無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石進先生の弟子・・・荒木定蔵

 昨日は大石進が豊かではなかったと言う事について述べましたが、今日は大石進のもとで修行した荒木定蔵についてのお話です。このお話は大正8年の『飫肥藩先人傳』という本に載っています。
 修行しようとした飫肥の荒木定蔵も貧しければ、それを教えようとした大石家もそれほど豊ではなく、農作業の手伝いをさせるという名目で寝食を提供し、教えたのだろうと想像できます。
 心に決めて修行しようとしたら、このくらいの覚悟が必要だろうと思います。

  荒木定蔵

 父の定右衛円、罪ありて、清武に移さる。後、飲肥の志戸ケ野に居る。定蔵成年より撃剣に志しあるも、家貧困にして之を遂げす。一日父に乞ふ。父之を許して曰く、資金継かば、何年にても修業すべしと乃ち天保餞十枚を輿ふ。定蔵之を懐にし、柳川に赴かんとして出づ。途中首姓の家に至り、其家に労賃し、滞在一両日、些少の金を得、日数を経て、初めて柳川に達す。然れども大石氏の門に入るこ能はす。豆腐屋に宿し、其の家事をなし、朝夕大石氏に至り撃剣を見る。後同氏の家僕となり、薪水をとり、米をつき、傍ら撃剣を学ぶ。刻苦五年、技大に進み、大石眞影流の秘訣を得で帰り。藩の師範となる。初め太田原俊蔵、眞影流を開きしも、盛大ならざりしが、定蔵継いで青年を勤む。後ち田爪、黒木、和田、平川、矢野、森等他国に出で面目を改む。定蔵維新後野島に移り、病んで死す。享年五十。

 文中の「大石眞影流」は大石神影流の間違いで、太田原俊蔵も大石神影流です。「眞影洗を開きしも」というのは大石神影流の道場を開いたけれどもと言う事です。


 貫汪館ホームページは次のアドレスに引っ越しました。登録の変更を御願い致します。
http://kanoukan.web.fc2.com/index.html


 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日 荘島体育館 軽運動室 19時~21時です。興味のある方は 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
  1. 2011/08/01(月) 21:25:03|
  2. 武道史

相手を制してから

 柔術の形の稽古を行うのに、相手の動きを見てからはじめてその動きに対処しようとするのは考え違いであり、対処できるはずもありません。
 何度も書いているように思いますが、遅くとも相手と対峙した時点にはこちらが相手と自分との二人の和の中心になっていなければならないのです。つまり、いちいち相手の動きを見てそれに間に合わせるために動くのではなく、相手の動きはすでに自分の内にある状態になければなりません。そうでなければ自分が後から動いて先に仕掛けてくる相手に対処するのは無理な事です。
 間に合わず、焦って技を掛けて技がきかない人の原因の多くはここにあります。相手の動きが読めるのも対峙した時には相手が自分の内にあるからなのです。そのためには頭で考えタイミングを計ってなどと言う動きは止めなければなりません。相手と対峙する時には心を広くおおらかにもち呼吸も深く静に行い、それまでよりも力みはなくなり体は軽くなり頭もより空に近付いていきます。所謂、集中してと言う状態とは異なりますので心して求めなければなりません。

 久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

 8月6日(土)午後4時から倭式騎馬会による秀郷流流鏑馬が佐野市城東中学校校庭(JR・東武佐野駅北)で行われます。雨天決行ということですので興味がある方はお出かけください。
 下の写真をクリックしていただくと拡大されたチラシが読めます。
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 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日 荘島体育館 軽運動室 19時~21時です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です
  1. 2011/08/02(火) 21:25:38|
  2. 柔術 総論

土佐藩大石神影流 樋口真吉の廻国修行について 4

2.竹刀と防具について
 竹刀についての記述は天保11年(1840)の廻国には佐嘉で「向所撓ハ三尺餘リノ常程の撓ニ革を引通シタル撓也」という記述があるが、嘉永5年(1852)の廻国時には「竹刀も稍長し」「戸田及心形ハシナヘ稍短技」「門生皆長刀、予が竹刀ヨリ五寸長シ」という表現はあるものの竹刀の構造については述べられていない。嘉永5年(1852)頃には樋口真吉が試合をした地域では、コミ撓が一般的に用いられていたのではないだろうか。
 防具については天保11年(1840)の廻国の記録に「シナヘ竹ヲ造、革二枚求ル、一枚六百文、持参ノ撓コヽニ欠しタリ」、「稽古ナシ、面ヲ造ル」とあり竹刀も面も自作していた事が分かるが、他地域の防具については記されていない。
同年の佐嘉での記録に「我等具足面不持参、因テ借用ユ」とあることから佐嘉でも大石神影流で用いる防具と同じような形式の防具を用いていたのではないかという事が推定できる。ただしこの時、佐嘉においても柳生流に関しては「夜家中の士弐人来ル、柳生流也、面小手ナシト云、因テ試合ハ断、小森庄兵衛・益永宗内也」と記されており、流派によっては防具を着用した試合を行なわないことから時流に取り残されていった事が推定できる。 
 嘉永5年(1852)の廻国時には防具についての記述はなく、萩で長巻との試合に関して「一順相済長巻ヲ以テ試合、身四尺柄四尺脚当アリ」と記しており、長巻で脚当を用いている事が分かる。 
 

 貫汪館居合講習会は10月2日です。貫汪館HPをご覧いただき、どなたでもご参加ください。

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  1. 2011/08/02(火) 21:25:52|
  2. 武道史

疲れ

 柔術を稽古する上でも居合を稽古する上でも、今日はへとへとになるまで稽古したと感じるのは初心の内まででなければなりません。
 稽古するなという意味ではなく、同じように稽古しても初心の域を脱した人は、無理無駄が無く呼吸も正しく行えなければならないので疲れは少なくなければならないということです。履形を通して休まずに行ったくらいで疲れたとか、太刀打や詰合を通して行った位で疲れを感じてしまうのは己が未熟であるからだと知らねばなりません。
 なかには力みだらけの無理無駄の固まりの動きをして疲労する事をよく稽古したと勘違いされる方もおられます。自分がどのような動きをしているのかを知らねばなりません。

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  1. 2011/08/03(水) 21:25:25|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

初心者の方へ

 初心者の方が何とかして手順を覚えて先に進む人たちについて行こうとされるのは当然の心情です。しかし、ここに大きな落とし穴があります。
 形の手順を追おうとすると、小手先を用いて外形だけを作ってしまうのです。そのような動きを繰り返していると、やがて小手先の帳尻合わせの動きが身についてしまい、本当の稽古に進もうとするときには初心の内に身についてしまった悪癖が邪魔をし、なかなか上達しなくなってしまいます。
 初心の内に稽古すべきは手順ではなく、呼吸や力まぬ事から始まる無理無駄の無い動きです。手順を覚えるという面からすれば回り道のような気がするかもしれませんが、しっかりした正しい土台を作っておけば体は自然に動くようになってきます。
 手順は100回も繰り返せば体が自然に覚えてしまいますので、焦らずしっかりと基礎を養う事が大切です。また初心者を導いてくださる方には初心者の方が道に迷わぬよう、指導を焦らず着実に導いていただくようにお願いいたします。

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  1. 2011/08/04(木) 21:25:35|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

不自由さに安心する

 刀を振るときに脇をしめたがる人もおられますが、脇はしめません。かといって開くわけでもないので誤解されないようにしてください。
 刀を抜き前に構えた時、力みはあってはなりません。力みがなければ肩や肘、腕や手首、そして刀にまで引力が働き下方へ下がろうとします。正しく構える事が出来ていれば下方に下がろうとする力の働きはあるものの、その位置から落ちる事はありません。言葉では説明しがたいところですが体の各部の均衡が保たれていれば力まなくても構えは崩れませんし、崩れるか崩れないかのぎりぎりのところで構えはなりたっています。
 したがって、その時点で何も余計な事をする必要もなく脇はあるべき状態にあります。刀を振りかぶる最中にもこの均衡は保たれたままでことさらに何かをするわけではないので、脇を意識してしめようとすれば、それはかえって力みとなってしまいます。力みが生じてしまえばそこから先へは臍下を中心とした動きが伝わる事はありません。
 この振りかぶりの最中に(振りかぶるという言葉そのものも誤解を与える言葉ですが)脇をしめたくなる方は不自由な状態をあえて求めてしまう方です。そのままで切先まで自由であるのに、その自由さが不安で仕方なくなってしまうのです。
 しかし、自由とはどのようにでも動けることであって、居付か無い事です。不自由さや居付きに安心感を覚えては上達するものも上達できなくなってしまいます。
 たとえとして刀を振りかぶる動きについて述べましたが、すべての動きに共通する事で、柔術で相手の関節を取り抑え、また投げると言った動きにおいても同じことです。
 自分の心と体の状態を確認してください。


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  1. 2011/08/05(金) 21:25:36|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

修行

 土佐の大石神影流 樋口真吉は始めて大石進に教えを受けてから何度も廻国修行をし、その都度大石進に教えを受けています。これは、一度目の滞在で免許は授かっているものの、手数(形)はすべて伝えられておらず手数の習得をする必要があったためでもあろうと思います。
 さて、二回目に大石進を訪ねた天保十一年十月の土佐の樋口真吉の日記に以下のように記してあります。

 七日
柳河を立て江ノ浦永江吉太郎を訪、三朝屋を過時ニ樺島五郎七ト同岩熊ニ偶、江浦を少シすぎるとき湯村猪三郎ニ逢、宮部ニ至り大石先生ニ謁賀、安全、島原屋忠七ニ宿、久留米藩中高松利貞同宿、此人去年ヨリ大石先生ニ随江都ニ遊、以来東海道五畿を経当時当地ニ来ル、長州修行者弐人宿ニ来ル、此人ハ明八日此地發足と云、肥前平戸修行者壱人来訪、此人ハ三年前より留学と云

八日
大石氏稽古人数
  先生
  若先
  今村五市
  伊藤東吾
  椎嵜午允
肥前平戸家中
  草刈和一郎
 筑後久留米家中
  高松喬次郎
  堀酉之助
樺島五郎七
〃 岩熊
  大石進士
 長州家中
  内藤駒之丞
横地長左衛門



稽古終より長州修行者島崎の家ニ行、暇を告て帰ル、長州其日發足柳河城下へ出ル也、湯村・伊藤ヲ訪、雨降雷鳴ニなる、夜伊藤東吾・堀酉之助来ル、湯村猪三郎亦来ル、


 この記事からも、当時藩を越えて盛んに人の交流があった事が読み取れます。久留米藩の高松利貞という人物がどのような人かわかりませんが、大石進にしたがって江戸に出、廻国して戻ってきていますし、長州からの修行者についても記述してあります。肥前平戸の草刈和一郎は3年留学しているようですし、稽古した長州の内藤駒之丞は萩の新陰流師範の内藤作兵衛の前名。槍横地長左衛門と記してあるのは萩の夢想流槍術の師範で、当時、加藤善右衛門に入門して学んでおり、大石進の下での槍術の稽古に参加したものだと思います。
 この日は土佐藩士、平戸藩士、久留米藩士、萩藩士がともに稽古したことになります。
 このように道を求める人たちは遠距離も苦にせず、流される事なく自分の道を求めています。結局のところ自分を高めるも卑しくするのも自分しだいであり、自分を見つめ自分の至らぬことに気づけないものは上達する事はありません。駄目だから稽古し、これでよいなどと考える者は工夫も稽古もせず、与えられた事だけを行い時間が経つのをただ待つだけです。


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  1. 2011/08/06(土) 21:25:18|
  2. 武道史

柔術師範の採用

 昨日の樋口真吉の天保十一年の日記に長崎で出会った森藩の高橋但馬という修行者が、再度大石導場であったときに長崎で盗難にあっておりお金を貸したという記事があり、その後帰途、豊後森で高橋を探すのですが、なかなか会えず、やっと逢えた十二月十日の記事です。

 但馬我等両人経餞別壱朱允贈り来ル、但馬モト佐左衛門と云、故ニ分明ナラサルヨシ、即今高橋佐左衛門也、此人実ハ四五年前出国ノ人也、此頃帰國柔術ヲ以て新ニ召出サルヽ都合ニ成り居ルト云

 この時の記録に「此頃帰國柔術ヲ以て新ニ召出サルヽ」とありますので、柔術も必要とされていたのだという事が分かります。ただ、この高橋但馬という人は剣術の修行に廻国していたようですので、剣の実力の裏付けのない柔術は当時意味のないものであったという事がわかる記事です。
 江戸時代後期の柔術関係の具体的な実態を表す資料はなかなか出てきません。どのような稽古が行なわれ、試合があったとすればどのような形式だったのか、分からない事だらけです。


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  1. 2011/08/07(日) 21:25:25|
  2. 武道史

稽古道具は自作

 樋口真吉の天保十一年の日記に稽古道具を自作する記事が載っています。

十月十二日
  先生   東吾
  若先   五市
  岩熊   馬允
  直次郎  乕松
 関升太郎  和作
  猪三郎  酉之助
  喬二郎  和一郎
  五郎   真吉

シナヘ竹ヲ造、革二枚求ル、一枚六百文持参ノ撓コヽニ欠しタリ

霜月六日 寒
両先生柳河ニ出、稽古ナシ、面ヲ造ル


 竹刀や面を自ら作っていた様子が分かります。槍術の面は柳河の国久という鍛冶が造り、全国に流通しています。大石進のもとでは大石神影流とともに大嶋流槍術も並行して稽古していますので面鉄も共通のものを用いたと思います。面鉄の部分は鍛冶屋が作り。面布団は手製であったのでしょう。
 渋川一流柔術の稽古で用いる木製の懐剣や互棒・小棒などは自作が可能ですし、互棒・小棒は自分の手の内に合うように細さを調節しなければ扱うのが難しくなります。時間があれば作ってみてください。
 できれば、稽古着や鞘木刀の鞘なども自作したいところなのですが、なかなか時間がありません。


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  1. 2011/08/08(月) 21:25:44|
  2. 武道史

硬い方を柔らかくするには

 ある方に、硬い方を柔らかくするには先日の講習会で行った大小詰をやらせれば分かるようになるだろうかというご質問を受けました。ここでいう「硬い」とは力みが入る状態をいい、「柔らかく」というのは力みなくということです。
 実は私もそう思って、先日の講習会では大小詰を先に稽古して頂いて詰合、太刀打という順番で稽古していただいたのですが、結論から言うと「否」でした。大小詰において力んで技をかけようとすると全く技にはならず、力任せで相手を動かす事になり、逆に、柔らかく、そっと技をかけたほうが力も入らず有効なのでそのように考えたのですが、どういう指導を受けても力む方は、力まず力を入れないという状態が体で分かっていないので、力まない方が有効だという事もまた理解できないのです。
 このような方は残念ながら武術を稽古しながらやわらかくなるという事は絶望的なのではないかと思います。むしろ武術の稽古以外のところで体で理解するしかないので、私に質問された方には以下のように答えました。
 「サーフィンやウインドサーフィンなら硬ければ何度も何度も海に落ち、自分が如何にできないのかという事を体で教えさせられるので、そのほうが有効な気がします。」
 武術の稽古では斬られると言うことはありませんし、また斬られてからでは悟る事も出来ません。何度も失敗して体で理解するためには、武術以外のことのほうが有効であるように思います。

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  1. 2011/08/09(火) 21:25:59|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

下達する稽古

 その位に至らぬ者と自分が習ったばかりの形の稽古をすれば下達してしまいます。具体的にどういうことかというと無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古で太刀打や詰合の稽古に入ったばかりの方が、その稽古をしたいと思って、まだその位に至らない下のものに打太刀を取らせて稽古したりすることで、また澁川一流柔術であれば、打込の稽古を始めたばかりのものが、自分の稽古をしたいために、その位に至っていない者に懐剣で打ち込ませたりすることです。
 形稽古には理合があり、その理合に基づいて上級者が下級者を導くものであり、理合も何もわからないものが相手をしていてはただがむしゃらに無理やり技をかける稽古にしかなりません。また、それを正すものも居ないのですから間違った方向に進みだすと後戻りをするのに相当な時間がかかってしまいます。下の者にとっても、その位に至らないのでその稽古をつけてもらっていないのであって、その位に至らないのに無理にその稽古をしたら崩れてしまうだけになってしまいます。
 どうしても、稽古をしたく、また上級者が居ない場合には一人稽古でしっかりと理合と動きを身につけなければなりません。一人稽古では全く会得できないと感じるような方は一人稽古もするべきではありません。上級者に稽古をつけてもらうのを待つだけです。

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  1. 2011/08/10(水) 21:25:15|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達の手掛かり

 あるとき、正座の姿勢を指導していたら、いつもは硬い状態にしかならない方が、すっと、そこにあるだけの自然な状態になることができました。私はそれで良いですと、言ったのですが、その方は今ひとつ腑に落ちない様子でしたので、再度、それで良いのです。と言いました。
 その方にしてみれば今まで良いと思っていた硬い姿勢に比べれば、力みが抜けた姿勢はまるで存在感が無い様に感じられ、頼りなく感じられたのだと思います。
 ここで、疑いを生じてしまい躊躇してしまったら今までと変化がありません。戸惑いを感じながらでも、「それでよい」と言われた事を手掛かりにして、他の事にも生かしていこうとする方向性を持てば、それがきっかけとなってどんどん上達していきます。
 上達は、そんな小さな手掛かりから始まります。

 武道史の調査のために次男をつれて野宿をしながらぶらぶらとある場所へ車で行ってきました。野宿をしながらの旅ですのでホテルにチェックインする必要はなく一日の走行距離は伸びます。次男が写真を撮っていましたので紹介していきます。最初に立ち寄った場所はお分かりのように飛騨高山です。
 一日目は高速道路を走り目的地まで行き北陸にまで抜けました。明日も飛騨高山の写真を載せます。
1飛騨高山1 2飛騨高山2

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  1. 2011/08/11(木) 21:25:22|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

広島藩剣術の他流試合

 土佐藩士 樋口真吉の嘉永2年(1849)の日記に以下のようにあります。

九月朔日
曇、細六郎へ書簡を以申込、暫有て男源九郎来る、今日は休日にて手合せ不相調、依て御断之ため参上と、言語不面白、原毅平近来開ト聞、コレを尋、在江戸ト云テ又断、当藩剣家五流、三家ハ他流試合なし、ニ家ハ則細ト原也、中國筋惣而他流引受之者鮮く依て望を断、頼山陽之子聿庵與市ヲ訪、小帖一葉を乞、本川宿大杉屋忠助大坂舟問屋土佐掘一丁目羽村屋吉兵衛也、此舟ニ乗、夜雨、一里下リテ泊ス、舟賃大坂迄金一歩、海路百里


 この文面を読む限り、細源九郎は試合を避けたのではないかと思います。当時、他流試合をする流派であっても、強すぎる者がきた時には試合を避ける事が他の廻国修行日記からもうかがえます。
 大石進が江戸で初めて他流試合をしたのが天保4年(1833)ですから(江戸に出たのは天保3年暮で、試合を始めたのは天保4年とされています)、広島藩は他流試合の開始は相当に遅かったのではないかと思います。
 初代の細六郎は徳島の人で貫心流の淵源をたずねるために高齢になってから広島にやってきて、築山家に習い、広島で指南するようになりました。徳島は早くから試合剣術が行なわれていた地ですから、初代の細六郎も他流試合をしていた可能性はあります。また一時期江戸に出ており門人も数多くあったようであり江戸にも貫心流として残っていました。
 広島という閉鎖的な地であるがゆえに貫心流も閉鎖的になってしまったのでしょうか。広島藩では他流試合を進めたのは細家であり、その後、信抜流も他流試合をするようになり、円明流も他流試合をするようになりました。
 三代目の六郎となる細細源九郎は弟の亀之進とともに江戸の斉藤弥九郎道場で試合剣術を学んでいます。
 広島藩には剣術の流派は多くありましたが日記中、細源九郎のいう「当藩剣家五流」というのは広島藩で勢力の大きかった貫心流・信抜流・円明流・一刀流・新陰流のことではないかと思います。

 今日も飛騨高山の写真です。
3飛騨高山3 4飛騨高山4


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  1. 2011/08/12(金) 21:25:15|
  2. 武道史

形数をいくら覚えても

 形稽古が中心であるのは無雙神傳英信流抜刀兵法も澁川一流柔術も同じ事ですが、柔術の稽古では自分が出来ていないということが比較的わかりやすいためか、形数を沢山覚えて・・・と思われる方は比較的少ないようです。
 しかし、無雙神傳英信流抜刀兵法を稽古される方の中には何故か形数を沢山知っているほうが上達したような感じになられる方がおられる傾向があります。
 大森流がすんだら、英信流表、英信流表の次は太刀打・詰合といったようにどんどん先へ先へと進みたいようなのですが、無意味です。極論すれば初発刀一本が自由に抜けるようになれば卒業でよいのですが、初発刀一本だけの稽古をしていては凡人には見えてこないところがあるので様々な形が存在して、自由になるように工夫させるように組み立ててあります。それはもう何度も言っている事なのですが、腑に落ちない方は、腑に落ちるまで考えていただかなければなりません。
 初発刀や横雲があるレベルにまで至っていないのに、いくら大小詰を稽古しても大小詰が出来るわけがありません。逆に初発刀や横雲があるレベルにまで至っていれば、大小詰は容易に理解でき、体得できます。太刀打も詰合もすべて同じ事で形が沢山あるからそれぞれの形を稽古して形の手順を沢山覚えれば上達すると思ったら大きな間違いです。
 大小詰を稽古したときに難しいと感じたら、それは居合の基礎が身についていないからであり、初めて習ったから難しいのではないという事に気付かねばなりません。

 飛騨高山の写真の最後です。
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 今日は渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生のお墓参りに行ってきました。平成12年10月に亡くなられていますのでもう11年近くになりますがいまだにそばに居られるような気がします。写真は畝先生のお墓の周辺から見た山と海です。山側の写真には畝先生の御家も写っています。
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  1. 2011/08/13(土) 21:25:19|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一本の質

 昨日は「形数をいくら覚えても・・・」というお話をしました。では1本の形で自由になれる稽古とはどのようなものでしょうか。
 いまだそのような境地には達しては居ませんが、教えられてきた事・会得してきた事を二つ下に述べてみようと思います。
 まず大切な事は絶対に形を見事に行おうと思ってはならないという事です。形は生き物でなければならず毎回同じ動きであるはずはありません。想定も生きた想定であれば微妙に動きは異なるのが当然で、無雙神傳英信流抜刀兵法にあってはとくに敵の側面に抜付けるとだけ示されており、敵のこめかみとか、首筋といったように限定されているわけではありません。
 また見事に行おうとして初心者が陥り易いのは、実感を伴った「力強く」とか「速く」といった動きです。業が進めば刀を扱うのに実感は伴いません。まさに私の師である梅本三男貫正先生が話されたように「無重力状態にあるものを横にふっても縦にふっても、自由なものを」という状態になります。実感が無い事が上達した事なのです。
 また形の稽古をするときに心掛けなければならないのは手順が決まった形であっても、手順通りに間違えずに動こうと思ってはならないと言う事です。形の稽古は手順を追う稽古ではなく、仮想の敵と対する稽古です。また仮想の敵は生きていなければなりません。たとえば初発刀で抜きつけて斬撃に移行するとき体を進めますが、このとき、いつでも後方にさがったり、左右に変化できる状態にあるでしょうか。そのような状態に無いとすれば、仮想の敵も生きてはいないということになります。血振いの最中、納刀の最中も常に変化できる状態になければなりません。陰陽進退はそれを教えているのですが、初発刀はこう、陰陽進退はこうと決めつけて稽古していては、どうにもなりません。

 飛騨高山から白川郷へ抜ける一般道から撮った写真です。
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  1. 2011/08/14(日) 21:25:25|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

学問の廻國修行

 学問の廻國修行というものがあるというのは武術の廻國修行日記を読んでいると、時に出てくるのですが、我く学問のために廻國するというのはあまりぴんと来ません。土佐の樋口真吉が嘉永5年に廻國修行した時の同行者に遠近生という名の人物が居たようで、この人は剣術修行に同行して学問修行をしていたようです。日記には同行者について以下のように記されています。

山崎文三郎・桑原助馬両士亦同行、寺田忠二氏大石先生迎ノ為ニ出ル、遠近生文学ノ為ニ出ル、

 ではこの遠近生が廻國してどのような学問をしているのでしょうか。樋口真吉の日記ですので遠近生の行動について詳しく触れられてはいませんが、その記述があるところを一部拾い出してみます。

三十日
観世音寺ヲ過博多ニ出ル、助馬福岡ニ行、遠近生ヲ誘が為也、宰府ヨリ博多迄四里也、是ヨリ半里ニシテ箱崎ニ出八幡宮へ謁シ馬ヲ継三里七合ニ而青柳之驛ニ宿ス

八月朔日
昨夜晋八驛使ヲ馳テ云、今日箱崎ニ至、日暮青柳ニ及コトヲ得ス、明朝発杖ノ期ヲ少緩ヲ請ト、因テ遅々宿ヲ発ス、果テ桑・遠二生至ル、互ニ暫時ノ離合ヲ話シテ行、亦六人ノ同行トナル、遠生亀井家ノ謄写数部馬ニ駄ス、旦亀両先生ノ属辞ヲ傳フ、畝?町ヘ二里、赤関へ二里、木屋瀬へ四里、川アリ、木屋瀬川ト云、川ノ西ヲ植木町ト云、川東ハ則木屋瀬也、時猿田彦ノ祭礼ナリ


 上記の記述から察すると遠近生は剣術修行者から離れて福岡の亀井先生に学んだということがわかります。

これに先立つ弘化四年七月に土佐の樋口真吉は剣術廻国修行の途中で学問の修行をするために福岡へ赴いています。

三日
雨、深井川、関屋川、御内、雑庄野、福岡赤坂門ヲ通、堀ニ傍追手ヲ過、ニノ城戸前ヨリ唐人町惣門ヲ出亀井先生ヲ訪、飴屋儀助ニ投、今川橋西畔也、廿二日迄留学、論語語由及孟子考等写業畢、松林外銃聲日々不怠、白龍臺称向濱小嶼アリ、或云五龍山七月盆会土風贈魚鰕、一日詣匣崎八幡宮、石華表銘豊臣黒田筑前守源長政建立敵国降伏ノ額アリ、又曇栄ノ額アリ、曰在茲日東文武憑誰力長使蒼生仰帝威、小島ノ馬場有、池内蔵允ヲ訪、病人アリテ不居ト云、盆祭俄躍頗政事ノ失ヲ云、官コレヲ取テ其政ヲ補ト云、長政ノ遺法ト云、

廿二日
先生招飲送別之序アリ、塾生皆送別ノ詩アリ、謁南溟・元鳳二先生之墓、若先称紀一郎、書生紀州錦戸譲輔・五島穎・原雍伯・武雄岩谷龍吉・田代鹿毛政太郎・江戸神尾強二郎、今川橋ヲ出テ大宰府ニ宿、宝満山ノ右ニ当テ墟アリ、高橋氏ノ墓孤松ノ下ニ峙立ス、都府楼ノ蹟其左ノ下官道ノ側ニアリ、福岡ヨリ五里


これによると樋口真吉と遠近生が師事した亀井先生は蘐園学派の儒学者である亀井南冥の子孫であると思います。
 学問の廻国修行は諸所の学者を尋ね、その教えを受けて廻ることではなかったかと思います。

 白川郷の写真です。全て次男の撮影です。
5白川郷1
6白川郷2
9白川郷5

 貫汪館居合講習会は10月2日(日)に実施いたします。詳しくは後日貫汪館ホームページでお知らせいたします。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日 荘島体育館 軽運動室 19時~21時です。興味のある方は 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
  1. 2011/08/15(月) 21:25:02|
  2. 武道史

柄留

 無双神伝英信流抜刀兵法の「柄留」は立膝に間近に対座する敵が抜きつけようとする時、その小手に下から切りつける形です。 
 この形で多くの方が苦労されるのは下から抜付けを行う事です。下から切り上げることができず、切先が左下から右上へと斜めに上がってしまうのですが、この原因はいくつかあります。
 大きな原因の一つは抜きつけようとして肩・肘・手首に力みが入り肩・肘・手首がそれぞれ突っ張ってしまい斜めに切上げざるを得なくなってしまうことです。力みをなるべくなしにするために、始のうちにはゆっくり静に稽古を重ねなければなりません。
 次の原因は、正対癖が抜けないことにあります。体が開けば下から抜きつけることはさほど難しくないのですが、体が正対していてはいくら肩・肘・手首の力みがなくなっても、斜めにならざるを得ません。
 最後に足の向きです。これは正対癖と大いに関係があるのですが左足の爪先を前に向けたいという思いがあっては体は十分に開くことはありません。下から抜きつけるときには体の開きは一文字に近くならなければならないので左足のつま先は後方に向いています。
 以上、工夫してみてください。

 木曽義仲の火牛の計で有名な倶利伽羅峠からの景色と義仲軍が通った倶利伽羅峠の旧道です。この倶利伽羅峠で夕刻不思議な出来事が起こりました。私一人が経験したことなら錯覚の可能性があるのですが、二人同時に経験したことです。一体あれはなんだったのだろうかと思います。

倶利伽羅峠からDSC02063

火牛が通った道DSC02078

 貫汪館居合講習会は10月2日(日)に行います。詳しくは貫汪館HPの無双神伝英信流抜刀兵法の稽古のページをご覧ください。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日 荘島体育館 軽運動室 19時~21時です。興味のある方は 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
  1. 2011/08/16(火) 21:25:12|
  2. 居合 業

柔術の技も統一体

 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生が居合のみではなく、軍隊時代には銃剣術をされたことは当然ですが、部隊の短剣術の選手をされ、試剣術もされていたことはお話したと思います。武術以外にも写真や書や伝書鳩などもされていて、様々な面から居合を考察される事ができたと思います。
 あるとき、先生が私に柔術も統一体だからと話されました。そのとき、子供の頃に広島の武徳殿のそばにすんでおられ、当時の剣術や柔術の先生方が演武されるのをよく見られていたとも話してくださいました。
 さて、この統一体という言葉なのですが色々な方が色々な武道で用いておられます。師の弟子であっても師の教えが理解できず師の言葉を誤解して、軍隊の不動の姿勢のように体を力ませて体が一つになったように感じるのを統一体だと思っていた方が多かったのは本当に残念なことでした。
 師が話されたのは臍下丹田を中心として体の全てがつながって働く事で、これは力みが入っていては不可能な状態です。柔術でもなかなかできない方は投げようとして腕に力を入れ、つながりがなくなったり、腰を力ませてつながりがなくなったりしています。どこかに力みが入れば体が全体として有機的には働かなくなってしまうものです。当然居合においても同じことです。
 工夫してください。

 写真の続きです。金沢の兼六園の写真です。 

兼六園DSC02095
兼六園2DSC02101

 貫汪館居合講習会は10月2日(日)に行います。詳しくは貫汪館HPをご覧ください。

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  1. 2011/08/17(水) 21:25:43|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「日本における都市の古代から中世にかけての展開について」

 武道とは関係ありませんが4月以降に勉強していることでレポートを書いているので、それを載せておきます。字数制限がありましたので短くまとめるとこの程度の内容にしかなりません。

「日本における都市の古代から中世にかけての展開について」

 古代における飛鳥は後の平城京のような都市ではなく、国家の統治機構がおかれた地であった。
 次の時代の平城京は日本の中華思想を背景に造られた。それは新羅を日本よりも低い異民族とし蝦夷や隼人を異民族として天皇の臣下とするという思想であった。そのため、唐の長安をモデルとした都市として平城京が造営される必要があった。そこには飛鳥と異なり都城の中に住宅地が作られ、都城に住んだ豪族は貴族へと変化していった。
 平安京は平城京の都市計画を継承したものであり、朱雀大路を中心として左右対称に左京・右京が計画された。しかし摂関時代になると居住条件の悪い右京はさびれ左京に貴族や庶民の住まいが混在するようになる。
 院政期になると鴨川の東の白河や平安京の南にある鳥羽に多数の御所や寺院が建てられた。また京内に造られた里内裏が普段の天皇の滞在場所となり大内裏は寂れてしまった。
 中世になると政治都市としての京都が平安京の内部に生まれ発展し、それと連動して港湾都市である博多が発展する。また奈良は宗教都市として発展していく。政治都市としての京都には多くの寺社が生まれ祭りが都市の人々を結びつけ新たな都市社会を形成する絆となり、都市を守護するために登用された武士が力を持つようになった。港湾都市・博多は遣唐使や外交使節の出入する港湾として栄え、唐・宋との対外貿易の拠点として発展した。宗教都市・奈良は僧たちの暮らしの場として、また僧を支える人々の暮らしの場として独自の成長を遂げた。
 源頼朝は軍事上の拠点となり、先祖が根拠地としていた鎌倉に入って、鶴岡八幡宮を小高い丘に置き、八幡宮からまっすぐ伸びる若宮大路を鎌倉の中心軸とした。これにより鎌倉は政治都市であると同時に宗教都市としても発展した。鎌倉の成長とともに諸国の府中も政治都市として新たな動きを見せる。

 レポートにあるように飛鳥では各豪族がばらばらに済んでいましたので、豪族ごとの武装兵力を持っていたと思います。豪族ごとに兵制や主力の武器なども異なっていたのでしょうか。
 平城京や平安京になると豪族は貴族となり都に住むので武装兵力は天皇の統制のもとにおかれていったと思います。
 やがて平安京も当初の都市計画通りにいかなくなると僧兵や、武士が生まれそれにともなって当時の戦いの様相も変化してきたはずです。
 このように考えてみると、武道史とは全く無縁とは言い切れません。
 江戸時代の後期にも都市や農村地帯、漁村などで必要とされる武への需要は異なっていたのだろうと思います。

 能登半島の日没前と日没後の写真です。半島の西側での写真です。旅の二日目の夕方です。
日没前DSC_0015
日没後DSC_0030

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  1. 2011/08/18(木) 21:25:28|
  2. 武道史

自分自身に言って聞かす

 初心者のうち、とくに人生経験を重ね自分の中に先入観が出来上がった人は稽古で要求されることがなかなかできず歯がゆい思いをされることと思います。できないという現実がありながら、それを会得しなければならず、また無双神伝英信流抜刀兵法も渋川一流柔術もいわゆる体育的に繰り返し行えば何とかなるというものでもなく、下手に繰り返してしまえば下達するばかりですので、ますます困惑してしまいます。
 無双神伝英信流抜刀兵法も渋川一流柔術もいわゆる心の領域と体の動きが密接に結びついている動きですので、心が治まらなければ動きが治まることはありません。でははどうすすればよいのででしょうか。自分自身に言って聞かせるしかありません。
 蹴って歩く癖があれば「蹴るなよ。」と自分自身に言って聞かせ、腕を使う癖があれば「腕を使うなよ。」、肩を使う癖があれば「肩を動かすなよ。」と自分自身に言って聞かせるのです。
 上達されるのに時間がかかる方は、とにかく動いてしまい、あとから「駄目だった」「駄目だった」と気づかれます。駄目なのも当たり前、どのように動こうという思いがなくただ動いてしまうのですから「我」が強く出た我儘な動きしかできないのです。
 稽古をする前に毎回自分自身に言って聞かせてみてください。

能登半島東側で次男が撮った写真です。
能登1DSC02270
能登2DSC02273

 貫汪館居合講習会は10月2日に行います。

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  1. 2011/08/19(金) 21:25:20|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古法(素振り)

 一般に素振りというと重い木刀を用いたり、回数を重ねたりして筋力をつけたり速さを身につけたりすることをイメージしますが、無双神伝英信流抜刀兵法や渋川一流柔術ではそのような筋力をつけたり、速さを身につけたりという稽古方法はとりません。速さ・強さは正しさから生まれるからです。
 したがって形稽古において正しさを身につけていけばよいのですが、道場でできる稽古時間に限りがある方のために自分の部屋の中で簡単にできる素振りについて述べます。
 重いものを扱い、それを何とかしようとすれば必ず力に頼り始めます。したがって動きを正すためには短い棒か木刀の小刀を用います。木刀の小刀を用いるときには鍔は外してください。いつもの斬撃の稽古のように静かにそっと立ち、その場で静かに呼吸に乗せてゆるゆると振り上げ、振り下ろします。そのさい決して棒なり小刀なりを振ろうという意識を持ってはなりません。
 体のどこも力ませず、特に肩に力みが入らないように静かに行うことを心がけてください。
 手の内は構えた時から強くなく弱くなく、動きの最中に緩むこともなく何も持っていないくらいに感じていなければなりません。そうでなければ短いものを持つ意味がなくなってしまいます。
 この時の素振りの感覚と、刀を持った時の感覚が異なるようであれば刀を持った時には刀を振り回しているということになります。
 試みてください。

 富山県氷見市の海岸の夕景と高台からから見た朝の氷見市の全景です。氷見市の海岸の夕景で3泊目です。これまでの写真で、いい旅をしていると思われえるかもしれませんが、すべて野宿です。一人で車で出かけるときはたいてい車の中で寝てしまい、バイクで行くときは小さなテントを持っていきます。お金はありませんからテントを張るのもキャンプサイトでもなんでもない場所です。野宿の写真も載せておきます。氷見市の海岸です。

能登4DSC02308
氷見市02330
nojyukuDSC02315.jpg


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  1. 2011/08/20(土) 21:25:56|
  2. 居合 業

稽古法(棒廻し)

 渋川一流柔術の稽古法に棒廻しがあります。これは昨日述べたように短いもので稽古するというわけにはいきません。棒が廻るのは棒の重さと長さを利用しているからです。
 大きなものは一度動き出すと止まろうとはしません。棒廻しは六尺棒が動き出す初めの力を加えてやるといつまでも回転しようとする力が働きます。ただしこのためには自分の臍下が回転の中心となり、回転を妨げるような力を加えないことが必要となります。
 よく子供たちがしてしまうように自分で棒を回そうとして取りに行っては回転に抵抗を加え、また新たに力を加えて回転させ、さらに取りに行っては回転に抵抗を加え、また新たに力を加えて回転させというやり方は棒の働きを殺してしまいます。
 棒が生きて回転するためには以下のことに留意して稽古しなければなりません。

 全身はすべて無駄な力を抜き、棒のみが廻っているという感覚となること
 自ら棒を回そうとするのではなく棒が廻ろうとするのに軽く力を添えてやること
 棒の回転の中心は臍下丹田であること

 棒廻しの稽古は刀と棒の形を稽古する場合の突きの動きへと変化していきます。一人稽古できるように棒廻しの稽古があるのですから納得いくまで稽古してください。

 富山県氷見市を訪れた後は帰路につき、一般道をひた走り若狭湾を経て山陰に至り、翌日、鳥取砂丘を初めて目にしました。
砂丘1DSC02939
砂丘2DSC02941

 貫汪館居合講習会は10月2日です。

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  1. 2011/08/21(日) 21:25:52|
  2. 柔術 業

刀の差し方(資料から読み取れること)

 古文書の資料をよく見ていると、どうしてこうなっているのかなと思うことがあります。
 下の写真を見てください。
ADSC_0387.jpg

 写真はある武術家が戦国大名に文禄5年(1596)に発行した絵伝書です。漠然と見てしまったら何も感じないのですが4人の刀の差し方を見てください。
 4人のうち3人の鞘は峯のほうが上になり刃のほうが下向きになっています。同じ絵伝書では通常通り刃が上になっているものが多くありますので太刀のように刃を下に腰に差していたというわけではないと思います。そのように差す風習もこの地域にはあったのかもしれませんが、ほかに考えられる理由はないでしょうか。
 長い刀を用いると鞘も当然長くなり動いていると鐺が邪魔になってしまうことがあります。そのような時に刀を抜いた後、鞘の向きを太刀と同じように峯を上にしておけば比較的邪魔にならずに済みます。
 この絵伝書には鞘の向きの理由は記してありませんので本当のところはわかりませんが、何かそのようなことが記してある文献があるかもしれません。心にとめておいてください。

 鳥取砂丘を見た後は荒木又右衛門の墓にお参りして、米子から庄原、三次と一般道を走り、夕方広島に帰りつきました。今回の調査旅行の走行図です。帰路は一般道ですので高速道路料金はかからずにすみました。
又衛門DSC02957又衛門ⅠDSC02959
走行図


 貫汪館居合講習会は10月2日です。貫汪館HPをご覧になり、どなたでもご参加ください。

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  1. 2011/08/22(月) 21:25:11|
  2. 武道史

小刀

 昨日と同じ文禄5年(1596)の絵伝書からです。今日は二刀を用いている絵ですが、何が見えるでしょうか。
    BDSC_0373.jpg

この絵では小さすぎてよく見えませんので拡大してみます。
    CDSC_0373.jpg

 小刀を見てください。鎬づくりではありますが、1尺程度の短刀のようです。また鍔は見えません。あるとしてもはみ出し鍔くらいの大きさでしょう。このような短刀を用いていたら、小刀で受けた時に相手の技量や刀の状態によっては手元に刃が流れてくることがあります。現在見ることができる二天一流の二刀の遣方のような方法がとれるのかどうかは、疑問です。宮本武蔵の肖像画といわれるものを見ても、小刀は脇差で鍔があるものを用いています。この絵の流派は二刀をどのような遣方をしていたのでしょうか。
 資料を見るとき漠然と見てしまうと見えるものも見えなくなってしまいます。

 居合講習会は10月2日に行います。

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  1. 2011/08/23(火) 21:25:01|
  2. 武道史

城下町の構成要素

 今日は雑学です。最近勉強したことに城下町の構成要素というものがあります。城下町は16世紀末期から17世紀初頭までの比較的短期間に全国に展開しましたが、その構成要素は5つあるということです。

1.城郭と領主の館
2.武家地
3.足軽町
4.寺社地
5.町人町

 「城郭と領主の館」は空間的に城下町の中核であり、城壁と水掘で囲まれているが、城下町全体を加工城壁は存在しない。
 「武家地」は領主に服属する家臣の屋敷地で一般に城下町の中で最大面積を占める。藩から与えられる屋敷地の面積や配置は藩士の家格によって決まる。
 「足軽町」は領主直属の奉公人で足軽や小者と呼ばれる軽輩の者の居住地。
 以上の「城郭と領主の館」「武家地」「足軽町」は明治維新による武家身分の壊失によりその景観は激変し、ごく一部が歴史的な街並みとして保存されている。
 「寺社地」は寺院空間と神社空間からなる宗教的空間でその大部分は寺社空間によって占められている。これらの寺社地は現在もなお寺院街を形成している。
 「町人町」は城下町の経済を支える商人と職人の居住地で、近代以後も基本的に商業地として継続する。

 以上のような言われてみればその通りという構成要素なのですが、では浪人が経営した町道場はどこにあったのでしょうか。町道場というくらいですから「町人町」にあったのでしょうか。
 各藩の町道場とその所在地を探り、町道場の実態を明らかにしなければなりません時間がなく死ぬまでにできそうにはありませんが。


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  1. 2011/08/24(水) 22:25:50|
  2. 武道史

江戸

 昨日は城下町について述べましたが、江戸は人口約100万人の最も大きな城下町でした。ただし、普通の城下町と異なるのは全国の大名たちの藩邸が置れていたことで、武家地は江戸の約7割を占めていました。また江戸の人口約100万人のうち武家の人口は約50万人であったといいます。
 江戸の大名藩邸には城下町の5つの構成要素のうち「城郭と領主の館」に匹敵する場所、および「武家地」に匹敵する場所はありましたが「寺社地」や「町人地」はありませんでした。この二つの機能は絵dの寺社が担い、また江戸の町人が担っていました。つまり各藩邸と江戸の寺社、町人は大きなかかわりを持っていたことになります。
 さて、江戸で浪人たちが開いた道場はどのような立地条件にあったのでしょうか。機会があるときに調べてみてください。江戸で教えられていた流派は各藩の武士によって地方の藩にもたらされています。

 裏庭にいたバッタの写真ですが、夜はコオロギが鳴いています。
battaDSC02992.jpg

 久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

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  1. 2011/08/25(木) 21:25:47|
  2. 武道史

見えなければ

 形を中心として稽古する古武道は師から弟子へ杯の水を少しもこぼさぬように伝授していかねばならないのですが、受け取るほうがすでに杯をいっぱいにしていたら何も渡すことはできません。
 初心者は何も見えませんが、見ろと言われます。初めのうちには外形しか見えませんが、それでも見えぬものを見よと教えられます。ここで上達するものと下達するものの道が分かれ始めます。見えぬものを見えたと勝手に解釈して外形を真似してできたと自惚れる者は以後上達することはありません。形を通じて稽古しているものはその内なるものであって、外形を完成させることではないからです。
 見えぬものを見続けそれでも、まだ見えぬと思い、さらに見続けていると何かがぼんやりと見えてきます。やがて、見えなかったものは少しずつ形を現し始めます。その方向で稽古を重ねていけばさらにはっきりと見えてくるものがあります。
 見えてもいないのに自分の勝手な思いで動く者は上達せず、見えないものを見ようと努力し続けたものは見え始めた時には速やかに上達します。
 見えていないのに自分の勝手な思いで稽古する者は杯にはじめから水を入れている人です。見えないものを見ようと努力し続け、おぼろげながらでも見え始めた人は、その段階で水は、その人の杯へとうつされ始めています。

 貫汪館居合講習会は10月2日です。

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  1. 2011/08/26(金) 21:25:54|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

考えすぎ

 形の稽古をするとき、初心者の多くの方は手順を考えながら稽古をされます。形の手順を体が覚えていないので仕方ないのですが、いつまでたってもこのような状態であっては上達はありません。形を体が覚えなければ形目録を目の前に置き、イメージトレーニングを重ねれば三十本程度の形であれば5分もあれば稽古が終わります。これを毎日繰り返せば、道場で2時間、3時間稽古するよりも何倍も速く形を体で覚える事ができます。、このイメージトレーニングをする時間さえないのであれば、他の人が1ヶ月ですむところを1年も2年もかけて習得しなければならない事は覚悟しなければなりません。
 さて形を一通りからだが覚えたら、次は頭の力みを無くさなければなりません。つまり考えないと言う事です。考えるのは良いことのように思いがちですが、形の稽古をする時に体が覚えているにもかかわらず、考えて動けば体に不必要な動作をさせてしまい、動きは歪力みが生じてきます。
 頭の中は無で良いのです。可能な限り頭の中を空にして自由にしてやらなければなりません。そのような状態から技は自然に出てくるようになります。
 工夫してください。


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  1. 2011/08/27(土) 21:25:08|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「返投」「柔投」(澁川一流)、「岩波」(無双神伝英信流詰合)など

 柔術の初心者の方や、詰合をはじめたばかりの方は自分の膝で相手の腕を抑えるという動きが難しいようです。その原因は大きく分けて二つあります。
 一つは、自分の体重をコントロールできない事です。相手の腕に自分の体重を預けて相手を動けなくするのですが、体重を預ける事が出来ず、自分で自分の体重を支えようとしてしまうために相手に重さがかからなくなってしまうのです。
 二つ目は自分の重さがどこに下りているのかが理解できていない事です。脚で自分の体重をささえようとしなくなっても、その重さがかかっている場所が相手の腕ででなければ、相手はまた自由な状態にあります。
 この二つの事を克服するために自分の脚の感覚を発達させるしかありません。今まで突っ立つ事にしか用いていなかった脚をもう少し器用に用いるためには、繊細に脚が遣えるようにならなければいけないのです。そのためには脚を力ませる事なく必要最低限の力で立つ事を稽古し、さらにどの程度力を抜いたら自分の体がどのように下がるかを認識できるようにならなければいけません。この稽古は日常生活でも十分に可能な事ですので、道場外の稽古を怠らないようにしてください。

 昨日裏庭にいたイトトンボです。数年前まではハグロトンボが多かったのですが最近はこのトンボを多く見かけるようになりました。
 DSC03015.jpg

 貫汪館居合講習会は10月2日です。貫汪館H.Pをご覧ください。

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 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
  1. 2011/08/28(日) 21:25:42|
  2. 柔術 総論

稽古で初心者を導くために

 渋川一流柔術の稽古では基本的に初心者同士の稽古は行なわせず、初心者とそれよりも先に行く上級者と稽古していただいています。履形の稽古で上級者が初心者を突いていくときに心がけなければならないことを述べておきます。
 初心者が形を稽古するに当たって、大切なことは相手の起こりを読むこと、力まぬこと、歩を止めぬ事ですが、上級者の突きようによってはこれらの大切な事を稽古できなくなってしまいます。
 つまり初心者に対して、その技量も考えずに強く・速く付いてしまえば、初心者は相手の動きを読むどころか目で見てそれに何とか間に合わせようとします。また、何とか相手の手首を抑えようとして体に力を込めて、体を固めてとろうとするために無駄な力みも入り、歩みもそこで止まってしまいます。上級者が導くどころか、上級者が初心者を下達させてしまう原因を作ってしまいかねないことになります。
 上級者は初心者の技量に応じて突く速さ・強さをコントロールしながら導かねばなりません。

 以上述べたところは太刀打や詰合でも同じことですので心してください。

 貫汪館居合講習会は10月2日です。貫汪館HPをご覧いただき、どなたでもご参加ください。

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  1. 2011/08/29(月) 21:25:07|
  2. 柔術 総論

土佐藩大石神影流 樋口真吉の廻国修行について 1

 日本武道学会第44回大会が8月31日(水)、9月1日(木)の2日間、国際武道大学(千葉県勝浦市新官841)で開催され私も発表いたします。私の発表は31日の1番目です。
 今回は2年前に発表したものの続きで「土佐藩大石神影流 樋口真吉の廻国修行について―嘉永5年の廻国修行を中心として―」っという演題で発表いたします。

 数日にわたってその一部を紹介いたします。

Ⅰ.はじめに

 樋口真吉(1815~1870)は土佐中村の人で天保8年(1837)、天保11年(1840)、弘化4年(1847)、嘉永2年(1849)、嘉永5年(1852)と計5回、九州に赴いている。そのうち柳河藩の大石進のもとでの稽古を含み廻国修行したのは天保8年(1837)、天保11年(1840)、弘化4年(1847)、嘉永5年(1852)の計4回であり、嘉永5年(1852)は石山孫六とともに九州から江戸に至っている。なお嘉永2年(1849)は長崎へ砲術修行に赴いており剣術の修行はしていない。
 天保8年(1837)の廻国修行については日本武道学会第42回大会で発表した通りである。
本研究では天保11年(1840)の廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』(資料1)と嘉永5年(1852)の廻国修行日記「壬子漫遊日記」が収められている『彬齋囊語』(資料2)の記述を中心にして、樋口真吉が訪れた地域に存在した流派の状況等について明らかにしたい。

Ⅱ.樋口真吉について

 既に第42回大会で述べているが、確認のため再度記述する。
樋口真吉は文化12年(1815)土佐幡多郡中村に足軽 樋口信四郎の子として生まれた。はじめ平八郎、名は武、字は子文という。父信四郎は砲術を田所庄兵衛に、無外流剣術を土方三之丞に学び、文化6年(1809)、三之丞の子の半三郎より無外流の印可を得て、門生に指導した。文化12年(1815)には砲術の印可を得ている3)。
  樋口信四郎は無外流の師家の土方半三郎と意見を異にしたところから子の真吉とともに天保8年(1837)に破門され同年、子の真吉を廻国修行に出させている。
 樋口真吉の経歴については表1のとおりである。(表は省略します)

 樋口真吉は天保8年(1837)の第一回廻国修行で柳河藩の大石進に入門、入門から28日目という短期間で免許を得て土佐中村に帰り、それ以降大石神影流の指導を行い約560名の門人に教えた。
(以前の発表でも触れましたが、この短期間での免許は樋口真吉の置かれた状況を大石進が配慮したためであって、この時の修行では手数(形)は全て教えられてはいません。)

 今日の飛行機からの景色です。翼の下に小さく見えるのが富士山です。
ひこうきからDSC03021



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  1. 2011/08/30(火) 21:25:41|
  2. 武道史

土佐藩大石神影流 樋口真吉の廻国修行について 2

Ⅲ.『西遊記稿本下 再遊之巻』と『彬齋囊語』について

(1)『西遊記稿本下 再遊之巻』
天保11年(1840)9月20日から12月18日までの廻国修行の記述であり、この間、大石進のもとでの稽古の後、長崎、佐賀を経て再び大石進のもとで稽古し土佐に帰国している。
(2)『彬齋囊語』
 『彬齋囊語』には以下の項目について記されている。「壬子漫遊日記」以外の記述は略記であり、詳しく述べられてはいない。
「鎮西初遊」・・・・天保8年(1837)の廻国の略記
「鎮西再遊」・・・・天保11年(1840)の廻国、『西遊記稿本下 再遊之巻』の略記
「宇城行」・・・・・天保12年(1841)の宇和島行の略記
 「上国行」・・・・・弘化3年(1846)の大坂・京都行の略記
 「鎮西三遊」・・・・弘化4年(1847)の廻国の略記
 「鎮西四遊」・・・・嘉永2年(1849)の長崎砲術修行の略記
 「壬子漫遊日記」・・嘉永5年(1852)から翌年にかけての九州から江戸への廻国日記
 「安政三年丙甲辰」・安政3年(1856)の明国漁船の漂着・薩摩藩軍艦の沈没の略記
 「同四年丁巳」・・・安政4年(1857)の琉球船の漂着の略記
 「文久二年壬戍」・・文久2年(1862)、文久3年(1863)の行動の略記
 
 以上の項目のうち武術に関する記述は「鎮西初遊」「鎮西再遊」「宇城行」「鎮西三遊」「鎮西四遊」「壬子漫遊日記」である。
 なお記述の正確さについては他の資料によって比較できる。「壬子漫遊日記」には嘉永5年(1852)8月7日に「笹尾氏ヲ訪、町ヲ離レ山中ニ入コト十丁許、導場都て渓間ノ岸壁ニ棲處ス、門人皆近遠ニ散居ス、午後皆集ル、人数十六人、此日予風邪未愈稽古不致」と記されているが、笹尾羽三郎の『諸国武術御修行者姓名録』にも写真3のように樋口真吉一行6名が試合をしたことが記録されている。
写真3-1dsc_0118
写真3-2
写真3-3DSC_0121

 また、「壬子漫遊日記」には嘉永5年(1852)8月14日の萩での記事に「斉藤新太郎六人連レテ到ル」と記されているが、長州藩士来嶋又兵衛の日記にも同日の記述に「斎藤新太郎、門弟以上七人連ニ而今晩来着之事」とある。

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  1. 2011/08/31(水) 21:25:52|
  2. 武道史

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