無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

間に合わせの動き

 無双神伝英信流の稽古をして頂いている初心者の方には先日来、英信流表の形の稽古をしていただいていますが、英信流は大森流よりも体遣いにおいて難易度の高い形が多く、随分と苦労されていることと思います。
 私は常々、無理無駄なく、力み無く、体を固めること無く、動くことが形の稽古の上での絶対条件であるとお話していますので、初心者の方は、そのように形をつかうと自由に動けるどころか、体がぐらついて形にもならないとお感じのことと思います。
 普通であれば、ここで体を固めて体がぶれないようにし、いかにもしっかりした動きであるかのように外見を繕ってしまいますが、貫汪館ではそのようなことは許されません。
 間に合わせの動きは所詮間に合わせでしかなく、本質的に働ける体はできようはずもありません。ぐらつくからこそ、ぶれが生じるからこそ、動け、働きをなす体を養うことができます。ぐらつかず、ぶれないのは、ぶれず、ぐらつかない動きを直接的に求めた結果としてそうなったのではなく、動きの質が向上した結果としてそのようにに変化したにすぎません。
 貫汪館は幸いに、何々連盟といった居合の競技をするような団体には所属しておりません。稽古の初期の段階から外見のみを追いかけてしまえば、貫汪館における本質的な上達とは全く無縁の、ぐらつかない、ぶれない動きでは無く、動けない固まった動きが身についてしまいます。
 常に自分をいましめて、外見を求めることなく本質を追求してください。
 
  1. 2007/06/01(金) 19:53:38|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

間に合わせの動き 2

 昨日は無双神伝英信流の稽古のなかでの間に合わせの動きについて述べましたが、渋川一流の稽古でも同じようなことが起こります。
 渋川一流の稽古においても無理無駄なく、無理な力は一切入れず稽古するということが絶対条件ですが、柔術の稽古では常に相手が居るので、初心者の方が「捕」が「受」をきめようとすればするほど、どうしても動きを腕力、肩の力上半身の力で行おうとする傾向が生じます。
 しかし、生の力に頼る稽古を続ける限り、決して業は生まれてはきません。初心のうちには無理せず、無駄なく、自然に動くことを求め、その結果、決まっていたという稽古を心掛けなければなりません。
 「受」の関節をきめれるのも、また「受」を投げれるのも、全ては自分が理にかなった動きをした結果であって、決して直接的に「受」をどうこうしようとした結果ではありません。
  1. 2007/06/02(土) 19:53:43|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

落ちる働き

 先日来、無双神伝英信流の稽古において英信流表の稽古をしていますが、二本目の「虎一足」三本目の「稲妻」の動きを勘違いされると、先の形に進めなくなってしまいますので、稽古しなければならない動きを述べておきます。
二本目の「虎一足」三本目の「稲妻」は抜付けたとき外見上は中腰の状態となっていますが、前脚で床を蹴って後ろに下がっているのではなく、体の落下する動きを用いています。したがって外見上後方にさがって中腰になってはいますが、前脚の大腿筋に力が入ることなく、左脚は後方にまるでなんの抵抗も無くスライドするかのようにさがり、腰は中腰となります。この落下する動きは最初の三本で共通してとる右手が掛かった時の腰が浮いた位置から起こります。初動が浮いていなければ、二本目の「虎一足」と三本目の「稲妻」の動きは全く異なったものになってしまいますので、よくよく稽古してください。
  1. 2007/06/04(月) 21:35:14|
  2. 居合 業

蹴らない脚

 先日、無双神伝英信流の形の脚の動きについて述べましたが、渋川一流柔術の稽古をされる方、特に子供達の足運びで気になるのが、「吉掛」「込入」等の「捕」の動作で一歩目を後方にさがる動きです。
 子供達の多くが後方に下がる動きを前足で床を蹴ることにより行っています。しかし、この動きをすると腰が高くなり、さらに二歩目で前に出るときに一度腰を落として床を蹴り「イチ、ニ」というように二段階の動作になってしまいます。結果として間に合わない動きが生まれてしまいます。
 一歩目で後方にさがる場合は股関節の力を抜くことにより、体を浮かせ、体が開いた結果として後方にさがるのであり、見た目は同じであっても次の前方への動きが全く異なったものになります。
 初めから用意にできるとは思いませんが、よくよく工夫してください。また、子供達を指導して頂く方は、一歩目の動きをよく見て指導いただくようお願い致します。
  1. 2007/06/08(金) 00:26:14|
  2. 柔術 業

ルール

 劇団夢現舎の公演  No.20 『黄金時代(仮)』 を観るために土曜日に上京しました。
 ある人と待ち合わせのため、東京についてすぐ、講談社野間道場に向かいました。初めて野間道場を訪ねましたが、野間道場は大正時代からの歴史のある道場で、いかにも剣道場という雰囲気のただよう趣のある道場でした。
 道場では「出版剣道大会」が行われており各印刷関係の会社の選手が団体戦で試合をされていました。しばらく見てていたのですが、やはり久々に見る剣道に違和感を覚えてしまいました。
 違和感とは、面に来る竹刀を頭を振って避けていたり、少し面を上げて面金で受けていること、鍔迫り合いの際にお互いの体にしないが当たっている事など。これらは現代剣道の基準からすると一本にはならないのですが、竹刀が体に触れても、試合をするもの同士何も感じていない事は、私たちが稽古していることとは大きな隔たりを感じさせます。
 私たちは刀を用いることを前提に稽古をしていますが、それは相手の刀がすこしでも自分の体に当たれば、たとえ軽くても傷つき血が流れることを意味しています。したがって、袋竹刀を用いたり懐剣をもちいて稽古する際にも相手の得物が自分に触れる事がないよう心がけています。
 しかし、ルールがきめられ、そのルールの中での一本以外は竹刀が何処に触れようとも、当たろうとも、勝敗に全く関係が無ければ、このような形に変化していくのも必然の事であろうと思います。
 それは、あたかも試斬を「武道」という建前でおこなうにもかかわらず、隙ができているのもお構い無しに何本もの茣蓙を丸めたものを並べて一気に斬ったり、何本もの巻き藁を縦に重ねて一気に斬り下すことに似ています。
 貫汪館で稽古される方は少なくとも貫汪館には現代的な感覚でのいわゆる試合はなく、また、見栄えを飾るための業も必要ないのだと心してください。
  1. 2007/06/11(月) 01:25:43|
  2. 居合 総論

劇団夢現舎公演 No.20

 前回の記述でも少し触れましたが、6月9日(土)、劇団夢現舎公演 No.20 『黄金時代(仮)』 を観に東京に行ってきました。
 劇団夢現舎では数回、無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の稽古をしたことがあり、俳優さんたちとは顔なじみなのですが、舞台を見るのは初めてでした。俳優さんたちは居合や柔術の本質的な動きを非常に短時間で習得されるので、一体どんな舞台なのだろうかと、とても興味がありました。
 演劇の内容は直接、観に行っていただくとして、とても興味深かったのはお芝居であるのに芝居を感じさせない演技といってよいかどうかわかりませんがそこで現実に何かが進行しているような錯覚に陥るような演技です。
 演劇と、無双神伝英信流抜刀兵法・渋川一流柔術は何の関係も無いように思われるかもしれませんが、居合の稽古のとき、そこにまるで本物の敵がいるかのような想定がなければ、それは踊りになってしまいます。これは相手のいる太刀打や詰合でも同じ事で、手順が決まっているからそのように動くのではなく、毎回毎回新たな状況下にあると言うことを認識して稽古しなければ上達はありません。
 柔術の稽古も同じ事で、「受」がいてくれるからと中途半端な動きで形を繰り返していたのでは何時までたっても上達はしません。相手を、刃物を持った敵と思い、しっかりと稽古をつんでください。
劇団夢現舎の公演は下記のH.Pで見ることができます。
公演は18日(月)までです、興味のある方はぜひお尋ねください。
 
http://www.mugensha.net/j/03next_stage/next_stage.html
  1. 2007/06/11(月) 23:40:18|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

「履形」の受について

 以前も述べましたが、渋川一流柔術の稽古の初めに習う「履形」は師 畝重實嗣昭がお話になったように渋川一流で最後に稽古する「居合」(抜刀術ではなく、対太刀)の業に通ずる大切な形で、初心のうちから高度な動きの基礎を養わせています。
 しかし、「履形」において「受」の突きが粗雑なものであると、決して基礎を養うことはできません。それどころか正しくない「受」の突きをとる「捕」の動きもまた、いいかげんな動きとなり、その後の「吉掛」「込入」・・・と形が進んでいっても、初めについた悪癖はなかなかぬけることがありません。
 「受」は正しく「捕」の中段を突き、決して「捕」に当る前の空間で拳を止めたり、動きを緩めてはいけません。正しく突くからこそ、「受」は心をよみ、気を感じ、淀むことなく止まることなく技を掛けることによって、渋川一流の基礎を養うことが可能になります。
 自分の「受」としてのの動きをよくよく工夫してください。
  1. 2007/06/14(木) 17:49:48|
  2. 柔術 業

感覚を磨く

 無双神伝英信流の指導をしていて、いつも思うことですが、外側を求める方は上達せず、内なる感覚を磨く方は上達が早いという事実。 
 刀の位置が高ければ、単純に手の位置を調整するのではなく、自分の体のひずみを正し、結果として刀が正しい位置に落ち着く。膝が伸びて重心が高くなっているのであれば、単純に膝を曲げるのではなく、また同じように体のひずみを感じて正すことで重心が定まる。このような稽古をしなければ、何時までたっても結果のみを修正しなければならず、居着いた体が出来上がるのみで、自由に体が使える段階にいたることはできません。
 「斬撃の際、体が前後にとられるので、前後の脚を固めて重心を前後に取られないようにする。」という事を話される方が 我師 梅本三男貫正先生の弟子の中にもおられましたが、一体何を習われていたことか。上半身で刀を振ってその結果、体ががとられるのを防ぐために下半身を固めてしまえば、一見、不動のように見えて、実はその瞬間は全く動くことが出来ない隙となっています。何故前後にぶれてしまうのか?、その時の体の状態は?斬撃前の自分の体勢は?そのような工夫無しに外見を求めたのでは、居合は武術ではなく、踊り以下のものにしかなりえません。
 初心者の方はくれぐれも道を間違えないで下さい。
  1. 2007/06/17(日) 22:08:45|
  2. 居合 総論

楽そうに見える

 無双神伝英信流の稽古でマンツーマンで指導しているときに、ある方が「先生の抜付けはすごく楽そうに見える。」と話されました。実はここに上達の秘訣があります。
 私も師の梅本三男貫正先生の晩年の動きを見るたびに「なんと楽に抜いておられることか。」と思っていました。楽に抜いておられながらも、活きた居合。一時期は、これは長年稽古を重ねていけばその功によって自然とそのようになるものかという錯覚さえ覚えていました。しかし、世間一般に目を向けてみると、高齢になるまで居合を続けている方には楽には抜いておられても、活きてはいない、武術とはいえない居合が圧倒的に多く、ただ単に稽古を続けるだけでは師のようにはなれないということがわかります。
 答は「楽に抜いている」のではなく「楽でなければ抜けない。」のです。

 最近、ホームページを見られて道場に別々に数人来られました。古武道の道場は敷居が高いように思われるようですが、貫汪館は見学を自由にしていただいておりますので、ご連絡の上、遠慮なくお越しください。
  1. 2007/06/19(火) 21:01:38|
  2. 居合 総論

心の力み

 渋川一流柔術の稽古をしていて、未だに散見される初心者のあやまちに「動きに段がついてしまう」というものがあります。これまでも何度か同じようなことを書いていますが、初心者の方はよくよく心していただきたいと思います。
例えば、「履形」の「負投」ですが、受の手首を抑えた後、相手の右肘をとり投げの姿勢をとったときに投げようとして一瞬動きを止めてから投げに入ったり、おなじく「呼吸投」では受の手首を返にとった後、右掌で受の右籠内を押すとき、一度受の胸部に掌を置いて改めて力を入れて押してしまうということがあります。
これは「投げよう」「押そう」という心の力みがそうさせるものであり、このように段のついた動きはそこが隙となって必ず相手に返されるものです。業は滞りなく初めから終わりまで、一つの動きでなければなりません。初心者の方は再度自分の動きを見つめなおしてください。
 
  1. 2007/06/20(水) 21:01:49|
  2. 柔術 総論

五芒星の秘事

 五芒星の秘事は無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生より伝授された秘伝です。ここに詳しくは書くことはしませんが、すでにお話している如く、この秘事においては、体を固めてとか、タメをつかってとか、中心を崩さないようにという意図的な我の強い動きは全て否定されます。秘事を体認することなく外見を真似しようとすれば上記のような動きになってしまわざるをえませんが、師 梅本三男貫正先生に業を習った者で、いささかでも五芒星の秘事を体認したものであれば、稽古の方向性は明らかです。貫汪館で稽古される方も秘事を会得する稽古を心がけ、外見を求めてはなりません。決して道を間違われないで下さい。

 五芒星の秘事は下記の歌の更にその先にあります。 
   「居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり」
   「寒き夜に霜を聞べき心こそ敵にあひての勝を取なり」

 自在を得るためには会得せざるを得ないことです。

 貫汪館会報53号をホームページに載せました。ご覧下さい。

 
  1. 2007/06/23(土) 00:12:48|
  2. 居合 総論

「捨ててこそ」

 渋川一流柔術の流祖 首藤蔵之進満時の墓は時宗のお寺にあります。
 時宗の宗祖は 証誠大師 一遍上人で、浄土宗の一流、西山派の開祖証空上人の孫弟子に当ります。時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊とします。この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、生命を身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えが時宗の教えです。

 一遍上人はすべてを捨て去るために、片時も留まることなく諸国を歩き続け16年間で日本国中をほとんど歩きました。上人は下記のように説いています。

 「念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨、善悪の境界をもすて、
   貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるヽ心をもすて、
    極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、
    一切の事をすてヽ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ、」

 

 この言葉、流祖 首藤蔵之進満時は彼の柔術との関わりの中でどのようにとらえたのでしょうか。
  1. 2007/06/24(日) 00:26:01|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇級審査

 昨日、渋川一流柔術の昇級審査を実施しました。小学生の審査でしたが、稽古に取り組む姿勢によってこれほどまで業が違うものかと考えさせられてしまいました。
 ある子は、指導されれば、その場でそれに従うといった稽古への取り組み方。ある子は以前指導されたことができなければ、自分からそれを直そうという稽古への取り組み方。形の試験でも本質的な動きの質の違いは明白で、自ら工夫しながら稽古している子は大人の動きよりもよほど質の高い動きをします。
 懐剣を用いて行った意地(治)稽古においても、いつも工夫をしている子は体幹をかわしており、指導に従っているだけの子は稽古の成果ではなく反射神経だけで上体を反らしてかわしてしまいます。したがって始めの子は相手を押さえる事までには至らないものの、懐剣をかわしたときには相手を投げ、押さえることのできる位置にあります。一方で反射神経だけでかわしてしまう子はかわすのが精一杯で正しい位置にはありませんから、何もすることはできません。二撃目を待つだけになってしまいます。
 こども達の成長の過程で身に付いた一人一人の個性により稽古に取り組む姿勢も異なりますのでので、指導者は長い目でみて指導すると同時に、また、一人一人の個性に合わせた指導を心掛けなければなりません。
 
  1. 2007/06/24(日) 19:26:15|
  2. 柔術 総論

感覚を磨く

 無双神伝英信流抜刀兵法の上達のために大切なのは形を正確に行おうとしたり、力強くあろうとしたり、早く動こうとしたりする事ではありません。
 正確さや力強さや速さは結果であって直接的に求めるものではありません。では、それらは何の結果であるのか・・・。それは自分自身の体遣いの正確さの結果として表に現れるものなのです。正しく動ければ自然に正確さや力強さ早さは意識せずとも結果としてついてきます。
 無双神伝英信流において何が正しい動きであり、何が正しくない動きであるのかは、稽古のさいにマンツーマンで一人一人にお教えしているところですので、それを思い出していただければよいのですが、私が稽古の際に指摘した「今の動きは悪い。」「今の動きは良い。」というところを、そのまま聞き流さないでいただきたいのです。初心の内には良い動き、悪い動きはなかなか自分自身では判断できません。それで、指導者が指摘するのですが、良い動きとされた動きと、悪い動きとされた動きを自分の感覚を研ぎ澄ましてよくよく自分自身の内で比較していただきたいのです。何が良い動きで何が悪い動きなのかということを感じ取る感覚が自分自身を上達へと導いてくれます。
  1. 2007/06/28(木) 23:27:15|
  2. 居合 総論

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