、柔術と剣術は同日に稽古するようにしています。では何から入ったほうが上達しやすいのでしょう。
 無雙神傳英信流抜刀兵法は作法の稽古から入ります。江戸時代であれば家庭で十分に躾を受けたであろう作法を、道場で再度稽古します。作法は対敵動作ではないため自分の動きを繊細に求めることが可能です。逆に言えば繊細な感覚がない人、自分自身を知ろうとしない人にとっては初めから何もできません。しかし、ここを通り過ぎれば気づきは大きくなり上達は速やかになります。抜き付けの稽古に入ってもその繊細さが心身ともに上達にとって大きな効果をもちます。
 大石神影流剣術には無雙神傳英信流抜刀兵法におけるような作法の稽古はありません。武家で稽古されていた剣術なので正座や、刀の帯しかた、刀を帯したうえでの歩み方など当たり前であったことでしょう。稽古は簡単な神前の礼と互礼から始まりますが、これが私にとっては非常に難しく、いまだに自分自身が満足できません。しかし、無雙神傳英信流抜刀兵法を稽古していない方はできていないことにも気づかないようです。
 また剣術は主に抜いてから始まる稽古ですので、本当の意味では自由になっていないにもかかわらず自由であると錯覚してしまう方もいます。
 さらに江戸時代であれば、藩によっては元服のころから稽古を始めますが、子供のころから帯刀を許される藩であれば、道場で稽古する以前に身内の指導で、自分が腰に差す刀を抜き差しし、刀を手入れし、振ってみるのは当たり前のことで真剣の繊細な扱いが身についていますが、現在のように真剣を腰にしていない時代にあっては木刀が真剣の代用であるという感覚がなく、居合を稽古したことがない方は木刀を真剣の代わりとしてではなく木刀として使ってしまうためにどうしても大雑把な雑な動きになってしまいます。
 真剣を腰にしない現代では居合に比べて剣術のほうが間口は広く、手数を覚えればなんとか物になったように感じるのですが、そう感じてしまう方は、いくら手数の数は覚えても、何回稽古しても奥に行くことは困難です。
 柔術は本来、最も難しい術です。自由な相手の刃物から素手で身を守ろうというレベルに行かなければならないということは至難のことなのです。しかし形であり決まった動きをするが故に至難の業と感じない方もおられます。技という点においては受が捕の腕力を感じるレベル、つまり、投げられる、抑えられる、きめられると感じるレベルであってはならないのです。また、技をかけるほうも、それを感じて自ら正せるレベルでなければ上達は困難です。そのような繊細な動きを要求されますが腕力や体重の差でも何とかなってしまうところが柔術稽古の難しいところです。
 言えることは、貫汪館で稽古して上達しようと考えられたら無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古は不可欠であるということです。剣術も柔術も無雙神傳英信流を稽古されていない方に比べ無雙神傳英信流抜刀兵法を稽古される方は2倍、3倍の速さで上達されます。都合により稽古されていない方は、体を大きく動かしながら同時にレベルの高い繊細な動きを求められる舞などの稽古などをされたほうが上達のため位はよいと考えます。

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  1. 2015/04/08(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

袴捌き

 無雙神傳英信流抜刀兵法の袴捌きは袴捌きそのものが体を開発していく形であるといっても過言ではありません。したがってこれを正しく行って着座するか、いい加減に行って着座するかでは上達に大きな差が出てきます。
 袴捌きの動きは体の中心線を感じさせ、その中心線を天と地とつなぎます。つまり天地人を一体とする重要な働きがあるのです。今は、ただ座るだけだからといい加減な動きをすれば大切な稽古をおろそかにしたことになります。

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  1. 2015/04/09(木) 21:25:00|
  2. 居合 総論

柄手

 初心者の方で柄手がだいぶわかるようになった人でも、形により、また何かの拍子で柄を握ろうとしてしまいます。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の抜付けは、間近の敵を斬る動きと、向うからこちらに斬りかかる遠間からの敵を斬る動きがあります。遠間の敵を斬ろうとしたときには柄を握りしめると、物打ちが走らず向うの剣はこちらに届き、こちらの剣は向うに届かず、インターセプトできなくなってしまいます。仮想の敵との間合いを工夫してください。

今日から刀装具ではなく長崎の簪。サンゴや銀が色あせていますが、イマジネーションで元の色を復元してください。
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  1. 2015/04/10(金) 21:25:00|
  2. 居合 業

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 1

 樋口真吉は土佐中村の人で天保8年(1837)、天保11年(1840)、弘化4年(1847)、嘉永2年(1849)、嘉永5年(1852)と計5回、九州に赴いています。そのうち柳河藩の大石進のもとでの稽古を含み廻国修行したのは天保8年(1837)、天保11年(1840)、弘化4年(1847)、嘉永5年(1852)の計4回で、嘉永5年(1852)は石山孫六とともに九州から江戸に至っています。なお嘉永2年(1849)は長崎へ砲術修行に赴いているので、廻国とは言えません。
 これらのうち詳細な記録が残っているのは天保8年(1837)の『第一回廻国修行日記』と天保11年(1840)の第二回目、嘉永5年(1852)の第四回目の廻国修行日記です。
 『第一回廻国修行日記』については日本武道学会第42回大会発表抄録<於:大阪大学豊中キャンパス 平成21年8月24日(月)>で発表していますが、この日記の内、興味深い記述を抜き書きしていこうと思います。

宇和島でのお話しです
「廿八日、九ツ時まで雨、大久保七太夫予旅宿ニ来ル、よつテ階上に請て對語大久保先生曰、当家他流試合の事ハ主人江言之上ならでハ出来不申、且勝負決せずしてハ不止、勝負決とは如何、答曰勝負は余にあらず、他邦の人に勝を取セ、返ことをならず、よつて真剣を用る事もあらん、斯申時甚狭きよふあれども、先規なれは是非なし、また上達にも及ときは廿日十日ハ懸るべしと云」

宇和島藩ではこの当時他流試合は真剣勝負同様の感覚であったことが分かります。名誉にかかわることなので、たとえ試合をしても宇和島藩の武士が勝たねばならず、場合によっては真剣勝負になることもあるというのです。大石進が江戸で試合をして数年後にもまだこのような藩がありました。

この簪はとても可愛らしく、当時私が生きていたら何としてでも手に入れプレゼントしたくなるような気持ちにさせます。

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  1. 2015/04/11(土) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 2

 現在の大分県に熊本藩の飛び地がありました。そこに毛利空桑という儒学者であり教育家であり尊皇論者出会った人物がいました。現在も旧宅が残っており、稽古槍がかけられています。
http://www.oita-location.net/search/data/lp0245.html

「三日、両人林田を訪、時ニ主人熊基ニ出と云、当宿に帰、是より高田の毛利を尋と思、亭主ニ高田の道を問、亭主答、副先生は只今當所ニ居を移され申と云、因直ニ毛利先生を訪、先生庭ニ剱の稽古なり、予等到れは、撓を置て表ニ通す、予乃其志を云、先生許す、暫有て先生曰、六七日前豫州之僧来ル、足下之談有之、且足下の姓名記し置たりとて、童子を呼て其書ヲ出、同門秀嶽禅師之書なり、於是後時の立会を約シ、宿ニ帰り中飯シて又行、先生郡代ニ達シ、同門の社中を呼寄、試合致ス、社中皆熊本之藩中、新陰流速水八郎兵衛門人也、初度桑原相手二人、次ニ予代テ七人、三度目桑原四人、又予、又其次桑原、都合人数拾三人之試合相引ンとする時、先生曰、只今雲弘流後藤夛次郎来ル、御相手願タシト云、よつて予立會、雲弘流肩よりおろす流なり、右孰レモ格別之仕手とも不覚事、」

 毛利は新陰流ですので袋撓を用いたものだと思います。雲弘流も同様です。

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  1. 2015/04/12(日) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 3

「五日、町田を出テ畑中村伊右衛門ヲ尋、此人百姓にて武術を好、棒術剱術に達と云、折節他出、夫より踏戻り、府内城下ニ至、剱家樋口庄作と云有(明智流云、庄作は桃井内弟子、予同門也、当時江府在勤と云) 城内ニ居る、依而一刀流佐藤奥右衛門ヲ教らる、佐藤氏ニ行て請、先生病、同苗主市併直師流菅野善八郎(普請奉行善右衛門嫡子)、右二人と二順遣仕舞時、また佐藤の門人柳井源兵衛桑原を望、桑原の労ニ代て予相手す、已ニ未の刻也荷を取んとする時、主人留メて酒を出す、夜ニ至る、遂に留められて宿す、予持参之画壱枚ヲ送る、佐藤氏より竹画壱枚報ニあづかる、奥右衛門先生桑原氏の手袋縫呉る」

 この記述からは府内藩に百姓で武術をする者がいたことが分かります。また一刀流の佐藤奥右衛門が樋口と同道していた桑原に手袋を縫ってくれたということが記されていますが、試合をする一刀流といえば中西の流でしょうか。中津藩には長沼無双衛門がいました。そうしてみると、この手袋は新陰流で用いる薄い手袋ではなく甲手だった可能性があります。

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  1. 2015/04/13(月) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 4

 無駄足のお話です。当時通信手段はありませんので、訪ねて行った先が不在かどうか、試合ができる状態かどうかはわかりません。以下の記述では試合ができない状況ばかり続いています。

「十日、坂ノ下を出、三里にして大津ニ至る、剱家赤峯治三郎ヲ訪(安藤ヨリキク)、人有て云、赤峯当時衰微、同處手嶋新三郎ハ近邉之師範なりと云、因て転して手嶋氏江行、道ニ手嶋氏之子息ニ遇、手嶋云、拙家要用不遑、東武門ヲ訪ハレヨと云、東氏大津ヲ去ルコト壱里、大林村なり、夫より東氏ヲ尋、武門出猟と答、因帰リヲ待、家人云、帰宿甚遅シ、帰期定難シと云、五里之路、武門剱術武蔵流(熊本富田儀之助門人)、撓長五尺、家人云、前夜藝州之人上杉新三郎當家ニ留、四五日稽古致スと之話」

 当時、武蔵流は5尺の撓を用いていたことが分かります。この撓は袋撓なのでしょうか?

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  1. 2015/04/14(火) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 5

 熊本の新陰流師範和田傳兵衛のもとでの記述です。

「十四日、和田人数四拾九人、余モ壱人の高弟と勝口ヲ試、此家道具撓丸竹四ツ破ニ革ヲキセ、鍔あり、面ハ金面フトンナシ、小手手首キリ、稽古試合口下段突ナシ、因テ余等持参の稽古道具出シテモ都合悪ク、隠シ置事」

 熊本の新陰流は現代風の防具は使用しないので、樋口一行は自分たちが持っていた防具・竹刀を隠したという記述です。また熊本の新陰流は上段はとらず、また、小手は手首きりというのは手首または拳に打打込んだものだと思います。

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  1. 2015/04/15(水) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 6

 長崎での記述です。長崎には小川水衛という武術家がいました。教えていた流派は新陰流と妙見自得流です。先日の長崎の調査でも小川水衛が記したものがありました。

「十九日、画家石崎融思へ行、帰て剱家小川水衛へ行、神陰流剱、妙見自得流の槍術なり、壱番予と門人得平鉄十郎、次小川喜代次、二番桑原得平、小川喜代次、三番予と小川水衛、両刀也、立合半より大を上段に持、小ヲ下段始、両人竹刀長四尺四五寸、下段之仕口喜代次達者也、夫より鑓ニなる、小川喜代次ニ入身、余突方、次桑原、其後桑原入身、鉄十郎喜代次ニ突方、日暮止る、桑原管三郎頼の鉋術家聞合ス、高木内蔵丞(長崎代官弟也)、薬師司宇右衛門 自覚流、炮家高嶋四郎太夫荻野流炮(蘭法火技)、小川氏の鑓遣ヨウ常の通ニテ管鑓也」
 
 小川水衛は新陰流ですが、二刀を用いていることが分かります。また槍術は試合槍術の管槍ですが相面試合ではなく、入身試合をおこなっています。

螺鈿の細工がある串と笄です。
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  1. 2015/04/16(木) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 7

 柳河藩の大石進に入門した後の記述です。

「八日、暁天旅舎ヲ立て、四ツ時柳川ニ至、間ニ合紙ヲ求、七ツ時三池ニ帰ル、往還十里、同日稽古有之と云」

 この記述の前に門人を通じて大石進から伝書を授ける話があります。樋口は一度断ったものの、授かることにしました。
 この記述は伝書を書いてもらうために柳河城下まで伝書用の紙を求めに行った記述です。

今の時代には用いてはなりませんが、鼈甲の簪です。
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  1. 2015/04/17(金) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 8

 これは大石進が大きな体(7尺)であったということを物語っています。

「十三日、撓拵ニ隙取、槍術計、樺島三郎・椎﨑右馬丞、相手人数拾貮人、諸生皆昨日之大酒ニ殆煩、先生の飲酒三升と云」

 大石進は三升のお酒を飲んでいます。
またこの日の記述から樋口は、一般的にそうだと思いますが、竹刀を自作しています。

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  1. 2015/04/18(土) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 9

 武術とは関係ありませんが、当時石炭をどのように用いていたかという面白い記述です。

「十九日、大石氏へ行、大ニ馳走ニ逢、九ツ時帰る、湯邑来て平野山に誘引せらる、山中炭ヲ出ス、炭ハ土中ニ有、銅山ノ如ク洞中ニ入コト十丁餘、役人竹の器ニ入、荷て番持す、番所連続仕、成場夥シ、石ヲ衆、火ニテ吹、其上へ土ヲ覆、炭ト成シ賣出ス、九州端用之其臭いおうの如し、此邉処処毒水あり、魚ヲ不出と云、」

螺鈿の細工が続きます。
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  1. 2015/04/19(日) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 10

 これは樋口真吉が30日足らずで免許皆伝を得た時の記述です。

「廿六日、此日大石氏より皆傳ヲ授、八ツ時桑原と両人湯邑誘引ヲ以禮服神文の上傳書ヲ授、桑原氏の傳書初目ニ本目なり、大ニ馳走ヲ受、夜ニ入帰ル」

 伝書を授かるときには礼服を身につけることが分かります。

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  1. 2015/04/20(月) 21:25:00|
  2. 武道史

ヨガのセミナー

 樋口真吉の日記をお休みして先日行ったヨガと瑞穂舞のセミナーについて記します。今日はヨガのセミナーについて。
 クンダリーニヨガの指導を受けるのは2度目になりますが今回のセミナーは前回とは趣が異なり呼吸法に重点を置いた指導をしていただきました。
 いくつかの呼吸法を指導していただきましたが、貫汪館の武道の呼吸法と必ずしも合致するものではありません。ヨガの呼吸法と貫汪館の武道の呼吸法は異なるのに何故ヨガの呼吸法を稽古しなければならないのかと思われた方もおられるかと思います。武道の呼吸法は相対しているときには深い呼吸をしながらも、その呼吸を表に見せません。呼吸の間を盗まれてしまうからです。ヨガでははっきりと呼吸する方法がとられていたと思います。
 今回のヨガの御指導では皆さんは意識して呼吸を考え、実践されたと思います。貫汪館の武道の呼吸法は表には見せませんが実は動きはすべて呼吸に乗っているのです。正しい呼吸なしに正しい動きはないのですが、ややもすれば呼吸をおろそかにして、振ろう、斬ろう、投げよう、抑えようという部分に意識が行きがちです。
 そのような意味で今回、呼吸法に真摯に取り組んだ方は今後貫汪館で稽古されるうえで呼吸を疎かにされることはないと考えています。


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  1. 2015/04/21(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

瑞穂舞のセミナー

ヨガのセミナーの後、休憩をはさんで瑞穂舞の指導をしていただきました。私自身瑞穂舞を拝見するのは3度目ですが、昨年10月26日に佐賀の與止日女(よどひめ)神社ではじめて拝見したときに、この舞ができれば貫汪館の武道は相当なレベルに至ることができると感じました。武道と舞は異なる部分もありますが動きの繊細さは共通し、動きに寸分の隙がないことも絶対条件です。DSC_07151.jpg

 瑞穂舞の繊細なゆったりした動きには寸分の無理無駄もなく隙もありません。またその動きが速くなった時もゆったりした動きの時と同様に寸分の無理無駄もなく隙もありません。その過程はまさしく貫汪館の武道の上達過程と同じです。
 今回は瑞穂舞の歩き方(非常に難しい)をしっかりと指導していただきました。無雙神傳英信流、大石神影流、澁川一流もそれぞれ実は瑞穂舞のように一歩一歩、繊細で無理無駄がなくブレのない歩み方をしなければなりません。その点がこれまで疎かになっていた方が多いように思います。今後は歩み方に意識を持って稽古できることともいます。
 最後は舞のさわりの部分を教えていただきましたが、大石馨先生の肩の動きを看取ることができた人はどの程度おられましたでしょうか。私が常に指導しているように肩が無い状態で指先まで気が流れているのを見て取ることができた方は上達していくことができる方です。
 多くの方は見て取れた、取れないにかかわらず、肩ががちがちにこわばり、動いておられました。今後の課題としてください。
 今後も機会があれば、大石馨先生にヨガと瑞穂舞の指導をお願いしようと考えています。しっかり学ばれてください。

  1. 2015/04/22(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

居合の礼法

 瑞穂舞の指導を受けた後は私が居合の礼法の指導をしました。
 斯道の要点は「礼に心がこもっているかどうかで礼法の全てがきまる。」です。神拝をしても、ただ決められた通りに形だけの礼をするのか、実際にそこに神がおられるのを感じて礼をするのかでは動きも全く異なった動きになります。刀礼もしかりです。刀に霊性が宿っていると感じて礼をするのかそうでないのかでは全く異なります。
 稽古する場に神が居られ、腰にする刀に霊性が宿っていると感じることができれば、稽古をする自分の稽古に対する心構えも異なってきます。
 「自分が」では行くことができない世界が広がります。

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  1. 2015/04/23(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

広島護国神社奉納演武

 18日(土)に続き、19日(日)は広島護国神社で奉納演武を行いました。天気予報では昨夜から降り始めた雨はますます激しくなるという事でしたが、前日の大石宗家のお話の通り、不思議なことに演武の間は雨がやみ天候を気にすることなく奉納を行うことができました。
 はじめに大石神影流剣術第7代宗家大石馨先生による瑞穂舞を舞っていただき、次に私が無雙神傳英信流抜刀兵法の居合の奉納を行いました。
 初心者の方は舞台の上で緊張されたと思いますが、「ゆっくり静かに」を心掛けられ、日頃の経過の成果をよく発揮されていたと思います。さらに発展していくべく繊細に稽古を重ねてください。多くの方の次に目指す方向は「ゆっくり速く」ですがこれに至るためには、繊細さと正しさ、工夫と努力が欠かせません。
 大石宗家の瑞穂舞のレベルは急速に高くなっておられ、私も負けまいと稽古を重ねてきたのですが、上達のスピードは及びませんでした。
 貫汪館の武道は男女を問わず、年齢が高くなってもいくらでも上達していくことができる武道です。指導の真意がどこにあるのかをよく確認して、我意に基づくことなく今後とも正しく稽古を重ねてください。


大牟田市の熊野神社の奉納、資金不足のためにクラウドファンディングを試みます。皆様御協力をよろしくお願いいたします。
貫汪館の方はシェアをお願いします。
https://readyfor.jp/projects/kumanojinnjyahounou

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  1. 2015/04/24(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 11

 小倉藩の新以心流 青柳彦十郎との試合です。

「四日、曇、小倉三士宿ニ来ル、誘引セント云、支度不調、暫時御退屈ナルベシ、僕等御跡より参上申さんと断、支度して宿主六太夫案内として加治屋町の青柳彦十郎先生へ行、主人出て僕等ヲ表ニ通、庭ニテ試合、壱番桑原三人の相手、次予三四人の相手、三番桑原三人計、四番余、五番桑原と次第二試合致、相手人数貮拾人、内二人一刀流アリ、先生新以心流、畢ニ相手アル、ミナ超越の遣人モナキト思ハル、姓名繁多、別怗ニ識、宿ニ帰り入湯の時、又々廣木、其余三士宿ニ来ル、挨拶ある、滞留中青柳氏より賄も有、黄昏雨降初

 新以心流の青柳彦十郎の導場は屋内ではなく屋外の庭であったようです。「内二人一刀流アリ」というのは中西の流れの一刀流でしょうか。

大牟田市熊野神社奉納を成功させるためのクラウドファンディングです。ご協力をお願いいたします。
https://readyfor.jp/projects/kumanojinnjyahounou

しばらく、先月参拝した宮島の写真を載せていきます。
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  1. 2015/04/25(土) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 12

岩国、高木流槍術 山縣得右衛門の記述です。

「十日、雪、今市道傍義奴六松碑有、文政紀元戌寅秋九月三丘山田時文運平撰、□府矢埜允一蔵書と有、文字難見定、夫より高森の町ヲ通、玖珂ヲ経、此跡ニ西熊毛郡、東玖珂郡との境あり、岩田川、岩国着、里数七里、岩国ニ至る處山あり、一翁ニ遇、山縣先生ヲ問、則委教くれる、山縣氏ヲ訪、先生酒ヲ出、後川野屋平左衛門ニ行て宿、山縣氏門人四五輩出テ挨拶す、また米原新三郎案内して湯屋ニ行、山縣先生弟宿ニ来、同道ニて先生宅へ行、稽古人退散、宿ニ帰ル、暫時ニして佐々木与助酒肴ヲ齎来る、八ツ時山縣氏へ行、則人数貮拾人、髙木流槍術稽古有之、桑原氏三人相手、尤素槍(二間半)、山縣氏門人入身なり、髙木流他流試合せず、山縣門人國元への傳書ヲ余等ニ託、黄昏稽古畢、米原新三郎宿ニ来、談話二更ニ過、家中有鑓」

 この山縣のもとには土佐藩からも高木流槍術の修業に赴くものがありましたが、この当時岩国の高木流槍術は入身試合しかしていなかったようです。

大牟田市熊野神社奉納を成功させるためのクラウドファンディングです。ご協力をお願いいたします。
https://readyfor.jp/projects/kumanojinnjyahounou

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  1. 2015/04/26(日) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 13

 同じく岩国での難波一甫流小川一摩、神道無疆流馬場晴二、一旨流槍術井尻萬谷二郎との試合です。

「十二日、早朝、與助来る、新三郎の弟、余等ヲ誘引して米原氏ニ行、暫有て諸士数十輩入来る、其後小川一摩、備前修行者、馬場晴二同道ニて来る、白砂ニテ試合す、第一番馬場晴二神道無疆流也、予相手、第二番小川一摩(大兵)難波一甫流、桑原相手、三番一摩と余、四番晴二と余と再なり、五番一摩と余、槍試合、一摩貮間一尺之槍ニ大鎌附ヲ遣、次六番一旨流(管槍)某予と也、七番小川氏と剣桑原再也、八番小川門人某と余、剣術、九番小川門人と桑原立合畢、委ク姓名修行帖ニ識ス、衆皆退、山縣先生僕等三人跡ニ止る、飯出、帰宿、諸士追々入来、時三戸某余ニ對面申度由佐々木与助ヲ以申来ル、早速遇之、三戸氏愛洲新陰家也、師祖図景ヲ予ニ□、因テ記して与之、

 岩国の難波一甫流は広島から伝わったものか、もともと山口にあったものか定かではありません。剣術と、槍術を主に使っているようですので、広島から伝わったものだとしても、早い時期に岩国に伝わったのではないかと思います。難波一甫流の槍術は広島では宝蔵院流を取り入れた形跡があります。
 
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  1. 2015/04/27(月) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 14

 武術とは関係ありませんが宮島についての記述です。

「十三日、明神ニ詣、五重塔ニ登、千畳鋪ヲ見、社地美麗難言、廊下の梁上額珍器ヲ尽、兵家姓名額ニ表、尤一甫流多、社前ヲ過、髙橋直橋ヲ通、房ニ出、鹿猿無数、街中ヲ徘徊、投帋則食之」

 宮島の千畳閣の武術奉納額には難波一甫流の物が多かったことが分かります。現在は難波一甫流の額は1面も残っていません。

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  1. 2015/04/28(火) 21:25:00|
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樋口真吉の『第一回廻国修行日記』より 15


 徳島での記述です。前日、神道無念流の三宅繁左衛門が語ります。「當家中都而他流試合不被致」と徳島では他流試合を行っていないと聞かされていますが、宿泊させてもらい翌日には試合を行ってくれています。公には試合をしないことになっていたのでしょう。

「廿三日、主人云、門人隣屋ニあり、呼ンテ相手致サセ申サント云、則加本彌四郎来ル、於是道場ニて試合ス、三本目予太刀加本振揚ル処ヱ小手ヲ撃、敵乗リ掛りシナヘ中ヨリ折タリ依テ向所の撓ヲ借テ遣ナリ、余撓ヨリ一尺計短し、場の額存忠孝心四字アリ、席上ノ額畏堂書進徳脩業、又米葊書奇傑堂之額字有アリ○藩中師家心形刀流多田三次右エ門、関口流(古シト云)二百石廣瀬権太夫、心形刀流加古静馬、貫心流山澤金助・稲内熊八郎・島田宗作・辻丑茂、武蔵流某、直志流成野安兵衛・野田伊作、新影流仁木丹太郎・彼木順三郎、新関口、一條栄太郎、直新陰流是安升平、軍利流祖谷吉郎也、主人郭中ノ図ヲ以余ニ示シクレル、因テ房中助任橋ニ至テ夫より南ヱ巡リ、川ヲ渡リテ帰ル、時ニ二士来テ彼昨夜認メル処ノ論文ノ話アル、壱人ハ加藤新右衛門也、予ニ云、足下江戸ヱ御出アラハ加藤又四郎ヲ御尋可有、則余カ別家也ト、加藤氏ハ旗本也、午の刻三宅氏ヲ立テ行コト四里二士南ヨリ来、行違コト数歩ニして振帰、呼云、モシ々々ト、余未誰ナルカヲ知ラス、彼問テ曰、何レノ人ソト、予詳答、彼士云、余ハ當家中岩佐織右衛門也、撃家則三宅ガ宅ヲ少ク去テ市中ニアリ、三宅トハ故隙□故ニ三宅モ全名ヲ唱申マシ、即今要用あつて此辺ニ来ル、緩談も出来す、且残念なり御再遊ヲ冀フ、其砌ハ倶ニ阿北ニ修行セン、又讃の鈴木五介トハ知音也、必、御待申サント懇ニ演述す、別行時黄昏、独行ハ旅宿ナク、夜行一里ニして岩木村ニ至リ料野屋ヲ叩て宿ス、木賃也」

 この当時徳島では心形刀流、関口流、貫心流、武蔵流、直志流、新影流、新関口流、直新陰流、軍利流などが行われていたことが分かります。
 樋口真吉の天保8年(1837)の『第一回廻国修行日記』よりの抜き書きはこれで終わります。

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  1. 2015/04/29(水) 21:25:00|
  2. 武道史

読む稽古

 澁川一流柔術の履形はそのままの動きを実際に活用するものではなく、あくまでも基礎を養うためのものです。
 履形は動きの面からいえば、繊細に稽古して基本的な動きや技をかけるセオリーを学ぶこますが、心理的な面からいえば相手の動きを読む稽古をしなければなりません。ところが、技にばかり目が行く初心者の方は、相手が動いてからパッパッと動いて技をかけようとするために、相手の起こりを読む努力をせず動きにも余裕がありません。
 澁川一流柔術の師匠である畝先生は、この稽古の大切さは「打込」「居合」の稽古をするようになってはっきりわかったとおっしゃいました。

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  1. 2015/04/30(木) 21:29:25|
  2. 柔術 総論

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Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!

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