無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査会に向けて(大石神影流 試合口)

 はじめに初段の審査内容についてお話します。
 構えは「上段」「脇中段」「脇上段」など鍔が自分の肩の上になる構えであっても肩はあがりません。
 素振りは必ず呼吸に乗せて臍下丹田を中心として行ってください。すこしでも手先や木刀に意識がとられると呼吸も浅くなり重心も上がってしまいます。
 全ての構えの最後は少し息を吐く心持で構えると自分の肩の状態がよくわかります。
 大石神影流試合口5本は基本的な手数ですが、「張る」動きが呼吸に載せて臍下丹田から伝わった力で瞬時に行えるように努めてください。


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  1. 2014/09/01(月) 21:05:09|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇段審査会に向けて(大石神影流 陽之裏)

 大石神影流剣術の陽之裏の審査は試合口五本、陽之表十本をクリアして後の課題ですのでこの段階に至っては、初心者の打太刀を努める二十分な力量を備えていなければなりませんし、何時如何なる時にでも試合口、陽之表は打太刀仕太刀ともに行う事ができなければなりません。
 陽の裏は打太刀・仕太刀ともに片手遣いの手数が多く、片手遣いについてはすでに述べているように、その意味を理解したうえで遣わねばなりません。また、斬り結ぶ動きもあります。それらについても「すでに道標」で述べたとおりです。うろ覚えの方は再度ご確認ください。
 片手遣い、斬組、位を見るといった大切なポイントが体得できていなければなりません。

裏庭に咲くツユクサです。
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  1. 2014/09/02(火) 21:25:50|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇段審査会に向けて(道を間違えないために)

 昇段審査に向けていろいろ書いていますが、気になるのが段位が上がると自分の価値が上がったように錯覚する方をこれまでに見てきていることです。
 現在貫汪館で稽古される方にはそのような方はおられませんが、新しく稽古を始められる方にはどのような方がおられるかわかりません。十分に気を付けて指導してください。

 私が経験したことをお話しすると、ある現代武道の世界では範士になりたいがために、人の功績までも自分の功績にして、事情を知らない人にそのように信じ込ませ、また組織の上の方にもそのように信じ込ませて、なりふり構わず範士になろうとされた方を見てきています。
 また、ある古武道の団体では要職に就きたいという欲だけのために、自分の中身など関係なく、私利私欲のために無理やりその職に就いた人も見てきています。
 また自分が正統な後継者だという事を認められたと主張するために、学問でもない内容で日本武道学会の大会でその流派について発表して、研究者には全く無視されているにもかかわらず、自分が日本武道学会で認められたと公言してはばからない人もいます。

 残念なことですが、私が見聞してきた古武道の上位の方の中にはそのような方が多くおられます。
江戸時代には60歳を過ぎたら隠居となって「老先生」と呼ばれ後進に道を譲る方が多かったのとは大きな違いです。歳をとればとる程、強欲になっていくのが現代の古武道でしょうか?
 貫汪館はそんな人間を一人であってもつくるつもりはありません。

 立場が上になるという事はより多くの人に責任を持たねばならなくなるという事であり、「私」の部分がより少なくなるという事ですが、そこをはき違えてしまうと武道の修行とは口先だけのものになってしまいます。

先日の草刈りにも負けず前庭にひっそりと咲いていました。
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  1. 2014/09/03(水) 21:25:43|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇段審査会に向けて(大石神影流 陽之裏 2)

 陽之裏には位を観る動きが多く含まれています。「張身」や「位」だけでなく、「乱曲」で双方が上段に取ったときもお互いに位を見ています。
 位を観ると一言で言えば簡単ですが、相手の心と体の状態は働きなど全てを観なければなりませんので、みえる人がみれば、自分の見えない技量がそこに全て現れてしまいます。動きがないからといってサラリと流して稽古していては身につきません。

今年の夏は雨が沢山降ったため、蜜柑の実は大きくなっています。
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  1. 2014/09/04(木) 21:25:53|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇段審査会に向けて(大石神影流 三學圓之太刀)

 三學圓之太刀は変化のある動きが多いのが特徴です。したがって正しく稽古を重ねていなければ間合がいい加減になりやすい傾向がありますので注意してください。
 また左右への連続した開きがある動きや、大きな動きと小さな動きが連続している場合には足腰固めて動いていたらとても間に合うものではありません。まして気合で何とかなると重い、体を固めたり、速く動こうとして気ぜわしく動いても自分で決めた動きをしているだけで打太刀に応じた動きにはなりません。心も体もゆったりと穏やかに刀と自分とが静かに一体となっていなければなりません。

 昇段審査に向けての稽古の留意点は、澁川一流柔術は省略します。常日頃から述べている通りですので思い起こして稽古してください。

澁川一流柔術の師である畝重實先生のお若い頃の御写真です。軍隊に行かれる前は毎日3時間くらい稽古をされていたというお話をお聞きしたことがあります。
畝先生-01



  1. 2014/09/05(金) 21:25:38|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

親指の働き 1

 無雙神傳英信流抜刀兵法の抜付けや運剱あるいは振りかぶりの動きが出来ていない方に共通するのが親指の働きが悪いことです。
 抜き付けでは少しでも強く柄を握りたいという心が残っているために、柄手はなでるようにと教えているにもかかわらず、無意識のうちに、なでながら親指だけは反らせて柄に深く掛けようとしておられます。親指を反らす事によって内側は働かなくなり、外側が働くため肩から先だけの抜きつけになります。
 

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  1. 2014/09/06(土) 21:25:44|
  2. 居合 業

親指の働き 2

 横に抜き付けたときには親指は床と並行です。また親指の状態は手の力を抜いて掌を上に向けたときの状態と位置に近くなければなりません。臍下から脇下を通った流が腕の下部を通り親指を通じて切先に至っています。
 この親指大切な働きを忘れ、振りかぶろうとしたときには刀を振り回したい思いが先にたち上側の4指に意識を持っていくので切先が死に、ただ振り回して頭上に刀を持っていくことになります。抜き付けてから振りかぶる間には刀が死んでいますので、いくら速く振りかぶることができたとしても運剣の間に何かあった場合には変化に応じることができません。

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  1. 2014/09/07(日) 21:25:43|
  2. 居合 業

親指の働き 3

 振りかぶったときの手の内にも親指は大きな働きをしています。
 ひじを落として掌を内側に向け、両手を前に出し、出来るだけ力を入れないまま、親指の先まで意識を通わせ(力を入れるのではありません)親指側の内側の筋を伸ばしてください。結果として手首が軽く反るようになります。そのときに自然に他の4指は巻き込む状態になると思います。巻き込まなければいらない力が入っています。親指を少し打ちに向けながら行うと小指薬指のほうが若干大きく巻き込みます。
 これが振りかぶったときの手の内です。

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  1. 2014/09/08(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

十文字

 「十文字」は張ると突くとが一つの動きでなされるべき手数です。張る、突くと二つに分けて動いては手数として意味を成しません。大石神影流の手数には大石神影流と聞いてイメージするほどは月の手数は多くありませんので「十文字」ができるようにならなければ大石神影流を稽古していると胸を張って言えるようにはなりません。
 といって張る動きを急ぐあまりに小手先になってしまうと、打太刀の技量が高く木刀に重みが加わっていると、張る効果はありません。呼吸に乗った足首、膝、股関節の抜き具合を工夫してください。

先日晴れた日に撮った裏庭のポポの実です。もう何度道標に載せたでしょうか。ぼーっとして過ごしても、多くの事をしていても時だけは流れていきとどまってはくれません。物事はなして実現したことのみ表に現れて動き出します。
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  1. 2014/09/09(火) 21:25:42|
  2. 剣術 業

亂曲

 「乱曲」では打太刀が左右の小手を続けて打ちますが、打太刀が木刀を途中で止めてしまったら、仕太刀はこれを防ぐことはできません。小手を防ぐのは受けるのでもなく目の前のハエをはらう動きでもありません。斬って来たのを地対地ミサイルをペトリオットが迎撃するように、迎え撃つのですから、途中で止められると迎え撃つ必要がなくなってしまいます。
 打太刀を勤める方は手数の意義をよくわきまえて使わなければなりません。

裏庭にいたバッタの写真です。
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  1. 2014/09/10(水) 11:25:21|
  2. 剣術 業

日本武道学会公開演武

 福山市立大学で行われた日本武道学会第47回大会の公開演武で澁川一流柔術の演武をさせていただきました。
 公開演武に至るまでには日本武道学会中四国支部会の先生がたや学会本部の先生方に大変お世話になりました。
お礼申し上げます。
 どのような評価をいただいたか、また今後のためになすべきことh後日述べる事に致しますが、簡単に当日流派の歴史についてご紹介した部分を載せておきます。

 澁川一流柔術の歴史
 澁川一流柔術は幕末に広島藩の安芸郡坂村におこった柔術の流派である。実技と伝書は伝えられているが、流祖首藤蔵之進満時〔文化6年(1809)~明治30年(1897)〕の子孫の家が首藤蔵之進没後に火災にあい、江戸時代の文献が残っておらず、流祖や流派の成立過程についての詳細は不明である。
 伝承によると、澁川一流柔術の流祖 首藤蔵之進満時は、彼の叔父で宇和島藩浪人と伝えられる宮崎儀右衛門満義に連れられ広島藩安芸郡坂村に居住した。蔵之進は宮崎儀右衛門を師として渋川流及び難波一甫流を習得し、さらに、他所で浅山一伝流をも習い「澁川一流柔術」を創始した。
 天保10年(1839)頃、広島城下に出ていた蔵之進は5、6名の広島藩士と争いになったが、「澁川一流」の技でこれを退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士の推挙によって松山藩に仕えることになった。松山藩では小玉平六と名乗り、四国松山においても「澁川一流柔術」の教授をおこなった。
 明治維新以降は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「澁川一流柔術」を伝え残した。
 坂町の八幡宮には明治24年(1891)に首藤蔵之進の門人宮田玉吉が奉納した額と、明治28年(1895)に河野幸八が奉納した額が残っている。


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  1. 2014/09/11(木) 21:25:02|
  2. 武道史

日本武道学会公開演武 2

 今回公開演武をさせていただいた大きな理由は武道学会に所属されている先生方でも、「柔術は素手と素手で戦う技術である。」という考えをお持ちの方が少なからずおられたからです。
 これは講道館柔道の影響と嘉納治五郎の「無手或は短き武器をもって、無手或は武器を持って居る敵を攻撃し、または防御するの術」という定位が大きかったと思いますが、江戸、東京はそうであったかもしれませんが、治安の悪い地方、刃物を持った強盗や刀を持った浪人体の者がいる状況では無手や短い武器では対抗できないので棒や状の技術が柔術に入るのは当然の事でした。素手と素手で戦いましょうという技を中心に習っても身を守れなかったのは想像に難くないと思います。
 素手の技術をはじめとして様々な武器を用いる術と柔術を定義した方がぴったりくるかもしれません。
 今回の演武で柔術に対する見方が少しでも変化すればと思います。

写真は難波一甫流の明治時代の記念写真です。私たちにはこれが柔術のイメーイですが、一般にはお互いに素手でつかみあっているのが柔術のイメージかもしれません。22難波一甫流

  1. 2014/09/11(木) 22:46:24|
  2. 武道史

日本武道学会、発表について

日本武道学会第47回大会の私の発表抄録を載せておきます。詳しくは後日にします。今回は前日に南山大学の榎本先生からの暖かい宿題をいただき急遽、資料を増やしました。

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―


Ⅰ はじめに
久留米の加藤田平八郎は文政12(1829)年5月9日から同年12月8日まで九州,中国,近畿,四国を廻国修行している。この廻国修行については鈴鹿家文書をもとにした詳細な先行研究がある(村山勤治:鈴鹿家蔵,加藤田家文書『遊歴日記』について」,武道学研究,17(1),73-75,1985)。しかし鈴鹿家文書の『遊歴日記』には8月11日以降分が欠落している。
 本発表では新たに発見した資料をもとに8月11日以降の行程と各地の状況について明らかにしたい。
Ⅱ 廻国修行の行程
 加藤田平八郎は5月9日に久留米を出発した後,秋月,桑原村,日田,森,岡,臼杵,府内,立石,中津,小倉,馬関,吉田,佐山,山口,奈美村,徳山,高森,尾道,岡田,岡山,早島,西大寺,一日市,香戸,赤穂の各所で試合をし,8月8日に大坂に至っている。
この後、大坂で試合をし,8月16日に京に至り,京においても試合をした。8月29日に京で大坂への荷物の搬送を依頼し,翌日から観光目的で伊勢,吉野,奈良を訪れ,9月12日に大坂に戻り再び試合を始めている。
 大坂を離れてからは香戸,一日市,西大寺,岡山,庭瀬で試合をし,10月12日に四国丸亀に渡った。四国では丸亀,五條邑で試合をしたのち阿波に入り棚田村,関,別所で試合をし,再び五條邑に戻り試合。和田浜を経て11月6日には伊予に入り今治,波止浜で試合をし,海を渡って安芸の御手洗に至った。
 広島で試合をした後は右田,三田尻,佐山で試合をし,12月4日に吉田で最後の試合をして12月8日に久留米に帰着している。
Ⅲ 各地の状況
(1)8月11日以降の記録では試合を行ったことのみが記されており防具,竹刀,打突部位に関する記述はなかった。
(2)試合をした地域は大坂,京を除けば農村地帯と思われる地域も多くある。
(3)伊予西条では「他流試合」はしないと断られ試合はできなかったが,他藩の状況を尋ねられている。
(4)波止浜では「正弟同苗兵衛剣術為修行京都一刀流中西常蔵方へ入塾,既ニ八年ニ相成候由話也」と記しており,剣術修行のため都市部に留学する者があったことが分かる。
Ⅲ まとめ
 文政12(1829)年には瀬戸内海を中心に試合を行う流派が多く存在しており,この地域において試合は盛んに行われていたと考えられる。


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  1. 2014/09/12(金) 21:25:03|
  2. 武道史

 「位」で仕太刀が、打太刀の附けに構えた其の時に、上段のまま右足踏み込み、真の位をもって先を掛けるのは、タイミングが大切です。
 起こりに対して右足踏み込むのではなく、附けにだそうとする動きが完全になろうとする寸前に真の位をもって先を掛けるのです。たとえば打太刀の附けが10%のときではなく98%のときです。
 このタイミングが異なると手数の意義が異なってきます。

 いつもみなれた景色です。横浜講習会のための上京ですが、日本古武道協会や全日本銃剣道連盟へのご挨拶は欠かすことができません。目に見えない出費は交通費だけでもかなりかかっています。こういう出費も組織として考えていかなければならないところです。古武道協会では法人格を持たない団体は行政から相手にされないという話をおうかがいしました。「先生のところはどうなっていますか」と。

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  1. 2014/09/13(土) 21:25:09|
  2. 剣術 業

斬段

 「斬段」の張って小手に斬りこむ動きは、「張る、観る、斬る」が一連の動きの中で行われなければなりません。「観る」がなければ、ただ動きを続けているだけで刃筋が通っていないこともあります。心も体も止まることはないのですが、表面的には止まったように見えます。工夫してください。
上京する時、広島湾がきれいに見えました。

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  1. 2014/09/14(日) 21:25:55|
  2. 剣術 業

半向

 打太刀の一撃目をかわす動きは出来ると思いますが、ニ撃目をかわす動きが苦手な方は多いようです。
 原因は立とうとすることにあります。立たずに木刀の動きが先導してそれによって体が動くようにするのです。木刀を後方にもっていけば、体と木刀が一体になっていれば体も動くはずです。動かなければ木刀を操ろうとする思いと、その思いが体に出ていますので基本から工夫してください。

上京の際見えた富士山です。
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  1. 2014/09/15(月) 21:25:04|
  2. 剣術 業

長短

 「長短」の「張る」動きは小手先で張っているのか、臍下中心に張っているのかがよくわかります。
 小手先で張っていれば体が沈む動きと張る動きが一致しません。肚中心に張っていれば沈む動きと張る動きは一致します。
 うまく連動せずばらばらになってしまう方は他の張る動きについても検証してください。

小田原城のお堀です。
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  1. 2014/09/16(火) 21:25:44|
  2. 剣術 業

横浜講習会

 13日(土)午後から横浜講習会を行いました。いつもながら横浜支部長の準備の手際の良さには感謝いたしております。
 今回の講習は手数や形の手順を覚えていただくことではなく、本当の実力を身につけていただくことを目的にしました。講習は前半の3時間を大石神影流、後半の3時間を無双神伝英信流の稽古に当てました。
 大石神影流の稽古では特に素振りの稽古に時間を割きました。これは大石神影流の振りかぶりと斬撃が特異な動きをすることもありますが、呼吸に乗った動きを身につけなければ、「張る」事も出きませんし、有声の気合いにのった斬撃もできないためです。動きそのものは習得すれば現代剣道式の動きよりもむしろ簡単であろうかとおもいます。
 素ぶりに時間をかけたおかげで、手数の稽古に入っても皆さん動きそのものの質が以前とは比べ物にならないほど上達されました。
 常々言っていることではありますが、基本が身についてもいないのに、形・手数の表面だけをなぞって上達したと思うのは稽古を始めて間もない初心者にありがちなことです。しかし、1年、2年稽古をした人は大切な部分はどこにあるのかを良くわきまえたうえで稽古しなければ、上達することはありません。大石神影流であれば素振りを重ねて身についたうえで手数の稽古をすれば上達は速やかですし、無双神伝英信流であれば、礼法や歩み方、そして、全ての形の基本となる初発刀の抜付けを身につければ上達は速やかです。

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  1. 2014/09/17(水) 21:25:27|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―

 日本武道学会第47回大会で発表した
加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―

を少しづつ載せていきます。


Ⅰ はじめに

 久留米藩の加藤田平八郎(1808~1875)は文政12年(1829) 5月9日から同年12月8日まで九州、中国、近畿、四国を廻国修行している。この廻国修行については鈴鹿家文書をもとにした詳細な先行研究がある(村山勤治:「鈴鹿家蔵,加藤田家文書『歴遊日記』について」,武道学研究,17(1),pp.73-75,1985)1)。しかしながら鈴鹿家文書の『歴遊日記』には8月11日以降分が欠落している。
 本発表では九州大学檜垣文庫所蔵の文政12年(1829)の加藤田平八郎の日記(資料)をもとに、8月11日以降の行程と各地の状況について明らかにしたい。01_20140916225719fad.jpg
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  1. 2014/09/18(木) 21:25:21|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―  2

 加藤田平八郎についてはその後継者の加藤田大介が明治になって活字により記した『師系並履歴書』2)に次のようにある。

 故加藤田平八郎事跡略
一 文政元年一月八日ヨリ神陰流師範加藤田新八郎ニ就テ剱術ヲ學フ相傳等ハ略ス
一 文政十二年五月ヨリ十一月マテ両豊四国中国五畿内伊勢近江等二十ケ國ヲ回歴シ技術ヲ試ムルコト九百九十八人當年二十二歳
一 天保八年二月十五日ヨリ肥後熊本産筑後上妻郡祈祷院村住人星野平左衛門二就キテ薙刀ヲ學ヒ仝十一年十二月十五日遂二皆傳ヲ受クルニ至リ爾後剱術ノ側ラ薙刀ノ師範ヲモ為セリ
一 天保九年三月ヨリ十二月マテ東京ノ地ニ滞留シ剣道指南番旗本窪田助太郎男谷精一郎等高手ノ剣客ニ対シ技術ヲ試ムルコト数十人  当年三十一歳
・・・中略・・・
一 弘化四年一月ヨリ明治八年一月マテ廿八年間門人総計貳千四百四拾八人
  内
一 剣術男女合計貳千四百四十八人
一 仝入塾生合計百貳拾七人
但 日向  筑前  肥前  把後  豊前
  豊後  伊豫  阿波  土佐  長門
  周防  備前  備中  備後  摂津
  伊賀  伊勢等ノ住人
一 仝奥免状相傳合計十二人
一 薙刀男女合計貳百三十八人
一 仝免状相傳合計三人
・・・後略・・・


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  1. 2014/09/19(金) 21:25:48|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―  3

Ⅱ 資料について

1.資料の所蔵先について
 本資料がある檜垣文庫は九州大学教養部の檜垣元吉名誉教授(1906-1988)の遺蔵資料であるが、どのような経緯で本資料が収集されたのかは不明である。檜垣文庫には加藤田平八郎関係の資料は本資料のほかには門人の名を記した冊子(題名なし)と『稽古諸願控』しかない。

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  1. 2014/09/20(土) 21:25:35|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   4

2.鈴鹿家文書の『歴遊日記』との比較
 本資料の記録は鈴鹿家文書の『歴遊日記』との8月10日までの記録と比べて、字体の違いや語順の違い、『歴遊日記』における解読忘れなどを除き大きな異同はない。
 先行研究1)で指摘されている7月11日分の記録は、本資料においても欠落している。
 久留米への帰着の日付についても先行研究1)で指摘されているように、本資料においても鈴鹿家文書の『歴遊日記』と同じく12月8日に帰着したと記録されている。12月9日の記録は本資料にないため、『久留米人物誌』3)の「同年12月9日に帰国した」という記述が間違いであろう。
 先行研究1)で指摘されている7月8日分の記録の欠落については、本資料においても日付は欠落しているものの、7日の記録に「夜六ツ過より出船、同船十人、音戸ノ瀬迄十里、昼頃音戸ノ瀬江着、清シト号シ海岸潮傍ニ清水湧出、試ルニ鹵事ナク、此地平清盛屠腹之旧跡在、平氏之墳墓等存セリ」とあり夜、宮島を出船し、翌日の昼には音戸の瀬戸に到着し、翌9日に「朝五ツ頃尾之道へ着船」とあることから、7月8日分の日付を付しての記録はないものの、8日の記録は存在していると考えることができる。
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  1. 2014/09/21(日) 21:25:38|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   5

3.表題について
 『全日本剣道連盟所蔵(写)鈴鹿家文書解説(一)』の「第59号 加藤田文書 歴遊日記」4)に「鈴鹿家蔵本第五九号の表紙に付けられた書名は『歴遊日記』とされているが、本文冒頭の表題は『遊歴日記』となっている」と指摘されている。本資料には表題はないが、6月28日の記録に「遊歴生之事故」「拙者も九州致遊歴候処」「遊歴中ハ先次第」、7月29日の記録に「隈基藩遊歴生弐人同宿」、12月7日の記録に「遊歴中之談話ニ而及深更ニ」とあり、巻末に「遊歴中試合遍数」「遊歴道程」とあることから、鈴鹿家文書の『歴遊日記』と区別するために本発表では仮に『遊歴日記』(資料)とよぶ。

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  1. 2014/09/22(月) 21:25:09|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   6

Ⅲ 廻国修行の行程と試合の記録について

1.廻国修行の行程
 加藤田平八郎は5月9日に久留米を出発した後,秋月,桑原村,日田,森,岡,臼杵,府内,立石,中津,小倉,馬関,吉田,佐山,山口,奈美村,徳山,高森,尾道,岡田,岡山,早島,西大寺,一日市,香戸,赤穂の各所で試合をし,8月8日に大坂に至っている。
この後、大坂で試合をし,8月16日に京に至り,京においても試合をした。8月29日に京で大坂への荷物の搬送を依頼し,翌日から観光目的で伊勢,吉野,奈良を訪れ,9月12日に大坂に戻り再び試合を始めている。
 大坂を離れてからは香戸,一日市,西大寺,岡山,庭瀬で試合をし,10月12日に四国丸亀に渡った。四国では丸亀,金毘羅で試合をしたのち阿波に入り吉野川沿いの棚田村,関,別所で試合をし,再び金毘羅に戻り試合。和田浜を経て11月6日には伊予に入り今治,波止浜で試合をし,海を渡って安芸の御手洗に至った。
 広島で試合をした後は右田,三田尻,佐山で試合をし,12月4日に吉田で最後の試合をして12月8日に久留米に帰着している。
 『遊歴日記』の巻末には移動した場所と距離が詳しく記されている。

久留米(7里)⇒秋月(2里半)⇒三奈木(8里)⇒日田(3里半)⇒薬研坂(3里半)⇒森 (1里半)⇒恵良(2里)⇒橋詰(3里半)⇒湯坪 (1里半)⇒瀬ノ本(1里半)⇒赤川(2里半)⇒久住(3里半)⇒岡(2里)⇒緒方(2里)⇒岩戸(2里)⇒三重市(2里)⇒石ノ上(1里半)⇒野津市(3里半)⇒臼杵(2里半)⇒泉峠(2里半)⇒鶴﨑(1里)⇒萩原(1里)⇒府内(1里半)⇒由原八幡(1里半)⇒別府(1里半)⇒亀川(2里半)⇒日出(2里余)⇒一本松(1里半)⇒金山(1里)⇒立石(3里 内50丁1里)⇒宇佐(50丁)⇒四日市(50丁 1里半)⇒上野(50丁 2里半)⇒中津(4里)⇒椎田(3里)⇒大橋(1里半)⇒苅田(3里半)⇒小倉 (是迄92里余)⇒小倉 渡シ(3里)⇒下ノ関(2里)⇒長府(2里)⇒小月(1里)⇒吉田(3里)⇒厚狭市(1里8丁)⇒船木(2里半)⇒山中(2里半)⇒小郡(3里)⇒山口(50丁 4里)⇒右田(1里半)⇒奈美(2里余 1里山越難所)⇒湯野(15丁)⇒辺田(1里半)⇒福川(2里)⇒徳山(1里半)⇒花岡(1里半)⇒切山(半里)⇒峠市(1里)⇒呼坂(半里)⇒今市(2里)⇒高森(半里)⇒玖珂(2里)⇒柱野(2里)⇒岩国(50丁)⇒新湊(海上5里)⇒宮島(海上7里)⇒音戸瀬戸(同18丁)⇒尾道(2里)⇒今津(3里)⇒福田(2里)⇒横尾(1里)⇒市村(3里)⇒笠岡(3里)⇒坂田(1里半)⇒玉島(50丁 1里半)⇒又串(同1里半)⇒河辺(半里)⇒岡田(3里半)⇒板倉(10丁)⇒宮内(半里)⇒庭瀬(2里)⇒岡山(2里半)⇒妹ノ尾(1里)⇒早島(3里)⇒喩峨(1里半)⇒林村(2里)⇒早島(3里半)⇒瀬ノ尾(2里半)⇒岡山(3里)⇒西大寺(3里)⇒岡山(4里余)⇒一日市(1里渡シ有)⇒香戸(3里)⇒八木山(4里)⇒赤穂(4里)⇒ 正条(1里半)⇒稲富(5里半)⇒八家(3里半)⇒曾禰(18丁)⇒石宝殿(1里)⇒高砂(18丁)⇒尾上(50丁1里)⇒別府(3里半)⇒大久保(1里半)⇒明石(是迄50丁 1里)⇒大倉谷⇒舞子浜(2里)⇒一ノ谷(半里)⇒須磨寺(1里半)⇒兵庫(1里)⇒生田森(半里)⇒布引滝(2里余)⇒住吉(2里)⇒西ノ宮(2里)⇒尼ケ崎(3里)⇒大坂⇒大坂 川舟ナリ⇒伏見(3里)⇒京都(3里)⇒大津(1里)⇒膳所(半里)⇒瀬田(2里)⇒草津(3里)⇒石部(3里半)⇒水口(2里半)⇒土山(2里半)⇒坂ノ下(5里)⇒関(5里半)⇒津(4里)半⇒松坂(5里)⇒山田 五十丁⇒宇治(2里)⇒朝熊(2里)⇒二見浦(3里)⇒山田(6里)⇒六間家(2里)⇒八太(4里)⇒垣門(カイト)(5里半)⇒新田(4里)⇒三本松(4里)⇒長谷寺(2里)⇒三輪(3里)⇒多武峯(4里)⇒芳野(4里)⇒戸毛(3半)⇒当麻(6丁)⇒染寺(2里)⇒達摩寺(1里)⇒三輪(半里)⇒法隆寺(2里)⇒郡山(1里半)⇒奈良(9里)⇒大坂(7里余)⇒岸和田(7里余)⇒浪華 大坂(舟路15里)⇒明石(8里)⇒御着(1里)⇒姫路(4里)⇒正条(3里半)⇒有年(2里半)⇒三ツ石(50丁 3里)⇒片上(50丁 1
里余)⇒香戸(1里)⇒一日市(2里)⇒西大寺(3里)⇒岡山(2里)⇒庭瀬(1里)⇒山路(1里)⇒宮内(2里)⇒岡山(6里)⇒瑜伽(1里)⇒田ノ口(海上7里)⇒丸亀(70丁)⇒与北村(80丁)⇒金毘羅(3里)⇒塩入村(1里)⇒境峠(2里)⇒足代(2里)⇒毛田(2里半)⇒別所(9里)⇒井尻(1里)⇒棚田(1里半)⇒麻植村(30丁)⇒関(7里)⇒別所(9里)⇒象頭山(6里)⇒和田浜(2里半)⇒川ノ江(1里)⇒三島(4里半)⇒関(4里半)⇒西条(2里)⇒小松(1里)⇒大富村(4里)⇒桜井(2里)⇒今治(1里半)⇒波止浜(海上4里)⇒御手洗(海上5里)⇒三ツ口(50丁 2里)⇒川角村(2里)⇒峠(3里)⇒海田(2里)⇒広島(3里)⇒廿日市(2里)⇒大野村(2里)⇒玖波(1里)⇒緒方(40丁)⇒小瀬川(1里半)⇒関戸(4里)⇒玖珂(4里半)⇒久保市(8里)⇒今宿(1里)⇒三田尻(2里半)⇒台道(2里)⇒小郡(2里)⇒佐山(1里半)⇒山中(2里半)⇒舟木(4里八丁)⇒吉田(5里)⇒下ノ関(海上1里)⇒大里(2里)⇒小倉(3里)⇒黒崎(3里)⇒木屋ノ瀬(5里)⇒飯塚(3里)⇒内野(3里)⇒山家(3里)⇒松崎(3里)⇒久留米

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  1. 2014/09/23(火) 21:25:06|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に― 7

2.各地での試合の状況
 表に全行程中、試合を行った日付、また断られた日付を記し、その地名、試合の相手、試合を意味する言葉、試合の場所を『遊歴日記』から抜き出してまとめた。

(1)日付は試合を行った日、また断られた日を記した。
(2)場所は『遊歴日記』本文中に記されていない場合、巻末の「遊歴道程」を参考にした。
(3)試合の相手は、その門人と試合を行ったと記されている場合でも師の名を記した。
(4)本文中に流派名が記されている場合には、人名の後ろに流派名を記した。
(5)試合を行った場合には人名の前に○を付した。
(6)試合ができなかった場合は人名の前に×を付し、(  )に理由を記した。
(7)試合を行ったかどうか不明の場合には?を付し、その箇所を抜書きした。
(8)「試合」と同義の言葉として用いられている語を「試合」という語を含めて記述した。
(9)具体的な試合場所が分かる場合には、それを記した。
(10)特記事項がある場合には、それを抜書きした。

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表以下省略
  1. 2014/09/24(水) 21:25:13|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   8

Ⅳ まとめ

1.試合、撃剣等の語の使用について
 『遊歴日記』中、他流派との試合という意味で用いられている言葉の使用回数を調べた。「試合」という言葉の使用が最も多かったが、それに次いで「撃剣」、「稽古」という言葉も用いられていた。「他流試合」という言葉も僅かながら用いられていた。
 9月17日の記録に「打込試合」、10月8日の記録に「打込ニ七ツ過迄稽古」と「打込」という言葉が用いられているが、他には用いられておらず、この意味は不明である。

(1)「試合」 83回
(2)「撃剣」 22回
(3)「稽古」 14回 
同門内での稽古という意味で用いられ、他流派との試合の意味に使われない場合は除いた。(8/25,8/28邸内稽古、11/18細家門弟中での稽古)
(4)「試技」 5回
(5)「刺撃」 3回
(6)「立合」 11回
個人的な対戦をいうニュアンスが強く、一般的な試合という言葉とはやや異なる
(7)「他流試合」 4回

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  1. 2014/09/25(木) 21:25:17|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   9

2.試合が行われた日数
 『遊歴日記』の全行程は207日で、そのうち試合が行われた日数は93日ある。

3.試合の成立と不成立
 試合を申し込んで、成立した回数は95回、不成立は42回ある。試合が成立した回数が試合を行った日数より多いのは同日に異なる相手と試合を行った日があることによる。試合が不成立になった理由がすべて記されているわけではないが、記されているものに関し、不成立の理由とその回数を下記にまとめた。
 試合の不成立の理由は他行、他出によるものが最も多く、ついで支障、故障、支有、差支によるものが多かった。

(1)「他行、他出」 16回
(2)「支障、故障、支有、差支」 11回
(3)「病気、不快」 2回
(4)「他流試合をしない」 2回
(5)「藩内の都合」 2回
(6)「試合方法の違い(防具着用か、素面素小手か)」 1回
(5)「病人有、衰微、出役中」 各1回

  1. 2014/09/26(金) 21:25:21|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―  10

4.試合が行われた場所
 試合が行われた具体的な場所がすべて記されているわけではないが、記録されている場所名とその言葉が用いられている回数を調べた。同一の試合相手で複数日試合している場合、試合の場所が変わっていなければ1箇所と数えた。

(1)「導場」 19箇所
     7月24日の試合が行われたかどうか不明の2箇所の道場も含めた。
(2)「○○方、○○宅」 11箇所
(3)「寺社」 6箇所
(4)「稽古館、講武場、学校」 3箇所
(5)「土蔵」 2箇所
(6)「商家の庭」 1箇所
(7)「土間」 1箇所

 試合が行われた場所は「導場」が19箇所と一番多かった。「導場」という言葉に関しては日本武道学会第43回大会で「高槻藩士藤井又一の槍術修行について―柳河藩伝大嶋流槍術の高槻藩への伝播―」という演題での発表においても言及したが、西日本では指導者の個人的な指導の場所に広く用いられた用語であると考えられる。
 試合の場所としてとして○○方、○○宅という言葉が用いられているが、「導場」との差異は不明である。稽古を行うための特別な空間がなかったとも考えられる。
 稽古館という言葉は5月15日の記録で森藩において用いられている。講武場という言葉は7月2日の記録で右田において用いられている。学校という言葉は7月16日と7月18日に早島において用いられている。稽古館、講武場、学校という言葉は藩や領地の公的な稽古場所と考えられる。

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5.打突部位
 打突部位は先行研究1)にある記述以外に見出せなかった。

6.他武術との試合
 試合に関しては剣術との試合とは記されていないが、『遊歴日記』には、相手方に関して特記事項があれば記されているので、槍術やその他の武術との試合はなかったと考えられる。

  1. 2014/09/27(土) 21:25:25|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   11

7.特記事項
 『遊歴日記』には試合等に関して特記事項がある場合には記されている。先行研究に記されたもの以外を記す。

(1)他流派の伝書への関心
 5月24日に、「昼後赤松琢次郎貫心流印可持参、直ニ写」と記しており、加藤田平八郎の他流派の伝書に対する関心の強さが読み取れる。
 村山勤治氏が「鈴鹿家蔵,加藤田伝書『初学須知』について」5)で「武蔵の『五輪書』を読んだのではないかと思われるほど,非常によく似た文章表現が用いられている」と指摘されているように、加藤田平八郎が他流派の伝書から学び取ろうとしていた様子がわかる。

(2)形稽古と防具着用の稽古について
 6月28日に、武蔵流の参州松平源七郎用人笹川官太夫様と試合を廻り口論となっているが、先方は防具着用の稽古をしないため、「殊ニ形稽古位ニ而撃伏ニ何之造作も無之与胸算ニ而」と記しており、加藤田平八郎が防具着用の稽古をしない流派は実用的ではないという考えを持っていることが読み取れる。

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  1. 2014/09/28(日) 21:25:04|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   12

(3)身分の高い者との試合について
 7月16日の早島での試合に関して「家老数田仲右衛門極未熟ニ候得共、家老故一統程能相手致来候模様ニ而自身ハ当所ニ而ハ巨擘与相心得候事を内通無之故存不申候」と記し、家老であるためにこれまで手加減して稽古していたことを知らせてくれなかったため、対等の試合をして、打ち込ませず家老を不快にさせたことを記している。また、7月19日に再び早島で試合をした時には「此度ハ仲右衛門程能相手致」と記しており、手加減して試合をしたことがうかがわれる。
 加藤田平八郎は身分の高い者との試合では配慮をなすべきと考えていたことがわかる。

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  1. 2014/09/29(月) 21:25:43|
  2. 武道史

加藤田平八郎の廻国修行について ―文政12年の日記を中心に―   13

(4)他流派の門人への指導
 10月1日の岡山の一円俊三方への滞在中、「夜稽古等見物、且武芸小伝門人中へ為読聞呉候様俊三申聞候ニ付夜半迄読之」と記録し、翌日にも「亦武芸小伝ヲ読」と記録しており、加藤田平八郎が一円俊三の門人に『武芸小伝』の読み聞かせをしていることがわかる。
 また、10月3日には「夜四ツ前迄稽古、俊三門人引立呉候様頼ニ付致相手候」と記し、加藤田平八郎自身が他流派の門人に稽古をつけたことを記録している。他流派の門人を指導していたことがわかる。
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  1. 2014/09/30(火) 21:25:43|
  2. 武道史

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