無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

昇段審査にむけて 7

 大石神影流剣術の講習と、無雙神傳英信流抜刀兵法の講習を行います。どなたでも参加いただけますので貫汪館横浜支部のホームページからお申し込みください。筋力を用いる稽古は行いませんので女性の方やシニアの方も歓迎いたします。
Special classes of both Oishi Shinkage-ryu kenjutsu & Muso Shinden Eishin-ryu Iai Heihou at Yokohama Branch will be held on 9th september.
see the page below.
http://kanoukan.web.fc2.com/english/


 大石神影流の陽之表の手数について述べます。

1.「阳剱」は必ず打太刀の動きを読んで後に斬り込む事、仕太刀が先に斬り込めば形の理合いにかないません。

2.「無二剣」の仕太刀は必ず右小手に斬り込む事。たまに間合が遠く形だっけになっている場合があります。

3.「二生」で仕太刀が相手を追い込むときは自分の気を切先から相手の顔に向けて放つつもりで追い込むこと。

4.「無意剣」の打太刀は表面に切りつけて張られた時に相手から間を少し取る。切り上げた後も同じ。切り上げてから突くまでは時間的な間を少しとる。

5.「乗身」は相手を追い込むときに相手との間がつまり過ぎないように気をつける。


  1. 2013/09/01(日) 21:25:28|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇段審査にむけて 8

 大石神影流剣術の講習と、無雙神傳英信流抜刀兵法の講習を行います。どなたでも参加いただけますので貫汪館横浜支部のホームページからお申し込みください。筋力を用いる稽古は行いませんので女性の方やシニアの方も歓迎いたします。
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 澁川一流の留意点について述べます。

1.礼式を大切にすること
 礼式で無理無駄があったり、指先まで気がとおっていなかったり気合が小さければそれ以後の動きは見なくてもわかります。

2.手順を追わぬこと
 初心者は手順を追おうとして、大切な動きを忘れて外見ばかりを作ってしまいますので何が一番大切なのかを理解したうえで受審してください。

3.途切れぬこと
 澁川一流柔術の形はシンプルです。動きが途切れてしまえば業になりません。たとえば負投げで投げようとして投げる前にためを作ったり、返に取るときに上半身をひねってしまえば業ではなくなります。

4.間合
 受が間合を疎かに考えて仕掛ければ、捕の業は形だけになってしまいます。受は間合を正しく取って仕掛けてください。
  1. 2013/09/02(月) 21:25:32|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

導場

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 かつて日本武道学会で、高槻藩の藤井又一について発表した時に発表資料の一部に次のような部分があったことを覚えておられるかと思います。

「導場」という用語
 「道場」ではなく「導場」という用語が柳河藩の加藤善右衛門の門下によって用いられている。
 安政4年(1857)と安政5年(1858)の記録である『修行廻国中日録』(資料2)に記述されている試合場の名称を表5にまとめる。
 安政4年(1857)の記録である『鎗術稽古志録』(資料1)には稽古をする場所を示す言葉は二度記述されている。4月23日の「今日稽古場ニ而先生ニ尋ハ」、12月朔日の「今日右同導場ニ而稽古ス」である。
 『記録』(資料3)には稽古をする場所を示す言葉は二度記述されている。8月13日の「今日昼後於加藤導場ニ式合」、9月28日の「於導場ニ酒會」である。
 藤井又一の日記には「道場」という用語は一度も出てこず、「導場」がもっぱら使用されている。また、他の地域での試合においても個人の稽古場には「導場」という用語を用い、藩の稽古場には「講武館」「演武場」「武館」「演武館」などの語を用いている。


 道場という言葉は明治以降に一般的になり、それ以前は読みは同じであっても「導場」という漢字を用いるのが一般的であったと思います。「道場」という漢字には自己の修行の場というイメージが強くありますが、「道場」よりも「導場」という言葉でより明確になるのは「導場」とは師範にとっては導く場であり、門人にとっては導かれる場であるという事です。
 つまり「導場」では自己の思いをさしはさむことはないのです。なかなか上達しないと思われている方の中には自分の思いが強すぎて、導こうとしているのに導かれない方がいます。導かれずに自己の思いで勝手な方向に行こうとするのですから上達しないのが当然です。守破離の守の段階にある方はただただ導かれてください。
  1. 2013/09/03(火) 21:25:46|
  2. 武道史

秘する

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 流派の形や手数の中では秘さなければならないものがあります。大石神影流では演武で公開しているのは陽之表10本までで、試合口5本を入れても15本です。師はそれ以外の手数は公開の場では演武されません。
 無雙神傳英信流抜刀兵法では特に秘するという事はありませんでしたが、大小詰を演武した翌年に明らかに模倣と思われる演武をしたところもありました。それまでの手順が変わり私たちが演武したものに近づいたからです。
 澁川一流柔術は、特に秘することもありませんでしたが、裏形や早手は秘すべきものだと思います。
 ちゃんと習っていないのに自分が正統だというものが模倣をして、そんなことは知っていると言い出しかねません。正しく習得していないので手の向きや体の開き、座法などが異なっているので私たちにはわかりますが、詐欺師というものはいかにもそれらしくもったいぶった説明をしてわからない人を取り込むものです。
  1. 2013/09/04(水) 21:25:41|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

形即業

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 形はきめられた手順であって聊かも違えることなく伝えていかねばなりません。しかし、その言葉にとらわれてきめられた手順をきちんと行おうことが大切だとばかり考えて形の稽古を行っていると所謂死んだ形を身につけていることにないます。死んだ形を知っている人間が教えたとしても、正しいものは伝わるものではありませんし、手順は一通りできても中身がないのでは伝えるべきものはありません。そのようなものは人が教えなくてもビデオや書籍で残しておけば十分です。
 そうしないためには形即業であることが重要です。手順はきめられていますが、形の稽古をしているときにはきめられた手順に対応できるだけでなく、どのように相手が動いても対応できるものを自分自身に内包したうえでの形でなければなりません。形の手順が正しくできるという事のみには価値はないのです。ごく初心者のレベルにすぎません。かつて澁川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生は、自分でよほどの達人であるかのように錯覚していた門人を評して「昔であれば初傳にも至らぬ者が」と評されたことがあります。形の手順さえ(外見上)見事にできれば良いと考える人に対してでした。もっともその人の形の手順は前に出るところをさがったり、拳の向きが異なったり、入る角度が違っていたり、いったい誰から習ったのかと思えるほどに酷いものでしたが…。
 手順を覚えてさらに求めるならば形即業であるレベルを目指してください。
 
 
  1. 2013/09/05(木) 21:25:36|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師を選び、弟子を選ぶ

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 何か新しいことを始めようと思ったら師につくのが普通の方法です。独学で習得したという方もまれに居られますが、本当にまれでしょう。私のがまぐちバッグづくりには師はいませんが、もともと小学校の家庭科の先生に針仕事を習っているからできることですし、型紙作りもそのような本があったからできる事です。全く師がいないというわけではありません。
 さて、古武道にあっても師を選びます。師を選ばなかった方にはずいぶん遠回りをしたのちに本当の師に巡り合った方もおられ、下手に習っていたりすると、正しいことを習ってもそれを身につけることは難しくなります。私自身も居合の師、柔術の師、剱術の師は選びました。誰でもよかったという事ではありません。
 さてでは教える立場になったらどうか、教える立場になったら弟子を選んでください。古武道は人を殺傷できる技術を教えます。安易に人に教えて、その人が他人を殺傷してしまったらそれは師の責任でもあります。また他人を殺傷することがなくても、自分自身が他者よりもいすぐれていると勘違いする者もいます。挙句の果てには「師に教えてあげた」と公言する者がいたり、自分の著作で師を批判する者までいます。渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生もそのような被害にあわれています。「名前こそ出していないが、これは私の事を言って批判している。習った者がよく師の批判をできるものだ」とおっしゃったことがあります。何冊も本を出しているので、その人物を知らない人は〇〇先生などと呼ぶこともあります。世間では本を出していれば偉いと思う勘違いもあるようです。
 そのような事例もありますので、厳しいようですが、よくよく弟子は選ばなければならないのです。
  1. 2013/09/06(金) 21:25:50|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師弟

 大石神影流剣術の講習と、無雙神傳英信流抜刀兵法の講習を行います。どなたでも参加いただけますので貫汪館横浜支部のホームページからお申し込みください。筋力を用いる稽古は行いませんので女性の方やシニアの方も歓迎いたします。
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 「師弟といえば親子も同然、親は子に何かあったら命を懸けて子を助ける。」これは澁川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生がおっしゃった言葉です。師の立場からおっしゃった言葉ですから「子は親に何かあったら命を懸けて・・・。」という言葉はありませんが理解できることだと思います。
 しかし、習うものの中には「古武道は形であり形さえ・・・。」という考えの者もおり、師を師と思わない者がいます。師と思わないどころか自分の都合の良いように師がおられないのをよいことに師に教えてあげたなどという事まで言います。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生には門人が沢山おられました。先生は同じ弟子でも弟子を分けて考えられていたようです。たとえ稽古年数が長くてもな合っておられない方もおられましたし、あからさまに「境は〇〇が稽古に来るから教えてやってくれ、自分は同情には上がらないから。」といわれることもありました。
 大石神影流剣術の師 大石英一先生は弟子を選ばれていました。私が弟子にさせていただいてからも何人かから習いたいという電話があったようです。時には断られても何度も電話する者もいたようですが、弟子を選ばれてすべて断られていました。
 どのような弟子のとり方をするかは道場や支部長の考え方ですが「この人には」といえるような人が何人もいるような道場を作っていってください。
  1. 2013/09/07(土) 21:25:19|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察

 9月10日から12日まで筑波大学において日本武道学会第46回大会 第1回国際武道会議が開催されます。
以下に載せますのは今回の私の発表の発表抄録です。


剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察
―天保7年の『他流試合口並問對』の分析―
A study of the development process of match techniques in swordsmanship and spearmanship

Abstract: Taryu shiaiguchi narabini montai was written by Yasunao Kasama in 1836. Yasunao Kasama was a feudal retainer of Yanagawa Domain. This document describes technical features of match in 16 swordsmanship schools and 9 spearmanship schools. He competed with pupils of these schools. The purpose of this study is to clarify match techniques of each swordsmanship and spearmanship school in those days by the analysis of this document. Conclusions : 1. The pupils of each swordsmanship school used kamae decided by each school In 16 swordsmanship schools, 11 schools used seigan no kamae, 2 schools used jyoudan no kamae, 2 schools used nitou, 1 school used 5th kamae of the school. And 7 schools use stab techniques. 2. In 9 spearmanship schools, 4 schools used jumonji yari. In these schools, they did match between juumonji yari and su-yari. In comparison with swordsmanship, spearmanship did match under the limited condition.

Ⅰ はじめに
笠間恭尚により天保7年(136)に記された『他流試合口並問對』には前半に剣術16流派,槍術9流派の試合口(技術的特徴)について略述してあり,後半に槍術についての父からの教えが記述されている。『他流試合口並問對』は柳川文書館所蔵の資料で文中の記述から笠間が宝蔵流槍術を修行していることがわかるが,剣術流派については不明である。流派の特徴を遺した時代の試合剣術の様相については長尾進氏の「試合剣術の発展過程に関する研究―『神道無念流剣術心得書』の分析―」によって明らかにされているが,本資料には『神道無念流剣術心得書』に記述されていない剣術流派についても記述されている。本発表では天保8年当時の剣術・槍術流派の試合の特徴について明らかにしたい。
Ⅱ 『他流試合口並問對』に記述された流派とその技術的特徴
1.剣術流派
 雲弘流,武蔵流,関口流、一睡流、二天流,新為心流,自願流,四天流,無念流,神蔭流,神形當流(心形刀流カ),素空流,丹赤流,直神蔭流,一刀流,柳剛流,柳生流
 上記の流派のうち柳生流は「試合を不致」と記されているが,他の16流派については11流派が「清眼の構へ」,2流派が「上段の構」,2流派が「二刀」,1流派が「流儀の五本目のかまへ」をとると記されている。ただし直神蔭流では「上段の構」とされているものの男谷先生は「清眼に構へ」と記されている。「突」が用いられている流派は7流派ある。
2.槍術流派
 種田流,古宝蔵院流,柏原流,高田宝蔵院流,旅川流,自得流,高田宝蔵院流(前出と試合方法が異なる),竹内流,大内流
 上記の流派には十文字槍を用いる流派が4流派,素槍を用いる流派が3流派,管槍を用いる流派が1流派,鍵槍を用いる流派が1流派ある。十文字槍を用いる宝蔵院流系の4流派の記述では十文字槍と素槍との間で試合が行われている。また,4流派で「入身」という言葉が用いられ,3流派で「走込」という言葉が用いられている。
Ⅲ まとめ
 『他流試合口並問對』にみる限り剣術は各流派の特徴を残しながら試合を行っているのに比して槍術はより制限された状況の中で試合が行われている傾向がある。
  1. 2013/09/08(日) 21:25:03|
  2. 武道史

体を整える

 上達とは何か特殊な能力を身に付けることではなく、今ある自分を整えることによってできないことができるようになることなのだと考えたほうが上達は早くなります。
 体が緊張する癖がある形はその緊張をなくすことによって体を整え、前腕の筋力を使う癖がある方はその癖をなくすことによって臍下丹田からの力が伝わるようにし、脚で床をける癖がある方は重心を足心に落とすことによって安定した動きができるようにします。
 特別な能力を身に付けるというよりも、むしろ不必要なものをなくしていく事のほうが覆いと思います。
  1. 2013/09/09(月) 21:25:15|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

心も整える

 昨日は体を整えることについて述べましたが、体が整わない原因のほとんどが心にあります。
 速く動こう、強く動こう、力を込めよう、こうしよう、ああしようと思えば思うだけ体の動きは乱れていきます。心に波風を立てていては体もまた整うことはありません。業の上での「無念無想」を求めるしかないのですが、無雙神傳英信流抜刀兵法であれば礼法の間に、大石神影流剣術であれば神前での礼の間に、澁川一流柔術であれば礼式の間に静かに心を整えて、そのまま形の稽古に入って我欲を出さずに動いてください。
  1. 2013/09/10(火) 21:25:25|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

抜き付け

 無雙神傳英信流抜刀兵法の抜き付けは体の開きが重要です。
 右の働きが悪い方は左の働きが不十分なためであり、これは抜き付けたときに半身が不十分であることによります、半身が不十分であれば三角の曲尺は成り立ちません。多くの方は右利きであるため鞘手・柄手と均衡を保てるように説明しても右利きの方は右が勝ってしまい、半身をとっているつもりでも不十分になり、なおかつ右手が右に行き過ぎるのを防ぐために右の動きを途中で止めてしまい右の働きも不十分になる傾向があります。
 半身になりしっかり肚を開けば三角の曲尺が成立します。

  1. 2013/09/11(水) 21:25:14|
  2. 居合 業

心の歪

 心は体の動きに大きな影響を与えます。心が萎縮していると、業には「真の力」はこもらず、相手に伝わっていくことはありません。反対に気負いすぎると腕力が働きやすく「ため」を作ってしまったり、相手の状態におかまいなく自分だけが動いてしまい空回りしてしまいます。いずれも心の歪が体・動きの歪として現れるものです。 
 心を萎縮させることなく、歪ませることなく、そのままの状態で動いてください。
  1. 2013/09/12(木) 21:25:02|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指導方法

 同じことを教えるにも相手の年齢により、また相手の性格により、経験年数によって教え方が異ならなければなりません。
 たとえば年少者に教えるのに理屈で教えてはなりません。年少者に理屈で教えれば理屈にとらわれ、かえって上達しなくなります。若く柔軟性があるのですから見せてやりやらせてみて、だめなところはだめと指摘すれば自分で工夫します。
 一歳取った大人は、理屈を説明して、こうだからこうなるのだとわからなければ納得できない人もいます。稽古年数もある程度あり、これまで同じことを繰り返し説明している大人で、同じ過ちを繰り返すようなら同じ説明は不要です。そんな場合にはある程度できていると思っている人が大半ですから「だめ」の繰り返しで結構です。自分自身で「だめ」な原因を探らせなければなかなか上達はしません。教える稽古を始めた方は教え方を工夫していかなければなりません。
 最上の方法は、私がうけたような1,2度見せたらやらせて、後は自分で工夫しなさいという指導なのですが、今の時代どの程度の人がついてこれるかわかりません。

  1. 2013/09/13(金) 21:25:24|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指導者の稽古

 指導しているときには、どうすれば相手が上達してくれるか頭を使ってしまいます。頭を使えば自分の動きは今まで身につけたものはどこかへ行ってしまい、数段階下手な動きになってしまいますが、指導している本人はそれに気がつきません。 
 「もっと腰を低く」と言っている本人が腰が高い状態になってしまいます。こうなれば教えているつもりでも自分がそうなっていないのですから習っている者も上達が難しくなってしまいます。難しいことかもしれませんが、教えるときにも自分自身が稽古しているのだという意識を持って指導しなければ自分の動きがおかしくなってしまいます。

  1. 2013/09/14(土) 21:25:26|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

三摩之位

 柳生新陰流兵法第二十二世宗家柳生耕一先生が柳生新陰流の教えについて一般の方むけに平易に書かれた『負けない奥義』という本に三摩之位について記されていました。

 「三摩之位は学習論です。円の上に三つの点が打ってあり、それが「習い」「稽古」「工夫」を表しています。先達の教えを学ぶのが習いです。その教えに近づくために千鍛万錬の稽古を重ね、自分自身の身体で剣をどう使うかを工夫する。この一連のプロセスを三つの点で、わかりやすくシンボライズしているのです。三つ目の工夫というのがポイントです。普通の学習であれば習いと稽古という二つのプロセスで終わりでしょう。でも、先生に教わったことをひたすら稽古するだけでは不十分で、自分のものにするための時間とプロセスが必要だと指摘しているのです。」

 なかなか上達しない方はこの工夫が足りません。指導して次の指導にも変化が感じられないのです。「工夫してきたな」と思えるレベルまで変化するくらい工夫していなければ、次の段階を教えることもできません。


  1. 2013/09/15(日) 21:25:14|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自分で会得したものは一生自分のもの

 昨日の三摩之位のお話の工夫です。
 私はなかなか無雙神傳英信流抜刀兵法の師である梅本三男貫正先生の抜きつけの動きが会得できませんでした。特に私が仕事の関係で広島を離れている間に先生の業は一挙に進まれましたのでなおさらのことでした。
 先生の動きを見せていただいても、ただスムーズなだけで、無理無駄がないだけにどこがどう動いているのかわからず体得はおろか理解することすらできませんでした。見ていても見えていないということです。そこで許可をいただいてビデオに撮影させていただきスローモーションにして毎日何時間か見ていると、やっとなるほどと理解ができました。
前に出ながらも体の中ではさがっている部分があり、腕を動かしているように見えても実は腕は動いていなかったり、ばらばらに働いているように見えて実は臍下丹田で一つに統御されていたりと今まで見えていたものとは全く異なる動きが見えてきました。
理解ができても、すぐにそれが体得できるわけではありません。仕事の関係で体を緊張させることを行ってきたために体をばらばらにすることが難しく長い間苦労しました。しかし、できるようになる前に先生に「先生はこのように動かれているのではないでしょうか。」と確認したところ先生は、「それでよい。自分で会得したものは一生自分のもの。なくなることはない。教えられたことは忘れるが自分で会得したものは忘れない。」というような話をされ、道場に稽古に来られた皆さんの前で私を褒めてくださいました。
 私は鈍根であるためビデオを用いなければなりませんでしたが、その後はいろいろと見えるようになってきました。皆さんは皆さんなりの工夫をされ会得してください。


  1. 2013/09/16(月) 21:25:48|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自分の動きだけでは

 貫汪館で稽古している武道は当然の事ですが相手がいる武道です。基本として自分自身の動きを正すことについては述べていますがあくまでもそれは基本であって、初心の内に身につけることです。初心の内に自分自身の動きを身につけて行ったら、次にしなければならないのは相手と和すことです。
 相手にお構いなしに自分は正しい動きをしているのだからといったところで、しょせんそれは自分勝手な動きにすぎません。たとえば大石神影流剣術であれば相手が動こうともしていないのに気先をかけても全く無意味ですし、無雙神傳英信流抜刀兵法であればあ相手がこちらに近づいてもいないのに抜きつけていくことは無意味です。澁川一流柔術であれば相手の懐剣が下りてきてもいないのに、早々と自分の力が及ばない位置に体を移動しても全く無意味です。相手と自分の関係が正しくなければ業はかかりません。正しい状態を「和」といいます。
 自分勝手な動きをしてないかどうか確認してください。
  1. 2013/09/17(火) 21:25:34|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

貫汪館昇段審査会

 先日昇段審査会を行いましたので、気付きを述べたいと思います。
 はじめに大石神影流剣術の審査についてです。構えはおおむね身についていたと思いますが、重心が左右の足のどちらかに偏っている方がおられましたので気をつけなければなりません。素振りにおいては木刀がまっすぐに降りずやや斜めになっている方もおられましたので今後の稽古で直していく必要があると考えます。手数の「はる」動きは下肢から行われねばなりませんが上半身のみで行う方がおられました。これも直していかなければならないことです。
 無雙神傳英信流抜刀兵法では皆さん無雙神傳英信流抜刀兵法の動きが身についてきたように思います。特に5段と4段の試験を受けられた方は誰が見ても無雙神傳英信流の動きだとわかる動きをされていました。太刀打・詰合も対人関係の中で自由に動けるための方ができるようになっており、安心してみていられました。
 澁川一流柔術は初段から7段を受審された方のすべてが普段よりもよい稽古をされていました。各段位ともに申し分のない動きをされており何も言うことはないのですが、受をされる方の動きに少し甘い部分がありました。受は単に業を受ける役割とのみ考えていれば、その動きと心に隙ができ好きの有る相手をする捕にも甘さが出てしまいます。受は捕を倒そうとかかるときにのみ捕も正しい動きをすることができます。特に受が懐剣を持った場合には打ち込むだけの動きであっても手にする懐剣で相手を突いたり斬ったりする動きが構えの中に内包されなければなりません。実際にはこちらが打ち込む前に捕が先にかかってくる場合もあります。工夫が必要です。 
 論文に関してですが、難易度の高い論文を各段位にかしていますので皆さん苦労して記されたことが伺えました。ただしいくつかの気付きがありますので今後のために記しておきます。参考にする文献は少なすぎれば多角的に事象を分析することができません。自らの経験を基にする場合であっても文献を参考にするなら複数の文献が必要です。論文の体裁ですが作文ではありませんので日本武道学会の論文等を参考にされ論文としての体裁を整えてください。

以下のページを参考にしてください。
http://www.budo.ac/contribution.html#01
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/budo/-char/ja/
  1. 2013/09/18(水) 21:25:37|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察  1

日本武道学会第46回大会において下記の演題で発表してきましたので何回かに分けてご紹介いたします。


 剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察
―天保7年の『他流試合口並問對』の分析―


Ⅰ.はじめに

笠間恭尚により記された『他流試合口並問對』1)(資料1)には前半に剣術17流派,槍術9流派の試合口(試合における技術的特徴)について略述してあり,後半に槍術についての師父からの教えが記述されている。剣術の17流派のうち柳生流は他流試合を行わないと記しているので厳密に言えば剣術の試合口は16流派についてのみ記してある。文末に「天保七年申年三月十日於東都録之」とあり天保7年(1836)当時の他流派の試合口について江戸で記述していることがわかる。
『他流試合口並問對』は柳川古文書館所蔵の資料で文中の記述から笠間が宝蔵流槍術を修行していることがわかるが,剣術流派については不明である。流派の特徴を遺した時代の試合剣術の様相については長尾進氏の「試合剣術の発展過程に関する研究―『神道無念流剣術心得書』の分析―」2)によって明らかにされているが,本資料には『神道無念流剣術心得書』に記述されていない剣術流派についても記述されている。本発表では天保7年(1936)当時の剣術・槍術流派の試合の特徴について明らかにしたい。

Ⅱ.笠間恭尚について

笠間恭尚は柳川古文書館所蔵の他の資料にその名を見出すことができない。ただし『他流試合口並問對』の後半の問答の部分に師父からの答えとして「まつ他流ニは十文字を以て立合事勿論なり。」とあることから十文字槍を使う流派を修めていることがわかる。
『安政二乙夘歳四月 鎗術廻國修行便覧』3)には柳川藩の槍術師範は次のように記されている。

筑後柳河
立花左近将監
 大嶋流   加藤善右衛門
   新撰流   義弘伊織之助
   夫木流   佐野八兵衛
   宝蔵院流  清水太郎左衛門
         笠間司馬
新陰流   益子古内
         不和十三郎

また柳河藩の大嶋流加藤善右衛門の門人である飫肥藩の砂土原友衛の『列國槍手名字簿』4)という英名録にも嘉永3年(1850)5年12月に柳河藩の宝蔵院流笠間司馬の門人と試合したことが記されていることから笠間恭尚は笠間司馬または司馬の関係者ではないかと思われる。


大会は筑波大学の体育専門学群の建物で行われました。
taiikusennmonngakugunn.jpg
  1. 2013/09/19(木) 21:25:00|
  2. 武道史

剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察  2

Ⅲ.『他流試合口並問對』に記述された剣術流派とその技術的特徴 

1.剣術流派
 記されている剣術流派は雲弘流,武蔵流,関口流,一睡流,二天流,新為心流,自顕流,四天流,無念流,神蔭流,神形當流,素空流,丹赤流,直神蔭流,一刀流,柳剛流,柳生流の17流派である。このうち直接試合をしていないのが柳剛流と柳生流の2流派である。
(1)雲弘流
雲弘流は熊本で行われた雲弘流のことと考えられる。
「一本勝負に遣ひ,流儀の五本目のかまへにて走込,我思ひ込処を無邪念打,表裏を成事,畜生心とて武士の志にあらすとて,大に嫌ふ也」と記しており独特の試合ぶりがうかがわれる。長尾氏の『熊本における雲弘流に関する研究』5)の「上記の構えをとり,双方とも気合い諸共走りかかって相手の正面を打つという全くの一本打」という記述と一致する。
(2)武蔵流
武蔵流は『他流試合口並問對』の記述からはどの系統の武蔵流か不明であるが,柳河藩の近辺に行われたものであるとすれば熊本藩で行われた武蔵流の可能性もある。土佐の樋口真吉は天保8年(1837)に廻国したさい熊本藩領大林村の東武門について「武門剱術武蔵流(熊本富田儀之助門人),撓長五尺」6)と記している。
『他流試合口並問對』には「二刀也。左にて請留,右にて打。尤左刀は短し。左は清眼,右は上段」と記しており,試合では二刀を用いている。また「或は矢筈に組,走込,躰の当り強し」と記しており,強い体当たりが行われていることがわかる。
(3)関口流
関口流は柔術中心の流派であるが系統によっては防具を着用して剣術の試合を行っている。『他流試合口並問對』の記述からはどこで行われた関口流かは不明。
「清眼の構へ。突有。業は太き方」とのみ記されている。
(4)一睡流
一睡流は對馬藩田代領で行われていた無双一睡流のことと思われる。『肥前武道物語』7)では杖術流派としているが,防具着用の剣術試合を行っていたものと思われる。中津藩新當流 日下田鹿之介は弘化3年10月に無双一睡流村山東一郎門下と試合している8)。神道無念流斎藤新太郎の廻国の記録である『諸州脩行英名錄』『脩行中諸藩芳名録』9)には無双一睡流は1箇所にしか記されておらず,嘉永2年(1849)4月に對馬藩田代領で無双一睡流 村山東一郎門下と試合している。
「清眼の構。業ほそし。小手を取事有」とのみ記されている。あえて「小手を取事有」と記している理由はわからない。
(5)二天流
二天流は熊本で行われた二天一流のことと考えられる。
「清眼の構へ。又片手にて向も有」と記されているが,二刀を用いることは記されていない。
(6)新為心流
新為心流は小倉藩で行われた流派で,土佐の樋口真吉が天保8年(1837)に廻国したとき12月8日に青柳彦十郎門下と試合している6)。
「清眼之構。突有」とのみ記されている。

(7)自顕流
自顕流は熊本藩で行われた寺見流かと思われるが確定できない。『肥後武道史』10)には「寺見流(一書自源ト作ル)」とある。
「前に同しこゝろへなるへし」とのみ記されている。
(8)四天流
四天流は熊本で行われた流派である。「武蔵流に近し。両刀も用ゆ」とのみ記されている。
(9)無念流
無念流は神道無念流のことと思われる。
「清眼之構。突は不用。勝負を貪る事多し」と記されており「試合剣術の発展過程に関する研究―『神道無念流剣術心得書』の分析―」に「文政期頃までの神道無念流では「突」は技術として取り入れられていなかったことが窺える」とあるように笠間恭尚が試合をした神道無念流では天保7年(1936)頃も「突」は技術としてまだ確立されていなかったと思われる。
(10)神蔭流
神蔭流は久留米で行われた加藤田家の神陰流と考えられる。加藤田家を訪れた者の英名録には神陰流と記されているが真神陰流と記されたものもある。
「清眼の構。突有。業軽し。」とある。『加藤田平八郎東遊日記抄』11)の島田乕之助との試合の記述に「予ハ又至而手軽く遣初太刀籠手ヲ軽ク撃引揚候・・・気を清シ軽く切テ引揚」とあることと一致する。

(11)神形當流
神形當流は心形刀流の当て字であろう。「清眼の構。突有。業ふとし」とのみ記されている。
(12)素空流
素空流はどこで行われた流派か不明。「清眼の構へ。突有」とのみ記されている。
(13)丹赤流
丹赤流は秋月藩で行われていた丹石流のことと思われる。神道無念流斎藤新太郎の廻国の記録である『諸州脩行英名錄』『脩行中諸藩芳名録』9)には丹石流は1箇所にしか記されておらず,嘉永2(1849)年6月に秋月藩で丹石流 藤田仲門下と試合している。また中津藩新當流 日下田鹿之介も弘化3年(1846)に丹石流 藤田仲門下と試合している。加藤田平八郎が文政12年(1829)に九州,中国,近畿,四国を廻国したときにも藤田仲門下と試合をしているので秋月藩の丹石流とみて間違いはないであろう。
「清眼の構。品柄ほそく短し。小業にて間近シ」と記されており,長竹刀は用いていなかったことがわかる。
(14)直神蔭流
直神蔭流は直心影流の当て字であろう。
直心影流については旧来の直心影流の試合口と男谷精一郎の試合口を分けて記している。旧来の直心影流については「上段の構。拳を打事早し。又取付上段より面え打込事も早し。手本ニ入込,脇腹を打。突は無しといへとも,当事他流専ら突を用故,突も多く用ゆる也。一本勝負にて休ミ,息間を考へ又相手の虚を見,立上り試合す」と記されており,『神道無念流剣術心得書』13)に記されている直心影流の試合口と一致する。
男谷精一郎の試合口に関しては「清眼に構へ,一本勝負にて無之。此先生は専ら他流試合有之故か,突も用ひらる。諸手突,片手突ともに有之」と記されている。大石進種次が江戸に出て諸手突,片手突の技を用いたのが天保4年(1933)であるので,その後男谷はすぐに諸手突,片手突の技を取り入れたのであろう。
(15)一刀流
一刀流は防具着用の試合を行った所謂中西派のことと思われる。
「清眼の構。業多し。突も有之。右の小手打事早し。手本ニ入込,太刀を押付る」「惣して躰の当り強し」「又手本にて脇腹を打事」と記されており,『神道無念流剣術心得書』の一刀流の記述で「突」とそれに対する方法が大部分を占めているのとは異なっている。
(16)柳剛流
柳剛流は各地で行われているが直心影流や柳生流の記述などから江戸での見聞と思われる。「上段の構。すねを打事を主とす」と記しながら「予いまたこゝろミす。」と記している
(17)柳生流
柳生流については「是ハ他流試合を不致」と記されている。


 昔学んだ比較文化學類があった建物です。
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  1. 2013/09/20(金) 21:25:19|
  2. 武道史

剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察  3

2.技術的特徴 
(1)構えについて
試合をしない柳生流を除いて16流派全ての流派の構えが記されている。長尾進氏の「試合剣術の発展過程に関する研究―『神道無念流剣術心得書』の分析―」にあるように「他流試合活発化の初期段階において,対戦相手の構えについての情報というものが貴重であった」ことを窺わせている。
複数の構えを用いる流派があるため重複してカウントするものもあるが,清眼の構を用いる流派が12流派あり,上段の構えを用いる流派が2流派,二刀を用いる流派が2流派ある。また雲弘流のみは流派独自の構えをしており,片手で構える流派も1流派ある。
(2)業について
試合を行う16流派のなかで8流派は「突業」を用いると言及している。「突業」の有無が試合を左右する条件であったことがわかる。
また,一睡流には「小手を取事有」,直神蔭流には「拳を打事早し」,一刀流には「右の小手打事早し」と記してあり小手と拳を区別している。拳も打突部位の一つであった可能性がある。
一睡流には「業ほそし」,関口流には「業は太き方」,神形當流には「業ふとし」,という表現があり神蔭流への「業軽し」という表現とは異なっている。業が太い細いという意味は記されていないが,関心事であったものと思われる。
『他流試合口並問對』に記述された剣術流派とその技術的特徴を表1にまとめる。

(表はうまく表示されないので雰囲気だけつかんでください)

表1 『他流試合口並問對』に記述された剣術流派とその技術的特徴

流派 構え      突業の有無   業
雲弘流 流儀の5本目の構え  「走込我思ひ込処を無邪念打」
武蔵流 二刀
     1.左清眼,右上段
     2.矢筈組む  「躰の当り強し」
関口流 清眼の構       〇      「突有」
「業は太き方」
一睡流 清眼の構        「業ほそし」
                       「小手を取事有」
二天流 1.清眼の構
      2.片手
新為心流 清眼の構       〇 「突有」
自顕流 清眼の構       「前に同しこゝろへ」
四天流 両刀も用いる 「武蔵流に近し」
無念流 清眼の構       「突は不用」
                      「勝負を貪る事多し」
神蔭流 清眼の構       〇 「突有」
「業軽し」
神形當流 清眼の構       〇 「突有」
                      「業ふとし」
素空流 清眼の構       〇 「突有」
丹赤流 清眼の構        「小業にて間近シ」
直神蔭流 上段の構       〇 「拳を打事早し」
                     「面え打込事も早し」
                      「手本ニ入込,脇腹を打」
                     「突は無しといへとも,当事他流専ら突を用故,突も多く用ゆる                        也」
                     「一本勝負にて休ミ,息間を考へ又相手の虚を見,立上り
                     試合す。仍て休内無油断心得へし」
(男谷) 清眼の構   〇 「一本勝負にて無之」
                     「突も用ひらる。諸手突、片手突ともに有之」
一刀流 清眼の構       〇 「業多し」
                       「突も有之」
                     「右の小手打事早し」
                      「手本ニ入込,太刀を押付る」
                     「惣して躰の当り強し」
                     「手本にて脇腹を打事」
柳剛流 上段の構      「すねを打事を主とす」
柳生流 他流試合せず    「他流試合を不致」


 この写真の右手の建物の2階に本屋さんがあります。当時は大きく感じたのですが、今は普通の本屋さんにしか思えません。木が大きく育ち昔の雰囲気とは異なってしまいました。
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  1. 2013/09/21(土) 21:25:58|
  2. 武道史

剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察  4

貫汪館ホームページのお知らせのページに出雲大社奉納演武の予定を載せました。ご覧ください。

Ⅲ.『他流試合口並問對』に記述された槍術流派とその試合方法

1.槍術流派
 記されている槍術流派は種田流,古宝蔵院流,柏原流,高田宝蔵院流,旅川流,自得流,高田宝蔵院流(重複しているが前出とは試合口が異なる系統であるための記述),竹内流,大内流の9流派(流派名は8流派)である。
(1)種田流
種田流はかなり広範囲にわたって行われた流派であったため,記述された種田流がどの藩の種田流か特定できない。
「相寸を主とす。十文字試合の時も相寸の心得にて立向ふ。間の遠近心得有へし。」と記されていることから,相面試合(両面試合)が行われていたと思われる。
(2)古宝蔵院流
古宝蔵院流は『増補大改訂 武芸流派大辞典』14)に「高田藩伝の二派の内の一」とあるのみで他書の記述はみつけることができなかった。
「十文字を主とす。上段の構,走込,腹巻を不用,素槍よりハ腹をも不構突也。」とあるので入身試合が行われていたものと考えられる。
(3)柏原流
柏原流は樫原流の当て字であろう。『藝王姓氏録』15)には高槻藩,笠間藩,姫路藩,備中松山藩に記載があり,嶋原藩には樫原改撰流の記載がある。高槻藩の藤井又一が所持していた『安政二乙夘歳四月 鎗術廻國修行便覧』には嶋原藩に樫原流の記載,備中松山藩に改撰流の記載,宇和島藩に樫原改撰流の記載がある。
「相面にて試合す。入身は一丈一尺計の小素槍に道具落有。走込,面を突。又道具落にて押付,小手を取。」とあるので相面試合(両面試合)と入身試合の両方を行っていたと思われる。
(4)高田宝蔵院流
高田宝蔵院流も広範囲にわたって行われた流派であったため,記述された高田宝蔵院流がどの藩の高田宝蔵院流か特定できない。
「十文字を宗とす。走込,素槍の小手を突。仍て素槍にも小手を懸ル。」とあるので入身試合が行われていたものと考えられる。
(5)旅川流
『藝王姓氏録』には旅川流は館林藩にしか記されていなが,前述の『安政二乙夘歳四月 鎗術廻國修行便覧』には飫肥藩にも記載がある。
「十文字素槍にも面腹巻ヲ懸。不断の稽古の節は品柄迄指,太刀の間ニなれハ槍を捨,太刀打,組合迄有之由。」とあるので相面試合(両面試合)を行っていたと考えられる。普段の稽古に品柄をさし太刀打・組討まで行わせたというのは「槍と槍術」の記述にある大嶋流槍術を修業した平山子竜が「大小の竹刀を帯して仕合をさせ,敵に入り込ませたならば槍を捨てて太刀,刀を使うまでに徹底的な仕合をさせた。」16)というのと試合の方法は一致する。
(6)自得流
自得流は妙見自得流で『藝王姓氏録』には福岡藩,秋月藩,久留米藩,森藩,大村藩,長崎に記載がある。前述の『安政二乙夘歳四月 鎗術廻國修行便覧』には大村藩に自得流の記載はなく,長門に自得流の記載がある。森藩と長崎は地名が記載されていない。
「素槍を専らとす。入身は小素槍を用。」とあることから相面試合(両面試合)と入身試合の両方を行っていたのではないかと考えられる。樋口真吉は天保8年(1837)の廻国で長崎において神陰流剣術と妙見自得流槍術を教える小川水衛と槍術試合をした。「小川喜代次ニ入身,余突方,次桑原,其後桑原入身,鉄十郎喜代次ニ突方,日暮止る」と記し入身試合のみを行っている。
(7)高田宝蔵院流(前出とは試合口が異なる)
(4)の高田宝蔵院流とは試合口が異なるという理由で重複して取り上げている。広範囲にわたって行われた流派であったため,記述された高田宝蔵院流がどの藩の高田宝蔵院流か特定できない。
「十文字押立,素槍にも面腹巻致,十文字より突事早し。打張軽し。」とある。この記述のみでは相面試合(両面試合)と入身試合のどらを行ったのか判然としないが,双方に防具を着用するものの,相手を素槍としていることから入身試合を行ったのではないだろうか。
(8)竹内流
竹内流は『藝王姓氏録』には古河藩と嶋原藩にのみ記載がある。『武芸流派大辞典』にはこのほかに中津藩で行われたことが記されているが,前述の『安政二乙夘歳四月 鎗術廻國修行便覧』の中津藩の項に記載はない。
「相寸を押立とす。小素槍にて遣ふ事も有。」とあることから相面試合(両面試合)を行い,また小素槍にも言及していることから入身試合も行ったのではないかと思われる。
(9)大内流
大内流は『藝王姓氏録』には記載はなく,『武芸流派大辞典』に会津藩で行われたことが記されている。
「素槍を専らとす。尤相面小素槍にて入躰の構前ニ向。」とあることから相面試合(両面試合)を行ったと考えられる。ただし入身の構えにも言及しているので入身試合も行ったのではないかと思われる。

 中央から右側の建物が中央図書館です。私が勉強していたことは古書の方がよくわかるのですが、東京の古書街に買いに出るにもアルバイトで稼いだお金だけでは資金に限りがあるため、図書館にはよく通いました。
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  1. 2013/09/22(日) 21:25:40|
  2. 武道史

剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察  5

2.試合方法
 槍術の試合には入身試合と相面試合(両面試合)があった。一方が短い稽古槍を持ち一方が長い稽古槍を持って,短い稽古槍を持ったほうが相手の手元に詰入り,長い槍を持ったものが入身される前にこれを突き止めるのを入身試合といい,双方が防具を身に付け自由に刺突の技術を競い合わせるのを相面試合(両面試合)といった。入身試合の場合には入身をする方のみが防具(入身具足)を着用したとされるが,1.槍術流派(7)高田宝蔵院流のように入身試合であっても双方が防具を着用することもあったと考えられる。
 『他流試合口並問對』に記された流派うち入身試合のみを行っているのは古宝蔵院流,高田宝蔵院流,高田宝蔵院流(前出とは試合口が異なる)である。
 相面試合(両面試合)のみを行っていると考えられるのは種田流,旅川流である。
 入身試合と相面試合(両面試合)の両方を行っていると考えられるのは柏原流,自得流,竹内流,大内流である。
『他流試合口並問對』に記述された槍術流派とその試合方法を表2にまとめる。

表2 『他流試合口並問對』に記述された槍術流派とその試合方法
※槍の形状と長さは島田貞一著「槍と槍術」『月刊武道』,日本武道館,1975-1978から
流派   試合の形式 主として用いる槍の形状と長さ
 入身試合 相面試合
種田流 ○ 素槍
                 総長2間から2間1,2尺
                (約3.6m―4.3m)
古宝蔵院流 ○ 十文字槍
                 全長9尺5寸(約2.9m)?
                 柄9尺(約2.7m)?
柏原流 ○ ○ 鍵槍
                2間柄(約3.6m)
高田宝蔵院流○ 十文字槍
                全長9尺5寸(約2.9m)
                柄9尺(約2.7m)
旅川流 ○ 十文字槍
               2間1尺5寸(約4.1m)
自得流 ○ ○ 管槍
                 全長1丈2尺(約3.6m)
高田宝蔵院流 ○ 十文字槍
                  全長9尺5寸(約2.9m)
                  柄9尺(約2.7m)
竹内流 ○ ○ 素槍
                1丈(約3m)または
                  1丈5寸(約3.2m)
大内流 ○ ○ 素槍
                2間(約3.6m)

 『他流試合口並問對』から見る限りでは相対的に短い槍を用いる流派が入身試合を行い,長い槍を用いる流派が相面試合(両面試合)を行っている傾向があることがわかる。

2.相寸
 『他流試合口並問對』には種田流の試合口に「相寸を主とす」という記述をし,竹内流の試合口に「相寸を押立とす」という記述をしており,この二つの槍術流派には相面という語は用いていない。文政11年(1827)に柳川藩士が島原藩に槍術試合に行ったさいの記録である『肥前嶋原鎗術修行人数覚』17)(資料2)には樫原改撰流との試合で「合寸」という言葉での試合の記録と「入身」という言葉での試合の記録がある。対比して記してあることから「合寸」とは入身試合とは異なり自由に攻防を行う相面試合(両面試合)形式の試合と考えられ,また相面試合(両面試合)の中でも特に同じ長さの槍をお互いが手にする試合の形式であったと考えられる。相寸は合寸と同義であろう。

Ⅳ.まとめ
 『他流試合口並問對』の記述から見る限り天保7年(1836)当時の剣術試合はそれぞれの流派がまだ技術的特徴を保ちながらも試合の技術の共通化が始まっていたと考えられる。16流派のうち8流派が突業を取り入れおり,直心影流の試合口の記述に見るように突業を用いていなかった流派が他流派の影響で突業を用いるようになっている。男谷精一郎は片手突まで用いている。
 一方、槍術の試合では入身試合という限定的な試合形式のみを用いる流派もあり,また相面試合(両面試合)を行う流派であっても入身試合を廃止していない流派もあることがわかった。天保7年(1836)当時には槍術はまだ全ての流派で相面試合(両面試合)を行うことはなかった。


本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
広島県立文書館 西村晃様
柳川古文書館の皆様
 心より御礼申しあげます。



1)柳川古文書館 立花織衛家文書
2)武道学研究 29(1),17-25,1996
3)高槻市立しろあと歴史館寄託 藤井家文書
4)宮崎県日南市飫肥 砂土原毅家文書
5)武道学研究21-(3),10-21,1989
6)四万十市立郷土資料館所蔵 樋口真吉文書
7)黒木敏弘,『肥前武道物語』,佐賀新聞社,1976
8)中津歴史民俗資料館所蔵 日下田家寄贈史料
9)氷見市教育委員会所蔵 齋藤家文書
10)熊本県体育協会編,『肥後武道史』,青潮社、1974
11)武道専門学校剣道同窓会所蔵,久留米市立図書館複写本
12)高知県立歴史民俗資料館所蔵資料、武市家文書
13)財団法人日本剣道連盟,『剣道の歴史』,2003
14)綿谷雪・山田忠史編,『増補大改訂 武芸流派大辞典』,株式会社東京コピー出版部,1978
15)熊本県立図書館所蔵,富永家文書
16) 島田貞一「槍と槍術」第7回,『月間武道』1976年4月号(113号)pp.62-72,日本武道館
17) 柳川古文書館 吉弘文書


帰りに明治大学の博物館によりました。
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 昨夜、玄関に訪ねてきてたナナフシです。そっとしておいてあげないと、すぐに手足がもげてしまいます。
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  1. 2013/09/23(月) 21:25:30|
  2. 武道史

日本武道学会第 46 回大会 第 1 回国際武道会議

 貫汪館H.Pの各流派の行事のページに昇段審査会の写真を載せました。ご覧ください。

 日本武道学会の大会では、最近武道史関係の発表が少なくなっており残念に感じています。素晴らしい発表をされておられた先生方の学問上の弟子が育っていないのも理由にあるのではないかと思います。
 さて、本部企画:シンポジウム「武道における実践と知の対話」は下記の内容で行われました。

総合司会:山口 香(筑波大学) アレック・ベネット(関西大学)
 セッション1 実践としてのBudo
 実践現場(競技現場・教育現場) 現状と今後の課題
 パネリスト:阿部哲史(Dharma Gate Buddhist College, Hungary)
       J. Klinger (University of Bath, U.K)
   司会:前阪茂樹(鹿屋体育大学)、本多壮太郎(福岡教育大学)
 セッション2 学問としてのBudo
 対象としてのBudo の範囲、現状と今後の課題、研究の具体的内容
 パネリスト:自然科学(日本)春日井淳夫(明治大学)
       人文科学(欧州)Wojciech J. Cynarski (University of Rzeszów, Poland)
   司会:前阪茂樹(鹿屋体育大学)、本多壮太郎(福岡教育大学)
 セッション3 討論 70 分
 国際的視野からみた実践と知の対話
 指定討論者:大韓武道学会(予定)
   司会:山口 香(筑波大学)、アレック・ベネット(関西大学)

 印象に残ったことのみを記します。
 ヨーロッパではお金にならない競技ははやらない、剣道はお金にならないので競技人口も少ないけれども、いい人が多い。ということ。
 ヨーロッパでは武道をする人はお金になる競技としての武道を求めるか、伝統的な武道を求めるかに別れる傾向があるということでした。同じ柔道をするにも競技者としての道を歩むか、道としての柔道を求めるかということだと思います。
 ハンガリーではサボー武術会というものがあり日本の最後の武士に習ったというふれこみで日本の古武道のようなことをする会があり日本刀を使った試し切りなどをするようですが、結構な人数が集まっているようです。本当は伝統があるものではないのだとわかると離れていく人たちもおり、流行のピークは過ぎたようでが、いまだに大きな存在であるようです。
 つまりヨーロッパで正統な古武道を教えようとするときに考えておかなければならないことは、ヨーロッパで指導する方は古武道を生活の糧として考えるということ、そのためにはヨーロッパの師弟間には指導者がそれで生活できるだけの金銭が動くということです。
 二つ目はヨーロッパの人達が伝統的な武道を求めているならば古武道がヨーロッパで受け入れられる素地があるということ。しかしながら情報がないために日本人のいい加減な指導者であっても受け入れられる可能性が多きいこと。したがって正しいものを正しく伝えようとするためには如何に情報発信をしていくかが大きな鍵となることです。
 どのようにしていけばよいのかという案を練ってください。

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  1. 2013/09/24(火) 21:25:07|
  2. 武道史

貫汪館昇段審査論文課題について

 貫汪館では昇段審査には実技のみではなく論文の課題も課ししています。来年、審査資格を得ることができる方のために各段位の課題を載せておきますので参考にしてください。なお論文ですので論文としてのの体裁を保っていなければなりません。当面、この課題で行いますが、状況を見て課題を変える可能性もあります。
 また各段位の文字数は以下の通りです。
 初段 3000字以上
 二段 3000字以上
 三段 6000字以上
 四段 6000字以上
 五段 6000字以上
 六段 6000字以上
 七段 8000字以上


無雙神傳英信流抜刀兵法
初段
武道における礼と無雙神傳英信流抜刀兵法における礼法について述べなさい。
二段
これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい。
三段
居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について述べなさい。
四段
無雙神傳英信流抜刀兵法指導上の留意点を述べなさい。
五段
無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
六段
無雙神傳英信流抜刀兵法普及の方策について論じなさい。
七段
居合とは何かについて論じなさい。

大石神影流剣術
初段
武道における礼と大石神影流剣術における礼法について述べなさい。
二段
これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい。
三段
剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について述べなさい。
四段
大石神影流剣術指導上の留意点について述べなさい。
五段
大石神影流剣術を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
六段
大石神影流剣術普及の方策について論じなさい。
七段
剣術とは何かについて論じなさい。

澁川一流柔術
初段
武道における礼と澁川一流柔術における礼法について述べなさい。
二段
これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい。
三段
柔術の歴史における澁川一流柔術の歴史とその特質について述べなさい。
四段
澁川一流柔術指導上の留意点について述べなさい。
五段
澁川一流柔術を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
六段
澁川一流柔術普及の方策について論じなさい。
七段
柔術とは何かについて論じなさい。


  1. 2013/09/25(水) 21:25:31|
  2. 昇段審査論文

昇段審査論文

 昇段審査の優秀論文を載せていきます。初めは初段の論文です。

「武道における礼と渋川一流柔術における礼法について述べなさい」

この度、初段の昇段試験に臨むにあたり「武道における礼」を学ぶ為読んだ書物にあった『礼』について書かれていた箇所を抜粋してみる。
「礼が優れた護身の心得である。礼による護身は、腕力による護身よりもはるかに効率的でスマートだ。『礼』がどう身を護り、不作法がどう敵をつくって危険を招くかということを教えれば、それはきわめてレベルの高い、すぐれた武道教育になる」
「礼とは人の良識であり、ものの道理である」
「人の暮らしには「和楽」と「けじめ」の二つが必要で、礼が受け持つのは人と人との境目を明らかにすること」
「形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である」
「相手に不快を与えない(困らせない、怒らせない、淋しがらせない、心配させない、手数をかけさせない、いやがらせない、恥をかかせない、当惑させない)こと」
「自分本位、自己中心の考え方を克服する努力が必要」
「武道人の立居振舞いには「他人への敬意」と「隙のなさ」と「威」がそなわっていなければならない」
「武士としての気位と恥を教えなければならない立場の者が、自分に教えを請う者たちを「人」として扱わず、そのプライドを踏みにじるとしたら、それは大きな自己矛盾である。相手が子供であっても、敬意を払っている。少年たちに対する「礼」があったのである」
「敵を倒すための「間積もり」が、使い方次第で人に不快を与えない、人をいたわるための作法に転化するのである」
「『間合いをとることでいやな相手とも付き合える』互いに一定の間合いを保っていれば、勝負はつかないが共存はできる。隣人との付き合い方の知恵ではないか」

まだまだ細かく見落としている事が多々ありますが、「武道における礼」とは相手に不快を与えないという事を常に考えながら行動する事で、その行動が無駄に敵を作ることなく、自身を護る事になっているのだと解釈しました。
力を使わずとも、身を護れる術を日々の暮らしの中で自分のものにしておく事が根本にあり、心も体もいつ何時も柔軟に対処できる体制を整えておく。その為の心と体の間積りを習得する事が武道における礼を実践できるのではないかと思いました。
袴を着、刀を差している姿がカッコいいのでなく、その姿に恥じない生き方をしている姿がカッコいいと思わせているのだと分かりました。

「渋川一流における礼法について」は、道場に通うようになり真っ先に感動したことがあります。それは先に述べた「武道における礼」で「少年に対しても敬意を払う」との記述がありましたが、まさにその行動を先生方がとって下さっている事です。私は子供に何か習い事をと、探している中で渋川一流に出会ったのですが、まだまだ落ち着きのない息子に、ともすれば頭ごなしに言う事をきかせようとしてしまいがちですが、先生方は子供に対しても、諭すように子供の目線に下がりお話下さり、子供と思っていてもその真剣さは伝わる訳で子供の態度が変わるのを見て、こちらにお世話になることは子供にも私自身にも良い事だと確信しました。
子供に武道を学ばせたいと思った背景には、昨今の物騒な時代背景もあり、自分の身は自分で護る「力」を養って欲しい。でも自分から相手に向かって行くのではなく、やむなく向かってくる相手に対して対処出来る様になってもらいたい。という思いがあり、柔道や
空手は自分から相手に向かっていく勝手なイメージがあり、また近所の道場を見学した際、先生が竹刀を手にしているのを見て、あの竹刀でどうするつもりなんだろうと、不信感が沸いてしまい、通うに至りませんでした。書物にも 「自分に教えを請う者たちを「人」として扱わず、そのプライドを踏みにじるとしたら、それは大きな自己矛盾である」とありました。竹刀を持って指導をする先生のようになりたいと思う子はいないのではないかと思いました。また、そう思わせてはいけないのだと思いました。
渋川一流では形をまだ出来ない息子に、一見子供の悪ふざけに付きあっているかのように見える稽古風景で、子守をして頂いている様な、申し訳ない気持ちで私は自身の稽古をしているのですが、両腕を捕まれた時の逃げ方、抱きつかれたときの逃げ方などちゃんと子供の身についているんです。手加減とはまた違う、受取る側の許容に対して、それに相応しいやり方で習得出来るよう、対処して下さっているのだと感じています。書物にあった「形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である」の様に、こうきたら、こうする。と教えるのでなく、普段何気ない時に技が出来るよう教えて下さっているのだと思いました。実際子供が騒がしくしている時、両腕をつかんで話そうとすると、捕まれた手を振り払う動作をしてきますし、寝室に入る際「ここ道場ね」と言いながら一礼をして入る練習をしてみたり、普段の生活の中にちゃんと教えて頂いた事が活かされています。私のほうが形に囚われすぎて力が入り、心と体のバランスが崩れてしまっているのだと気づかされます。
この度、昇段試験で私自身「武道の礼」を学ぶ為、書物を読んで「文武両道」を勘違いしていたことに気づきました。私は「文」は学問の事だと思っていました。勉強とスポーツどちらも優れている人のことを言うのだと思っていましたが、「文」は礼節であり、武道人の行動律としての「礼儀作法」である。とありました。「文」は思いやり、謙虚さ、
といった内面の事だと学びました。
渋川一流は「武」の部分の技だけでなく、「文」の礼法も教われる環境なのだと思いました。それが、「こうだ。」と押し付けるのでなく、先生方の接する態度そのものが「文」の部分の指導になっているのだと思います。
稽古に通うようになってしばらくして稽古始め先生方を前に礼をする時、初心者の私は何年も稽古している小学生達より下座に座るべきだと思っていましたが、先生に大人の中での下座に着くよう言われ、良いのかと少しためらいを感じながら座っていましたが、書物を読んだ今は「年配者」と言うだけで敬うに値し、年少者は年配者に対して敬意をはらい、また年配者は「年配者」と言えども、長く稽古している「年少者」に対して敬意ある態度で接し、敬われるに値する大人にならなければいけない。手本となれる人にならなければいけないと言う事を教わったのだと感じています。
「心」も「形」もまだまだな私が、子供たちより上座に座るに値するのかと、いまだに恐縮する気持ちで列に並んでいますが、このまま精進し、まさに「文武両道」心と体を鍛えて行きたいと思います。
高校の時、週に一時間「礼法」と言う授業があった。商業高校だった為、ジビネスマナー取得の為の授業なので、食事のマナーはこう。席順はこう。と教わり実際社会人になり、役に立っていると思いますが、今思うのは、そこに「心」の部分の指導がなかったなと言う事です。実践できるスキルを教えるのが授業なのかもしれません。実際「礼法」の授業があり恥をかかず済んだ経験はあります。ですが「武道における礼」を学んで、心の大切さを理解しました。
今まで技の取得を目指していましたが、これからは心と技の取得に精進してまいります。

 先日訪れた桂浜の風景です。久々に良く晴れた海を見ました。
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  1. 2013/09/26(木) 21:25:09|
  2. 昇段審査論文

昇段審査論文 2

 同じく初段の論文です。

武道における礼と大石神影流剣術における礼法について述べなさい。
 
礼における起源を遡るなら、古代中国の孔子の時代まで遡る。礼とは社会における行動規範の基本であり、人間関係を潤滑に行うために必要であった。儒教における五常、仁・義・礼・智・信とあるように、儒教の思想の中でも礼は非常に重要な概念であり、のちに礼記として編纂をされるほどであった。儒家である荀子は性悪説を唱えたとして有名であるが、荀子は性悪説を礼によって拘束をすることを考えた。これが「礼治主義」と呼ばれる。
中国大陸の思想は、当然日本へ大きな影響を与えたことは言うまでもない。平安後期から鎌倉時代かけ、儒学は思想として拡大する武家勢力とともに武家の間でも広まり始める。しかしながら、体系化された礼や礼法はさら時代が進むこと室町時代にいたる。現在でも小笠原流礼法として名を残す小笠原長秀らにより『三議一統」が編纂された。
小笠原氏は、清和天皇の流れを組む系統である。小笠原氏の始祖と言われる長清は源頼朝に仕え、小笠原姓を名乗った。長清は弓馬に優れ、二十六歳で頼朝の弓馬師範となり、弓馬等の儀式を執行したと言われている。
その後、小笠原流中興の祖と言われている貞宗により、礼法が加わった。貞宗は、後醍醐天皇より「小笠原は日本武士の定式たるべし」と御手判を賜った。
貞宗四世後の長秀の時代になると、足利三代将軍義満の命によりって、今川氏、伊勢氏とともに、『三議一統」の編纂が行われた。
序文には「世上の身体起居動静の躾の極まる所を鹿苑院義満、昇殿の御家人御一族の中に其旨を総記して進上のやからに鑑賞有るべきのよし、仰せ下さると雖も厚学の輩なし」とあり、そのため、今川氏、伊勢氏、小笠原氏の三氏により『三議一統』が編纂された。
『三議一統』は正式には『当家弓法躾之抄三議一統』で、供奉の仕方、食事の作法、食事の作法、賞状の書き方、首のあらため方、蹴鞠に関する心得なども書かれていた。
その後『三議一統』以来加えられた今川家、伊勢家に伝わる故実を組み入れて小笠原流礼法の整序に努めてまとめられた『小笠原礼書七冊』は、長時と貞慶の時代に研究され、貞慶から秀政に伝えらてたという(1
室町幕府また三代将軍義満は、当時体系化されていなかった礼法を体系化し、武家の教養として躾けることで、人間関係はもちろんであるが武士たちの統制をとることを目的にしていたと考えられる。さらに室町時代から江戸時代と時代が下るにつれ、戦乱は集結し、封建制度の下、儒教の教えと武士の生き方より「武士道」が生まれることになる。
武道における礼は武士道に色濃く反映されている。その手がかりとして新渡戸稲造の『武士道』にある。
『武士道』は江戸時代が終わり、明治の世に武家社会が終わった後に書かれた書物である。『武士道』の中では、西洋との比較が多く見られる。西洋に騎士道があり、武士道と通ずる部分がある反面、まったく異なる価値観も存在するなど考察されている。
礼法は西洋における騎士道にも見られるが、西洋人から見た武士の礼法は「堅苦しく、形式的」に見えると書かれている。
しかし、礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。私達は敬虔な気持ちを持って、礼は「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、おおよそ悪事というものをたくらまない」とアメリカの動物学者で親日家でもあり甲冑等の研究をしていたディーン博士の言葉を紹介し、「礼法における奥ゆかしさはもっとも無駄のない立ち居振る舞いである。」つまり長い年月をかけて培われてきた経験上の賜物であるとも書かれている。
しかし著者は「私が強調したいことは、礼の厳しい順守に伴う道徳的な訓練である。」と述べ、小笠原流の小笠原清務の「あらゆる礼法の目的は精神を統治することである。心静かに座っているときは凶悪な暴漢とても手出しすることを控える、というが、そこまで心を練磨することである。」という言葉を紹介し、続けて「それはいいかえれば、正しい作法にもとづいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中にいきわたるようにすることを意味する。」と締め括っている。
これらの言葉が物語るに、単に形式的な礼法というわけでなく、武士にとっては自らの心身の調和をとるための修行であるとも言える。
これらは武芸のみならず、能や禅、茶道の世界にも共通して見られる。細部に渡り、決められた作法所作は慣れないうちは、ぎこちなく堅苦しいものと感じられるかもしれない。しかしそれらは、形だけ追い求めている限りはいつまでもぎこちなく感じるのかもしれない。真に心より礼をすることが自然と形を作り、心を律し心身の調和を図るのである。
現小笠和流礼法宗家である小笠原敬承斎氏はその著書の中で次のように語っている。『「こころ」と「かたち」、どちらかが先かといえば、もちろん「こころ」である。
「かたち」が身につくと「こころ」も身につく、などともいわれるが、私はそうは思わない。「かたち」を追い求める人は、どこまでいっても「かたち」ばかり囚われがちである。しかしながら、「こころ」を大切にする人が「かたち」を身につけると、自然で美しい立ち居振る舞いができるようになる。』まさにこの言葉こそ、大石神影流剣術の稽古と通ずる。構え、素振り、試合口とそれぞれの手数を意識しがちである。その結果、構えてしまい、身体が緩まず固くなってしまう。
さらに小笠原氏は続けて『「こうでなければならない」などと、かたちばかり拘る礼法など存在しない。時・場所・状況に応じて変化する「かたち」でなければ、相手を大切にすることなどできないからである。』と書かれている(1 手数にこだわり、こうでなければと細部に意識すればするほど遠ざかっていくことは稽古の中でも何度も考えることがあった。
もちろん神礼は神への畏敬の念であり、試合における礼は相手に対する敬意と感謝を表すものであることも言うまでもない。当然、その気持ちやこころを何よりも大切にすること必要である。
しかし、それを表すために礼法におけるかたちを作ってしまってはまったくの意味のないことである。そのためにも、初心のうちに礼法を大切にしていくことがのちのち構えや素振り、試合口にあらわれてくると考えられる。
大石神影流剣術では神礼に際し、右足を引き、右膝を床につけて両手に拳を軽く作り、拳を床につけ礼をします。この際、身体ひいては下肢に力みが生じやすく注意が必要です。相手に一礼し、刀を抜く際もしっかりと身体の力を抜き緩ませ、臍下へ重心を持っていき丹田を中心として動くことに注意しなければなりません。このように礼法からの多くのことを学ぶことが出来ると考える。
現代において、かつてのように武士が命を懸けて戦うことはない。物質的に豊かさを享受することは出来ても、その結果、こころはどこか置き去りになったかのようである。現代に生きる私達はかつての武士のように武芸を中心とした生活とは程遠く、その力量も遠く及ばない。
しかし、縁があり大石神影流剣術を学ぶこととなり、森本先生という師に学ばせていただき、先輩方に出会うことが出来たことは、何より感謝と喜びであります。この初心を忘るることなく、こころより礼を尽くして大石神影流剣術に励んでまいります。

【参考文献】
1)小笠原敬承斎『誰も教えてくれない男の礼儀作法』光文社新書 四版 2010年
2)新渡戸稲造『武士道』三笠書房 三十五版 2004年


 大牟田での大石先生のもとでの稽古の帰りに写した門司港の写真です。
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  1. 2013/09/27(金) 16:25:23|
  2. 昇段審査論文

昇段審査論文 3

昇段審査課題論文 (無雙神傳英信流抜刀兵法 三段受審)

『居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について』



居合は、居相、座合、抜刀、抜剣、鞘離れ、鞘の内などとも呼ばれ、立合に対して用いられた言葉とされる。「和漢三才繪図」の武芸十八般の一つ、「武芸小伝」の武芸九般のひとつに数えられている武術の一つである。10)
しかし元々は、抜刀術は剣術の一部である。刀を抜いた状態で敵に対する技術を剣術とすれば、未だ鞘から刀を抜いていない状態で敵に対する技術を居合術とするが、広く剣術として考えるほうが普通である。私が昔少しだけ稽古をした北辰一刀流にも抜刀術が含まれていた。江戸時代後期に誕生した剣術にも抜刀術の体系が含まれているということは、抜刀術は剣術の一部と考えられていた証左であると考える。
では何故、あるいはいつ、抜刀術が独立した武術として考えられたのか。それは「中興抜刀之始祖」とされている林崎甚助重信に負うところが大きい。剣術の一部であった抜刀術を体系立て、専門的に教導したのが、林崎甚助であった。この林崎の流れから多くの抜刀術の流派が生まれている。田宮流、一宮流、伯耆流、無雙直傳英信流、無雙神傳英信流などが挙げられる。また抜刀術の専門流派ではないが、関口流や水鷗流も林崎の流れをくむ抜刀術をその中核に据えている。2)
天文十一年(1542年)生まれの林崎甚助が抜刀術の工夫を続け、奥義を悟ったとされるのが永禄二年(1559年)である。1)
私は抜刀術の歴史はここから始まったと考える。わずか十七歳で奥義を悟ったことになるが、十三歳より父の仇を討つために百箇日の参籠修行を経たと言われており、現代の十七歳とは比較もできない経験を積んだことを考えると抜刀術の骨格はこの時に生まれたとしても大袈裟ではないと思う。
林崎の工夫した抜刀術はどのようなものであったのだろうか。現在も残る神夢想林崎流などで見ることができる形は、少なくとも仇討を果たしたのちの、人を教導するためのものであったと思う。もう少し素朴な技で刀法と体の運用方法を磨いたのではないか。
「八方萬字剣」という刀法が神夢想林崎流に残されている4)。上、下、左、右、袈裟、逆袈裟、袈裟切上げ、逆袈裟切上げの八つの刀法を納刀の状態から稽古する。敵のあらゆる攻撃に臨機応変に対応するためには、居合術者もあらゆる抜刀方法を習得しておく必要があるはずで、これこそが林崎甚助が独自に稽古した抜刀術の原点ではないか。長大な刀でゆっくりと八つの刀法を稽古することで、体の動かし方を学び、動きの質を変えることができたのではないかと考える。無理無駄を排した動きへの開眼があったのではないか。
議論が居合術の歴史から逸れてしまった観があるが、居合術の本質を考えるうえでその起源を考えることは重要なことである。
私には仇を討つために、なぜ林崎甚助が抜刀術を極めたのか不思議であった。いわゆる剣術を修行し、勝負をしようと考えるのが普通ではないか。今もその疑問は解けないが、林崎甚助が抜刀術を確立したお蔭で、後世の人間はそれをさらに深く極めていくことができた。剣術と違い、きわめて不利な状態を想定し、その中で最大限に体を有効に活用し抜刀し我が身を護るという技術は、心法の深化も促したはずである。いかなる時にも油断をせず、すぐに技が出せるように身体の姿勢や動作に気を配ることはもちろんであるが、刀を鞘から発する前に、礼儀や様々な駆け引きによって敵を作らず我が身を護ることを目指すようになったであろう。太平の世では、この心法のほうが重要であったのではないか。その中で、居合歌之巻にあるような境地「居合とは人に切られず人きらずただ受けとめてたいらかに勝つ」に至るようになったのだ。
また、座り込んだ状態からの抜刀は、体の有効な使い方を習得するにも絶大な効果を発揮したはずだ。師の森本先生は以下のように解説している。7)

「人は立つことによって様々な事を可能にするが、引力に拘束されるが故に、よりしっかり立とうとし、それが人の動きを制限してしまう。つまり崩れたくないために足首、膝、股関節、腰に不自由になってしまうほどの力みを入れ、それによって安心を得ようとする。しかし、武術における立姿は一見不動に見えながらも、そよ風が吹けばそのままふわっと動かされてしまうような自由自在な姿勢でなければならない。」

坐すことも含めた技術自体と稽古方法、想定などをひっくるめた居合術の体系全体で、身心の開発に寄与したのだ。どうして座るということに着想できたのかは分からないが、恐るべき慧眼というべきだと思う。
武術は本来、ルールのない戦いに生き残るための技術であり、そういう意味では不利な条件を想定して我が身を護る抜刀技法とそのための体術、心法を修行する居合術は武術の中の武術といえるかもしれない。武芸十八般の中に含まれて当然の武術であった。林崎以後、居合術は武術の一つとして確実に武士たちへ浸透していったのである。
これまで「中興抜刀之祖」と呼ばれた林崎の居合を中心に述べてきたが、もちろん林崎の居合とは直接関わりを持たない抜刀術も存在する。剣術の一部として存在することが多いと思われるが、香取神道流や立身流、無外流(自鏡流)、浅山一伝流などが現在も残っているようだ。中には優れた体系を持ちながら、失伝してしまった居合術もあるだろう。
しかし、現代にも残る居合術の多くは、林崎の居合と何等かの形で関わりをもつ流儀が大半となっており、居合の歴史は林崎居合の歴史と断じざるをえない。
現代に隆盛を誇る居合術は、無雙直傳英信流と夢想神伝流である。統計的には分からないが、おそらくこの二流派で居合術修行者の半数以上を占めるであろう。このうち、夢想神伝流は、明治期に無雙神傳英信流を学んだ中山博道が興した流儀であるので、便宜上、無雙神傳英信流の中に入れて考える。
無雙直傳英信流および無雙神傳英信流の流れは以下のようになっている。6)
林崎甚助重信(初代)以後、田宮兵衛業正(二代)、長野無楽斉槿露(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗続(五代)、万野団右衛門尉信定(六代)、長谷川主税助英信(七代)、荒井勢哲清信(八代)と代を重ねた。
九代の林六太夫守政により、土佐へ伝えられた。流名は当初、無雙流と呼ばれていたようであるが、その後には長谷川英信流、長谷川流と呼称される。さらに後の幕末の頃には師範であった谷村亀之丞と下村茂市の遣い方の違いから谷村の「無雙直傳英信流」と下村の「無雙神傳英信流」へと呼称が変化したようである。違いは一体どこで生まれたのか。
長谷川英信流が土佐へ伝えられたところから詳しく見てみる。
無雙流を土佐へ伝えた林六太夫守政は多芸異能の人であったようである。知行八十石の御料理人頭から最後には知行百六十石の馬廻にまで昇格している。柔術や剣術、書にも達している。林六太夫にとって居合術は余技であり、その技は代々林家に伝えられていくことになる。無雙直傳英信流の流れは、以下のように記されている。
林六太夫守政(九代)
林安太夫政詡(十代)
大黒元右衛門清勝(十一代)
林益之丞政誠(十二代)
依田万蔵敬勝(十三代)
林弥太夫政敬(十四代)
谷村亀之丞自雄(十五代)
五藤孫兵衛正亮(十六代)
大江正路子敬(十七代)
林家に伝えられた居合術がその時の優秀な弟子たちを間に挟みながら続いていることが読み取れる。
一方の無雙神傳英信流の流系は十一代以後、下のようになる。
松吉貞助久盛(十二代)
山川久蔵幸雅(十三代)
下川茂市定政(十四代)
細川義昌義馬(十五代)
この十二代松吉貞助久盛が「神傳」の鍵となる人であることがわかる。山川久蔵は当初「直傳英信流」の十二代林益之丞に師事していたのに、突如子弟の縁を切り、松吉貞助から伝書を受けている。わが師の森本邦夫先生が指摘8)されているように、松吉が林家の無雙流に独自の工夫を加え、それに山川が共感したというところが、「直傳」と「神傳」の違いになったのであろう。
しかし、もっと大きな変化が明治維新を境に両流派に訪れたと考えている。
明治維新は、直傳英信流では五藤孫兵衛と大江正路、神傳英信流では細川義昌の時代であった。特筆すべきは大江正路である。この人はそれまでの居合を整理統合し、無雙直傳英信流として世に出したとその弟子たちから認識3)されている。問題はその「世に出す」方法にあったのだと思う。
大江自身は、旧制中学の剣道教師であり、初期の門人はそのときの生徒たちだった3)。当時の日本は、欧州列強に伍していくため、子弟の教育に力を入れており、多くの生徒を一時に教えていかなくてはならなかった。そして西南戦争以後は学校教育の一環として剣道の授業が広がっていった9)。その指導方法は個々の技を分解して誰にでも理解しやすい方法がとられたのだと思う。それは、大江が明治中期以後に全国に普及させようとした居合術にも役に立つ方法であったはずだ。私自身、直傳英信流を初めて習い始めたころは、ひとつひとつの動作を指示してもらって技を覚えた経験がある。居合に初めて触れる人にはそのようにしか指導できないということでもあろう。大江もそのように教えざるを得なかったのではないか。それでも、継続的な指導を通して、ひとつひとつの動作を連携させ、さらには同時に動かせるようにし、最終的には無理・無駄のない動きを習得させることができれば、現在のように「直傳」と「神傳」の差は生じなかったはずである。大江の指導範囲は新潟や岡山、大阪を中心とする阪神地区、そして地元高知にまで至る。それぞれの場所で門弟を抱えたことであろうが、それらの門弟を継続的に指導するのは困難だったに違いない。かくして、個々の動きの連携がとれず、ましてや無駄な動きを排するところまで考えも至らぬ弟子が増えたことであろう。以上はあくまで推測であるが、その証拠として現在の直傳英信流の技や指導方法を挙げることができる。大江は普及を急ぎすぎた、もしくは広げ過ぎたのであろう。
この普及形と本来の形との相違に苦心しているのは、何も英信流居合術だけではない。神道夢想流杖術も普及形と古流本来の形の乖離が深刻な問題になっている。5)
ただ、神道夢想流杖術の場合は、同じ流名を冠し、また古流の形を守る人たちの存在も十分に知られているため、普及形から本来の形を志向することは容易である。
「直傳」「神傳」英信流の場合はそれほど簡単ではない。特に直傳には宗家と名乗る人たちが複数存在し、かつ日本剣道連盟と日本居合道連盟をはじめ、複数の団体に「直傳」の修行者が存在している。元を辿れば同じ流派とは言え、これでは双方の差を認め、本来の居合術を探求し、現代人の身心の開発に寄与することはほとんど不可能である。
無雙神傳英信流の歴史は、無雙直傳英信流の歴史の裏返しである。直傳英信流が広く普及していったのに対し、神傳英信流は細川義昌以来、植田平太郎、尾形郷一、梅本三男とまるでコップの水をそのまま次のコップへと移すように継承され、わが師森本邦生先生に至る。(ここでは中山博道の夢想神伝流は除いて考えている。)もちろん複数の門弟が指導されてきたことであろうが、その裾野は決して広くはない。しかし、確実にコップの水は移されてきた。
無雙神傳英信流の特質は、林崎甚助以来の刀法を代々の師家が発展させながら連綿と伝えてきたその歴史と歴史を裏付ける無理無駄のない刀法そのものに存在する。無理無駄のない動きは、大勢の人間が一斉に稽古するようなスタイルの教授法では教授しきれないことは「直傳」での実験で明らかだ。また、直傳ではほとんど伝えられていない大小詰や大小立詰などの柔術技法も残されていることも特筆に値するだろう。技はかからなければ意味がないが、柔術稽古では相手を立てて稽古するので実地に「相手にかかる技」とはいかなるものかを常に問われていることになる。その観点から抜刀術を見直すことが可能であるため、ともすれば華美に流れがちな居合から一線を画すことができたはずだ。
一言でいえば、直傳英信流は「形」を伝えるところで終わってしまい、神傳英信流は「動き」を伝えることに成功したと言えるだろう。
無理無駄のない刀法とは何かを稽古を通じて常に自覚し、また自覚を促すために個別指導を取らざるを得ず、またその指導法が無理無駄のない刀法を保存するという入れ子構造のようになっていることが、無雙神傳英信流の特質の一つであると思う。
また、稽古の体系にも無雙神傳英信流の特質が表れている。稽古の段階として、大森流、英信流表、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、英信流奥がある。
初期の段階の大森流と英信流表の一人稽古でいかに無理無駄なく動くことが難しいかを体感させることで自分の体と心を見つめる修行が始まる。
この一人稽古で十分に体を使う動きを体得させると、次に太刀打、詰合による対人稽古が始まる。ここでは、一人稽古で培った動きを対人においても発揮できるかが試される。一人稽古では、ともすれば自分勝手に想定した相手に対し技を振るうことも可能であるが、対人稽古では間合い、機、拍子などがいつも異なり、相手の動きに応じながら自分の動きを流儀の動きにしていかねばならない。
この段階を過ぎると今度は大小詰、大小立詰に入る。これも対人稽古であるが、抜刀しない。抜刀術の流儀であるのに、抜刀しない形が存在することを初めて知ったとき、私はとても驚いた。これは、先述したように、技がかかるとはどういうことか、柔術を稽古すればよくわかるので、稽古体系の一部に入れられたのではないかとも思う。もちろん、抜刀だけにこだわらず、いかなる事態、抜刀ができない事態にも対処できる、自由な心を養うために存在するのでもあるのだろう。鞘の内での自由な対応を目指す居合術にあっては、なくてはならない技術であるのだ。驚いたということは、己の不明を証言したということで、汗顔の至りである。
そして最終段階の英信流奥に至る。ここでは坐技、立技が存在し、想定の相手も複数になる。人ごみの中や、両脇、上がふさがれた状態という想定もある。ここで求められているのは、自由な心と体であるのだと思う。どのような状況、どのような相手であっても、流儀の心と体を維持すれば対処できるはずであるという声が聞こえてきそうである。この段階に至れば、おそらく型を離れてどのような状況でも刀を抜けるレベルになり、状況に応じた技を創作できる、いや、創作してしまうようになるのではないだろうか。そしてそれこそ流祖林崎甚助以来、代々の師家が求め指導してきた武術としての居合術であるのだと思う。
無雙神傳英信流の特質とは何か。それは居合という武術を習得するために極めて合理的に体系づけられた稽古体系にあると言える。
ここまで、林崎居合を原点とする居合術である無雙直傳英信流と無雙神傳英信流の歴史と無雙神傳英信流の特質を考えてきた。四百五十年に亘る技術の集大成を稽古できることの幸運に思い至る。この伝統を次代に伝えることができる実力を養うことに全力で取り組むことを誓って擱筆する。




【参考文献】
1) 朝倉一善:居合道の祖 林崎甚助の実像 居合道虎の巻 スキージャーナル株式会社 2008年
2) 朝倉一善:林崎甚助重信の門人たち 同上
3) 岩田憲一:古流居合の本道 スキージャーナル 初版2002年
4) 剣道日本編集部:神夢想林崎流居合 剣道日本2009年3月号 第439巻2009年
5) 松井健二:古流へのいざないとしての杖道打太刀入門 体育とスポーツ出版社 初版2011年
6) 三谷義里:詳解居合・無双直伝英信流 スキージャーナル 初版1986年
7) 森本邦生:無雙神傳英信流の形…大森流、英信流奥 広島県立廿日市西高等学校研究紀要第13号 2004年
8) 森本邦生:無雙神傳英信流の研究(1)
―土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察―
9) 大塚忠義:日本剣道の歴史 窓社 初版1995年
10) 谷口覓:居合道日本史 叢文社 初版1997年


昨日と同じときに撮った関門海峡の写真です。
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  1. 2013/09/28(土) 21:25:03|
  2. 昇段審査論文

昇段審査論文 4

論文としての体裁がよく調ていますので参考にしてください。


大石神影流参段受審課題
「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について」

1.はじめに
 大石神影流剣術とは、幕末の筑後柳河藩において、大石進種次により創始された。大石進種次は、天保3年(1832)江戸に出て男谷精一郎と試合をした話は特に有名であり、その他にも幾多の試合をしている。多くの試合に勝利を得たことから大石神影流剣術は一躍有名になり、幕末の剣術界に旋風を巻き起こした。また、フィクションを含め多数の作家の作品にも取り上げられていることから、その影響力の大きさがうかがえる。本論文では、大石神影流の歴史を知るため、大石家の系譜を中心に調べてみた。

2.大石家の系譜
 大石家の家系の由来であるが、現在の福岡県大牟田市宮部に大石家が住みついたのは大石下総で筑前岩屋の城主高橋鎮種に仕えていた。下総以前の大石家の古い記録は残っておらず、いつのころから宮部に住み着いたのか定かでないが、高橋鎮種は大友氏の武将であったことから天正年間頃と推察される。下総は天正14年(1586)の大友氏と島津氏の戦に出陣し戦死を遂げたが、その際、長男七兵衛も主君鎮種とともに割腹した。その後、三代大石種重が加藤清正に仕えた後、立花宗茂に仕え、荒地開墾して地行三十石を受けたことにより宮部に定住するようになった。

 (ⅰ)大石神影流流祖大石進種次までの系譜
 初代  大石下総
大石家始祖として高橋鎮種に仕えたが、かねてから九州統一をはかる島津義久に攻められ、岩屋城の戦において、ついに天正14年(1586)弟の大石七右衛門、大石七左衛門とともに討ち死にした。
 二代  大石七兵衛
 大石下総の嫡男。父とともに岩屋城の戦に参加したが、父が戦死した後、岩屋城において主君高橋鎮種と共に命運を絶つ。
 三代  大石太郎兵衛種重
 大石太郎兵衛種重は最初高橋家に奉公していたが、その後、肥後の加藤清正家臣となり、さらに後、立花宗茂に仕えた。宗茂は、元和6年(1620)柳河藩主となる。太郎兵衛種重は横須村(現大牟田市)の荒地を開墾し地行三十石を領する。横須村の後、宮部村(現大牟田市)に移り住む。なお、大石家録高はその後十四代種次が加増されるまで続く。
 四代  大石蔵之烝種義
 五代  大石八左衛門尉種道
 六代  大石八助種久
 七代  大石源六種忠
 八代  大石七兵衛種明
 九代  大石七大夫種正
 十代  大石七左衛門種吉
 十一代 大石八左衛門種政
 十二代 大石遊剣入道種芳
 大石遊剣入道種芳は、塩見春伯方より養子として大石家に入った。若くして柳河藩剣術指南役村上一刀尉源長寛に師事し、愛洲陰流及び大嶋流槍術の免許を受けている。その後、明和2年(1765)、24歳のときに柳河藩剣術及び槍術の指南役を仰せ付けられる。
 十三代 大石八左衛門種行
 大石遊剣入道種芳には男児がなかったため、実娘に同藩の田尻藤太を養子として迎え、大石種行を名乗らせた。種行も養父遊剣入道種芳の後を受け、柳河藩において愛洲陰流剣術及び大嶋流槍術の師範を勤めている。

 (ⅱ)大石進種次以降の大石家(大石神影流の伝系)
 十四代 大石神影流流祖 大石進種次
 大石進種次(後七大夫、武楽)は、寛政9年(1797) 八左衛門種行の嫡男として宮部村に生まれる。文政3年(1820)に祖父遊剣入道種芳より大嶋流槍術の免許を受け、その2年後には遊剣入道種芳から愛洲陰流の免許を受けた。進種次29歳の時、父八左衛門種行が亡くなり、父亡き後は進種次がその後を継いで柳河藩の槍術・剣術指南役となった。その後、独自で工夫改変を重ねて大石神影流を創始する。その成立過程は正確にわかってはいないが、森本先生の調査によれば、「大石進種次によって大石神影流の体系が整えられたのは天保8年(1837)から天保13年(1842)の間の頃と考えられます 」とされる。
大石神影流第二代師範 大石進種昌
 大石進種昌は、大石進種次の次男として文政7年(1824)に生まれる。進種昌も柳河藩槍術・剣術指南役となる。また、大石神影流第二代として大石導場も継承した。進種昌は、天保8年(1824)小城藩主に手数を披露している。また、天保11年(1827)には対馬領田代、天保12(1828)年には平戸で剣術を指南し、翌13年(1829)には久留米、福岡、秋月各藩を修行し、弘化2年(1845)には長州萩、翌3年(1846)には肥前小城より剣術引立てのための招聘を受ける。嘉永2年(1849)には江戸に赴き、諸藩から多数の入門者があった。嘉永5年(1852)には、友清祐太夫、清水和作を従え土佐で指南している。さらに安政元年(1854)には再度土佐藩から要請があり、門下三名を指南のため派遣している。このように、進種昌は柳河へ留まることなく各地に赴き修行または指南しており、大石神影流の発展への寄与は顕著である。
 大石神影流第三代師範 大石雪江
 大石雪江は、大石進種次の六男として天保10年(1839)に生まれる。雪江も幼いころより進種次、進種昌に指導を受け、慶応元年(1865)27歳のとき兄進種昌より大石神影流免許皆伝を受け、大石本家より分家し大石分家の始祖となる。明治11年(1878)兄進種昌の死去にともない大石神影流第三代目の師範となった。
 大石神影流第四代師範 板井真澄
 板井真澄は安政元年(1854)柳河藩士板井一作の次男として生まれ、幼時より大石雪江の門弟となった。ここで、大石家子孫でない板井真澄が大石神影流を継承したことにふれると、大石神影流第二代師範大石進種昌には男児がおらず、長女(一女)登に婿養子として八女郡の森家より五十規を迎えた。二人の間には明治9年(1876)長男進(三代目)をもうけ、その後の明治11年(1878)大石進種昌が死去したことにともない五十規が大石家家督を相続した。五十規の子進6歳のときに母登、父五十規を相次いで亡くし、大石導場を継承する者がいなくなったため、親戚である板井真澄夫妻が後見人として宮部大石家に移り、その後の進を養育することとなった。進は幼少のころから将来の大石神影流後継者として、師範である大石雪江、板井真澄から厳しい稽古を受けた。しかしながら、進は大石神影流を継承することがなかったため、雪江及び大石進種昌の弟子で雪江と相師範となった今村広門亡き後、板井真澄が大石神影流を継承するにいたった。
 大石神影流第五代師範 大石 一
 大石一は、大石雪江の長男として明治5年(1872)に生まれた。幼時より父雪江に大石神影流を学び、明治35年(1902)大石神影流陰の巻免許皆伝を受け、その後実家近くに導場を建て、多くの門人を指導した。また、大石一は、大石神影流師範と言うだけでなく、尋常小学校校長、高校教諭として武道の普及及び教育界に尽力している。
 大石神影流第六代師範 大石英一
 大石神影流第七代師範 森本邦生

3.大石神影流の成立
 大石神影流は、大石進種次が祖父遊剣入道種芳から大島流槍術及び愛洲陰流剣術の免許を受けた後、面や籠手等の防具を改良し、さらに、突き、胴切を工夫して大石神影流と称した。しかしながら、上述のとおりどのような過程で大石神影流が成立されたのかは定かでない。大石神影流成立のうえでその基礎となった愛洲陰流、大島流槍術及び祖父遊剣入道種芳が免許を受けた村上一刀尉源長寛について以下に記載する。

(ⅰ)愛洲陰流
愛洲陰流は、愛洲移香斎久忠によって創始された剣術である。愛洲移香斎は通称太郎左衛門忠久といい享徳元年(1452)伊勢志摩で生まれている。若いころ、関東、九州及び明国付近まで渡航したことがあると伝えられる。幼少より剣術、槍術を好み稽古に励んだ。36歳のとき、日向鵜戸の岩屋に参籠して満願の未明に神が猿の形で奥義を示して一巻の書をさずけた。これにより一流を創始し陰の流と称する。その後、愛洲移香斎は諸国を修行し、晩年は日向に居して日向守を名乗り、天文17年(1538)に没している。愛洲移香斎についての詳細は不明な点が多いが、陰流はその後多くの流派に分かれ、それぞれ隆盛した。
愛洲陰流から大石神影流への系譜について、森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日>によれば、以下のとおり述べられている。
 
足利日向守愛洲惟孝――奥山左衛門大夫宗次――上泉武蔵守藤原信綱――長尾美作守鎮宗――益永白圓入道盛次――吉田益右衛門尉光乗――石原傳次左衛門尉正盛――村上一刀尉源長寛――大石遊剱入道種芳――大石太郎兵衛尉種行――大石七太夫藤原種次

 さらに、「大石神影流の系譜は奥山左衛門大夫宗次と上泉武蔵守藤原信綱の順番は書き伝えられるうちに逆になったものだと思います 」と指摘されている。

(ⅱ)大嶋流槍術
 大嶋流槍術の流祖は美濃の人大嶋雲平(のちに伴六と改称)吉綱。天正16年(1588)横江弥五右衛門の二男として生まれ、大嶋雲八光義の養子となった。幼少より四方に遍歴して槍術を学び、その後独創して大嶋流を始めた。大嶋雲平について、増補大改訂 武芸流派大事典によればこうである。

大坂役には前田利長にしたがって大いに軍功があった。元和年間の加賀藩侍帖に二百五十石とある。後、浪人して流泊し、越前宰相に招かれたが行かず、寛永十一年、柳生宗矩のすいせんで紀州徳川家につかえ、はじめ三百石から後に七百五十石にのぼる。正保三年、隠居して伴六と称し、安心と号した。明暦三年十一月六日病死、七十歳 。

大嶋流槍術は、その後雲平吉綱からその子雲平常久へと伝わった。
 
(ⅲ)村上一刀尉源長寛
 村上一刀尉源長寛についての詳しいことはわからないが、豊後の浪人で諸国を放浪し、日田において槍術、剣術を指南した。その後柳河藩に仕え愛洲陰流と大嶋流槍術を指南し、大石遊剣入道種芳に免許皆伝を与えた。

4.大石神影流の特質
(ⅰ)防具
 大石進種次は、愛洲陰流で従来使用していた防具を大石神影流用に改良新作している。それは、手数に突きと胴切を取り入れたことで、まず、面については激しい突技にも十分対応できるよう唐竹面を廃し、13本穂の鉄面とし喉当てを取付けた。胴には胴切に対応できるよう竹による巻胴を作り、籠手はそれまでの長籠手を廃し、籠手を短くして腕を覆う範囲を小さくした。そして、もっとも特徴的なのは長竹刀である。それまで一般的に使用されていた竹刀の長さ3尺3寸を5尺3寸とし2尺も伸ばしたことである。現在の手数稽古に用いる竹刀長さは総長3尺8寸であるが、当時これほどまでに長い竹刀を使っていた大石進種次とは、一体どのような体格をしていたのであろうか。「大石神影流を語る」によれば、以下のとおりである。

進の身長について確かな伝承はないものかと探していた折しも、高瀬町の板井氏より耳寄りな話を聞いた。板井家は古くより大石家と姻戚関係にあり、家屋もおよそ二百年を経て現在に及んでいる。当主の祖父も長身であったから、進が板井家を訪問した折鴨居で丈くらべをした。このときの調べで祖父六尺、進は六尺五寸あったという。このような長身であったから五尺余の竹刀も使えたが、常人がこれを使用したのでは、この割合からみれば相当長いものになってしまう 。

と述べられており、この恵まれた体格があったからこそできた業であることは疑いようもない。しかし、大石進種次以降師範及び門弟がみなその当時の平均的な体格より大きいことはあり得ず、竹刀長さが決められているわけではなかったが、使用される竹刀長さは自分の身長に応じ、概ね立った時の乳首の高さとされており、大石進の長身からすれば5尺3寸の竹刀も妥当な長さであろう。さらに同書によれば、

二代目進種昌になると、体格はそれ程でなかったので、竹刀の作りも進むより縮小したらしく、弦に琴の紘一筋を使っている。板井真澄、大石進(三代目)について学んだ真鍋氏の実見談によれば、大石家の床の間に四尺八寸の竹刀があったのをみたという。これが種昌の竹刀であろうと思われる。竹は孟宗竹の根元を使っているから、節の間が狭く、相当の重量があって、手に取るとまるで鉄棒を握っているように感じたそうである。…(中略)…五尺三寸の竹刀は進だけで、その門弟は五尺以上の竹刀は使っていないようである。大石流では胸の高さをもって竹刀の全長としたので、五尺四五寸の人は概ね四尺二寸が適当な長さになる。大石雪江や柿原宗敬も四尺二寸を遣っているし、以後大体この位の長さを遣ったものが多い 。

との記載されており、現代のように一定長の既製品があるわけではないので、皆が同一の竹刀を用いて稽古することはされておらず、それぞれの身長に合う長さの竹刀を使用していたことがわかる。しかし、竹刀を長くしたのはただ試合に有利になるよう用いたわけではない。竹刀長さが長くなれば、単に長くなったための扱いが難しくなるだけでなく、当然その重量も変わってくる。そのため、それらを自由に使いこなす動きと技を備えるための稽古をされていたことが想像できる。

(ⅱ)構え
構えには、「真剣」「上段」「附け」「下段」「脇中段」「脇上段」「車」「裏附け」がある。「附け」の構えは、左手掌で柄頭を抑え隙があればいつでも突くことができる構えである。しかし、大石神影流は突きに特徴があるとされているが、すべての構えから即座に突けるわけではない。

(ⅲ)掛け声
 掛け声は「ホー」と「エー」の独特な大きな気合をかける。大石神影流に限ったことではないが、気合は肚から発し、準備として胸に息をため込むことをしてはならない。また、構え、動きともに呼吸にのせることが重要である。

(ⅳ)動き
大石神影流の稽古において、その動きについては鍬で土をかぶせる動きと同様であることを森本先生からご指導いただいている。藤吉 斉によれば、「進はこのような境遇に安閑としていられず、馬を飼うと田畑を耕作して家運の挽回に務めた 」と述べられ、また、板井 真一郎も「大石道場四代目師範となった私の祖父の真澄も常に畑仕事に打ち込んでいた。それは衣食の為或いは体力増進の為もあったであろうが、常々門弟に対し、鍬を握る手が即ち竹刀を握る手で、これが大石神影流の一の訓えであると語っていた 」と、同様の教えの記述があり、どちらも剣術のための特別な動きをする必要ないこと、また、日常生活において意識することの重要性があらためてわかった。

5.大石神影流の影響
 大石進種次は、天保3年(1832)及び天保10年(1839)に江戸に出て試合をしている。誰と試合をしてその結果がどうであったか興味があるが、大石家に伝わった文書が散逸されてしまったため誰と立ち会ったかは不明である。しかしながら、明治15年(1882)11月に門弟によって建てられた「大石先生碑」に男谷精一郎との立会が刻まれていることからも、江戸にて男谷との試合は間違いない。当時の江戸にてもっとも著名な男谷精一郎との試合は、大石進種次が多いに活躍したことは明らかである。
 江戸における活躍もさることながら、柳河の大石導場には各地から各藩士が多数入門している。大石進種次、進種昌への門人数については、森本先生論文に654名について次のとおり調査されている。

柳川藩以外の門人の多くは柳川藩近隣の九州諸藩に属する門人であり、一例を挙げれば三池藩門人79名、肥前小城藩門人13名、筑前秋月藩門人11名、肥前熊本藩門人11名、蓮池藩門人9名、武雄門人17名、対州藩田代門人11名の姓名が記載されている。
  一方、柳川藩からは遠方の土佐藩には60名の門人の姓名が、長州萩藩には43名の門人の姓名が、備後福山藩に8名の門人の姓名が記されているなど遠隔地にも大石神影流の門人がいたことがわかる 。

江戸で大活躍した大石進種次のもとに全国から各藩士が教えを乞うため柳河藩に集まり
九州はもとより、中国、四国から北陸、信越地方にまでおよび、その活躍、影響力はかなり大きかったことがわかる。

6.おわりに
 幕末に創始された大石神影流が現在まで、途切れることなく連綿と継承されている名門大石神影流に感謝したい。また、従来の防具や竹刀を改良し、新流派を興すとともに江戸で活躍するとともに多数の門弟を指導育成した大石進種次の偉大さを改めて実感した。今後、これだけの著名な流派であるからこそ、一部のマニアや所謂武道オタクに侵されることのないよう、正しく伝えてゆくことが重要であると考える。

後注
 森本邦生先生,2013,「大石神影流に関する考察」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, http://kanoukan.web.fc2.com/oishi/hstry/kousatu.html).
森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日> ,貫汪館ホ
ームページ(2013年8月18日取得,
http://kanoukan.blog78.fc2.com/blog-entry-282.html).
同上
 綿谷 雪、山田忠史 編:増補大改訂 武芸流派大事典 、東京コピイ出版部、1978年 127頁
 藤吉 斉:大石神影流を語る、第一プリント社、初版、1963年 48-49頁
 同上 49-50頁
 同上 7頁
 板井 真一郎:大石神影流の周辺、フタバ印刷社、初版、1988年 13-14頁
 森本邦生先生 「大石神影流『諸国門人姓名録』について」日本武道学会第40回大
会発表抄録〈平成19年8月30日〉



参考文献
1. 藤吉 斉:『大石神影流を語る』、藤吉 斉、第一版、1963年。
2. 今井善雄:『日本武道体系第十巻 武道の歴史』、同朋舎出版、第一版、1982年。
3. 板井真一郎:『大石神影流の周辺: 附 大友流詫磨系の末裔』、板井真一郎、第一版、1988年。
4. 森本邦生先生:2013,「師範と伝系」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
5. 森本邦生先生:2013, 「大石神影流関係史跡」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
6. 森本邦生先生:2013,「大石神影流に関する考察」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
7. 森本邦生先生 「大石神影流『諸国門人姓名録』について」日本武道学会第40回大会発表抄録〈2007年8月30日〉。
8. 森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日> ,貫汪館  
  ホームページ(2013年8月18日取得,
).
9. 島田貞一:『日本武道体系第七巻 槍術・薙刀術・棒術・鎖鎌術・手裏剣術』、 同朋舎出版、第一版、1982年
10. 綿谷 雪、山田忠史 編:『増補大改訂 武芸流派大事典』 、東京コピイ出版部、第一版、1978年
11. 横山健堂:『日本武道史』、島津書房、第一版、1991年

昨日と同じ関門橋の写真です。海流が右へ流れていましたので左右の船の速さが異なっていました。
kannmonnkyouDSC03976.jpg
  1. 2013/09/29(日) 21:25:42|
  2. 昇段審査論文

昇段審査論文 5

柔術の歴史における澁川一流柔術の歴史とその特性

柔術とは、徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。
相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ること(護身)を重視する流儀の多いことは、他国の武術と比較して大きな特徴である。
このような技法は広く研究され、流派が多数存在した。

江戸時代以前
戦国時代から合戦のための武芸である組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われており、確認できる最古の源流は、天文元年(1532年)に竹内久盛が開眼し、その子竹内久勝が広めた「竹内流」である。
また、柔術は江戸時代になってからの呼び名であり、戦場における組討の技術(弓・鉄砲、槍、刀剣の間合いに続く格闘における技術。敵将の首を取ることも行われた。)
武士の小太刀、小刀(小脇差)、脇差などでの護身術。(小具足など。)
相撲。(武士は相撲も組討のための鍛錬方法とした。)
治安維持のための捕手術、捕縄術などが柔術の源流である。

「竹内流」は日本武術の流派で、歴史を遡る事が出来る最古の日本柔術の流派と言われている。
羽手、小具足、棒術、剣術、居合、十手などの総合的な技術を今に伝える流派である。
流祖は中世から戦国時代に垪和を拠点とした垪和氏の竹内久盛であり、天文元年(1532年)に創始したと伝わっている。
「竹内流」は日本の多くの武術流派に影響を与えて来た流派であり、この流派からは多くの分派、支流が派生している。
「竹内流」は、流祖から現在まで、現在の岡山市北区建部町角石谷にある竹内家で伝承されている。
現在は、宗家である藤一郎家、相伝家である藤十郎家の伝承が残っている。
正式には竹内流小具足腰之廻と言い、小具足、捕手術、棒術などが特に著名な流派である。現存している柔術流派の中では最も古い文献や記録が残っているため、日本柔術最古の流派と言われる事が多い。
宗家、相伝家では一般で言う柔術の事を羽手(はで)と称する。
・江戸時代初期
戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力技ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。
また、中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。
ただし、これらの流派でも読みは「やわら」であることも多い。
また、この時期に伝承に柳生新陰流の影響を受けて、小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。
・江戸時代、幕末頃
武者修行の流行とともに全国的に各流派の交流、他流試合が盛んになり、素手の乱捕用の技が作られ始めた。
現在ではどのようなルールで行われていたか不明であるが、真剣勝負の場合以外当身技は除かれたようである。
また、乱捕は組討に相当するもの、組討の鍛錬になるものとも見做された。
これらの乱捕の技術が現在の柔道の乱取と試合の源流である。

「澁川一流柔術」は、幕末に首藤蔵之進満時によって「澁川流」「難波一甫流」「浅山一伝流」をもとに創始された柔術である。
澁川一流の澁の文字は「澁川流」に、一の文字は「難波一甫流」と「浅山一伝流」の一に基づくものと伝えられており、澁川一甫一伝流の意から「澁川一流」と命名された。

「澁川流」は、澁川伴五郎義方が開いた柔術の流派である。
系統によって異なるが、柔術以外居合、剣術、その他の武器術も含む系統もある。
母体である関口流(関口新心流)とともに、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつである。
澁川伴五郎義方自身は「澁川流」を称せず「関口流」を名乗っていたこともあって、母体である「関口流」と混同されることもある。(「関口正統澁川流」等とも名乗った。また初期の江戸の澁川家の「澁川流」は、「関口新心流」と内容の多くが共通する。)
関口流同様、この流派から分かれた流派は多い。
主なものに井澤長秀が開いた関口流抜刀術(肥後流居合)、岩本儀兵衛が開いた転心流、平山行蔵が開いた忠孝心貫流などがある。

「難波一甫流」流祖・難波一甫斉久永は、天正年間(1573年~1590年)の人で、備前岡山の浮多家の家臣(家元文献)といい、他の説では長州の人で元和年代(1615年~1623年)の人といい、この差が50~60年あるが、そのどちらとも定めにくい。
難波一甫斉久永は、竹内流三代・竹内加賀介久吉の門弟といわれ、この流派は長州、広島に多く伝わり、一甫斉流、一甫流、一歩流、難波一方流、難波一甫真得流などと呼ばれている。
広島藩で最も勢力が大きかった柔術が「難波一甫流」であり、「難波一甫流」は江戸時代初期、長州より広島に伝わり、城下では代々矢野家を中心として伝えられた。
「難波一甫流」は農村地帯にまで広がり広範囲に修行者を持った。
武術の内容は和(やわらー狭義の柔術)・剣術・槍術・その他の武術に及ぶ。
「難波一甫流」の伝系
流祖 難波一甫斉久永
前原七太夫久永
福原九郎兵衛元綱
佐久間半右衛門元方
矢野次郎右衛門清方
矢野長右衛門清政
矢野新右衛門清忠
矢野徳十郎清次
矢野春蔵清良
(後見)藤井源二左衛門主好
矢野徳三郎
宇高宗助直常

「難波一甫流」の術技の根幹は意治術にあります。
意治術というのは、いわゆる臍下丹田術で、呼吸により丹田を充実させ体を統一し、筋力以上の力を出す方法で、全身の無理無駄な力、力みを排除した上で呼吸法によって丹田から全身へ筋力に頼らぬ力を伝えていきます。
「難波一甫流」を治めた方には、「力」に関する話が多く残っています。

「浅山一伝流(淺山一傳流)」は「一伝流」と略して呼ばれることも多く、剣術、居合、棒術、柔術、陣鎌(鎌術)などが含まれていた。
「浅山一伝流」の流祖は浅山一伝斎とされているが、この人物については、名前も「浅山一伝斎重晨」のほか、一伝流居合の流れを汲む不伝流の伝承では、「浅山一伝一存」、薩摩藩に伝承した系統(朝山流とも呼ばれる)では、「朝山一伝斎三五郎」とするなど、伝承によって異同がある。
以上の浅山一伝斎重晨、浅山一伝一存、浅山(朝山)一伝斎三五郎は生年、没年が大きく異なり同時代人とは思われないため、同一人物ではないとする説もがあり、実像を確定しがたい。
浅山一伝斎の師についても、「浅山一伝流」を伝えた森戸家(後述)の伝承では、師はおらず丹後の山中で自得したと伝えられている。
丹波市にある岩瀧寺はその修業の地とされ、護摩堂には門下生が残した額がある。
この他に、塚原卜伝を浅山一伝斎の師とする伝承があり、『本朝武芸小伝』では国家弥右衛門なる人物を浅山一伝斎の師とするなど、複数の異なる伝承がある。
江戸時代に第8代の館林藩士・森戸朝恒(初代 森戸三太夫)が江戸に道場を開き、浅山一伝流の名が広まった。
森戸朝恒より流儀を継承した森戸偶太は、当時の江戸で今枝良台(理方一流開祖)、中西子武(中西派一刀流第2代)、比留川彦九郎(雲弘流第3代)と並び称されるほどの達人であったという。
森戸家は代々、浅山一伝流を伝承し、森戸家の道場には、諸藩の江戸詰や参勤交代で江戸に出てきた藩士が多く入門したという。
これにより「浅山一伝流」は全国に広まった。
歴代で最も著名なのは森戸金制(森戸三太夫)である。
森戸金制が目黒不動に掲げた奉納額には1600人以上の門弟の名が記されており、その繁栄がうかがえる。
「浅山一伝流」は比較的古い流派であるが、現在に残る系統が殆どないためにその歴史は不明な点が多い。
また、「浅山一伝流」から派生、分派やその技法の一部を導入した流派も非常に多いといわれている。
浅山一伝一存の弟子とされる伊藤長太夫(伊藤不伝)が開いた不伝流居相(居合)は、江戸中期に松江藩に伝えられ、松江藩の御流儀となった。
また、水戸藩には浅山一伝流の柔術が伝えられ、浅山一伝古流、浅山大成流、浅山一伝新流など複数の系統に分かれて伝えられた。
水戸藩の系統の浅山一伝流柔術は逆手技を中心とした内容で、現存する大倉直行系の浅山一伝流体術との関係をうかがわせる。
この他にも、久留米藩士・津田教明(津田伝)は森戸金制に浅山一伝流を学び、教明の子の津田正之によって津田一伝流が開かれた。

「澁川一流柔術」の流祖である首藤蔵之進満時は幕末の人で、彼の叔父で宇和島藩浪人と伝えられている宮崎儀右衛門満義に連れられて、広島藩安芸郡坂村に来住しました。
首藤蔵之進満時は宮崎儀右衛門満義を師として「澁川流」と「難波一甫流」を習得し、さらに他所で「浅山一伝流」をも習得して、「澁川一流柔術」を創始しました。
伝系は以下の通り、
流祖 首藤蔵之進満時
   宮田友吉國嗣
車地國松正嗣
畝重實嗣昭
森本邦生嗣時
ある日、広島城下にでていた首藤蔵之進満時は五・六名の広島藩士と争いになりましたが、「澁川一流柔術」の技でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士がこの見事な働きを見ており、その松山藩士の推挙により松山藩に仕えることになりました。
これは天保十年頃(1839年)のことと、伝えられていますが、その後、首藤蔵之進満時は四国松山においても「澁川一流柔術」の指南を始めました。
明治維新以降、首藤蔵之進満時は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「澁川一流柔術」を伝え残し、明治三十年(1897年)に八十九歳で四国松山にて没しました。
「澁川一流柔術」の流祖、首藤蔵之進満時の墓は、愛媛県松山市道後湯月町の宝厳寺と広島県安芸郡坂町の二ヶ所にあります。

宝厳寺とは時宗の寺院で、時宗開祖一遍の生誕地であり、山号は豊国山。
時宗の宗祖は証誠大師 一遍上人で、浄土宗の一流、西山派の開祖 証空上人の孫弟子に当ります。
時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊とします。
この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、生命を身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えが時宗の教えです。
証誠大師 一遍上人はすべてを捨て去るために、片時も留まることなく諸国を歩き続け16年間で日本国中をほとんど歩きました。
証誠大師 一遍上人は下記のように説いています。
「念仏の行者は知恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるヽ心をもすて、極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてヽ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ、」
この言葉、澁川一流柔術流祖 首藤蔵之進満時は、彼の「澁川一流柔術」との関わりの中でどのようにとらえたのでしょうか。

「澁川一流柔術」は江戸時代、武士の時代に成立した武術の柔術であり、現代の柔道、現代の格闘技のジュージュツと状況、発想、目的などが異なっています。
それは、素手と素手、一対一でルールの中で技を競う現代の柔道、格闘技のジュージュツと違い、江戸時代の柔術は腰に刀を差していた時代の武術であるため、当然武士は事ある時には刀を用いますので、素手と素手で勝負して優劣を競うものと言う発想が全くなく、技術的な目標が最終的に、刀を手にした人間を素手で制するレベルにまで到達することにあります。
したがって、刀の動きを知らなければ刀に対処する業を身につけることは至難のことになってしまいます。
さらに、たまたま刀が側に無い場合に斬りかかられた、あるいは抜きあわす間が無いくらい急に斬りかかられた、懐剣で急に斬り付けられた際に、何とか素手で対処できるレベルに動きを高めるのが「澁川一流柔術」の業の上での目標になります。
それゆえ相手が刃物を所持していることを前提として多くの形が作られているため、相手との間合を重視しており、素手と素手による稽古はあくまで稽古の一部であり、そのほかにも相手が短刀や刀などの刃物を持っている形の状況があり、こちらが棒や十手など何らかの武器を用いてこれに対処する形もあります。
また、形の稽古のほかにも、鍛錬法として棒抜けや枕引きなども伝えられており、柔道の乱取りに相当する意治(地)稽古も伝えられていますが、意治稽古においても、投げたら一本という決まりはなく、関節を極めたり、絞め技が有効になるまで行われますが、あくまで稽古の一方法として行い、優劣を決めることはありません。
「澁川一流柔術」の稽古は、相手を抑えても、投げても、極めても、決して力んではならないということを稽古の絶対条件にしています。

上記のように「澁川一流柔術」の形は素手と素手、素手と剣術など徒手空拳で自己の身を守る術技と棒術(短棒・三尺棒・六尺棒)、十手、分童、鎖鎌、居合などの武器を用いて身を守る術技から成り立っており、形は相手の仕掛けの方法によって
・履形―中段・下段を突いてくるのを制す形。
・吉掛―肩を突き押してくるのを制す形。
・込入―両手で胸襟を掴み押すのを制す形。
・打込―懐剣で上段より打ち込むのを制す形。
・両懐剣―両手の懐剣で打ち込むのを制す形。
・互棒―懐剣で打ち込むのを短棒で制す形。※短棒は一尺六寸位
・四留―両手で両手首を握り押すのを制す形。
・拳匪―両手で合掌する手首を掴むのを制す形。
・枠型―両手で右手を掴み引くのを制す形。
・引違―四つに組み押してくるのを制す形。
・袖捕-両手で両袖を掴むのを制す形。
・二重突―両手で前帯を掴み押すのを制す形。
・一重突―右手で前帯を掴み押すのを制す形。
・片胸側-右手で胸襟を掴み押すのを制す形。
・壁沿―胸襟を掴み壁に押すのを制す形。
・睾被―馬乗りになるのを制す形。
・上抱-後方より抱きつくのを制す形。
・裏襟―後方より裏襟を引くのを制す形。
・御膳捕―並座して右手で左膝を押さえるのを制す形。
―対座して懐剣で打ち込むのを制す形。
・鯉口―行き違いの際、抜きつけようとするのを制す形。
・居合―上段より刀で斬り込むのを制す形。
・胘入-罪人に縄をかける。
・三尺棒―三尺棒で打ってくるのを制す形。
―懐剣で打ってくるのを三尺棒で制す形。
・三尺棒御膳捕―対座して懐剣で打ち込むのを三尺棒で制す形。
・六尺棒―六尺棒対六尺棒の基本の形。
・六尺棒裏棒―六尺棒対六尺棒の応用の形。
・刀と棒―刀で斬りかかるのを六尺棒で制す形。
・小棒―懐剣・刀で斬りかかるのを小棒で制す形。※小棒は指先から腕曲までの長さ
・十手―刀で斬りかかるのを十手で制す形。
・分童―刀で斬りくるのを分童鎖で制す形。
・鎖鎌―刀で斬りかかるのを鎖鎌で制す形。
・居合(抜刀術)
にグループ分けされています。
『履』には「ふみ行う、実行する」という意味があり、初めに習う履形の三十五本の形が全ての形の基本となっています。
また、「澁川一流柔術」には、それぞれの形のグループに「礼式」があり、受を制することなく押し返す動きがあり、これは「澁川一流柔術」の理念が人と争わないことをあらわしています。
「澁川一流柔術」の形は飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するように組み立てられています。

参考文献
広島藩の武術~貫心流・難波一甫流・澁川一流を中心として(森本先生にいただいた資料)
貫汪館H.P
Wikipedia



貫汪館が応援する劇団夢現舎の俳優益田喜晴さんが「ONE DAY MAYBE」に出演します。
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  1. 2013/09/30(月) 21:25:18|
  2. 昇段審査論文

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