無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

正座

 無双神伝英信流抜刀兵法にも渋川一流柔術にも共通して言えることに正座の姿勢の大切さがあります。
 座姿勢は本質的に座ることそのものが地球の引力に抗していない状態であるので、下肢に無理が働かない、非常に安定した状態に入りやすく、体の中心と引力の線が一致した場合には全ての方向に自由に動ける状態にもあります。
 立姿勢で体の中心と引力線が一致し、下肢に力みがない状態が再現できれば、無理のない自由な動きをなすことができます。
 ただし、正座をするときに留意しておかなければならないのは、いつもお話をしているように、現代の良い姿勢が、即、武術にとっての良い姿勢にはならないということです。現代人の感覚の良い姿勢(胸をはって背筋を伸ばし両肩甲骨をひきよせ、体を力みによって統一させ・・・)は明治以降富国強兵政策の中で、国民皆兵のために導入された体育の授業の中で形作られたものです。したがって、現代において武術の経験のない人や経験の浅い人が正座の姿勢を見た場合、現代的な感覚の良い姿勢で正座しているのを見事だと感じる事が多いいのが現実です。
 胸を張ることなく、両肩甲骨をつけることもなく背筋をピンと伸ばすこともなく、体を力みによって統一させることのない、あくまでそこにあるだけの姿勢、そのような極自然の姿勢から業は出てきます。この正座の状態を基として立姿勢を工夫することが、居合、柔術ともに上達への近道となります。
 日常生活から工夫されてください。 
  1. 2006/10/24(火) 01:00:58|
  2. 居合 総論

留めねど留る事そふしぎや

 無双神伝英信流の居合の稽古では他の剣術、柔術、棒術、槍術などにくらべて一人稽古の形が多いのは何故でしょうか。それは自分の刀は鞘の中に納まっていながら敵は既に刀を抜いて自分に斬り込んできているという非常に不利な状況の中で、これに対するため極限まで心と体の無理無駄を排する必要があるからです。そのため一人稽古によって、まず自分自身に向き合い、自分自身の動きの質そのものをを高めなければならないのです。
 そのような意味合いの一人稽古でありながら、稽古の方法を間違えると、かえって居合は武術から遠ざかり、逆に全く敵に対処できない体を作り上げてしまうことになります。
 一人での形稽古の際、もっとも気を付けなければならないのは、抜きつけた実感、斬りおろした実感、血振いした実感等々を決して求めてはならないということです。実感は多くの場合筋肉の緊張であり、筋肉が緊張するとき、それは居着きとなって動けない体が瞬時に出来上がり、それ以降の動きとは関係が途絶えてしまいます。つまり、実感を持てば持つほどにその動きは武術的動きとはかけ離れてしまうのです。いわゆる「きめ」という言葉に惑わされて、動きの結節点で筋肉を緊張させて体を固めていれば、それは全て隙となってしまいます。
  『居合歌之巻』の和歌に「身の曲尺の位を深く習ふべし留めねど留る事そふしぎや」とありますが、抜き付け、斬撃、血振い等々、全ての動作の最後に刀、体が静止するのは決して刀を体の緊張によって止めているわけではなく、体の使いようによって不可思議に思われるほどに自然に止まっているのです。したがって、手の内、前腕、上腕、肩、後背筋いずれにも止めた実感、振った実感というものがあろうはずもありません。またこれは、体の可動領域を全て使ったから止まっているというものでもありません。
 渋川一流柔術の稽古であれば、相手を抑えても、投げても、極めても、決して力んではならないということを稽古の絶対条件にしているため、たとえ、受が受身をとる状態となったとしても、自分の動きが雑であったことが対人関係の中でわかり、また、雑な力を入れないほうが、業はきまるということをも体験されていると思います。
 また、無双神伝英信流であっても太刀打の稽古で、筋肉の緊張がいかに動きを制限してしまい、間に合わない動きとしてしまうかということも理解されていると思います。
 一人での形稽古は、本来自分の動きの質を高めるためのものであるのに、実感を求めてしまい、より雑な見栄えだけを求める、また自己満足を求める道へと陥りやすいものです。よくよく心して稽古してください。
  1. 2006/10/26(木) 07:00:00|
  2. 居合 総論

動きの検証

 昨日、渋川一流柔術の「受」について述べましたが、無双神伝英信流の一人で行う形稽古にも同様のことがいえます。居合を決められた形を見事に行うことが上達であると考えるならば、それは武術ではなく踊り以下のものになってしまいます。
 たとえば大森流の初発刀と陰陽進退を例にとって考えてみましょう。初発刀は迫りくる敵の側面に抜き付けて、倒れる敵を前に出て両断します。陰陽進退は同じように迫りくる敵の側面に抜き付けたものの有効な抜き付けとならず敵が後方に下がったために、瞬時に浮いて体を大きく前に進ませて両断します。形の手順は決まっていますが、初発刀の抜き付けが初めからすでに敵に十分なダメージを与えていると考え、抜き付けの動作のうちに前に出る体勢を無意識のうちに作っていたり、陰陽進退の抜きつけがはじめから効果がないものと考え、次に大きく前に出る体勢を作っていては、使える体を作るための形の稽古とはなりません。すべての形の稽古は毎回毎回新たなものであり、いわゆる形の手順はあって無きものなのです。そのためには一人で行う形の稽古であって、その動きは手順通りの動きをしているとしても、その動きの中には前後左右上下いずれへも変化できる動きを内包していなければならないのです。
 試みに、初発刀で自分の動きを検証してみてください。抜き付けた後、斬撃のために前に進むとき、敵が変化してこちらに刀を突きつけてきたとしたらそれを後方または左右へとかわせる動きを内包しているかどうか。初発刀の動きで抜き付けの後、前に出ている最中に敵が大きく後ろに下がったと仮定してそのまま陰陽進退のように体を浮かせることができるかどうかを。
 動いて動かず、止まって止まらず。全ての形は異なっていてかつ同じものなのです。
  1. 2006/11/01(水) 02:04:08|
  2. 居合 総論

稽古の方法

 11月2日の夜、東京の劇団夢現舎で俳優の皆さんと無双神伝英信流の居合を稽古しました。前回が初発刀と抜打の稽古でしたので、今回は左刀、右刀までの稽古をしました。
 劇団夢現舎で稽古をする時いつも感じることなのですが、俳優の皆さんの動きの習得の速さには驚くべきものがあります。これは常日頃から、演劇の稽古の中で身につけられた洞察力、見て取る力が大きいこともありますが、居合から何かを学ぼうとされる姿勢に大いに関係があると思います。
 俳優の皆さんは居合という武術を演劇に活かそうとされているので、居合の本質を掴もうとされているのです。したがって、自己満足の力みや形の上だけの速さ強さを求めようとされず、私のお話したことを忠実に自己の体に実現されようとしています。たとえゆっくりとした上達にしか感じられなくても、本質を身に着けることを優先するとき、居合は本物の武術となっていきます。
 私の師、梅本貫正先生は私が初心者の頃、「正しい居合を抜いて、斬られるならば、それで良しとすべきである。」と話されました。初心者のうちから、むやみに速さ、力強さを求めるならば、結局本質から遠ざかり、戦えない居合となるということを戒められた言葉です。よくよく考えてください。
  1. 2006/11/03(金) 00:15:05|
  2. 居合 総論

腰の反り

 無双神伝英信流で大森流の稽古をされる際の正座で、「腰が入る」ということを勘違いされて、現代的な感覚で、背中側をぐっと反らせてしまう方がおられます。
 このようにすると確かに腰に力が入り胸は広がるのですが、これは力みであって力強くなったと感じるのは錯覚にすぎません。この姿勢のとり方をすると重心は高くなり、臍下丹田の自然な充実はなくなってしまいます。結果として、抜付けは肩甲骨周辺を中心とした上半身で行うことになり、下半身の動きを主動にした抜き付けはできなくなってしまいます。
 この姿勢からの抜附けをしてしまうと、腰と胸の力みによって下半身にも力みが生じ、抜付けた後の体も力みによって硬直してしまいますが、初心者の方は力みを体が統一された充実感であると錯覚してしまいます。今までにも述べていますが、力みは動けない体を自ら作っているだけですので、錯覚を起こされないように心してください。
 
  1. 2006/11/09(木) 17:17:16|
  2. 居合 総論

数稽古

 最近、無双神伝英信流の稽古で数稽古をすることがよくあります。
同じ形を30分、40分、1時間と・・・。
 貫汪館で稽古されている方には常々お話していますので、分かって頂いていると思いますが、確認のため、この稽古の意義について簡単にまとめておきます。
 居合の稽古にあっては動きの質の向上が最も大切にされなければなりません。したがって、一般的なトレーニングのように回数をかけて、その形が体になじんできたと言う稽古には何の意味もありません。むしろ、そのような稽古をしていたら感性は鈍くなり、稽古によって戦えない、動けない体を作ってしまうことになります。したがって貫汪館では斬撃の稽古を100回、200回というようなノルマを与え数をこなして、筋力がついて、あるいは慣れて、動きがスムーズにより早くなったという稽古はいたしません。
 では、貫汪館で数稽古をする意義は何でしょうか。それは先ほどの形よりも今の形、今の形よりも次の形と動きの質を向上させるための稽古方法であるのです。手の掛かりの動きの質が悪ければそれを工夫するために回を重ねています。振りかぶりで力みがでて脇があけば、心と体の力みを抜いて自然にそうように工夫します。どんな小さな動きの違和感でも、次はこのように、その次はこのようにと、毎回毎回、工夫をし、その動きの質を向上していきます。
 そのような意味合いの稽古ですので、決して目的を間違われないよう心されてください。
  1. 2006/11/17(金) 23:44:38|
  2. 居合 総論

真綿に針を含みたるが如きものを・・・

 「柄のとりようは真綿に針を含みたるが如きものをとるが如く」とは無双神伝英信流の我師 梅本三男先生の教えです。
 初心者の方は「刀を取り落とすまい」、あるいは「しっかり持とう」「意のままに扱おう」として、どうしても手の内にぐっと力がこもった状態を求めてしまいます。しかし、刀が体の一部となって働くためには先生の言われたとおりの手の内でなければなりません。 どこにも力みはなく、かといって弛むこともなく。
 想像してみてください。綿に針を含んだものをつかむことを。この状態はたんに柄に手が掛かった時の状態であるのみならず、抜付けや斬撃の終了時、血振るいの終了時であっても同じ事です。楽に刀を動かすために始動時にはこのようにあれという教えではありません。手の内には何処にも力は入りません。刀が自分の一部となり、自分が刀と一体となって業をなすためには、このような状態になければならないのです。 よくよく工夫してください。
 渋川一流柔術の稽古もまたしかりです。受の手をとる自分の手の内もかくの如き手の内でなければ相手とつながることは叶いません。柔術の手の内も居合の手の内もかわるものではありません。
  1. 2006/12/29(金) 22:01:22|
  2. 居合 総論

大森流の形に仕組まれた残心の稽古

 無双神伝英信流の稽古においても渋川一流の稽古においても時に残心という言葉を用いて指導することがあります。また、武術一般においても残心という言葉が用いられ、「残心のない演武であった・・・。」ということも言われます。今回は形の中に仕組まれた残心の稽古についてお話します。
 残心を簡単に述べれば、敵を倒したと思っても無意識下に油断せず、何時如何なることが起こっても対応できる心と体の状態を言います。 
 私たちが稽古するのが武術の形である以上、残心は全ての形になければならないのですが、無双神伝英信流の形の中には初めから残心の稽古が明確に行えるように仕組まれた形があります。大森流(無双神伝英信流では初伝という言葉は用いません)の陰陽進退を例にして考えてみましょう。

 大森流の陰陽進退の想定を細川義昌先生の直門である植田平太郎竹生先生は以下のように記述されています。

 ・・・(対手の右側面へ)抜付けたるも剣先が届かぬ為急に立ち上がり左足を右足の前へ踏越しつつ刀を引冠りて正面へ斬り込み刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)刀を納めつつ右膝を跪き納め終わりたるところへ(別人が向脛薙付け来る)・・・

 依然述べた事と重なる部分もありますが、具体的に残心との関連でこの動きを考えてみます。
 大森流の陰陽進退にあっては、はじめの抜付けが届かなかったため、前に大きく進み斬撃を加えます。形としては「抜付けた刀が届かなかったため」という所に意義があります。抜付けまでの動作は初発刀と変わる事はありません。
 しかし、初発刀と同じだということを誤解して、抜付けの後に間をおいて斬撃の動作に移ったのでは技の稽古にも残心の稽古にもなりません。また、あらかじめ形の手順を頭に入れ、抜付けの後には前に大きく進むのだと思い、その為に初発刀と少しでも異なる体の動きで抜付けをしても技の稽古にも残心の稽古にもならないのです。
 残心があれば、抜付けが失敗に終わっても当然すみやかに次の対処をすることができますし、残心がなく、抜付けたという動作にとらわれるならば、一撃も加えていない敵にかえって斬られてしまいます。
 また、第一の敵を倒し第二の敵が脛に斬り付けてくる時も同じことが言えます。第一の敵を倒して納刀し終わり、しばらくして次の張受けの動きを起こしては技の稽古にも残心の稽古にもなりません。また、あらかじめ形の手順を頭に入れ、膝をついた瞬間に第二の敵が脛に斬りつけてくるのだと思い、その為に次の動きをする準備をしながら右膝を床に下ろしに行っても技の稽古にも残心の稽古にもならないのです。
 残心があれば、床に右膝を下ろした刹那に急に敵が脛に斬りつけてきてもすぐに張り受けをすることができますし、残心がなく、第一の敵を斬ったという事に居着くならば敵に斬られてしまいます。

 陰陽進退が残心の稽古になるかならないかは想定が生きているかいないかにかかっています。「抜付けたるも剣先が届かぬ」という生きた想定ができていなければ、無双神伝英信流の居合の形は単に形を上手に見せるだけの踊りとなってしまいますし、「右膝を跪き納め終わりたるところへ別人が向脛薙付け来る」という生きた想定ができていなければこれもまた踊りとなってしまいます。
 生きた想定を忘れずに稽古をすれば、残心は身につくように仕組まれているものなのです。


 
  1. 2007/01/19(金) 00:24:16|
  2. 居合 総論

居着きと残心

 前回、無双神伝英信流の形に表された残心について大森流の形を例に取り述べましたが、敵に抜付け、また、斬撃を加えて倒した後に、まだ動きを起こさぬ、第二、第三の敵、もしくは倒したと思った敵に対していつでも対処できるように、心の緊張状態を持続することを残心と解釈してしまっては稽古が進まなくなりますので、この点について言及します。
 無双神伝英信流にあっては、いわゆる心の緊張状態をもって残心とはなしません。そもそも居合における心の持ちようは『居合歌之巻』に示されるように何の緊張状態もない、凝り固まりのない心を心とします。

「居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり」
「寒き夜に霜を聞べき心こそ敵にあひての勝を取なり」

 これらの2首を読んで頂いてもわかるように、心は静まり、戦いの中にあっても霜の音の聞けるような状態になければなりません。そのため、心は緊張しているのではなく、どこにも引っ張られることなく、たるむことなく、澄み切っていなければなりません。 始まりも終わりもなく、このような状態にあることを無双神伝英信流における残心としています。心の緊張状態を持続させると言うことは心の居着きであり、動けない体を作る原因となってしまいます。
 よくよく心してください。緊張した心からは自由な働きは生まれません。 
  1. 2007/01/22(月) 18:51:57|
  2. 居合 総論

物真似

 無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生は「物真似」を嫌われました。随分昔、ある日先生はこのように私に話されました。

 「テレビで歌手の物真似の番組があるが、いくら上手に真似て歌っても、それは歌がうまいのではない。物真似がうまいのはその歌手の癖をとっているだけであり、本質的に歌が上手であるのと、真似が上手であるのとでは根本的に異なっている。
 居合も同じで、私の表面上の「かたち」の真似ができるようになり、上手になったと思っている者がいるが、考え違いもはなはだしい。「かたち」が似たところで、それは本質的に上手になったのではない。中には私の演武の映像を撮ってそれにあわせて稽古し表面上の動きを似せようとしている者もいるが、猿真似に過ぎない。大切なのは動きの本質が同じになることであり、表に現れる「かたち」にとらわれてはならない。動きの本質が同じであれば、表に現れる見掛けの動きは個々に応じて異なっていても、それは自然なことなのである。」 

 貫汪館で稽古される方に指導する場合に「腰が高い」「切先が高い」と手短に言う場合がありますが、初心者の方に注意していただきたいのは、その指導を受けたときに何故腰が高くなっているのか、何故切先が高くなってしまっているのかという事を考えることなく、また、解決することなく、たんに腰を低くしたり、切先をおろしてみても、それは上達しているのではなく、形を似せたに過ぎないと言うことです。
 大事なのは動きの本質を稽古すること。時間が掛かり、工夫を要することですが、焦らず、確実に積み重ねてください。

  1. 2007/02/05(月) 18:57:05|
  2. 居合 総論

体全体を刀として

 無双神伝英信流の稽古をされている初心者の方には、身長に応じて、二尺四寸や二尺五寸五分、二尺六寸五分といった長さの居合刀を用いていただいていますが、これは各人、現代居合道の方が普通に用いておられる居合刀よりも身長に応じて長いものを用いていただいています。したがって居合刀の重量もそれに応じて重くなっています。 
 現時点において初心者の方の業も進んできており、初心の段階ではありますが、所謂「身の曲尺」を会得されつつあり、刀の重さも消え、初めに刀を持ったときに比べれば、特に、抜付けにおいて、体感的に刀はこんなに軽いものであったかと感じられるようになっていると思います。
 貫汪館では、刀を腕力で振るようなことはしないため、重量物を振り回した結果として起こる腱鞘炎になることはありません。
 しかし、抜付け時において今の段階で体をいためないために初心者の方に注意して頂かなければならないことがあります。それは体の用いようなのですが、腰肚を中心とした体を開く動きは左右均等に伝わっていきますが、右半身に於いて背部から右脇下を通り(肩は意識されることはなく、感覚上無い存在ですが)腕の下部を通り親指を通って切っ先にまで伝わっていく力の経路を遮断せず、終始、体全てが刀であるという感覚を捨てないで下さい。
 刀が楽に使えるという感覚に陥ったときに腰肚からの力の経路を刀が鞘から離れた瞬間に切り離してしまい、あたかも刀を弓から放たれた矢のように使ってしまうと(体の一部としてではなく物質としての刀を単独で体から分離したものとして自由に使おうとすると)、鞘から離れた刀はまるで弓から放たれた矢のように体とつながり無く飛んでいきます。ただしその矢は糸のついた矢であり抜付けの最終地点で、糸はぴんと伸びきってしまい、糸は切れてしまいます。
 切れる部位は手首であったり肘であったりそのときの状況によって異なりますが、この瞬間に体の深奥から生み出された力がかえって自分の体を壊してしまうことになります。よくよく気をつけて、体全体が刀であり、刀と体は一体であるという初心を忘れずに稽古してください。

ホームページに無双神伝英信流の講習会の案内を載せています。ご確認ください。
  1. 2007/03/05(月) 18:56:30|
  2. 居合 総論

剣居一体?

 無双神伝英信流抜刀兵法でも、渋川一流柔術でも貫汪館で稽古されておられる方は他の武術をよく見学されておられます。それは武術である以上、今の世で現実にはありえないとしても、居合で剣術に対抗するだけでなく、槍や、薙刀、その他の武術に対抗せねばならない状況もあり、柔術であっても江戸時代に成立した柔術であるゆえに素手で素手に対抗する状況というものはほとんど考えられず、何も持たずに懐剣や剣や、棒やその他の武器に対抗せねばならぬ状況があるものということをよく理解されているからだと思います。
 戦後、「剣居一体」と言う言葉が現代剣道をされる方の間で言われるようです。それは一般に、竹刀を使っているだけでは刀の本当の使用法は理解できず、居合のみを稽古していては形稽古だけで相手が居ないので、対人関係の中での動きは身につけ得ないという観点から、剣道と居合を同時に稽古したほうが良いと言う意味で用いられている言葉のようです。
 無双神伝英信流のみの立場から見れば、「太刀打」「詰合」といった剣術の技法も存在し、又、袋竹刀を用いて自由に動き、刀を用いた動きを検証しているので、現代剣道を学ぶ必要を感じません。むしろ、現代剣道の動きで防具を着用し竹刀を用いる稽古をすれば、かえって形で養った竹刀ではない刀を用いるための自由な動きは廃れてしまいます。古流剣術を稽古するということであれば、論点は別になってきますが、江戸時代の武士のように稽古に十分な時間をさける環境にあればよいのですが、稽古に割く時間が限られているのであれば、ことさらに他流派を学ばなくても、貫汪館で「太刀打」「詰合」の稽古を通じて動きを養っていけば、いわゆる剣術も身につくべきものと考えています。無双神伝英信流抜刀兵法とは居合を中心として剣・柔の働きをも含む武術です。
 「剣居一体」という言葉が使われるようになったのは現代剣道を稽古する人が防具着用の稽古を専一とし、剣術の形を全く知らないために竹刀の使用法に熟達しても刀の用い方を知らず、また、居合を稽古される方の多くが一人で行う形のみの稽古ばかりを行い対人関係での動きを知らないために言い出されたことだと思います。現代剣道を稽古される方が全員、古流の剣術を稽古していたならば決して強調されることはなかったものと思います。

 不思議なことに「剣居一体」という言葉は用いられますが、「剣柔一体」と言う言葉は言われることがありません。江戸時代から終戦までは防具着用の剣道であっても組打が行われていたようであり、今残る文献から見れば、柔術の技法としては稚拙ではあっても柔術的技法も用いられていたようです。競技として確立された剣道には組打など存在しないために「柔」は忘却のかなたにあるのでしょう。
 参考までに無雙流を土佐にもたらした林六太夫守政は朝比奈丹左衛門から小栗流和(やわら)術の免許を授かっており、六太夫の小栗流和の門人の楠瀬六右衛門は以下のようなエピソードを残しています。
 「楠瀬は山中に鉄砲を持って篭った盗賊に、鳥刺の姿となって鳥の話をしながら近づき、煙草の火を借りる事に事寄せて盗賊から火縄を借りる刹那これを取り押さえた。」
 また幕末の無双神伝英信流の師範、下村茂市は高木流体術拳法の師範でもあり、弘化2年(1845)には師の清水小助より皆伝を授かっており、同じく弘化2年には足立傳蔵から小栗流和(やわら)術の中傳も授かっていました。
 当時の武士は剣・槍・居合・柔・馬術等、一通りの武術は稽古していますから、その中で、居合の師範である林六太夫守政や下村茂市が剣術ではなく柔術の師範を兼ねていたということが現在言われる「剣居一体」という言葉を考える上での参考になるのではないでしょうか。
 この問題については折をみて再度述べたいと思います。

ホームページに無双神伝英信流の講習会の案内を載せています。ご確認ください。 
 
  1. 2007/03/11(日) 00:51:13|
  2. 居合 総論

剣居一体?・・・2

 前回に引き続き、「剣居一体」について考えます。
 「現代剣道の動きで防具を着用し竹刀を用いる稽古をすれば、かえって形で養った竹刀ではない刀を用いるための自由な動きは廃れてしまいます。」と述べましたが、これは何故か。決して現代剣道をけなしているわけではないのです。
 現代剣道が竹刀を刀の代わりとして用い、刀を用いる動きを怪我の無いように稽古するために防具を身につけて自由に検証しているのであれば全く問題はありません。ところが、そうでないことは現在行われている日本剣道形の動きと竹刀を持ち防具を着用しての動きでは全く異なっている事から誰にでもわかるところだと思います。
 これは現代剣道が竹刀を最も有効に用いて勝敗を競うことを中心としたためであり、竹刀を有効に使い攻防するのに最適なように「手の内」「足の運び」「体勢」等々が定まったことによります。現行の剣道のルールにおいて竹刀を用いて「一本」をとるための最適な動きは、刀を用いる動きと一致しようはずもありません。竹刀を用いての「一本」となる基準となる動きと、刀を用いて斬撃に適する動きとでは異質なものだからです。したがって、現代剣道を居合とは全く別の種目の運動をしているのだと割り切って行える方であれば「目を養う」という点において意義はあると思いますが、一見似たような物であるために影響を受けてしまうのは避けがたいこととなってしまいます。
 強引なたとえですが相撲とレスリングが同じ素手で行う体術であるとして、フリースタイルのレスリングの選手が相撲の稽古ばかりをしていてもオリンピックで優勝できるはずもありません。また相撲の選手がフリースタイルのレスリングの練習ばかりしていて相撲の試合に優勝できるはずもありません。それぞれのルールが異なっており、ルールにのっとって優勝するためには、それぞれの練習をするほうが早道なのです。
 現代剣道の「一本」の基準が刀を用いての有効な斬撃と異なっていれば竹刀を用いての「一本」のために努力するのは当然のことです。その為の動きを刀を用いた動きと同じだと考えれば矛盾が生じることとなります。
 全日本剣道選手権に出場される方が誰一人として、刀を用いる剣道形の動きをされないのは、それでは試合に勝てないからです。 
 このような観点から「剣居一体」という言葉は貫汪館の居合にあっては全く無縁の言葉となるのです。


 参考までに述べると、現在の日本剣道形でさへ明治時代に防具着用の剣道の基礎となるよう定められたということは史料の上から明らかです。剣術諸流派の形から良いものを選んだといわれていますが、古武道の剣術の形においては現在行われている剣道形のように遠くから接近して一度止まりそこから攻防を行うという動きは行われず、遠間から接近すれば止まることなくそのまま攻防を行います。接近して止まるのは竹刀での攻防の間を意識して形が編まれたからでしょう。また、剣道形では斬撃の際いちいち後足をひきつけますが、古流の多くは一刀流系統や一部の流派を除けば後足は、残して斬撃を行います。後足をひきつけることに統一されているのもまた防具着用の剣道を意識して作られた形である故と思われます。


ホームページに無双神伝英信流の講習会の案内を載せています。ご確認ください。 
  1. 2007/03/13(火) 23:08:35|
  2. 居合 総論

剣居一体?・・・3

 いわゆる、「剣居一体」について現代剣道と貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法は一体とはなりえないということについて述べてきましたが、これはあくまでも現代剣道と無双神伝英信流との関係を述べたものです。
 一見類似した形態の運動でありながら、現代剣道は高度な技術で「一本」をとるために竹刀を最適に用いて行う運動形態であり、無双神伝英信流は刀を自由に用いるための運動形態であること、さらに現代剣道での「一本」となる動きと刀を用いて自由に動いた上での有効な斬撃のための動きとでは全く異質なものであるからです。

 ところで、貫汪館で稽古している武術は無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術です。単純に考えれば居合と柔術の二種類の武術を稽古していることになります。しかし、無双神伝英信流は太刀打・詰合といった剣術技法、大小詰・大小立詰等々の柔術技法を含み、渋川一流柔術は六尺棒・三尺棒といった棒術や十手術、分童術、鎖鎌術、居合をも含んでいますので武芸十八般的な発想で考えますと二つの流派を学ぶだけで実に多くの武術を稽古していることになります。
 ではこれらの武術は個々に別々の種目として習得しなければならないのでしょうか。
 答えは否です。別々の種目であっても、体の運用、得物に応じての間の取り方は全て本質が同じであり、剣・棒・十手・分童・鎖鎌といったそれぞれの得物の間合と操作法に習熟すれば全ては一体であるということが理解できると思います。これは武術である以上、所謂、打突部位というものは存在せず、ルールに縛られることの無い、命のかかった攻防の中で最も自由に動ける体遣いというものが歴史の中で探求されてきた結果必然的にそうなったものと考えられますが、私が幸運にも無双神伝英信流抜刀兵法においては梅本三男貫正先生、渋川一流柔術においては畝重實嗣昭先生という高いレベルの業を身に付けられていた先生に習うことができたためでもあります。お二人の先生から、「全ては同じである。」ということを身をもって学ぶことができました。
 貫汪館で稽古される方は「全ては同じである。」という事が理解できる稽古を続けてください。

ホームページに無双神伝英信流の講習会の案内を載せています。ご確認ください。
 
  1. 2007/03/15(木) 18:36:58|
  2. 居合 総論

短剣術

 無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生も渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生と同じように軍歴があり戦時中は中国大陸におられました。
 その当時私が銃剣道・短剣道をしていたためか、他の弟子や、身内の方も聞いておられないことではありましたが、ある日先生は軍隊時代のお話をしてくださいました。「森本君、短剣もするのか。私も軍隊時代には部隊で短剣術の選手として部隊対抗の試合によく出場していた。短剣は間合いの長く取れる銃剣と対するので、相手の突こうとする心の動き頭を抑えて木銃を制し入身して制体、刺突するが、自分の心が静まっていないと木銃でまともに突かれる。居合と同じだ。」
 無双神伝英信流の想定の多くは敵が我に斬りかかる時にこれに応じるようになっています。他の流派にあるように「敵の殺気を感じて、こちらから先に抜き付ける。」という想定とは異なっていますので、相手が木銃で我を刺突しようとする刹那に相手を制するという状況は無双神伝英信流の多くの想定と似た面もあります。

 「居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり」
 「寒き夜に霜を聞べき心こそ敵にあひての勝を取なり」
 
  1. 2007/03/20(火) 18:59:29|
  2. 居合 総論

無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会

 昨日、午前9時半から午後四時半までの間、廿日市市立七尾中学校武道場にいて居合道講習会を開きました。昼食を間にはさみ7時間の稽古となりましたが、大森流と太刀打という二つの内容の稽古であったため、時間はあっという間に過ぎ去ってしまいました。
 参加者は貫汪館で居合・柔術を稽古される方だけでなく、広島市内から他道場の方にも参加いただき、また、遠くは神奈川県横浜市から夜行列車で夢想神伝流を修める方にもおこしいただききました。
 午前中は大森流の稽古を行いましたが、自由に動くために無駄な力みを無くす事の難しさはご理解いただけましたでしょうか。必死になればなるほど、体は余計な緊張をしてしまい、型どおりにしか動けなくなってしまいます。形は自分の居合がどのような状況にも応じられるような業となるために存在しますから、稽古を通じて型どおりにしか動けない体を作ってしまったら、それは武術ではなくなってしまいます。心も体も強張らず、引っ張らず、固まらない自由さを身に付けていただきたいと思います。
 午後は大森流の残りの形を稽古し太刀打を稽古しました。太刀打では初心者の人はどうしても手順を追うことに意識が集中してしまい、対人関係の中での生きた形は使えませんでしたが、一人でイメージトレーニングを行い早く形になれるようにしてください。経験しておられる方の中にも、最後の一撃が極めの動作になってしまい、体を硬直させてしまう方がおられました。形としての手順はきまっているものの、形は一人で行う居合の形と同じく自由に働ける業を身に付けけるためのものですので、最後に体を固めてしまっては稽古の方法論としての形稽古に意味はありません。太刀打では相手は一人ですが、実際にはすぐに後の敵や左右に対応しなければならない状況もあり、また、倒したと思った敵が反撃する場合もあります。形として手順はきまっていますが、全ての形には始まりも終わりも無き事を知らねばなりません。
 今回の講習会を今後の稽古に生かされてください。

 次回の講習会は5月下旬、または6月初旬を予定いたしております。これまでどおり他道場の方や、他流派の方の参加も歓迎いたします。講習会の予定は4月に貫汪館のホームページに掲載いたしますので、見逃さないようにお願い致します。  
  1. 2007/03/22(木) 18:27:44|
  2. 居合 総論

貫心流「糸引きの伝」

昨日、初心者の方と太刀打の稽古をしていて、久々に「糸引きの伝」という言葉を思い出しました。
 無双神伝英信流の太刀打の稽古では形としての手順はきまっていますが、稽古の目的は自由に動けるようになることですので、「相手がこうくるからこう」「相手がこう応じるからこう」と形を遣って数を重ねていたのでは、その形が見事に見えるようになるかもしれませんが、相手の自由な動きに自由に対応するのは難しくなってしまいます。
 手順以上に大切なことは、相手の心、相手の動きに、隙間無く、遅延無く、弛み無く、無心の状態で自然に応じることです。言葉で理解していただくことは難しいと思いますが、昨日の稽古では貫心流の「糸引きの伝」という言葉を中心に説明することによって、初心者の方もこの状態の理解ができたようです。
 貫心流については、第34回日本武道学会で「広島藩の貫心流に関する研究―その伝系と伝書について―」として調査研究したところを発表していますので、興味のある方はそれをお読みいただければと思います。貫心流の概略を以下にのべます。

「貫心流の流祖は安芸国甲立庄五龍城主宍戸元家の三男である宍戸家俊司箭である。宍戸司箭は由利刑部正俊より源義経以来の家伝の法を伝えられ、その芸は神業となった。さらに、司箭は薙刀の徳を考え、直鑓・カギヤリ・十文字鑓・卍ノ法を発明し、これを河野大蔵に伝えた。元亀元年(1570)四月四日、司箭は空中に飛行し京都愛宕山を住処としたという。
 貫心流は宍戸家俊司箭から伊予の河野家の一族、河野大藏通昭に伝えられ、後、築山(河野改姓)通護が広島藩に仕えることによって広島に再度もたらされた。以後築山家によって広島にその伝統は続いた。江戸後期、阿波国の貫心流師範であった細六郎義知は貫心流剣術の正伝を求めるため阿波から廣島に移り、築山嘉平通欽のもとで修行、相伝を受けた。広島藩の剣術は明治元年(1869)に貫心流に限られた。幕末の師範は細六郎致義であった。
細六郎義知の奉納額が現在も宮島の千畳閣に掲げられている。
築山家の墓は清岸寺にあったが、現在は鈴張楽土霊園の無縁墓地にあり、細家の墓は禅昌寺にある。」

貫心流は築山五郎太夫通有のときその弟子であった鉄柱無端によって阿波国、徳島にもたらされています。無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生の師である尾形郷一貫心先生は貫心流の免許皆伝でもあったので梅本先生にも「糸引きの伝」という言葉を用いて説明しておられます。
「糸引きの伝」とは相手の目、相手の剣、相手の心と自分の目、自分の剣、自分の心の間に糸が張られているかのようにつながれている事を言い、かつその糸は糸電話の糸が相手の声を伝えるように弛み無く張られています。しかもそれは物質的な糸ではないので、相手の心の動きや体の微細な動きもそのままこちらに伝わってきます。そのような状態にあるとき相手のなそうとすることは自分にそのまま伝わるので、形は手順ではなく生きた自由な動きを生み出す形となります。
 無双神伝英信流には「糸引きの伝」という言葉はありませんが、形を稽古するには太刀打、詰合、大小詰、大小立詰は勿論の事、現実の相手がいない仮想の敵に向かって抜き付ける居合の稽古であっても、上述した心を忘れてはいけません。また、これは渋川一流柔術の形稽古でも同じ事です。
くれぐれも生きた形の稽古を心掛けてください。

 
  1. 2007/03/27(火) 20:57:52|
  2. 居合 総論

全ては結果

 無双神伝英信流の指導をしていて、よく「全ては結果。」という言葉を使っていますが、初心者の方の中には頭で理解できていても、腑に落ちない方がおおいようです。
 大森流の「逆刀」の動きを怜に説明をすると、植田平太郎先生の形の解説書にある「・・・左足より一歩後へ退き(対手が斬込み来る剣先を退き外し)・・・」という動きをとにかく左足を後にさげればよいのだと理解し、右足を踏ん張り左足をその反動で勢いよく後方へさげる動きを見かけることがあります。しかしこのような動きをすれば、次に前に出ている右足を後方へ左足に揃えるために引き付けるという動作が必要となり、さらには揃えた後に刀を新たに振り被るという動作をしなくてはならなくなり、全ての動きに段がつき、いくら個々の動きを早くしても結果として間に合わない動きになってしまいます。
 細かな説明はここではしませんが、前方より斬り込みくる敵に応じて「・・・咄嗟に左手を鯉口に右手を柄に掛け急に膝を伸し右足を右前へ踏出し・・・」という動作をも含めて後半身とくに臀部の無駄な力を抜き去りあたかも尻餅をつくような状態となったときに体は後方へ自然に動き前に出た右足も後方左足に引き付けられます。また、この時右半身に無理が無く刀が鞘から離れたときに、右半身もまたあたかも尻餅をつくがごとく落下すれば、右手が上方に上がることなく自然に右足とともに後方にさがり振冠りの動きへと移行します。
 道場で詳しく説明しますが、このように個々の脚、腕といった部位の動きを直接に求めるのではなく、異なった大本の部位を働かせることによって結果として脚、腕、刀が動くという事をしっかりと頭に入れて稽古されてください。個々の脚、腕といった部位を直接動かしているのではないため筋肉の緊張感は無く動いたという感覚はなく、心もとなく感じるかもしれませんが焦らずにしっかりと工夫してください。

 
  1. 2007/04/17(火) 20:29:19|
  2. 居合 総論

中庸

 無双神伝英信流の稽古をしていた時に、体と脇から先の動きが遊離している方に気付きました。
 そして、その原因が「丁寧に」稽古しようという思いからきたものであることに気付き、尋ねてみるとそのとおりでした。
 その方には「丁寧に刀を振る」という指導をしたことがったのですが、本人は一生懸命に丁寧に「刀」を振ろうとして、敏感で、繊細さを保てる体の末端の部分で刀を扱おうとされてしまったのでした。
 かって、我師、梅本三男貫正先生にもよく「言葉」によって指導して頂きました。「脇をしっかりしめなさい。」「手首をぎゅっと入れて・・・。」などなど。
 それを聞いた私たちは今度は身動きできないくらいに脇を力んでしめたり、手首が痛くなるくらいにいれたりと、極端なほどそれを求めようとしていました。答えは先生の動きの中にあり、言葉の中に合ったのではないのですが、どうしても言葉に居着いていました。
 先生は言葉によって極端な動きを直そうとされていたのに、私たちは逆方向への極端な動きを求めてしまっていました。
 言葉による指導は、どうしてもそのような傾向を生み出してしまいます。言葉の裏にある真理を汲み取り、極端な動きに走らず、進んでください。

 5月27日(日)の無双神伝英信流講習会の御案内を貫汪館ホームページに載せております。ホームページを御確認ください。
 廣島護国神社奉納演武会の写真を貫汪館ホームページの無双神伝英信流と渋川一流柔術の行事のページに載せました。
  1. 2007/04/26(木) 23:53:41|
  2. 居合 総論

刃音

 先日、門人と一緒に京都に行った際に濃州堂で門人の居合刀を注文したところ「刃音はどうされますか?」と聞かれました。一瞬何のことだろうかと思ったのですが、一昨年の夏の北陸・佐渡ケ島ツーリングの帰りに濃州堂に寄ったときの職人さんのお話を思い出しました。
 そのお話とは「先生の道場はお弟子さんの刀を注文される時でも、刃音はしなくても良いから、重量のあるしっかりした居合刀を作って欲しいと言われるので、私たちは嬉しいんですよ。昔の先生方にはそのような方がおられたのですが、今は刃音が大きく扱いやすい重量のものをという注文が多くて・・・。先生のような方は少ないんですよ。」
 どうも最近は人前で演武するのに、刃音が大きいほうが斬撃力が大きいと感じられるので、樋を深くして刃音が大きくなるようにして、なおかつ、小手先で力一杯振り回せるような居合刀を注文する人が多いようなのです。
 樋があっても刃音がほとんどしない刀もありますし、私の刀のように樋がなければほとんど刃音はしません。大事なのは本当にその刀が振れているかどうかと言うことで、それを音の大きさで判断してはいけません。貫汪館で無双神伝英信流の稽古をされる方は決して刃音というものに惑わされないで下さい。 
 我師、梅本三男貫正先生の門人の中にも「樋がなかったら刃音がしないので、演武をしても他の人に受け入れられない。刃音が大きい方がいい。」と言っていた方がおられましたが、真の先生の教えに入ることなく、無双神伝英信流を知らない素人が見て感心するような外見の動きばかりを求めておられました。
 真の動きは素人が見て簡単に分かるようなものではありません。素人受する居合は真の無双神伝英信流の居合でないと心得てください。

 5月27日(日)、一般に公開する形式の貫汪館居合道講習会を行います。貫汪館ホームページをご確認ください。
 
  1. 2007/05/23(水) 23:56:14|
  2. 居合 総論

無雙神傳英信流抜刀兵法 居合道講習会

 5月27日(日)、「英信流表」の講習会に参加していただいた皆様、お疲れ様でした。また、前回に引き続き神奈川県より参加していただき有難うございました。初めて居合を稽古される方にも起こしいただき、講習会が盛んなものとなったことをここに感謝いたします。
 気温の高い中、午前9時半から午後4時に及ぶ長時間の講習会でしたのが、皆さんよく本質を求める稽古をしていただきました。
 大森流が比較的段階を追って形の難易度が高くなるのに比べ、英信流表は「横雲」「虎一足」「稲妻」のあとの「浮雲」の動きで難易度が極端に上がり、動きの質の転換がなされなければ下肢への負担が大きく、初心の方は筋肉痛を覚えられたのではないかと思います。
 しかし、これを足腰の鍛錬が足りぬ故と間違った解釈をしてしまい。下手な意味での数稽古に向かってしまうと、無雙神傳英信流の居合はその時点で名ばかりのものとなってしまいます。「浮雲」は文字通り己の体を空に浮く雲となさなければ自由に動くことはかなわず、重い己の体を無理に動かすが故に下肢に過重な負担がかかってしまいます。
「浮雲」の稽古で重さを消すことを覚えれば、己の体が風となり山を吹き上がることも可能となるが故に、「山下風」の歌(「高根より吹下す風の強けれは麓の木々は雪もたまらず」)にあるように風となって吹き下ろす事もまた可能となるのです。さらに、これ以後の形も、それ以前の形も大森流をも含めて動きに「居着」が無くなり自由に楽に動けることを体感できると思います。
次回は9月下旬に「詰合」の講習会を行う予定です。
貫汪館は何々連盟といった段位を発行する団体には所属しておらず、自由に活動いたしておりますので、他流派の方も初心者の方もお気軽にご参加ください。

貫汪館のホームページの無雙神傳英信流抜刀兵法の行事のページに講習会の写真を載せましたので、御覧下さい。
  1. 2007/05/29(火) 20:45:08|
  2. 居合 総論

ルール

 劇団夢現舎の公演  No.20 『黄金時代(仮)』 を観るために土曜日に上京しました。
 ある人と待ち合わせのため、東京についてすぐ、講談社野間道場に向かいました。初めて野間道場を訪ねましたが、野間道場は大正時代からの歴史のある道場で、いかにも剣道場という雰囲気のただよう趣のある道場でした。
 道場では「出版剣道大会」が行われており各印刷関係の会社の選手が団体戦で試合をされていました。しばらく見てていたのですが、やはり久々に見る剣道に違和感を覚えてしまいました。
 違和感とは、面に来る竹刀を頭を振って避けていたり、少し面を上げて面金で受けていること、鍔迫り合いの際にお互いの体にしないが当たっている事など。これらは現代剣道の基準からすると一本にはならないのですが、竹刀が体に触れても、試合をするもの同士何も感じていない事は、私たちが稽古していることとは大きな隔たりを感じさせます。
 私たちは刀を用いることを前提に稽古をしていますが、それは相手の刀がすこしでも自分の体に当たれば、たとえ軽くても傷つき血が流れることを意味しています。したがって、袋竹刀を用いたり懐剣をもちいて稽古する際にも相手の得物が自分に触れる事がないよう心がけています。
 しかし、ルールがきめられ、そのルールの中での一本以外は竹刀が何処に触れようとも、当たろうとも、勝敗に全く関係が無ければ、このような形に変化していくのも必然の事であろうと思います。
 それは、あたかも試斬を「武道」という建前でおこなうにもかかわらず、隙ができているのもお構い無しに何本もの茣蓙を丸めたものを並べて一気に斬ったり、何本もの巻き藁を縦に重ねて一気に斬り下すことに似ています。
 貫汪館で稽古される方は少なくとも貫汪館には現代的な感覚でのいわゆる試合はなく、また、見栄えを飾るための業も必要ないのだと心してください。
  1. 2007/06/11(月) 01:25:43|
  2. 居合 総論

感覚を磨く

 無双神伝英信流の指導をしていて、いつも思うことですが、外側を求める方は上達せず、内なる感覚を磨く方は上達が早いという事実。 
 刀の位置が高ければ、単純に手の位置を調整するのではなく、自分の体のひずみを正し、結果として刀が正しい位置に落ち着く。膝が伸びて重心が高くなっているのであれば、単純に膝を曲げるのではなく、また同じように体のひずみを感じて正すことで重心が定まる。このような稽古をしなければ、何時までたっても結果のみを修正しなければならず、居着いた体が出来上がるのみで、自由に体が使える段階にいたることはできません。
 「斬撃の際、体が前後にとられるので、前後の脚を固めて重心を前後に取られないようにする。」という事を話される方が 我師 梅本三男貫正先生の弟子の中にもおられましたが、一体何を習われていたことか。上半身で刀を振ってその結果、体ががとられるのを防ぐために下半身を固めてしまえば、一見、不動のように見えて、実はその瞬間は全く動くことが出来ない隙となっています。何故前後にぶれてしまうのか?、その時の体の状態は?斬撃前の自分の体勢は?そのような工夫無しに外見を求めたのでは、居合は武術ではなく、踊り以下のものにしかなりえません。
 初心者の方はくれぐれも道を間違えないで下さい。
  1. 2007/06/17(日) 22:08:45|
  2. 居合 総論

楽そうに見える

 無双神伝英信流の稽古でマンツーマンで指導しているときに、ある方が「先生の抜付けはすごく楽そうに見える。」と話されました。実はここに上達の秘訣があります。
 私も師の梅本三男貫正先生の晩年の動きを見るたびに「なんと楽に抜いておられることか。」と思っていました。楽に抜いておられながらも、活きた居合。一時期は、これは長年稽古を重ねていけばその功によって自然とそのようになるものかという錯覚さえ覚えていました。しかし、世間一般に目を向けてみると、高齢になるまで居合を続けている方には楽には抜いておられても、活きてはいない、武術とはいえない居合が圧倒的に多く、ただ単に稽古を続けるだけでは師のようにはなれないということがわかります。
 答は「楽に抜いている」のではなく「楽でなければ抜けない。」のです。

 最近、ホームページを見られて道場に別々に数人来られました。古武道の道場は敷居が高いように思われるようですが、貫汪館は見学を自由にしていただいておりますので、ご連絡の上、遠慮なくお越しください。
  1. 2007/06/19(火) 21:01:38|
  2. 居合 総論

五芒星の秘事

 五芒星の秘事は無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生より伝授された秘伝です。ここに詳しくは書くことはしませんが、すでにお話している如く、この秘事においては、体を固めてとか、タメをつかってとか、中心を崩さないようにという意図的な我の強い動きは全て否定されます。秘事を体認することなく外見を真似しようとすれば上記のような動きになってしまわざるをえませんが、師 梅本三男貫正先生に業を習った者で、いささかでも五芒星の秘事を体認したものであれば、稽古の方向性は明らかです。貫汪館で稽古される方も秘事を会得する稽古を心がけ、外見を求めてはなりません。決して道を間違われないで下さい。

 五芒星の秘事は下記の歌の更にその先にあります。 
   「居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり」
   「寒き夜に霜を聞べき心こそ敵にあひての勝を取なり」

 自在を得るためには会得せざるを得ないことです。

 貫汪館会報53号をホームページに載せました。ご覧下さい。

 
  1. 2007/06/23(土) 00:12:48|
  2. 居合 総論

感覚を磨く

 無双神伝英信流抜刀兵法の上達のために大切なのは形を正確に行おうとしたり、力強くあろうとしたり、早く動こうとしたりする事ではありません。
 正確さや力強さや速さは結果であって直接的に求めるものではありません。では、それらは何の結果であるのか・・・。それは自分自身の体遣いの正確さの結果として表に現れるものなのです。正しく動ければ自然に正確さや力強さ早さは意識せずとも結果としてついてきます。
 無双神伝英信流において何が正しい動きであり、何が正しくない動きであるのかは、稽古のさいにマンツーマンで一人一人にお教えしているところですので、それを思い出していただければよいのですが、私が稽古の際に指摘した「今の動きは悪い。」「今の動きは良い。」というところを、そのまま聞き流さないでいただきたいのです。初心の内には良い動き、悪い動きはなかなか自分自身では判断できません。それで、指導者が指摘するのですが、良い動きとされた動きと、悪い動きとされた動きを自分の感覚を研ぎ澄ましてよくよく自分自身の内で比較していただきたいのです。何が良い動きで何が悪い動きなのかということを感じ取る感覚が自分自身を上達へと導いてくれます。
  1. 2007/06/28(木) 23:27:15|
  2. 居合 総論

形にとらわれると言う事

 ある居合の資料を見ていたら、「この形では斬り下した刀が床と水平にならなければならないと定められている。刀のそりや柄の形状はそれぞれ異なるので、手首や肘の角度を工夫して、必ず水平でとめなければならない。」とありました。
 居合の動きに関する教えは各流派、各団体で様々ですが、無双神伝英信流を稽古する貫汪館ではこのような教えはありません。
 想定する相手の身長、状態はおのおの、またその折その折で少しづつ異なっていますから、当然、斬り込む位置も異なり、刀が止まる(止めるではありません。)位置も異なってきます。何度形を行っても毎回、仮想の敵の身長、状態が寸分たがわず、というようなことはありません。生きた想定でなければなりませんので、自分の動きがいつもより遅れた場合、早かった場合、全て仮想の敵の状態は異なっています。
 ある年、ある団体の高段者の演武会を拝見したことがありました。10人くらいで一度に演武されていたのですが、まるで測ったかのように全員同じ動き(形ではなく)をされるので、同じ道場で、全て統一された動きをされているのかと思ったのですがそうではありませんでした。皆さん別々の県の方だったのです。しばらく見学していたら、私の体の調子が狂ってきました。自由であるべき居合の動きが軍隊式に統一されていたために、私の体が大きな違和感を覚えてしまったのです。
 貫汪館で稽古される方は生きた想定をし、形にとらわれることがないよう稽古されてください。
  1. 2007/07/06(金) 02:03:53|
  2. 居合 総論

重さに助けられ、軽さに教えられ

 無双神伝英信流の稽古に、私は真夏の2ヶ月弱を除いて、長船の刀匠 上田祐定先生に打って頂いた2尺8寸2分の真剣を用いています。重さは鞘をはらって約1,470g。この長さの刀としては平均的な重さです。真夏に遣う居合刀は濃州堂の2尺8寸重さは約1,240グラムです。
 真剣を常に用いるのは感覚的に自分の「この刀が好きだ」という感情にもよりますが、何故か体の調和が取れるためでもあります。体の調和がとれていれば、竹ひごを振っているくらい軽く感じ、また全く刀の重さは感じずに動いてもいます。調和の取れた動きは無意識のうちに速い動きでもあります。
 しかし真剣に比べれば軽めの居合刀をつかうと体の調和が乱れがちになり、かえって負荷がかかってしまい、また遅いことがあります。
 重ければ体は無意識に腕力をつかわず調和をもとに動いています。軽ければ・・・。昔の癖が。
 中学生の頃、現代剣道をしていましたが、剣道の先生に「左腕を鍛えなくてはならない、高校生になって上段をとるようになればますます左は重要になる。」といわれ毎晩、重い木刀で左腕だけの素振りをしました。1000本、2000本時には4000本と。その結果左の握力は右を越え、高校生になったころには握力は85㎏にもなっていました(今は随分腕は細くなりました)。
 その無理な稽古の影響で上半身の左半身が右半身より発達し左の鎖骨は右より長くなり、常に左肩が右肩よりも高くなってしまいました。
 余談が長くなってしまいましたが、高校生になって無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生に入門した当初に言われた事が2つ
「森本君は腕力があるからいけない。」
「森本君は頭が良いからいけない。」
 
 結局、刀を振ろう、これくらい軽いものは自由に振り回せるという無意識の意識がはたらき、体の調和が保ててはいなかったのです。(「森本君は頭が良いからいけない。」は別の機会にのべます。)
 いつも使う真剣に比べ軽い居合刀を腰にすると無意識のうちに「これくらい・・・」と判断し腕が動き調和が乱れます。そのとき「軽い刀」の重さを感じて動けば、真剣と同じ動きに戻ります。
 「心こそ 心惑わす心なり 心に心 心許すな」
  1. 2007/07/13(金) 22:04:11|
  2. 居合 総論

植田平太郎先生

 植田平太郎先生は無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生の先々代の先生です。
 植田先生は純粋にその師細川義昌先生の居合を伝承されたにもかかわらず、根拠無く無双直伝英信流の大江正路先生の居合が混在しているという説を唱える人がいるようです。口承にも植田先生が大江先生に習われたということは伝わっておりませんし、植田平太郎先生のご子息植田一先生からも植田平太郎先生の居合が純粋な細川義昌先生の居合であるとお聞きしています。
 ある書に植田先生が大江先生の弟子であるというあやまちが載せられていたのが原因でしょうが、そのような事実はありませんので、ここに記しておきます。
 また甚だしきは植田平太郎先生の師が中山博道先生であると書いたものも見たことがありますが、そのような事実はありませんので重ねて記しておきます。
  1. 2007/07/27(金) 22:55:43|
  2. 居合 総論

居合・・・初心者から次の段階へ

 昨日、無双神伝英信流の稽古で初心者から次の段階への移行期にある方の稽古を見ていて感じたことを記します。
 「太刀打」の稽古で特に感じたのですが、その方の動きには無理無駄も無く、形の手順も覚え、体もつかえるようになり始めているのに、未だに「丁寧に」という意識が抜けていないため、形が生きて働いていいませんでした。つまり、「この次はこう、こうくるから、こう応じてこう斬る」という思いが強く残っているために、形が体操になってしまっていたのです。
 形の手順も必要な動きも一通りは体が覚えているので、次の段階に必要なのは、自分ひとりの動きではなく、相手と調和の取れた動きであり、調和が取れていながら相手との関係において主導権の取れている動きです。
 そのためには今の段階では相手を斬るという意識〈心の力みではなく)が不可欠で、形であっても常に意識の上で主導権をとっていなければなりません。意識の上で主導権をとっていなければ、動きの上での主導権をとることはかないません。この意識が無ければ「打太刀」が少し上の(対処しがたい)動きをすると、完全に押されてしまって動けなくなってしまいます。
 昨日の稽古ではこの点を指摘すると、その方は、動きまで変わり「打太刀」が厳しい動きをしても対処しえるようになられました。理解の速さは日頃の稽古せぬ時の稽古の成果であろうと思います。
 初心者を卒業されようとしている方が、一人で行う居合の稽古でも、太刀打、詰合の稽古でも相手との関係において常に主導権をとるという意識をもって稽古すれば、さらに上達は容易なものになるでしょう。ただし、これは相手とは関係のない自分の「心の力み」と同じものではありませんので、よくよく工夫されてください。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/22(水) 17:13:22|
  2. 居合 総論

あるがままに

 本日の稽古で一人の初心者の方には「刀を抜き、構え、進み、斬る動き」を、もう一人の初心者の方には初発刀を徹底して稽古していただきました。
 御二人の方には理解していただいたと思いますが、すべての、どのような動きも、「そこにあるがままに」という事を忘れないで頂きたいと思います。
「立って刀を抜き、構え、進み、斬る」、この動きも、始めに帯刀して立っている状態と抜き始めて以後の状態は全く変わるものではありません。同様に初発刀の動きも、どのように動いていようと始めの正座の状態と変わるものではありません。
 したがって、磨きに磨いて一度身に付いた〈体認した)業は衰えることは無く、衰えるとすれば、自らが自らの意識で動きを曇らせているのだということに気付いていただきたいと思います。
 仕事の都合で遠くはなれ、月に数回しか稽古にこれない方も居られますが、道場で身につけた業は衰えることはありません。自分の体を感じ、自分の意識のありようを省みる稽古を怠らないで下さい。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/22(水) 22:34:32|
  2. 居合 総論

無理無駄を排す事

 先日の無双神伝英信流の稽古でずいぶん無駄な力みがなくなっているのに、形の流れの中でいびつな動きをしてしまう方が居られました。ご自身でも、その動きに気付かれていると思います。
 これは、稽古がある程度進んできて、何もしない時には無理無駄な力が抜けており、刀を抜付けたり、斬撃したりする時にも肩から先の無理無駄は無いのにもかかわらず、力みを抜くことで 無意識のうちに自分自身が不安になり、「抜付け」「斬撃」「血振い」といった動作の時に腰を中心として臀部や背筋に強張りを作りその強張りを強さ、(中心からの動き)と錯覚して動くことに起因しています。外見からみれば、むしろ全身を軽く緊張させてバランスをとったほうが上手に見えるかもしれません。しかし、それでは形稽古で自由な動きを養うことはできません。
 無双神伝英信流の稽古では体のどこにも無理無駄な力が入ってはいけません。また、それは心の状態にも当てはまることです。全ての無理無駄をなくすことによって、体は動き始めます。始めのうちは動き始めることすらできないかもしれませんが、安易に自分自身に妥協することなく工夫を続けてください。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/25(土) 09:06:21|
  2. 居合 総論

体のつながり―弛み・硬直

 昨日の無双神伝英信流の稽古をみての感想を記します。
 複雑な形になればなるほど、どうしても手先から動こうとされ結果として体がひずんでしまう事があります。人間は手先のほうが器用なので、難しいと感じたらまず手先からと無意識のうちに思ってしまうようです。
 しかし、それでは力を入れない力強さは決して生まれるものではありません。全ての動きはあくまでも中心から発しなくてはなりません。もし、できていないのならば、できないのならば、歪みがわからないのならば、自分が自分の体を認識できるスピードを越えて動こうとしているのです。形稽古の意義は動きの本質的な質を高めることにあるのですから、いくら速く動けても中身が伴っていなければ、無意味であるどころか、上達の妨げにしかなりません。
 此処で、中心からの動きといいましたが、その動きが少しづつ切先に伝達されるのだとは考えないで下さい。そのような動きにはタイムラグができて、いくら中心が働いたとしても、結局遅い動きにしかなりえません。体の各部に弛み無く、しかし硬直無く、そのような状態が維持できていれば中心の動きが同時に切先の動きにつながっていきます。決して外見を真似ようとせず、よくよく自分の動きを工夫されてください。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/09/14(金) 21:44:40|
  2. 居合 総論

劇団夢現舎講習会 感想文 3

 劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文の3回目です。

 「午前中は芝居の稽古場ではなく、場所を借りて広いところで木刀を用いて稽古しました。
 太刀打の二人で組んで行う技は道理がわかれば体がついていくと思うのですが、道理もまだ理解できていないせいか、頭の中が真っ白になって時々固まってしまいます。
 新しく教えていただいたものを自分の中で消化するには時間をかけてコツコツ重ねていく必要があるなあと感じました。一つ一つの形の名前をヒントに動けそうな気もします。
 午後行われた居合の稽古は、今までの復習も含めての稽古でしたが、前回よりも先生の言葉が理解できたように思います。
 前回まで分かっていなかった部分が、初参加する方と一緒に稽古を行ったことで外側から自分と比較した時に、自分の中に“解けていく”ものがありました。
 私は右手で持つ癖があるのか体で感じるのではなく、右手の力だけで支えていたようで、「左手が死んでいる」と言われた時、ハッとしました。今まで筋肉のせいにしていた部分がとんでもない、基本の体の使い方だったということで、これからの向き合い方に変化がおきてきそうです。
 次回の稽古までに忘れず、より体を使えるようになっておきたいです。新しいことを吸収できるやわらかい頭をもって。
 次がすごく楽しみです。」

 「刀を当てにいっていると普段の殺陣の稽古でもよく注意されます。何故そのような結果になってしまうかを考えると、先に進めることばかりを考えてしまい、闘いの意識が無いので、なんとなくそれらしい事をやっているとしか見えません。
 これは芝居の稽古のときも同じで、話ばかり進めようとして相手との対話を忘れてしまうと、何を見せたいかが見えてこない。話が発展してこない。つまり熱が生まれてこないのです。
 日常生活にも通じる事で、バイトでも(牛丼屋)ただあるマニュアルをやるのではなく、そのマニュアルが何故あるのかを考えないと、いざという時困ってしまったり、普段、家で読書をする時でも、ただ読むだけではなく、言葉の一つ一つを考えていかないと読んでいる本の意味が本の本質が分からないのではないかと思いました。
 「形を覚えるだけでは使い物にならない」
 今回、居合を通じて改めて様々な事を感じることができました。
 有難うございました。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/09/18(火) 18:11:10|
  2. 居合 総論

劇団夢現舎講習会 感想文 4

 劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文の4回目です。

 「先日は稽古をつけていただいて有難うございました。大変有意義な時間をすごさせて頂きました。
 第1回の稽古の際に教えていただいた構え方。相手の気を受け、背中に通しそれをお尻まで落しして、丹田から切先に通す。このイメージをやっと感じられるようになりました。
 動こうとすればするほど、どうしても力が入ってしまう。相手の勢いが強ければそれだけ力が入ってしまう。すると刀を腕の力で持ってしまうようになり、上半身に力が入ってしまいます。相手の気を背中に通し、お尻から丹田に通すことで、上半身の重さを丹田で支えられるようになる。
 言うのは簡単です。ですが、やはりいつでも、この丹田で体重を支えられるようになる為にはもっと稽古が必要だと思いました。普段、生活している中で丹田で体を支えることを意識しようと思います。
 「腑に落ちる」という言葉がありますが、芝居でも相手の言葉を受けて、それをきちんと腑に落としていないと(納得していないと)返す言葉がうそ臭くなってしまいます。僕はまだ、相手の芝居をきちんと受ける事が出来ていないので嘘臭い、軽いと、いつも演出家に言われます。太刀打の稽古でも相手の気をきちんと受けて腑に落としていないと、形が乱れてしまうと今回教わり、これは芝居でもつかえるなと思いました。
 また、相手に剱を振るさい、存在を相手にぶつけるようにすると教わりました。剱を降ろうとするとどうしても力が入ってしまうように、芝居でもセリフを言おう言おうと思うとだめになります。その思いを、存在を相手にぶつけるという心積もりが良いのだと改めて思いました。
 お陰様で、本当に勉強になりました。いつかまた、稽古をさせてもらう日を楽しみにしております。まだまだ未熟者ですが、何卒よろしくお願い致します。本当に有難うございました。」


 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/09/19(水) 17:50:15|
  2. 居合 総論

気付き

 先日、斬撃が浅い方をどのように修正しようかと考えて、呼吸に工夫をして頂きました。
 今までも呼吸に工夫をしていただいてはいたのですが、このたびは何も考えずにただ、呼吸にのみ意を用いていただき、呼吸を深く行い、それにのせて、運剱、斬撃を数回していただいただけで、動きは完全に良くなってしまいました。
 その後の稽古でも斬撃の動きは良く、呼吸と斬撃を会得されているのですが、ふと、呼吸のみの工夫で良くなったのではないのかもしれないと思いました。その方は、当日たまたま仕事が長引き、稽古時間がほとんどないのにもかかわらず、急いで道場にこられたので、稽古着に着替えずにTシャツで斬撃の稽古をして頂きました。稽古のあと、「今日はTシャツだったので上半身の動きが稽古着に比べてとても楽で、とくに肩の動きがスムーズでした。」と話されました。
 良く考えると、私も稽古着の時よりも正式な紋付の時やTシャツのときのほうが抵抗(動きにくさ)が少ないように感じます。
 斬撃が浅かったのは、呼吸が浅かったことによりますが、着衣が生んだ上半身の動きに対する抵抗(動きにくさ)に無意識のうちに気をとられて、知らず知らずに呼吸が浅くなっていたのが真の原因でした。
 稽古時間が残り少ないのにも関わらず、走って道場に来られたという熱心さが、着衣による動きの違いに気付かせ、次の稽古からは着衣が異なっても、呼吸が同じように深く出来るようにさせたのだと思います。

 熱心さが生んだ上達の機は天恵だと思います。 

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/09/22(土) 22:07:52|
  2. 居合 総論

大森流

 貫汪館では人によりますが、礼法・座法・歩法等の基礎的な稽古を約半年して頂いた後、形の稽古をして頂いています。無双神伝英信流抜刀兵法の形の稽古は大森流に始まりますが、大森流が初心者のための形と考えると大きな間違いを生んでしまいます。
 今までにも述べてきましたが、大森流は無双神伝英信流に取り入れられてはいますが、英信流とは別の体系を持っており、大森流の稽古のみで相当なレベルにまで達することが出来るように仕組まれている流派です。それは大森流そのものが英信流とは別の流れの人である大森六郎左衛門という、林六太夫守正の剣術の師であった人物が作った流派であるためです。
 したがって、初心者用の形であると軽々しく考えると後々の稽古に悪影響しか及ぼしません。
 一般に居合の稽古を始めたばかりの人は座姿勢から始まる形よりも、早く立姿勢からの形を稽古したい傾向にあります。しかし、何故、大森流の形のほとんどが座姿勢から始まるのでしょうか。それは座ることこそが居合の為の身体を養う極意であるからです。
 立つことが許される「虎乱刀」は大森流の体系で言えば、ほぼ最後の、動きの完成の時期に至ってからとなります。座姿勢の大事さについては以前にも述べましたので詳しくは述べませんが、
 「正座の姿勢では足首、股関節、腰は自然に引力によって正され無理・無駄な力はまったく入っておらず、また、下半身が自然であるが故にそれにのる上半身の腹、背、胸、肩、腕、首にも全く無理・無駄な力は入らない。」という稽古をし、立ってもまた、その状態であらねば居合は抜けるものではありません。
 稽古をあせらず、座ることの意味を思いながら稽古を進めてください。
 以前述べたことと重なりましたが、初心者の人に再確認していただくために述べました。

貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/09/24(月) 10:00:23|
  2. 居合 総論

無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会

 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会は今回は「詰合」を行いました。
 「詰合」は通常、英信流表がある程度つかえるようになってから稽古するものですが、今回は初心者の方には経験していただく事を目的に、形の進んだ方には英信流表の向上を目的に、それぞれ稽古していただきました。
 今回も、前回と同じく道場外からは、横浜から稽古に来て頂いたり、広島市内で稽古されている上級者の方にもお越しいただき盛況な講習会となりました。
 「詰合」は立膝の状態から行いますが、以前にも述べたように、この立膝の姿勢が極意と言っても良いのです。座した状態のままに動き抜付け斬り、受ける。いずれの動作も立膝で座した状態と変わるものではありません。
 動きも連続していたり、速い動きのものもありますので、座した状態が崩れてしまうこともあるかと思いますが、そのような時には必ず、再度、立膝で座した時の状態をご確認いただければ良いと思います。
 今日の稽古は御膳9時は~午後4時までという長時間の稽古でしたが皆さん良く頑張っていただいたと思います。
 今回の講習会で新たに自分の稽古すべきところを見つけられた方は、上達の好機です。ますます、工夫を重ねてください。工夫・稽古によって道は開けます。
 中には親指の付け根の手の皮を痛められた方が居られますが、これは止太刀をした時に起こったものだと思います。木刀をとめる際に柄を握り締めたために、毎回、木刀に右手親指の付け根を擦り付けてしまったのでしょう。止太刀は動きの中心である身体の中心に急にロックをかけ、連動している各部が止まることによって成立します。決して身体の末端を固めて刀を止めているわけではありません。それでは形のための形となって変化に自由に対応出来る動きを身につけるのとはほど遠い稽古になってしまいます。さらに工夫してください。
 
 
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。

 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会への御参加有難うございました。次回は11月または12月に実施する予定です。日程は近日中にご連絡いたします。。
  1. 2007/09/30(日) 23:44:34|
  2. 居合 総論

ビデオによる稽古

 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生はご自分の稽古においてよく自分の動きをビデオにとって検証しておられました。また、私達の動きも写真やビデオにとって指導してくださったものでした。
 しかし、先生のビデオによる検証を形を正すためと勘違いされ、先生のビデオを貰い受け自分の動きを先生の形に似せようとされた方もおられたのは残念な事です。
 先生は外見を見せる猿真似を大変嫌っておられました。「猿真似できるのは悪癖だけ真の動きは真似ることはできない」と。
 先生がビデオで検証しておられたのは自分の動きではなく、自分の心のありようだということは、多くの弟子にもお話になっていなかったことのようです。形は心の現れ、したがって心に、ひずみ、たるみ、弛み、強張りなどがあれば必ず形に現れてきます。先生は自分自身でも気付いていないかもしれない心を正そうとされていました。
 私も演武会等では貫汪館の皆さんの演武の写真をとってお渡ししていますが、これは自分自身で自分に気付いていただきたいためであって、記念写真としてお渡ししているわけではないことはお話しているとおりです。
 形は心の現れであり、ビデオや写真は己の心を正すための手段であって形を作るための手段ではないということを、よくよく心してください。

 貫汪館H.Pの無双神伝英信流の行事のページに居合道講習会(詰合)の写真を載せました。

 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会への御参加有難うございました。次回は12月に実施する予定です。日程は近日中にご連絡いたします。。
  1. 2007/10/05(金) 17:46:56|
  2. 居合 総論

日々新たに

 無双神伝英信流の稽古では自分の動きを日々新たな視点で確認しながら稽古を進めていただきたいと思います。
 「ある程度のことが出来るようになった。肩の無駄な力はある程度なくなった。重心も真ん中にある。座れるようになった。」等々、人の陥り易いことですが、くり返し同じことをしていて少しは以前より上達したという実感を持つと、どうしてもその時点の身勢、身体遣いを記憶してしまいがちです。その記憶を元に、次の稽古では、そこまでは出来ていると思い込み、記憶しているものを再現して、さらに深いところを求めていこうとします。これは特に、ある程度稽古が進んだ初心者の方が陥り易い過ちです。
 しかし、この記憶ほど不確かで、自分にとって都合が良いように変化するものは無いようで、記憶に基づいて稽古を進めようとすると、必ず異なった方向へと進んでいきます。したがって前回できたところまで再現し、そこから稽古と思われたら、さらに深くどころか、全く別の方向へ行き、別の物を作り上げていってしまいます。
 稽古は毎回、自分の動きを日々新たな視点から新たな感覚で全てを見直しながら、進めなければなりません。
 初心者の方は稽古の進め方として、よくよく心してください。
  1. 2007/10/06(土) 21:55:41|
  2. 居合 総論

焦り

 本日の無双神伝英信流の稽古では焦らずにという事を指導しました。
初心者の方は正座の姿勢において無理なく自然に座れるようになっていても、動き始めるとどうしても余分な緊張や力みが生まれてしまうものです。一度それらが生じてしまうと、どうしても動きは体の緊張や力みに妨げられてぎこちなくなってしまいまい、ひずみが生じてしまいます。
 このひずみを正そうとして、バランスをとらせるためにさらに身体をひずませ。ひずみの釣り合いによってあたかも自分の身体が正しい位置にあるかのように自分自身を錯覚させて納得してしまうということが、よく起こります。
 この始めにひずみが生じた時にとき、焦らずに身体が落ち着くのを十分に待てば自ずと身体はあるべき場所に納まります。焦って形を整えようとするのではなく、整うのを待つ心を持って稽古してください。


 10月14日(日)午後2時から安芸高田市吉田歴史民俗資料館主催の公開講座が行われます。今回の講座は私が「宍戸司箭の武術ー司箭流の長刀と貫心流の剣術ー」という演題で講演します。
場所は甲田町ミューズ(広島県安芸高田市甲田町高田原1446-3)で行われます。
http://www.akitakata.jp/site/page/institution/public_hall/kouda02/guide/文献を中心とした講演となりますが、始めて使うパワーポイントを用い、なるべく分かり易い講演にしたいと思っています。
 興味のある方は安芸高田市吉田歴史民俗資料館(0526-42-0070)まで事前にお申込ください。受講料は無料です。
  


  1. 2007/10/10(水) 23:50:02|
  2. 居合 総論

言葉

 水曜日・木曜日と無双神伝英信流抜刀兵法の指導をしていて言葉による指導の矛盾を感じざるを得ませんでした。
 動きを見せながら言葉を用いて説明しても、初心者の方は動きではなく言葉にしばられ、さらに言葉から自分がイメージを作り上げ、そのイメージにあわせた、縛られた動きをしようとします。
 本来自由である動きが、鋳型にはめられて、そのようにしか動けない動きに変質してしまいます。
 一言の言葉の裏には、無数の事柄がお互いに関係を持って存在しています。したがって、一を聞いて百を知るレベルの人でなければ、言葉は有害な物となってしまう事のほうが多いようです。
 初心者の方は、まず本質を見取る稽古をされ、自分の内なる動きを感じる稽古をして下さい。言葉にはけっしてとらわれないように・・・。
 かつて稽古に来られていたある人が「いくら良い流派であっても、万人が上達できる何々理論といったものが存在し無ければ、その流派は栄えることはない。」といわれたことがあります。
 しかし、何々理論と作り出したが最後、人はその理論に縛られ、自由ではくなってしまいます。言葉で説明できるのは、ほんの僅かな部分でしかないのです。
 初心者の方は見て取る努力を惜しまず、見る力を養ってください。

 10月14日(日)午後2時から安芸高田市吉田歴史民俗資料館主催の公開講座が行われます。今回の講座は私が「宍戸司箭の武術ー司箭流の長刀と貫心流の剣術ー」という演題で講演します。
場所は甲田町ミューズ(広島県安芸高田市甲田町高田原1446-3)で行われます。
http://www.akitakata.jp/site/page/institution/public_hall/kouda02/guide/文献を中心とした講演となりますが、始めて使うパワーポイントを用い、なるべく分かり易い講演にしたいと思っています。
 興味のある方は安芸高田市吉田歴史民俗資料館(0526-42-0070)まで事前にお申込ください。受講料は無料です。
  


  1. 2007/10/12(金) 22:48:00|
  2. 居合 総論

ゆっくり静かに

 無双神伝英信流の稽古では初心者の方に「ゆっくり静かに」稽古を、とお話しています。これは初心者の方は自分の身体を感じる力(感度)が弱く、ややもすれば自分自身で力みやひずみが認識できない速さで動いてしまうので、自分自身で力みやひずみが認識できる速さでという意味でお話しをているのです。
 しかし、誰にでも起こることですが、少し形を覚えたらできたものと錯覚し、先輩や師の速さで動こうとしたくなってしまいます。いつもお話していますように、貫汪館での居合の速さは無理無駄が無くなった結果としての速さであるので、速さを求めてそのようになったものではありません。したがって初心者の方には速く見える動きも、刀を抜いている本人にとっては速いと感じられる動きではないのです。自分で速いと感じてしまった動きは調和の取れていない動きです。
 居合は誰かに形を正されて、正されたとおりに外見上の形を覚えたら上達するというものではなく、己自身が自分のひずみを正すことが出来なければ上達は難しいものです。初心者の方はくれぐれも勘違いされず、「ゆっくり静かに」稽古を重ねてください。
  1. 2007/10/18(木) 12:06:27|
  2. 居合 総論

良い姿勢

 人は一度教え込まれたことから脱するのは容易なことではないと、つくづく感じました。
 中級者の方でも頭では無双神伝英信流の姿勢は「あるがまま」であると分かっていて座法も出来、ある程度動くことも出来るのに、動きの結節点ごとに、良い姿勢のなごりがでてしまいます。抜付けの終わり、斬撃の終点、そういったところに子供の頃から教え込まれている良い姿勢が出てしまうのです。動きの始めや途中には出ないので業になっているのですが、どうしても動きの間がおかしくなってしまいます。そこは当然のことながら隙になっています。
 これが初心者となると、どう教え込んでも、何をいっても、子供の頃から教え込まれた良い姿勢から脱することが出来ない方もおられます。一度赤子に戻って全てを捨ててみれば良いのでしょうが、それができないから苦労されているのだとは思います。
 子供の頃のことを思い出せばよいのですが、幼稚園や小学校・中学校で「気をつけ」を習ったり、椅子に座って良い姿勢を習ったときに窮屈さを感じなかったでしょうか。背筋を伸ばし、首の後ろを伸ばし、胸をそらす。いわゆる軍隊での「不動の姿勢」です。作らなくては出来るものではありません。しかし、武術にあっては作ったが最後、自由には動けなくなってしまいます。
 わかっていてもそうしてしまう。「習い性となる」とはよく言ったものだと思います。 
 貫汪館ではあるがままが良い姿勢であり、背筋を伸ばしたり、腰を入れたりといった作った姿勢を良しとしませんので、思いを変えて稽古に臨んで下さい。

 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。

 11月3日(土)午前9時半から明治神宮西広場芝地(雨天の場合は至誠館剣道場)において日本古武道振興会主催の明治神宮奉納日本古武道演武大会が開催されます。貫汪館からも無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術が演武します。お時間がある方はお越しください。
  1. 2007/10/22(月) 23:43:56|
  2. 居合 総論

まかせる

 無双神伝英信流の稽古が進み、想定も生きたものになり、何も考えなくても手順を間違えず、自分の動きの力み、ひずみも分かるようになったら、自分の身体を信じ、身体に任せてみてください。
 体を開いてとか、右手はそこにおいたままにとか、重心は下にとか、全て頭から消し去り、ただ無念無想に敵に向かって抜くことだけをしてみてください。身体は不思議なもので、無理無駄ない動きの稽古を重ねたら、あとは信じて任せきっても身体がかってに動きを調整してくれます。そのほうが身体にとって楽だからです。
 身体は自ら調和の取れた動きをしようとするようです。そこに人の頭で考えた作為が入るために力み、歪みが生じてしまい、結果として身体の調和が取れなくなってしまいます。頭が身体の調和を乱しているのです。
 おそらく、始めのうちは物足らなく感じるかもしれません。なぜなら調和が取れた動きだからです。自分の頭を使い調和が乱れた動きをし、さらに無理に筋力を用いて緊張によって崩れを防げば、何かをしたという強い実感が残ります。しかしそれは自由に動けることとは正反対の動きでしかありません。
 身体を信じ任せてみてください。

 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。


 11月3日(土)午前9時半から明治神宮西広場芝地(雨天の場合は至誠館剣道場)において日本古武道振興会主催の明治神宮奉納日本古武道演武大会が開催されます。貫汪館からも無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術が演武します。お時間がある方はお越しください。
  1. 2007/10/24(水) 23:08:49|
  2. 居合 総論

思いが変わらねば

 「思いが変わらねば。」とは無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生の言葉です。
 初心者でもあるまいにいつまでたっても技の緩急だの、脇をしめてだの、腰を入れてだの、切先の高さはだの、より強くだの、そんな思いで稽古をしていては上達はありません。外見を作る稽古をしていてはいつまでたっても自由な動きになることはないのです。
 全ては結果であり、結果を直接求めるものではありません。先生の業が晩年になってから変化したのは、上達ではなく、今まで積み上げたものを捨て去ったからなのです。本質的な部分で全く異なっていたのです。それを今まで行われていた稽古の延長であのようになられたと思うから、どなたも先生の本質を見ることは出来ませんでした。先生は本質的に変化されてからは言葉による指導はあまりされなくなりました。見える者だけがついて来ればよい良いとお考えでした。
 したがって、多くの見えない人たちは従前の稽古をただ繰り返すだけで、先生の本質とはかけ離れたものを求められました。先生の下に稽古に来られることさえあまり無くなり、私一人稽古を付けていただいたことが何度もありました。先生の思いが理解できなかったのです。
 貫汪館で稽古される方であっても、思いが異なっていてはいくら稽古しても上達はありません。
 

 貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の行事のページに明治神宮奉納演武の写真を載せました。ご覧下さい。

 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。

  1. 2007/11/15(木) 20:05:33|
  2. 居合 総論

先入観

 中年になってから無双神伝英信流の稽古を始める方に多いのですが、稽古を始めてからも自分の先入観を捨てることが出来ず、習ったことが素直に身に付かないといったことがしばしば起こります。
 時代劇が好きで、刀はビュンビュン振り回すものだと思い込んでいる方に、「稽古では静かにゆっくりと振る事によって、やがて速さが自然に身につくもので、身に付いた速さは速いという実感はない。」といくら説いても、先入観に支配されている方は腕力で速い実感を求めることはやめられようともしません。静かにゆっくり振って、振ったという実感が腕に無ければ稽古を始める前より下手になったように感じるからです。自分の中に上手・下手の価値観が出来上がっていてそれを捨て去ることが出来ない方はどのように指導しても決して上達することはありません。
 以前、ある初心者の方に「演武に使う大切な鞘木刀ですから。傷つけたくは無いので大事に使ってください。」とお話して、お貸しし、静かに抜き出すことを何度も教えたのですが、自分一人で稽古されるときには必ずシャキーンと鞘音高く抜かれる方が居られました。自分の価値観が私が指導することよりも勝っていたのです。このような方が上達するはずもありませんし、流派の技を身につけることなどは不可能な話です。
 このように極端ではないにしても、歳をとっていれば「このようにしたほうが強いはず。」とか「このようにしたほうが速いはず。」といった先入観が少なからずあります。そしてそれが、身についているために、無意識のうちに動きに表れることも多くあります。そんな場合指摘しても、何故自分自身そのような動きをしているのかが分からないと思います。
 自分自身の心の働きや身体の動きを第三者的に見つめなおし、稽古を始める前に持っていた先入観を捨て去ることが大切です。


 貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の行事のページに明治神宮奉納演武の写真を載せました。ご覧下さい。

 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。

  1. 2007/11/17(土) 22:30:21|
  2. 居合 総論

体にまかせる

 本日の無双神伝英信流の稽古では徹底的に体にまかせる稽古をして頂きました。 
 体に任せる稽古というのは、手の内とか、脇とか、足首の働きとか、膝の働き、腰の動きといったことを全く考えずに、ただ身体の真ん中に任せて動くだけの稽古です。
 ある程度上達した人なら、体にまかせて動けば全ての動きの調和が取れており、無理や無駄が無くなり、意識しなくても速さ・強さは自然に生まれてきます。そのような速さ・強さは求めて作ったものではないので、自分では自覚できるものではなく、あくまでも、自分には自然に動いているという感覚しかありません。
 今日は稽古を始めて2年足らずの方には、大森流・英信流表・太刀打・詰合・大小詰の稽古をしていただきましたが、「体にまかせる稽古」をしていただくと抜付けや納刀に無理無駄が無くなり自然に何気なく苦労せずに全ての動きができるということに気づかれたようです。また、大小詰においても、体にまかせれば力を用いずに打太刀を自由に投げることが出来るということも体感されたようです。
 いつまでも稽古で「ああしよう」「こうしよう」と考えた動きをしていると、自分自身がその枠の中にはまってしまい、自由な動きは出来なくなってしまいます。頭で考えるよりも、体に任せれば、体は自由に調和の取れた動きをあらわします。


 11月25日(日)午前9:20から厳島神社において日本古武道協会主催の演武会が行われます。渋川一流柔術は1番目と最後に演武致します。最後の演武は14:16からです。演武される方以外の方もお時間があればお手伝いにお越しください。
 
 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。
  1. 2007/11/22(木) 00:32:42|
  2. 居合 総論

厳島神社・第18回日本古武道術技向上演武大会

 本日、日本古武道協会主催による厳島神社・第18回日本古武道術技向上演武大会がおこなわれ、渋川一流柔術は一番目と最後に演武をさせていただきました。
 渋川一流柔術は毎年、進行と、流派解説のアナウンスを仰せつかっております。演武をされずにお手伝いのみをしていただいた無双神伝英信流抜刀兵法ならびに渋川一流柔術を稽古される皆さん、お手伝い有難うございました。

 今回の演武会で感じたことは追々述べていきますが、今日は演武の位置についてのみ述べさせていただきます。
 厳島神社で行われた本日の演武は奉納演武であり、神々に我々の稽古している武術を御覧頂くための演武会です。流派によって様々な位置で演武が行われてれていましたが、演武に当たっては無双神伝英信流抜刀兵法・渋川一流柔術共に以下のことを頭においていただきたいと思います。
 御神前にお尻を向けた演武を決してしない事。
 今日の演武会場である祓殿は上座に向かって縦に細長いため、槍や長刀などの流派によっては横方向での演武が難しいところもありましたが、多くの心ある流派は祓殿を斜めに使われお尻を向けることが無いように留意されていました。渋川一流柔術はそれほど間を必要としないため、横方向での演武が可能ですが、もし、無双神伝英信流が太刀打などで間を広く取る必要がある場合には先ほど述べたように会場は斜めに使って演武を行い決して神様にお尻を向けることが無いように演武しなければなりません。
 二つ目は武器等を用いた演武をなす時は、決して神様に斬りつける様な方向に演武しない事。
 剣であろうと棒であろうとその方向が神様に向くことは不敬であり、神様に演武を見ていただくという大前提を忘れた行いです。無双神伝英信流抜刀兵法、渋川一流柔術の稽古者ともにこのような行いは許されません。心して演武しなければなりません。
 その他、演武中、控えにいる時にかかあらず、不敬にならないよう行動する必要があります。

 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。
  1. 2007/11/25(日) 23:52:46|
  2. 居合 総論

腹と腰

 今日、久々に無双神伝英信流抜刀兵法九州支部長が稽古に来ました。前回の宿題であった、絶対に腹筋に力を入れてはいけないという課題はずいぶんと工夫をしてきていたようでした。
 しかし、動きを見ていると、どこかぎこちないところがあり、 重心も若干高めでした。良く見ると「腰を入れる」ということを勘違いされ、異なる体の備えをされていました。一般に「腰を入れる」というとズボンのベルトの上の部分を前方に押し出すように考えられているのですが、無双神伝英信流にあってはそのような体遣いはありません。むしろその部分は自然に弛んでおり、大切なのはその下部なのです。
 腹筋に力を入れないように努力していても先ほどの部位を前に押し出すと腹筋に力を入れていないようでも、無意識に入っています。その部位を自然に緩めてやると腹は弛み、呼吸も深くなるのですが、その下部の用法を知らなければ、武術的でない「へたった体遣い」となってしまいます。
 ここでは詳しい解説は避け、他の方には道場において指導いたします。一般的な体遣いの常識と武術における体遣いは随分と異なることもあるということは、頭に留めて置いてください。

 貫汪館ホームページに会報54号を載せました。御覧下さい。

 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
 今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。
  1. 2007/12/01(土) 21:07:36|
  2. 居合 総論
次のページ

FC2カウンター


無料カウンター

プロフィール

貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!

カテゴリー

ブログ内検索

リンク

このブログをリンクに追加する

最近の記事

月別アーカイブ