無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

完全相伝と不完全相伝

貫汪館

 武術 (古武道)において近年とくに家元、宗家という言葉が用いられるようになってきましたが、貫汪館ではそのような言葉は一切排除しています。間違った歴史認識が武術(古武道)でも一般的になってきていますので、長くなりますが、この理由を説明してまいります。
 歴史的に見て、古武道の世界に家元、宗家という言葉を用いて自分のみがその流派の唯一絶対者であると言うような風潮が現れたのは主に戦後のことで、それ以前はごく一部を除いて、武術(古武道)を芸能の世界に比するようなことはほとんど行われませんでした。
日本の芸道の伝授方式について論述された不朽の名著に西山松之助先生の『家元の研究』があります。
 このなかで、西山先生は師が弟子に秘儀・秘伝を皆伝するのみならず、弟子自らがその弟子に秘儀・秘伝を相伝する権利を相伝する権利までを与える場合、これを完全相伝という。それに対して家元が最終相伝権を独占し、弟子には一代相伝あるいはそれ以下の限定的な相伝しか許さず、弟子は末端弟子の実技指導について家元を代行する中間教授機関、つまり名取りとなり名取りを家元の家父長的権力の拡大再生産機構として用いる場合を不完全相伝と分類されています。
 そして前者の場合には家元制度は存在せず、後者の場合に家元制度が存在するのであるとされています。
 武術の場合にはどうなのでしょうか。結論から言えば武術の場合には家元制度は存在しませんでした。西山先生はこのように述べられています。
「武術流派は、これまでにもしばしば述べたように、完全相伝形式によらねばならない本来的性格をもっていた。わざの絶対的優位が、そのわざを伝承する最有力条件であったから「血のみち」は教学理論の伝統に優先するとうそぶいて、法主の座に君臨しておられるような、そういう世界ではなかった。事実、武術にあっては、全ての流派において、その秘術を皆伝するに当って、あらゆる一切の権威をも相伝したのであった。このため被伝授者は、伝授を与えられた瞬間において、みずからその権威の当体あるいは象徴となり変わるのである。世襲的な権威の家では、権威は永久にその家において連続しているのであるが、武術諸流では家において連続しない。非連続の連続という形式をとるわけである。そのことは、武術諸流派における秘技相伝書を二つ三つ比較してみれば一目瞭然である。・・・中略・・・つまり上泉伊勢守には多数の優秀な剣士がその門下に集まっていて、多くの人々が免許皆伝の印可を与えられたが、この印可を与えられた人々は、同時にみずから他の人々に向かって免許皆伝の印可を与える特権をも与えられたわけである。したがってこの門下から輩出した多数の高弟はみずからまた多くの免許皆伝の印可を発行した。そのため数代後の末端における兵法の相伝者たる権威の象徴は、きわめて多数に及び、それぞれ流系の正統譜は歴然としていて、上泉に発したものであっても、それはいずれも各個独立した兵法者として独歩したのであった。」
 つまり武術においては芸道のようにこの流派の唯一絶対の正統の家元は誰々であるという事は、ありえなかったわけです。
 西山先生は世襲の小笠原流について、このように述べられています。
「本来勝負を主眼とする武技の世界にあっては、何流であれ、負けることは同時に生命をたたれるのであるから、負けたのではその権威を保持し得ないのは自明のことである。小笠原家の代々が、いかにすぐれた武人たちの連続であったにしても、弓馬の法において、その勝負によって家の権威が問われたとしたならば、この家が代々世襲的にゆるぎない王座に君臨することはありえなかったであろう。・・・中略・・・別言すれば勝ち負けが、同時に生命に関係することもなく、また家の権威にも直接的には関わることもない。そのような性格の弓や馬のわざ、つまりそれは、貴族文化としての騎射の芸能が早く室町初期に成立したからだといえよう。このような性格、すなわち遊芸としての弓馬の法に関する権威の家として、小笠原家はその家元となり、代々これを世襲することとなったのであった。」
 貫汪館で皆さんが稽古されている無双神伝英信流も渋川一流も流祖代々、遊芸ではありませんし、家元制度、宗家制度は存在しませでした。今後も貫汪館において遊芸化させ、家元制度・宗家制度と言ったものを新たに作り出すつもりもありません。
 現代は武術を持って人と勝負する時代ではありませんが、貫汪館にあっては見栄えをもとめず、花を作らず、権威をこしらえることなく、真摯に武術を追及していきたいと思っています。
 西山松之助先生の『家元の研究』は西山松之助著作集第1巻(s.57.6.28/吉川弘文館)に収められています。大きな図書館で閲覧できますので、ご一読ください。
  1. 2006/10/13(金) 00:40:47|
  2. 武道史

完全相伝と不完全相伝 補遺

 先日の記述で武術(古武道)には家元制度は存在しえなかったと記述しましたが、これについて補足します。
 武術(古武道)には家元=宗家制度をとらなくとも、流祖以来代々、その家で、その流派を継承した宗家も存在し、また存在しました。
 それは竹内流の竹内家、柳生新陰流の柳生家、示現流の東郷家などで、流祖以来代々その家で、それぞれの流派が守り伝えられています。ただし、これらの流派であっても、それが優秀な流派であっただけに、その家から免許を得た者が、各地にひろがって、その流派をその者の責任と権限において教授し、発展していると言うことを歴史に見ることができます。また、直心影流薙刀術のように、園部秀雄先生によって創意工夫が加えられそれ以降、園部家によって伝えられているといった流派もあります。
 無雙神傳英信流においては特定の家が代々教授していることはありませんし、植田平太郎先生はその経歴に「細川義昌先生に就き皆傳を受く」としか書かれておりません。また同じく細川義昌先生の門人であった夢想神伝流の中山博道先生も「細川義昌より大森流並びに長谷川英信流の免許を受く」としか書かれていません。(『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和展覧試合』・昭和9年11月25日発行・大日本雄弁会講談社発行)。私の師の梅本三男貫正先生も、私も宗家を名乗ったことも無く、また、澁川一流柔術においても私の師である畝重實嗣昭先生も、その師車地國松正嗣先生も、またその師宮田友吉國嗣先生も宗家を名乗られたことは無く、私もまたしかりです。
 昨日は無雙神傳英信流の太刀打の講習会を実施いたしましたが、流派の歴史はそれを受け継いだ歴代の師範の責任によって受け継がれてきたものだと言うことを思い、講習を受けた皆さん全員がそれぞれの自覚をもって今後の修行を続けていただきたいと考えます。

  1. 2006/10/15(日) 10:52:05|
  2. 武道史

武道史

 本日、友人と福島大学教授 中村民雄先生を東京の文京区小石川にある民和文庫に訪ね、お話をお聞きしました。中村先生は日本武道学会事務局長・庶務委員長であられ、近世竹刀打ち剣術流派伝播過程の研究を中心として多くの研究論文を書いておられる方です。

 中村先生のお話の中に、古武道を稽古される人の中で自分が稽古する流派の歴史を正確に知ろうとする人が少ない。というお話がありました。幸いに貫汪館で無双神伝英信流を稽古されている方には「無雙神傳英信流の研究(1)」(平成14年度広島県立廿日市西高等学校研究紀要11号抜刷)をお渡しいたしておりますので、これを十分に読まれ私達の流派がどのような歴史を有しているのかを十分に理解していただき稽古を続けて頂きたいと思います。
 この研究は私が直接資料を収集して発表したものですので、旧来の通説よりも新しい内容が含まれているため、私の研究を参考にしたことを明記せずに引用されていたり、あたかも自分で調査したかのごとく都合のよい部分のみを取り上げている方もおられますが、これも今の時代いたし方のないことかとも思い、また、そのような方が武道関係者であることを悲しくも思っています。
 引き続き「無雙神傳英信流の研究(2)」も発表すべく新たな資料の収集も済ませ、また、収集中でもありますので、よろしく御協力お願いいたします。
 自流の正しい歴史を知らないことは、自分のみが絶対であるという誤った認識を生み、本来、心と体を自由にするための武道が逆に凝り固まった心と体を作り出すものとなります。よくよく心してください。
 
  1. 2006/11/04(土) 22:53:59|
  2. 武道史

剣号と諱

 今日は剣号と諱について記します。一般的にはなじみがない剣号と諱ですが、武術の世界ではいまだに用いられていますので、知識の一部とされてください。
 貫汪館という道場名は私の剣号による道場名ですが、師 梅本三男貫正先生より無双神伝英信流の道場開設を命じられたときに、師は「道場名につける最高の剣号を考えておく。」と言われ、「一番良い剣号を考えたよ。」といって授けていただいた号であり、当時、渋川一流柔術の畝重實嗣昭先生の師範代をしていた私は、畝先生からも柔術の指導をすすめられており、この道場名で無雙神傳英信流抜刀兵法と澁川一流柔術の指導をする許可を梅本先生から頂き、爾来貫汪館での指導を続けております。
 
 おおよそ武術(古武道)における諱・剣号というものは遊芸における「名取」の制度とはかけはなれたもので、これを遊芸の家元制度における「名取」と同一視して語る者があるのは、無知からくるものか、本来家元制度のない自己の修める流派武術の世界に自分だけが尊いという宗家を詐称したうえ、さらにその地位を固守しようとする意図をもつものか、嘆かわしい限りです。
 江戸時代およびそれ以前の武士は、字(あざな)と諱(いみな)の両方をもっていました。字は通称であり、諱は本名で、日常は字をもちいていました。
 たとえば、無雙神傳英信流の流祖林崎甚助重信は甚助が字(通称)であり重信が諱(本名)となります。また、田宮平兵衛業正は平兵衛が字(通称)であり業正が諱(本名)となります。通常、諱は漢字2文字のうち親、先祖代々の諱の特定の1文字を入れることになっていました。たとえば無雙神傳英信流の歴代の師範中、林六太夫守政の子、林安太夫政詡に政の字が引き継がれ島村馬允義郷の子、島村(細川)善馬義昌に義の字が引き継がれているように。
 ところが、明治5年5月7日の太政官布告「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルへキ事」により、諱と通称を併称することが公式に廃止されたため、伝書に代々書きつがれていた諱が書けなくなり、そのかわりとして用いられたのが剣号です。号(ごう)とは、名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号で字や諱と異なり、自身で名付けたり、他人によって名付けられるものです。尾形郷一貫心先生の剣号は先生が貫心流の免許皆伝者としてすでに指導されていたところからつけられたもので、梅本三男貫正先生の剣号は尾形先生から授けられたものです。ちなみに植田平太郎竹生先生のご子息で、無雙神傳英信流の指導をされていた植田一先生にはご尊父から授けられた竹譲という号があります。この場合、ご子息なので、その性格は諱に近いものであると思われます。
 植田平太郎竹生先生の伝を受けられた尾形郷一貫心先生の剣号に植田先生の剣号の「竹」も「生」も用いられていないことから、「名取」の制度であるという主張がいかに根拠のないものであるということがわかると思います。
 一方、澁川一流柔術では畝重實嗣昭先生からは「かつては親の諱の一字をもらって諱としましたが、今は、そのような風習はなくなったので、師が弟子に諱を授けるようにしているのです。」と話され私に「嗣時」という諱を授けてくださいました。宮田友吉國嗣先生、車地國松正嗣先生、畝重實嗣昭そして私へと「嗣」の一字が用いられているのは、そのような理由によります。
 私の柔術の諱の「時」には畝重實嗣昭先生の澁川一流柔術を流祖、首藤蔵之進満時の時代のように、再びゆるぎないものにと言う願いが込められています。剣号の「汪」の字にも師の梅本三男貫正先生の思いが込められています。興味ある方は漢和辞典で調べてみてください。



  1. 2006/12/11(月) 07:04:08|
  2. 武道史

武道史調査

7月6日(金)から8日(日)まで、主に大石神影流に関する調査のため大牟田市、柳川市へ行ってきました。
いつもは愛車のZRX1200Sで行くのですが、今回は梅雨による激しい雨であったためテント泊は断念せざるを得ず、車で行き車中泊をしました。いつもながら貧乏旅行です。(やはり車の中よりテントのほうが寝心地は数段良いです。)
とは言っても、2日とも泉質の良い市営の温泉に入りましたし、朝夕ジョイフルの定食だったので、最終日のお昼は豪華、うなぎの蒸篭蒸し(上)を食べました。
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大石神影流に関しては大石家は存在しているものの文書の多くが散逸し、8月末の日本武道学会では『大石神影流諸国門人姓名録』について発表します。そのためできるだけ多くのことを知っておこうと、再度、大石神影流の継承者である大石英一先生を訪ねたり、郷土史家で大石神影流の調査の第一人者である藤吉斉先生にお話を伺ったりしました。残りの時間は文書館で史料の写真撮影をしました。
武道史研究は私個人の目的は武道とは如何にあるべきかを明らめることにあります。貫汪館で稽古される皆さんも歴史をみることにより、今如何にあるべきかを考えていただきたいと思います。
今回の成果は『道標』などでおいおい述べていきたいと思いますが、強く感じたことは江戸時代の武術は自由であったなということです。実に様々なスタイルがあり、それぞれの方法で稽古しています。多様性があるのです。これが絶対だという押付けはそこにはありません。幸いに貫汪館は無双神伝英信流抜刀兵法も渋川一流柔術も第三者から段位を授けられ軍隊式の画一化したガチガチの動きを強制されることはありません。これからも自由な立場で武術(武道)のあり方を求めていこうと思います。
  1. 2007/07/09(月) 23:26:06|
  2. 武道史

権威

 とある居合の書籍に、座したときの両手の甲の向きについて述べてあり、このようにしていたら敵に手を下方に押し付けられたら身動きは取れないけれども、このようにしていたら、たとえ押し付けられても相手を投げることさえ可能になると記してありました。
 その方法論は無双神伝英信流や渋川一流柔術からみれば全く逆で、今までに指導を受けたことのある灘波一甫流や今治藩伝の浅山一伝流の方法論とも逆、またいままでに見学したどの柔術とも逆の論理でした。
その方の経歴から居合は高段者のようですが、経歴や身備えからは柔術をされた方のようには見えませんでした。何かの流派を習得されている方かもしれないので一概には言えませんが、公刊されている書籍にこれが正しいと書かれていれば、初心の方はおおいに惑うことになると思います。他流派の書籍を読まれて無双神伝英信流や渋川一流の稽古に迷われた場合には、遠慮無くご質問ください。
また、話はかわりますが、以前、武道史の研究で高杉晋作の新陰流と武者修行に興味をもったことがあり、その史料を所蔵されている公的機関に問い合わせをし、直接読むことができるのかどうかを質問しました。すると、ある学芸員の方を紹介され、「いついつお電話されてください。その曜日にこちらへこられます。何でも答えてくださいます。」と話されたので、電話してお話しました。
結論から言うと、その学芸員は史料を見せたくないようで(ある書店の広告の文章には研究者は原資料に当らなければならないと書かれていましたが。)、「この書籍に載っている、あの書籍に載っている。」といろいろと本題に関係ないことを話されました。「自分がその権威であるので研究されると困る。」といった意図が影に読めたので、話を止めましたが、話の中で「高杉晋作への萩の新陰流は柳生十兵衛からの流れなので裏柳生の系統です。」と自信を持って話されました。
多少、武道史を学んだことのある方はお分かりだと思いますが、権威者であるだけにそのようなことを公言されるとそれが真実となってしまいます。わからぬことは不明としなければなりません。

我道の居合一筋雑談に知らぬ兵法事を語るな
  1. 2007/07/19(木) 17:45:14|
  2. 武道史

向上心

 先日、所用があって長崎へ行ってきました。その前の週は柳川・大牟田へ武道史調査の為に行ってきましたので、二週連続で九州へ行ってきたことになります。道すがら大石神影流『諸国門人姓名録』にでてくる地名の多くを標識にみることができました。
 大石神影流『諸国門人姓名録』については8月31日の日本武道学会で発表しますので、詳細はその時までまっていただきますが、地図の上で見る地名を実際に感じてみると、当時の人が如何に修行熱心であったかということを感じずにはおられません。
 小城、福岡、天草、武雄、唐津、松浦、鹿島、諫早など地図で見れば近いのですが車で走っても相当な時間が掛かります。当時、徒歩であれば柳川までどれほどの時間が掛かったことでしょうか。それを遠しとせず、幾人もの人たちが大石神影流の門人となっているのですから、当時の人たちの向上心には頭が下がる思いがします。
 向上心なくしては、上達もありません。 
  1. 2007/07/24(火) 20:56:42|
  2. 武道史

長谷川英信

 長谷川英信について俗説に太刀を佩いた状態からの居合を帯刀した状態からの居合に改編したといわれていますが、一体誰が言い出したことなのでしょうか。
 すくなくとも無双神伝英信流にはそのような口承はありません。
 長谷川英信自身が江戸時代の人であり、居合が戦場における武技であるというよりは平時の武技であるので、当時の状況を考えると太刀を佩いた状態での稽古が行われていたとも思えません。
 さらに言えば、林崎甚助が林崎明神に奉納した3尺2寸の太刀銘の「信国」は指料であったという記録があり、林崎甚助の居合そのものが帯刀の状態からの居合であったと考えるのが自然であると思います。
 
 また、長谷川英信が居合は伝えていなかったという説もありますが、現段階では1部の史料からそのように思われるというだけであり、土佐藩では長谷川英信の名が伝系にはっきりと現れており、また、土佐藩以外の藩に伝わった長谷川流の居合の伝書には(研究中のため藩名はふせます)伝系は書かれていませんが、長谷川流と言う流名のもとに土佐に伝わった居合と同じ形名の一部の居合が行われています。

 居合に関しては、根拠のない説が当たり前のように言われているところがあり、また、立派な書籍にも意図的かどうかは別にして大きな間違いが書かれていたりします。貫汪館で稽古される方は一般の言説に惑わされないようにしてください。
  1. 2007/07/26(木) 22:42:14|
  2. 武道史

調査旅行

 8月3日(金)から本日7日(火)まで高知県に武道史の資料調査に行ってきました。
高知城


 目的は私達が稽古する無双神伝英信流抜刀兵法に関する調査と大石神影流の初代大石進門人である四万十市(旧中村市)の樋口真吉に関する調査です。
 8月3日(金)は早朝から出発する予定にしていたのですが台風の影響でフェリーが欠航しておりまた、風が強く愛車のZRX1200Sも風にあおられそうでしたので、のんびりと出発、結局ファリーのったのが11:30でそれから約2時間の船旅、松山堀江港に着いてから約3時間のバイクでの四国縦断で結局、高知に着いたのが午後4時半、高知県立図書館で7時まで江戸期の文献の調査をしてから、図書館の司書の方に教えていただいた「ぽかぽか湯」に入浴、夜は伊野町の仁淀川河川敷にテントを張って宿泊しました。
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 翌、4日(土)は一日中、高知県立図書館で文献の調査をして、また「ぽかぽか湯」に入浴、夜は前日と同じく伊野町の仁淀川河川敷にテントを張って宿泊しました。
 5日(日)は日曜市を歩いて午前中は高知県立図書館へ、午後は山内宝物資料館の学芸員さんのお話を伺いに同所へ赴きました。学芸員さんとは事前に電話でお話していましたので、史料目録や目録に載っていない文献のリストの準備をしておいてくださり、その結果、史料の閲覧申請を書き、火曜日に史料閲覧をさせていただくことにして、その足で高知市立自由民権記念館に向かいました。自由民権記念館でも学芸員さんが快く対応してくださり、私の疑問点には後日回答してくださることになりました。
 午後4時過ぎて四万十市に向かい日没前に四万十市に到着、四万十市では二期作の稲刈りがなされている田もあり、また2回目の苗が植えられている田もありました。
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 四万十市に着いて、そのまま海岸近くの「四万十いやしの湯」に入浴、四万十川河川敷にテントを張って朝まで過ごしました
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 6日(月)は四万十市郷土資料館で樋口真吉の史料調査、武道史の面からみて面白い史料がたくさんありました。一日では時間が足りなかったので、再度訪れる必要があります。6日の夜はまた高知まで走り、「ぽかぽか湯」に入浴、いつもの伊野町の仁淀川河川敷にテントを張って宿泊しました。前々回の高知での調査でも同じ場所に泊まりましたので仁淀川河川敷には5泊したことになります。
 7日は山内宝物資料館に行き、史料の閲覧と撮影を済ませ、再び山越え、フェリーに乗って、さらにバイクを走らせて廿日市に戻ってきました。
 今回の調査旅行はバイクの車検後ということもあり、走行は非常に楽でしたが、2回目の車検なのにもう8万キロ近く走っており、タイヤ交換や部品交換に相当な出費がかかり、さらに自賠責保険、任意保険と出費、前回の柳川調査や長崎行きの時のETC走行、ガソリン代の請求もあり、この夏はこれ以上の行動は金銭的に不可能になってしまいました。
 しかし、調査を進めれば進めるほど、さらに調査しなければならないことが増えてきます。資金と時間が足りません。
 調査の成果は少しずつ、お知らせしていこうと思っています。

  1. 2007/08/07(火) 21:14:48|
  2. 武道史

流名

 無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の初心者の方は自分が稽古する流派の流名について迷われることがあるようですので再度確認をしておきます。
 まず、無双神伝英信流抜刀兵法ですが、公的には旧漢字の無雙神傳英信流抜刀兵法を用いており「むそうしんでんえいしんりゅういあいへいほう(ひょうほう)」と読みます。細川義昌先生には御二人の免許皆伝の弟子がおられ、一人は植田平太郎先生で私達の流れへつながりますが、もう一人は中山博道先生で、ご自身の工夫を加えられ、はじめ無想神伝流を称され、現在は一般に夢想神伝流と呼ばれています。夢想神伝流は中山博道先生から全伝を授けられた方は少数であったようですが、多くの方が自分の習ったところまでを伝授され、全国的に大きな流派となっていますので「むそうしんでんりゅう」という流派名のみを音に聞いて、私達と同じ流派だと早とちりされないで下さい。内容は大きく異なっていますので、見て間違われる方はおられないとは思いますが・・・。また無双直伝英信流もあり、これは土佐における居合の歴史が長いためにいくつかの分流が生まれたためで、やはり無双神伝英信流とは異なっていますので、ご承知置きください。
 余談になりますが、一般には土佐では居合は谷村派(無双直伝英信流)、下村派(無双神伝英信流)の2派に分かれたと思われていますが(この派といういい方も当時あった言い方ではないのではないかと思いますが)、現在につながっているのがこの二つの流れというだけなのであって、今回の調査で分かったことですが、幕末の居合導役が知られているよりも数多くおられたことから、実際には多くの分流があったと思います。
 次に渋川一流柔術ですが、これも公的には伝書に記されている旧漢字の澁川一流柔術をもちいており、読みは「しぶかわいちりゅうじゅうじゅつ」です。貫汪館で稽古している渋川一流柔術は幕末に首藤蔵之進満時が渋川流と難波一甫流、浅山一伝流を合して創流したもので渋川流とは異なった流派ですのではっきりと区別してください。流祖は首藤蔵之進満時であり伝書にも首藤蔵之進の弟子が奉納した額にもそのように記されています。
 現在、渋川流は大阪に現存し、稽古を続けられていますので、くれぐれも失礼の無いようにお願い致します。
 また、渋川一流は古い時代(戦前)に稽古された方は(もうほとんどおられなくなりましたが)通称として会話の中で「シブカワ」とだけ言われた方もありますので、混乱されないようにしてください。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/09(木) 17:16:33|
  2. 武道史

長谷川英信について

 以前も一度、林崎甚助の居合は、その林崎神社に林崎甚助より奉納された太刀の拵が差料であった事から、腰に刀を差した状態の居合であったのではないかと述べました。また、古い文献のどこにも長谷川英信が太刀を佩いた状態の居合を腰にさした状態の居合に改編したという記録を見出すことがいまだに見つけることもできません。
 長谷川英信については伝書に「目録には無雙神伝英信流抜刀兵法と有り
本、重信流と云ふべき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故に是を称して英信流と揚られたる由也云々」と書いてあり、改編したとはかかれていません。
 江戸時代より長谷川英信が改編したという説があるわけではなく、どうもこの説は「無雙直伝英信流第十七代宗家大江正路先生の実話」という冊子に載っているように無双直伝英信流の政岡壱実先生の推定にはじまるのではないかと思います。少し長くなりますが一部を引用してみます。
 「一、流祖の居合
 流祖、林崎先生の時の居合を考えますに、当時は刀を差すことがなくて佩いていたので刃が下に向いていたわけです。故に下から切り上げる動作が主であつた、という事は誰が考えてもおわかりと存じます。現に林崎先生の弟子の片山伯耆守の伯耆流では、下からの抜き上げ業が非常に多い、それと同じ様に林崎先生は抜いておられただろう事が想像出来ます。又、もう一つ下から抜いたが、斬る事は、上からも右からも、左からも斬つただろうということも想像出来ます。・・・
二、英信の居合
 英信という人は、非常な武芸の達人であつた様です。居合は無論、剣道も出来たし、柔道、その他の武芸を沢山練習した記録が残つております。先生は初め林崎先生の行われたものを、そのまゝ行われたわけなんです。現に英信先生の曽孫弟子の方の伝書の写しを持つて居りますが、絵も載せてありますし、又、内容も書いてありますが、それを見て私が考えまするに、当時、林崎先生のをそのまゝで行われた様に思われます。しかし初めのうちは林崎先生のをそのまゝ習つていて、晩年になつて、或いは中年かも知れませんが、これではどうも具合が悪いと変革されたものと考えられます。

 当時は徳川初期で、林崎先生当時に比して社会情勢、生活様式も変化して参りまして、その時分にはじめて武士の家にも畳を敷くことが出来て、現在の正坐様式の坐法が出来てきた。かくなると同時に刀を差す「帯刀」という風が出来てきた。また今迄通り刃が下向きになつていないから下から抜いていたのでは具合が悪い、上向いているのだから、それはその通り抜かねぱならぬという大変革をきたした。 そこで上から抜くべきだが、実際には斜、又横から抜きつける方が効果的であると考えたのが、英信先生であります(それまで考えなかつた片山伯耆守は昔のままを、そのまゝ行つており、現在迄引継がれていると考えさせられます)英信先生はこれは、刀の差し方が変つたのだから改めねばならぬという考えで変えられたのがそのまゝ伝えられ現在、我々が行つている抜き方になつたと申し上げてよいのであります。 ・・・」

 基本的にこれは政岡壱実先生の推定であり、林崎甚助の頃に既に刀を腰に差す風習があったということを知られなかったために起こった間違いであろうと思います。
 現在一般にいわれている説が、一体、どの時代に言われ始めたことであるのか再度検証する必要があると思います。

 貫汪館ホームページの会報のページに月刊『武道』3月号と6月号の記事を載せましたのご覧下さい。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/16(木) 18:24:52|
  2. 武道史

東軍流

 昨日、「師が稽古の指標として示された無理無駄の無い動き」ということについて触れましたが、これは何も無双神伝英信流や渋川一流柔術の稽古にのみ当てはまるものではありません。私が高校生の頃に経験した事を記します。
 私が子供の頃に住んでいた広島市安芸区船越町には私が住んでいた家から川沿いに日本製鋼のある場所まで歩いていく途中に一見の鍛冶屋さんがありました。暗い作業場の中で、炭でおこされた赤い炎が鞴で風を送られるたびに火勢が強くなり、鉄が真赤に焼けて槌で打たれ形ができたり、曲がったものが直されていく。私は幼稚園の頃からその作業場を見るのが好きで、ずっと見ていたいのだけれど、ずっとみていると、その神秘的な空間を壊してしまいそうで、自分の心に楔を打ち込んではそこを立ち去っていました。今回のお話はその鍛冶屋さんのお話です。
 余談になりますが、わたしは子供の頃の経験から鍛冶にたいする思いが消えず、数年前に熊本県の人吉で鍛冶屋さんに指導を受けて鍛冶場で包丁を十本近く、刺身包丁も2本、あとは小さなナイフや園芸用の移植ごて、火バサミ等たくさんのものを作らせていただきました。いま手元に残っているのは2日がかりで作った写真の狩猟用ナイフ(柄も自作でした)と小さなナイフが数本で、あとは皆、今の持ち主のもとへもらわれていきましたが。

狩猟ナイフ


 話を元に戻します。その鍛冶屋さんは私が中学生になる頃には仕事をやめられ、仕事場には現代的な家が建ちました。
 高校生になって、ある日の午後、私は家の横の空き地で木刀(さすがに外では居合刀は使えませんでした)で居合の稽古を師の梅本三男貫正先生に教えられたとおりにゆっくり、静かにしていました。すると、その高齢であった鍛冶屋さんが通りかかられ、声を掛けてくださいました。そのとき初めて鍛冶屋さんの声を聞き、お話をしました。鍛冶屋さんのお名前は、もう忘れてしまいましたが、このようにお話されました。
 「居合の稽古をしているの。いい稽古をしているね。居合は先生に教えられたとおりに、始めはゆっくり静かに稽古をしないと、絶対に上達しないよ。ゆっくり静かに正しく稽古をするから、速くなっていくんだよ。今のまま先生に教えられるとおりに正しく稽古をしなさい、そうすれば絶対に上達するから。」
 私が師 梅本三男先生と同じような話をされる鍛冶屋さんに驚いていると、
次のように話をされました。
 「私は昔、岡山県に住んでいて、若い頃、東軍流の稽古をずいぶんしたんだ。東軍流には面白い稽古があって防具をつけて稽古をするときに円陣のなかに一人が居て次から次へと、円陣の外に居るものが打ちかかっていく。夜暗い時に稽古もすれば、目隠しをしての稽古もした。」とお話になられました。
 その当時は武道史もほとんど知らず、東軍流も名前は聞いた事があるといった程度でしたので、東軍流についてそれ以上お尋ねしなかったのは、返す返すも残念なことでした。
 その後、梅本先生にそのお話をすると、「世間一般では、そのような見方をする方は少なくなっているのに、隠れた人もいる。もっとお話を聞けばよかったのに。」と話されました。


 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/19(日) 11:18:10|
  2. 武道史

来嶋又兵衛、笹尾卯三郎

 昨日、『新資料 来嶋又兵衛』の著者である山口県美祢市 西圓寺の瓜生等勝先生を訪れ、先生のご案内で、大石神影流免許皆傳の来嶋又兵衛と笹尾卯三郎の遺蹟をたずねました。
 来嶋又兵衛は笹尾卯三郎とともに柳川の大石進に入門天保14年に二人とも大石神影流の免許を授かっています。
 そのご、来嶋又兵衛はもともと修行していた平岡新陰流を名乗りますが、笹尾卯三郎は大石神影流の道場を開きます。二人の道場が近かったためかもしれません。
 現在、来嶋又兵衛の道場跡は小学校の校庭になっています。写真に写っているあたりに道場があったということであり、後方に見える民家が来嶋又兵衛の住んでた住居であったところです。現在もその一部が残されています。
 また、来嶋又兵衛宅は井上馨〈当時、井上聞多:琉球古武術宗家 井上貴勝先生のご先祖) が襲撃された後、傷をいやしつつ幽囚の日々を送ったところでもあるということです。
 
来嶋又兵衛


 来嶋又兵衛は、土佐中村の樋口真吉と同様、身長が高かったらしく、銅像でも大石神影流を修めたものらしく長刀を手にしています。
来嶋又兵衛銅像


 次に笹尾卯三郎の道場跡に行きましたが、山の中腹と言っていいくらいの場所に道場跡はあり、当時ここまで稽古にのぼってくるのもたいへんに思えました。

笹尾道場跡


 この道場で卯三郎は大石神影流を、兄の万次郎が槍術を指導したということで、現在も残る『諸国武術御修行者姓名録』には剱術だけでなく槍術の武者修行者の流派名と姓名が記されています。一緒に案内していただいたナオタさんのお話によると、何十年か前まで崩れかかった道場が残っており、かなり大きな道場であったということです。
 『諸国武術御修行者姓名録』には樋口真吉の日記に記されているように笹尾道場を樋口真吉が尋ねた記録が残されています。
 
 現段階では私の推論に過ぎませんが(根拠となる資料等々は省略します)、「明治維新にあたり西国の諸藩が協力しえたのは武術修行や他藩への遊学を通じて、かなり大きな人脈がすでに存在していたから。」だという思いをますます強く感じました。

 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
  1. 2007/08/26(日) 02:16:06|
  2. 武道史

幕末の稽古

 江戸時代の人がいかに稽古をしたか、その一例を示します。
 明治時代の自由民権運動家として有名な片岡健吉は藩制時代の他の武士と異ならず、武術を稽古しました。また、その修行は剱術、居合、體術、馬術等々その修行は広範囲にわたっていました。
 居合は細川義昌の兄弟子で無双神伝英信流を下村茂市に習い、また、體術も下村茂市から高木流を習っていました。下の写真は片岡健吉の修行日誌の一部です。

修行日誌


 26日には大石神影流の剱術を寺田小膳、寺田忠次、坂井藤蔵、寺田金蔵、宮地征吉と稽古〈防具着用の試合稽古)したのち、無双神伝英信流の居合と高木流體術の稽古。27日は何か期す所があったのか馬術の稽古をした後、午前十時頃より終日、居合を300本抜き、木刀で太刀打の稽古を行い、さらに高木流體術ではクミウチ稽古(現代の乱取に近い稽古)を行うといった数稽古を行っています。このような豊富な稽古を連日行っていますから、現代人の稽古とは質量ともに比べ物にならないほどゆたかです。
 仕事を持っている現代人が同様の稽古をすることは難しく、これに匹敵する稽古をしようとすればよほど工夫をしなければなりません。
稽古日でない日には、仕事が終わって、刀の斬撃や棒を回す稽古をする。太刀打の一人稽古や棒術等の一人稽古は当然のこととして、日常生活全てを稽古と心得なければ古人に近づくことは難しいでしょう。たとえば、道を歩く時、電車に乗って座っている時、箸を持つ時、本を読む時、バイクに乗るとき。これら全てを漠然と行うのではなく、稽古と心得て工夫しなければなりません。
 上達しようと思えば、道場に居る時のみが稽古と勘違いせず、日常生活全てを稽古と心得てください。

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  1. 2007/08/27(月) 22:47:02|
  2. 武道史

日本武道学会

 明日から三日間、日本武道学会第40回大会が開催されます。
 初日の29日(水)は東京都千代田区霞ヶ関の東海大学校友会館で「武道の国際化に関する諸問題」というテーマでシンポジウムが行われます。
 私にはあまり興味のないテーマなのですが、一応、聞きに行きます。何故興味がないか。武道が素晴らしいと思えば、向うから習いに来るでしょうし、武道をしいてこちらから働きかけて外国のスタンダードに変形させて国際化する必要を感じないからです。さらに言えば、「こんなもの国際化すれば日本の恥になるではないか」といえる武道家、指導者をたくさん見てきているからです。今の勝利至上主義の勝てば何をしても許されるという武道を国際化して一体何になるのでしょうか。
 30日(木)、31日(金)は港区高輪の東海大学高輪校舎でいつも通りの学会です。私はいつも人文・社会学系の発表を聞きます。また私自身の発表も人文・社会学系の発表で今回は31日(金)の10時30分から「大石神影流の『諸国門人姓名録』について」という演題で発表します。
 私が武道史研究をするのは無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術が如何にあらねばならないかを歴史を通じて探求するためです。生きた武道であり続けるために。

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  1. 2007/08/28(火) 23:00:43|
  2. 武道史

日本武道学会第40回大会について(1)

 日本武道学会40周年記念シンポジウムは8月29日(水)、霞ヶ関ビル33階の東海大学学友会館で開催されました。
 シンポジストは柔道を代表してIJFメディアコミッショナー ミッシェル・ブルース氏、IJF教育コーチング理事 山下泰裕氏、剣道を代表してFIK副会長 アラン・デュルカメ氏、FIK副会長 福本修二氏が講演をされ、その後質疑がありました。
 山下氏が海外で柔道の普及に勤めておられる熱意はしっかりとわかったのですが、では講道館柔道を通じて一体何を普及しようとされているのでしょうか。講演の最後にロシアのプーチン大統領が柔道家である事を紹介され、日本のテレビ番組でインタビューを受けるプーチン大統領の様子を映されました。

 講道館柔道の最も素晴らしい点は嘉納治五郎による柔術の競技化にあるのではなく、「自他共栄」の思想にあると私は思います。
 講道館のホームページには下記のようにあります。少し長くなりますが引用します。

 「嘉納治五郎師範は少年時代から身体が弱くなんとか強くなりたいと柔術を修行しました。
 はじめ天神真楊流柔術を、続いて起倒流柔術を学び、それぞれ奥義に達しましたが、他の流派にも興味をもち、研究に打ち込み、諸流のよさをとりいれ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系を確立するとともに、理論面でも柔術の「柔よく剛を制す」の柔の理から「心身の力を最も有効に使用する」原理へと発展させ、新しい時代にふさわしい技術と理論を組み立てました。
嘉納師範はこの原理を「精力善用」の標語で示し、これこそ柔道技術に一貫する原理であるとともに、社会生活すべてに於ても欠くことのできない重要な原理であることを明らかにしました。
 そしてこの原理を実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩と発展に貢献すること、すなわち「自他共栄」をその修行目的としなければならないと教えました。
主とするところは「術」ではなくこの原理と目的により自己完成をめざす「道」であるとして、術から道へと名をあらため、その道を講ずるところという意味で名づけられたのが「講道館」という名でした。」

 この講道館柔道の修行目的である「自他共栄」の思想が一体どれほど世界的に普及しているのでしょうか。私達の身近で考えても、私達が社会体育の活動の塲として十数年来使用させて頂いている中学校の武道場ですが、数年前、新たに柔道の専門家である体育教師が転勤してきたときに、自己紹介するでもなく、いきなり「私がここに転勤してきたので、ここを○○○市柔道連盟の活動の拠点にしたいから、あなた達はよそで稽古してほしい。連盟からも正式に話があります。」と話かけてきたり、出て行かないとなると、「更衣室の生徒の物がいじられているので更衣室の使用は不許可」にしようと工作したり・・・等々。また、もう少し目を広げてみても、私達が武道場を使用している市の体育館で柔道の大きな大会が開催されるときには、かならず、会場準備という名目で前日から体育館を全館借り上げ、体育館を使用している多くの団体が稽古できなくなっていますが、実際には準備は一日中行われることは無く、体育館は遊んでいる時間のほうが多いという実態。これは柔道に限らず、剣道の大会でも同じ事ですが・・・。
 ここには「自他共栄」の思想や「人間形成の道」という思想は全く見受けられません。本当に「自他共栄」の思想や「人間形成の道」という思想を重んじるのであれば、そうすることによって他者の稽古場所を奪っているということに気付くはずであり、気付けば、大会当日早朝に準備するという他者に対する「思いやり」がもてるはずです。
 回り道になりましたが、講道館柔道がほんとに嘉納治五郎の柔道修行の目的である「自他共栄」を世界に普及しようと努力しているならば、柔道の高段者を大統領とするロシアの政治姿勢にあらわれるはずですし、世界ももっと「自他共栄」を念ずるようになるでしょう。また、そうでなければ、嘉納治五郎の柔道は過去の遺物となってしまうのではないでしょうか。


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  1. 2007/09/03(月) 18:06:26|
  2. 武道史

日本武道学会第40回大会について(2)

 日本武道学会第40回大会一般発表の第一日目は東海大学高輪校舎で8月30日(木)行われました。
 発表は武道指導法系・人文科学系会場、人文・社会科学系会場、自然科学系会場の3箇所に別れて行われます。したがって全ての発表を聞くことはできないので、私はたいていは人文・社会科学系会場にいます。
 1日目の発表ではいつものように工学院大学の数馬先生による「北関東における武術流派の伝播に関する研究(4)」や山崎先生による「平法中條流の技について」など詳細にわたるまで研究された発表がなされました。発表抄録については持ち帰ったものを道場内で回覧いたしますので、ご覧いただければと思います。
 学会フォーラムでは「武道の国際化ーその光と影ー」というテーマで、柔道・剣道・空手・すもう・弓道・なぎなたの各専門分科会から代表者が出られ、それぞれ意見を述べられましたが、特に印象に残ったのは弓道の方のお話でした。
 全日本弓道連盟の中央道場は神道の施設である明治神宮苑内にあり、また、神道による儀式が弓道の大会等でいまだに行われていることを話されました。国際弓道連盟には日本以外のアジアの加盟国は無く、またイスラム圏も参加せず、欧米の國のみ加盟しているということでした。
 私は当然の事であると思いますし、弓道が現在の弓道のあるべき姿を維持しようとされるならば無理に弓道を海外に普及することはないのではないかと思います。柔道の例に見るように、無理をして海外に普及しようとすれば、武道の持つ良い部分をある程度すてなければならなくなり、結局国内でも、武道の変質が起こらざるを得ません。現在存在する武道が素晴らしいと考えるならば、海外から習いにに来ようとする人達を拒む必要はありませんが、急速に海外に普及しようとすることは必ず本質が変化するということを覚悟しなければなりません。
 
 ところで、昨日以下のような記事を目にしました。
『中教審は、昨年12月に改正された教育基本法で、教育の目標に「伝統と文化の尊重」が掲げられたことから、「武道は日本の伝統や文化を知るために役立つ」と判断。1、2年時に水泳や陸上競技、ダンスなどとともに教えることにした。』
 「伝統や文化」といいますが、現代武道を一括して同列に論じても良いものなのでしょうか。各武道それぞれですが、一体どの時代の日本の伝統や文化を身につけさせたいのでしょう。武道の種目によっては明らかに明治維新以降の富国強兵策のもとでの軍隊式一斉教授法に基づく教育方法がとられ、体遣いもまた明治以降の西洋式のものに移行しています。教育問題に関しては、いつも、あまりにも無知な人たちが議論していると思うのですが現代武道と古武道の違いさえ分からな方達がどのような議論を経て「武道は日本の伝統や文化を知るために役立つ」と判断したのでしょうか。


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  1. 2007/09/05(水) 07:48:07|
  2. 武道史

日本武道学会第40回大会について(3)

 一般研究発表第2日目は8月31日(金)に行われました。
私の発表「大石神影流『諸国門人姓名録』について」は会場におられる方に、それなりの興味を持っていただけたと思います。特に南山大学の榎本鐘司先生や明治大学の長尾進先生にはご質問いただき、発表後にも引き続き廊下でご質問いただきました。今後何をはっきりさせねばならないのかがわかり調査の方向性が定まってきました。
 また、福島大学の中村民雄先生には懇切きわまる御指導を頂き、これほどまでにお考え頂いていると言うことに感謝の思いがこみ上げました。ご指導のもと早く論文をまとめなければ思っております。
 無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生、渋川一流の畝重實嗣昭先生のご存命中にも両師に教えていただける縁のありがたさに常に感謝いたしておりましたが、日本武道学会においても素晴らしい先生方にご縁を頂いたことに感謝いたしております。

 学会の期間中、一つ残念だったのは、最終日の午前の発表の後ごみ箱に発表抄録が何部か捨てられていたことです。かりにも人が発表にいたるまで努力して作成したものを、一度手にした後で自分に興味のない発表だからといって会場でごみ箱に捨てる行為は武道を修める人間として許される事ではないと思います。私が見た時間には配布資料はまだ、各教室入り口そばの机上に積まれていました。必要なければ、そこに返却すればよいのだという考えをどうしてもたれなかったのでしょうか。配布用の資料が積まれた机とごみ箱の間は5メートルも離れていませんでした。
 小さなことかもしれませんが、このような事が日本武道学会で行われていれば、いくら日本武道協議会の武道憲章に「武道は、武技による身心の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、有為の人物を育成することを目的とする。」と書いてあっても、武道に興味の無い一般の人にとってそれは空理空論と思われるでしょう。
 礼なき「武」は容易に「暴」と化してしまいます。我々も心しなければなりません。


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  1. 2007/09/05(水) 17:59:46|
  2. 武道史

文化としての古武道

 先日東京に行った際にある方からお聞きした話ですが、日本でも権威のある古武道の団体に新たにある流派が正会員として加盟したということです。
 その流派を初めて調査され、世に知られるもとを作られた、ある大学の武道史を専門とされる教授に数年前に直接お話を聞いていたのですが、その流派の実技の継承はたくさんあった師範のどの系統でも断絶しており、継承者は存在しないということでした。さらに今回「宗家」という名称で加盟された方は、その教授にその流派に関する資料はないかと何度か問い合わせをされていたようです。
 その古武道の団体で会員ではないという立場で初めて演武会で演武されたときには「○○流の復元を宜しくお願い致します。」と述べられていたようですが、その家が数代にわたって教授してはいるものの実技の継承が断絶していたことは明らかでした。

 私がこの事に関して思う事は二点あります。
一つ目は権威のある古武道の団体がその目的に<文化としての古武道の保存振興>ということを掲げておりながら、その家にかつて存在していたとしても、実技の伝承が途絶えているのに、書き物に基づいて復元した流派が果たして文化財としての古武道と言えるのかということです。
 現在、世の中には書き物に基づいて復元した流派が、非常に多くあります。しかし、それらでさえ、復元ということを公表せずに50年もたてば江戸時代から継承されていた流派という嘘が真実に化してしまうでしょう。これをはたして文化財としての古武道と言っていいのでしょうか。たとえ手順は復元できたとしても、その流派に伝わった動きは断絶した時点で消滅しています。
そのようなものを文化といい、古武道というのであれば、私のような者でもいくつもの流派を名乗ることができます。武道史の研究をしていればその流派の形の手順を書いた物は幾らでも見つけることができるからです。かって日本武道学会で雑談の際に武道史の研究をされながら剣道を専門にされる方にお話をしたこともありますが、その方も笑いながら、「それなら私でもいくつもの流派を名乗ることができる。」と話されていました。
 二つ目は、その流派の流名には他家の姓がついているのにその姓に連なるものでない者、また流派の継承が江戸時代に唯一一人と限られてはいなかった流派の師範であった者が「宗家」という称号を勝手に用いてもよいのかという点です。
 宗家制度については以前にも西山松之助先生の『家元の研究』に言及したように武術にあっては完全相伝制をとっていた流派がほとんどであり、一つの流派に天皇家のような存在は無かった(あった流派がまれであった)というのが常識です。
 宗家と称することができるのは竹内流や関口流のように、流祖以来その家で伝承された流派や江戸時代において、あるいは維新後まもなく、遅くとも明治時代にはすでにそのような制度が固定されていた流派だけであろうと考えます。
 仮に現在、流派の存続のためという理由で、新たに唯一絶対の宗家制度をとったとしたら、いつからそのような宗家制度をとったのかを明らかにすべきであろうと思います。そうでなければ、そのような行為は自分だけが尊いという自尊他卑の現れであり、武術の修行とは口先だけのものでしかないでしょう。現代は誰も彼もが宗家と称して偉くなりたいようですが、同じ流名で他にも継承がある(あった)にもかかわらず宗家と名乗るのはいかがなものかと思います。今回の○○流であっても江戸時代にいくつもの師範の系統があったのになぜ、自分を「宗家」と称することができるのでしょうか。
 現在大坂で伝承されている渋川流の水田先生は、先代まで宗家という称号を用いられていたにもかかわらず、実技の継承は無くても渋川家が存在するかぎり、また存在した限り宗家は渋川家であると自ら師範と称されました。古武道の世界にも、このような高潔な方が居られます。

 今回の流派の加盟は、ある理事が強引に推し進めたことであり穏健な理事の皆さんがそれに従ったようですが、その流派の実技が断絶しており実技は復元であり、宗家の称号は?という事実を知っておられても、加盟は議決されたことでしょうか。もし、このような決定が今後もなされつづけるようでしたら、その団体の権威は地に落ちざるを得ないでしょう。
 このような問題を解決する方法はただ一つです。
 その「日本でも権威のある古武道の団体」に中立的な立場の日本武道学会会員の中の武道史の権威による諮問機関をつくることです。

「古武道の定義」
 「宗家の定義」
 「加盟しようとする流派の加盟の可否」

 等の参考意見を求めるべきであると思います。
諮問機関の意見が「否」であるのに理事会で「可」決定されれば、所詮それだけの団体という扱いを受けるだけですから。

 私を含め貫汪館で稽古する方は、決して古武道を自分の名誉や権威として利用するのではなく、文字通り「修行」のために行うものと心得なければなりません。


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  1. 2007/09/12(水) 17:40:27|
  2. 武道史

公開講座、ご協力有難うございました。

 本日、10月14日(日)午後2時から安芸高田市歴史民俗資料館の主催で、第5回の公開講座が甲田長ミューズ大会議室で行われました。
 今回は安芸高田市歴史民俗資料館の学芸員 川尻真先生の依頼で私が「宍戸司箭の武術-司箭流の長刀と貫心流の剣術-」と題して講演させて頂きました。講演の機会を与えていただいた安芸高田市歴史民俗資料館の皆様に感謝申しあげます。
 また、講演には約80名の方にお越しいただき、たいへん熱心に講演を聞いて頂きました。その熱心さは講演をする者にとって、非常ににありがたいもので、心のそこから感謝の念が湧き上がってくるほどでした。自分自身でもあのような態度で聴講できたか、自信がありません。
 また、講演用の資材の運搬や写真撮影、パワーポイントの操作などのご協力をしていただいた貫汪館の皆様、本当に有難うございました。

 このような講演の機会を与えていただいたのは今回が始めてでしたので、武術そのものを御存知ない方にどのようにお伝えしようかとパワーポイントの使い方を1から教わり、前半では広島藩においてどのような武術が稽古されたのかから始め、源義経からの伝授を細家の司箭流・貫心流の資料をもとに解説。後半では時代によって武士が用いる主要武器の変遷を示し司箭流の長刀、貫心流の剣術が具体的にどのようなものであったのかを槍や木刀真剣などを用いて説明していきましました。自分では70点くらいの出来だと思いますが、98点の出来だと言ってくださった方もいましたので、講演は成功であったと思います。
 今後も機会あれば、広島の武道史について、可能な限り、一般の方にお伝えしていきたいと考えます。
 このたびは有難うございました。
  1. 2007/10/14(日) 22:52:02|
  2. 武道史

大石神影流と信抜流

 今日も雑談程度の内容ですので、気楽に読み流してください。
 広島県立文書館の西村先生から信抜流に関する『村上家乗』の中の記述をお教えいただき、久しぶりに信抜流について思い出しました。
 以前調査したところ幕末の広島藩の師範の原家は東京にありましたが、原爆で史料は全て焼失,家も養子によって継がれているということでしたので、当然実技も伝えられておらず、信抜流に関してはむしろ私のほうが詳しいくらいでした。
 信抜流は広島藩・三原藩に幕末まで伝えられていた剣術で,居合はその付属です。居合の流派と思われているのは佐分利流槍術とともに伝えられているのが信抜流の居合だけのためです。
 信抜流に関しては平成11年度広島県立廿日市西高等学校研究紀要に「広島藩の武術諸流派」としてまとめた中に下記のような記述をしました。未だにこれより多くのことは史料が未発見のためにわかっていません。

信抜流
 流祖は新陰流祖の上泉伊勢守の門人ともとも伝えられる奥山左衛門大夫忠信で、奥山左衛門は心貫流と称した。心貫流の稽古方法については『撃剣叢談』に「二派有り、一には紙に張りたる笊をかつぎ、敵にほしいままに頭上を打たせて、向の太刀の来る筋の遠近を見覚ゆる也、此方は短きしなへを以て進み出る計にてわざをなさず、眼明らかに成りて、後勝負太刀を授ると云、今一派は背に円座を負て同く短刀を提て身を屈め背をうたせてすすみよる也、勝負は手元に入りて勝事を専らとすると見へたり、今長州清末に三輪要次といふ信抜流の師有、其ならはす如何と云事を不知、」3)とあり特異な稽古方法を持っていた事がわかる。
 心貫流は前述したように永山大学によって広島藩にもたらされ、心貫流から信抜流へと改称された。永山大学は寛永13年豊後竹田に生まれ、益永軍兵衛に学んだ。後、脱藩し廣十日市で浅野甲斐守忠真に召抱えられ、三原浅野氏の援助も受けた。門人千人に及び隠居して海田に土地を得た。永山大学の墓(写真8)は安芸郡海田町石原にあり墓石の右側には「元禄五年九月廿七日」と刻まれている。またその後には信抜流の後学によって建てられた石柱があり、前面に「南無阿弥陀仏」、裏面に「三原三山源五資範并同門人芸備諸士謹建」、右側面に「永山大学入道信楽先生百回忌」、左側面に「寛文三年辛亥九月二十七日」と刻まれている。
 廣島藩では江戸時代後期から幕末にかけて、山瀬源太の弟子である原道郷、道郷の子である原毅平と高名であった。原道郷は常に門人に「剣に剣なし、体を以って剣となす。体に体なし、神を以って体となす。」と教えたという。原道郷の石碑(写真9)は廣島山瑞川霊園に原道郷・毅平の墓(写真10)は西向寺にある。幕末には信抜流も防具着用の他流試合をしているので心貫流の特異な稽古方法はとっていなかったと考えられる。
(『尚古』第二年 第八号p17/『広島県史 近世2』p1177/『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』p287/『安藝備後両國偉人傅 全』p302/『元凱十著』p60~63/『藝備碑文集』上巻p134,135)

      永山大学墓石
      永山大学



 信抜流は、広島藩での他流試合の嚆矢の貫心流の細家の働きかけによって円明流などとともに貫心流と交流し他流試合をするようになっています。信抜流は本来は剣術でそれに居合が付属していたようです。
 他藩の者と他流試合するようになったのは,高知の中村の樋口真吉の武者修行日記によれば,貫心流の次に信抜流であったと思われます。

 やっと本題ですが、信抜流の伝書類が未発見なため、伝系の詳細は良くわからないのですが、昨年、日本武道学会第40周年記念大会での発表のために調査した大石神影流の伝系は
足利日向守愛洲惟孝――奥山左衛門大夫宗次――上泉武蔵守藤原信綱――長尾美作守鎮宗――益永白圓入道盛次――吉田益右衛門尉光乗――石原傳次左衛門尉正盛――村上一刀尉源長寛――大石遊剱入道種芳――大石太郎兵衛尉種行――大石七太夫藤原種次

 途中まで信抜流と同じです。大石神影流の系譜は奥山左衛門大夫宗次と上泉武蔵守藤原信綱の順番は書き伝えられるうちに逆になったものだと思います。広島に信抜流を伝えた永山大学の師は益永軍兵衛ということですので、大石神影流の益永白圓入道盛次とひょっとしたら同一人物ではないかと思います。
 かたや短き竹刀を用いて稽古する流派となり、かたや長い竹刀を用い、稽古に用いる刀も二尺八寸二分という長さを用いる流派となったのは非常に面白いことのように感じます。
大石神影流の二尺八寸二分はたまたま私の刀と同じ長さですが、当時の人の身長からすれば私の身長に合う刀はもう少し長い刀ということになるでしょうか。平均的な稽古用は二尺八寸二分だったのでしょうが、高知中村の大石神影流免許皆伝 樋口真吉は突き業に特化した細身の長さ3尺6分、反り2分の刀を幡多郡入野郷にいた左行秀に特別注文して作らせ、同じ長さの稽古用の刃引(作者不明)を作らせています。
 信抜流がどの程度の長さの刀を用いたのか興味のある点ですが、稽古には短い竹刀を用いても実際に使用したのは普通の長さかもしれません。また、幕末の広島藩の信抜流の師範 原家は貫心流の細家の影響を受けて他流試合を行っていますので、長い竹刀を用いていたかもしれません。原爆により資料が発見できないのが残念です。
  
 
 3月30日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『自由に動く為の大森流の稽古のあり方』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。 

 
 無双神伝英信流抜刀兵法を稽古していただいている劇団夢現舎の公演 No.21『続・遺失物安置室の男』が3月4日まで行われています。東京に出かけられる機会があれば是非、御観劇ください。詳しくは劇団夢現舎のホームページ(←クリックしてください)を御覧下さい。 
  1. 2008/02/26(火) 20:18:41|
  2. 武道史

島田虎之助

 本日も武道史に関する雑談ですので、軽く読み流してください。
 島田虎之助は勝海舟の直心影流の師で男谷精一郎の弟子にあたります。この島田虎之助の名前が「大石神影流諸国門人姓名録」に記されていることは昨年、第40回日本武道学会で発表した「大石神影流諸国門人姓名録について」の発表資料に載せております。
 推測ではありますが、島田虎之助の名が「大石神影流諸国門人姓名録」に記されているのは豊前中津の一刀流の剣術師範 長沼無双右衛門が大石進と試合し面の不備から眼球をえぐられ、のちに門人ともども大石に入門したということと無縁ではないと思います。
島田虎之助の名は長州吉田から柳川に通い、大石進に入門し、免許皆伝を得た笹尾卯三郎の道場を訪ねた人物の記録「諸国武術御修行者姓名録」にも記されています。「諸国武術御修行者姓名録」は文政5年(1822)から万延元年(1860)ころまで修行者自身がおおむね藩・流名・名前・年月日等の順に記しています。
 以前もこの「道標」に記しましたが長州吉田は山陽道の宿場町です。笹尾道場は現存しませんが街道から十分ほど登った小高い丘の上に道場あとがあり、戦後まで崩れかかりながらも残っていたとのお話を聞きました。
 「諸国武術御修行者姓名録」には島田虎之助関係の記載が以下のようにあります。


豊前中津家中
外他一刀流  堀太郎大夫門人
         嶋田虎之助
豊後立石家中
          佐藤連蔵
   文政十二年
     丑五月



一刀流     嶋田金十郎
        同 虎之助
  天保六年
    未七月廿七日



一刀流   堀太郎大夫門人
         嶋田虎之助
  天保八年     僕一人
    酉九月二十四日



 直心影流  嶋田虎之輔門人
   出羽山形家中  鈴木英佐
    辰(天保一五年)
      四月上旬より下旬まで
             島田虎之助


      東都
 直心影流  嶋田虎之輔門人
   筑州家中  丸尾武策
    同年(弘化二年)
      九月二十八日


 この資料から見る限り天保八年までは一刀流(外他一刀流)を名乗っており、天保一五年にはすでに直心影流として門人をとっていることがわかります。一説に天保9年(1838年)江戸に出て、直心影流剣術の男谷信友の弟子となったといいますので、それを証明する史料ともいえます。

 
 3月30日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『自由に動く為の大森流の稽古のあり方』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。 

 
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  1. 2008/02/29(金) 20:49:23|
  2. 武道史

高橋猪兵衛三満政

 今日も武道史の雑談です。
 先述した笹尾卯三郎の道場を訪ねた人物の記録「諸国武術御修行者姓名録」ですが、広島の人物の名も記されています。難波一甫流の高橋猪兵衛の名も載っています。
 冊子に張り紙(「諸国武術御修行者姓名録」にはたくさんの張り紙があり、それにも姓名等の記述があります。)であり、年が書いてありませんので正確な年はわかりませんが、おおむね冊子の年のところに張ってあるようです。記載は

芸藩
(嘉永6年)6月初   保之丞事
          高橋猪兵衛 
          今井五郎太
      霜月頃 吉田左太郎
      6月初 松浦雄衛門

 以上のようになっています。

 難波一甫流の高橋猪兵衛が武者修行をしていたのか、どうか。
あるいは笹尾卯三郎が広島で出会ったのかは現在のところ不明ですが、いずれにしても出会ったことに間違いは無いと思います。
 難波一甫流は代々他流試合を禁じていたようであり、その掟を厳しく守った道場が多かったようです。幕末に有名な物外は高橋猪兵衛三満政の門人ですが、土佐中村の樋口真吉が武者修行の途中に尾道済法寺住持の物外を尋ねるときも、他の武術家から物外は他流試合はしないと聞いており、直接会った折も難波一甫流の剣術に使う袋竹刀を見せられ、話だけを聞いています。また、このとき物外は樋口真吉の持参した冊子には自ら流派名を難波一甫流と記しています。
 したがって難波一甫流の掟を守り他流試合をしなかった物外の師、高橋猪兵衛が他流試合をするために積極的に武者修行をしていたとは思えません。他の流派の剣術を修めていたとしたら話は別になりますが、「諸国武術御修行者姓名録」の高橋猪兵衛の項には流派名の記載はありません。
 現在、高橋猪兵衛の系統の難波一甫流を名乗る方がいるようで、その方の伝書が随分前にある雑誌に載っていました。しかしそれは高橋猪兵衛の系統の難波一甫流とはまったく異なる内容でした。一口に難波一甫流といっても広島に伝わったのは江戸時代初期ですから時代の流れの中でそれぞれの系統の難波一甫流の伝書内容は変化しています。雑誌に載っていた伝書をみれば武道史の研究をしている人間ならどの系統の伝書を書き写しているかがわかります。他系の伝書に系譜だけを高橋猪兵衛の系統に書き換えている事がすぐわかる陳腐な伝書でしたが、このような伝書の所持者に騙されて入門する人もいるのですから、世の中は油断なりません。

 
 3月30日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『自由に動く為の大森流の稽古のあり方』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。 

 
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  1. 2008/03/02(日) 00:07:14|
  2. 武道史

江戸時代後期の貫心流

 明日、徳島県で「広島藩の貫心流と難波一甫流について」という演題で講演をします。貫心流について江戸時代後期の様子が明治41年に倉田毎充氏によって記された 『尚古』第参年第壹號の「細六郎について」という記事に載せられていますので、今日と明日、ご紹介いたします。

 防具の改良とともに打突部位が限定され、競技化していったのだろうと推定できますし、本来全てを習う貫心流が競技化とともに剣術の教授に特化していった様子が伺えます。


 稽古道具について

 稽古道具は細六郎義知のころは、面鉄の間隔は離れ、偏平なものもあれば中央が突起しているものもあった。胴は竹製で咽喉の下まであり、小手は肩胛まであったので動作が自由にならなかった。竹刀は袋竹刀を用い敏捷の技を行うことはできなかったが、細家では細六郎義知以来、竹製のもののみを用い、袋竹刀は用いなかった。
 細六郎致義の頃になると全国的に改良が加えられ、胴は皮製となり、竹刀は恰好体裁のよい竹製となり、面がねも鉄線と鉄線の間隔が一定となり、密となって小手も臂までとなって行動が楽になった。

 稽古の内容等について(細六郎致義のころ)

 試合(註:防具着用の稽古のことであろう。)は毎日午前中に行われ、午後は半の日に侍士のみに指南し、形・長刀や種々の口傳を教授した。
 寒稽古は寒中20日間とし毎朝未明に出て、黎明に至るまで修練した。
 休日は毎月15日、30日の2回であった。
 毎年、100日以上出席した者は翌年、その名を掲示して奨励の一助とした。
 細六郎義知の子、細六郎義為呑空は貫心流剣術・司箭流長刀・柔術を全て指南していたが、細六郎致義に至っては、剣術の門人が増加し、教授の時間がないため柔術の指南は廃止した。


 
 3月30日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。今回も他流派、他道場の方が参加していただける予定です。講習会のテーマは『自由に動く為の大森流の稽古のあり方』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。

 4月13日(日)午前9時より、廿日市市の速谷神社で貫汪館奉納演武会を実施いたします

  1. 2008/03/25(火) 00:49:04|
  2. 武道史

江戸時代後期の貫心流 2

 昨日に続き、江戸時代後期の貫心流の様子を紹介します。
 広島藩では他流試合の実施は他藩に大きく遅れをとりました。しかし、それが必ずしも武術の質が低かったとはいえないと思います。競技化が遅れたというだけの事ですから。競技をする上では遅れをとったかもしれませんが、実際の場で役に立たなければ武術とはいえませんので。
 また、当時、農村でも武術が盛んであった様子が伺えます。農村での武術の基盤があったので広島藩は地域の治安を維持させる為の農兵を組織できました。


    他流試合について(細六郎致義のころ)

 当時、廣島藩の師家は他に三家あった。上流町に住んだ藩主の師範であった一刀流の間宮一左衛門、白島に住んだ真影流の關十郎左衛門、下柳町に住んだ圓明流の多田源左衛門である。これらの師家は他流試合をしないだけでなく、観覧をも許さなかった。細六郎は「どうして実用に適するようになることがあろうか。」とこれを嘆いた。
 後に、多田源左衛門が細六郎の門弟を招き伎を校ベさせたが、これが廣島藩における他流試合の始めとなった。他流試合を俗に出會ともいう。次いで間宮一左衛門や關十郎左衛門、また段原に住んだ信抜流の原毅平も細六郎の門弟を招いた。この後相往来し、士気を鼓舞振興することになったが、門弟の多さは細六郎に並ぶ者はなく、その名声は四国・九州に及んだ。


   農村部での指導について(細六郎致義のころ)

 廣島藩の郡中へは細六郎の弟、亀之進が各村を巡回指導していたが、その没後は廃止していた。しかし、懇請する者が多いため、門人中の錬達者を選定し門弟の取立をさせた。
 郡中では一か所で100人以上の入門者があり、20日以上滞在し、入門料を一人一歩徴収して細六郎に納付した。

   武者修行者への対応について(細六郎致義のころ)
 
 武者修行に来廣するものは細を目的としていた。武者修行者が来廣した時には「かざりや」という定宿に案内し、門人に朝夕旅宿に送迎させ、歓待した。「かざりや」とは大手町三丁目の吉川旅館で当時は二丁目にあった。
 宿泊費用は細家が支出したが、後に藩費から支出することになった。
 武者修行者は細家で二日、原家で一日、その他の師家は三家老が順次引き受けることと
し、廣島での滞在は五日間を要した。

 
 3月30日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。今回も他流派、他道場の方が参加していただける予定です。講習会のテーマは『自由に動く為の大森流の稽古のあり方』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。

 4月13日(日)午前9時より、廿日市市の速谷神社で貫汪館奉納演武会を実施いたします

  1. 2008/03/25(火) 21:49:39|
  2. 武道史

講演

 昨日、徳島での「広島藩における貫心流と難波一甫流について」の講演をさせていただきました。徳島県剣道連盟剣道史編纂委員の坂本先生のご依頼によるものでした。
 貫心流は源義経に発し東北の由利家に伝わり、宍戸司箭を経て伊予の河野大蔵に伝わり、その孫(越智と改姓)が広島藩に仕えることにより広島に伝承がありました。家伝として秘せられていましたが、一般に指南するようになり、溝口甚五左衛門によって徳島に伝えられます。徳島で貫心流を習得した初代細六郎は江戸においても教授しますが、後、貫心流の真伝を求めて越智家の弟子となります。功なり名をとげたあとの50歳頃の事です。そののち細六郎の子、孫と広島で明治維新まで貫心流を指南します。
 面白いのは広島では貫心流の刀の長さは自分の身長の半分つまり、5尺(約150cm)の身長であれば2尺5寸(約75cm)の刀を用いよという教えがあるのですが、徳島では2尺2寸くらいの短めの木刀で稽古していたようです。
 難波一甫流は難波一甫斎から長州の人二名を経て広島に伝わり、矢野家を中心に広島でさかえますが、徳島では難波一甫流は「南波一甫流」と名を変えています。また、伝系も南波一甫斎のあとに南波家の人物が3名書き加えられています。さらに、南波一甫斎は入道とされ僧侶の格好をし、金棒を振り回している絵まであります。
 流派は伝承のうちに変化していきますが、他の離れた地域に渡ると、変容も大きいのかもしれません。

 
 3月30日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。今回も他県、他流派、他道場の方が参加していただける予定です。講習会のテーマは『自由に動く為の大森流の稽古のあり方』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。

 4月13日(日)午前9時より、廿日市市の速谷神社で貫汪館奉納演武会を実施いたします

  1. 2008/03/26(水) 22:10:51|
  2. 武道史

武道史研究のネック

 武道史を研究していて、いつも残念に思うことは、当然その家にあるべき資料が家は続いているものの様々な理由によってなくなってしまっていることです。
 平成15年に弓道の門外漢ながら『芸藩弓道小史』を記し、広島県弓道連盟発行の『広島県弓道の歩み』に載せていただきましたが、調査の過程で全くと言って良いほど資料を見つけることが出来ませんでした。
 写真は広島藩の吉田流の師範であった小篠家代々の墓地で今なお門人の立てた立派なお墓が残っています。戒名には弓の字のつくものが多く、小篠家と弓術との強いつながりを感じさせます。小篠家は今は廿日市市に現存していますが、お尋ねしたところ、満州引き上げの際全ての文書が失われてしまったということでした。非常に残念なことです。

 「吉田流

 ・・・これとは別に小篠家によって伝えられた吉田流もあった。享保の頃、御中小姓、小篠文太は伊勢国、津藩士,吉田六左衛門につき弓術を修行し、廣島藩に於いて門弟に教授を始めた。この後五左衛門・斧槌・三左衛門・五左衛門と続き幕末に小篠吉左衛門があった。三左衛門の子五左衛門は伊勢国津の吉田家から相伝の秘書を授かり、また、もう一人の子源左衛門は諸国遊歴の後、常陸国水戸に居住し、門弟を育成した。」

       小篠家墓地


  貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の行事のページに速谷神社奉納演武の写真を載せました。御覧下さい。
  1. 2008/04/19(土) 21:01:08|
  2. 武道史

広島の剣術流派

 京都での演武会に参加のため、今日は広島の剣術流派について以前まとめたものを載せます。参考文献も書いていますので、興味のある方は図書館で調べてみてください。


一刀流

一刀流の流祖は伊藤一刀斎景久である。伊藤一刀斎の出自・没年等は定かではないが鐘巻自斎に中条流を学んで一刀流を開創したと伝えられる。伊藤一刀斎の弟子 小野次郎衛門忠明は、文禄二年(1593)一刀斎の推挙で徳川家康に仕え二百石を得、秀忠の師範となった。後に加増され六百石となった。
広島藩に一刀流を伝えた間宮五郎兵衛久也は江戸で伊藤(小野)典膳忠也に学び、正保二年(1645)浅野光晟に招かれ四百石で師範となった。伊藤典膳忠也は小野次郎衛門忠明の弟で一刀流の三世を継いでいる。『本朝武芸小傳』には「間宮五郎兵衛久也者従伊藤忠也 得其宗、後芸州侍従以剣大鳴」1)とあることから間宮五郎兵衛久也は当時、高名な剣術家であったのであろう。
晩年、高津市左衛門と名を改めたが、以後代々間宮家は浅野家の師範となった。間宮五郎兵衛久也以降は直久 ― 久一 ― 久忠 ― 久富 ― 久寛 ― 久年 ― 久晴と続き明治維新に至った。墓は興禅寺にある。
(『尚古』第二年 第八号p,17,/『飽薇光華録 附芳名録 上』p74,75/『広島県史 近世1』p1203/『広島県史 近世2』p1175,1176,1177/『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』p286,287/『廣島市史(第2巻)』p77,98,230,399,530,641/『廣島市史(第3巻)』p201/『元凱十著』p56/『安藝備後両國偉人傅 全』p298/『三百藩家臣人名事典』第6巻p179/『増補大改訂 武芸流派大事典』p72,160,577,789/『藝藩輯要 附藩士家系名鑑』藩史家系録p4,5,83)

 広島には他系の一刀流もあり指南されていましたが、その伝が絶えそうになったので藩主の命により、間宮家はその一刀流をお習得していました。
 残念なことに原爆投下当時屋敷は広島城に近い現在の女学院高校のあたりにあったため、史料等は全て焼失してしまいました。伊藤(小野)典膳忠也から授かった刀もあったとの事でしたが、原爆で失われてしまいました。

 5月4日(日)京都下鴨神社において午後1時から、5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法は4日と5日、渋川一流柔術は5日に演武します。お時間のある方はお越しください。 
  
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  1. 2008/05/03(土) 21:10:58|
  2. 武道史

広島の剣術流派 2

 今日はあまり知られていない流派についてです。


一旦流

 一旦流は三谷印斎正直が新陰流から新たに起こした流派である。印斎は後、宮川印斎と称したという。
 廣島の一旦流は太田清助が享保の頃、師の三谷印斎より五之坪流槍術とともに伝授された剣術である。清助の後は子の常之丞、孫の弥次右衛門と続いた。一旦流剣術は槍術の弟子に限り教授された。
(『尚古』第二年 第八号p18/『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』p287/『元凱十著』p56/『増補大改訂 武芸流派大事典』p68)


一得流

 文久二年(1862)に没した三原の小島一伝斎が、大久保某より一得流・河合流二流の剣術を学んだと言う。後に正平流の鎌を僧侶より学び嘉永七年(1854)に大善寺内に大演武場を設けたという。
(『安藝備後両國偉人傅 全』p302/『増補大改訂 武芸流派大事典』p75/『御調郡誌』p353)



 5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法はと渋川一流柔術が演武します。お時間のある方はお越しください。 
  
 5月25日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『英信流表の形・・・形が教える事』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。
  1. 2008/05/04(日) 20:19:00|
  2. 武道史

広島の剣術流派 3

 今日もあまり知られていない流派についてです。


一法斎流

竹原出身の相撲行司で享保八年(1723)に隠居した横山左近は三次浅野家の浪人であった父親よりこの伝を得ていた。左近は江戸・京都・大阪でも行事を勤め、藩主吉長より俸禄三十両三人扶持を与えられていた。
一法斎流は飯篠長威斎を流祖とし横山左近まで七人相伝し、左近は天野九助義知に伝えた。横山左近は一法斎流のほかに真々流、戸田流を加え三品流と称していたという。
(『安藝備後両國偉人傅 全』p313/『復刻 藝藩通史』第二巻p501/『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』p297,298/『増補大改訂 武芸流派大事典』p76)


一帆斎流

 天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという。
(『広島県史 近世2』p1177)


  
 5月25日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『英信流表の形・・・形が教える事』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。
  1. 2008/05/05(月) 20:22:28|
  2. 武道史

広島の剣術流派 4

 以前に引き続き広島で伝えられていた剣術流派を紹介いたします。


円明流

 宮本武蔵が二天一流を称する前の流名である。
 広島藩の円明流は前述した多田源左衛門祐久によってもたらされた。源左衛門の祖父頼祐は宮本武蔵から円明流の印可を受けていたが、源左衛門は祖父の門人三浦延貞および祖父の弟の柴任重矩から教を受けた。源左衛門はまた水野流の居合を学び円水流の居合を始め、半弓の術をよくした。広島藩の円明流は多田源左衛門祐久― 勝久 ― 種久 ― 紀久 ― 道久 ― 悠久 ― 久雄 ― 久和と続き明治維新に至った。墓(写真2)は専勝寺にある。
(『尚古』第二年 第八号p17/『広島県史 近世1』p1203/『広島県史 近世2』p1175,1176/『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』p287/『廣島市史(第2巻)』p369,530,745/『廣島市史(第3巻)』p,181/『飽薇光華録 附芳名録 上』p75.76,77/『藝備碑文集』上巻p77/『元凱十著』p56/『三百藩家臣人名事典』第6巻p165/『増補大改訂 武芸流派大事典』p545,674,799)


大石神影流

 流祖は寛政九年(1797)、筑後三池郡宮部村に生まれた大石進種次である。大石進種次(写真3)は柳川藩士大石太郎兵衛の子で、父より愛洲神影流を学び、新流を開いた。身長七尺と伝えられ、長竹刀を用いて諸国を遊歴し江戸の道場も撃破し、諸国に門人をもった。大石進の長竹刀は防具着用の剣術に変革をもたらし、真剣の長さよりもはるかに長い竹刀を用いる剣術の競技化が始まった。大石新影流では真剣は長さ二尺八寸二分、柄九寸五分を用い、初心者でも長さ二尺四寸二分、柄九寸五分を用いるという。2)
 明治三九年(1906)に没した本庄瀧人は三原浅野家に仕えたが、初め今治の富田裕次郎に信抜流を学び、後、山口の平佐集雄に大石神影流を、江戸の男谷精一郎に直心影流を学んでいる。
(『広島県史 近世2』p1178/『増補大改訂 武芸流派大事典』p121,122)


 円明流の多田家は墓は現在広島にあるものの、北海道に移住されており、伝書等は現存していますが、養子、養子で家が続いており、術技は全く伝わっていません。

 大石神影流については昨年学会で、門人帳について発表いたしましたが、、たしかに長州の平佐集雄の名は大石家の門人帳に記載されていました。

 貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法の行事のページに京都下鴨神社と京都白峯神宮の奉納演武の写真を、渋川一流柔術の行事のページに京都白峯神宮の奉納演武の写真をそれぞれ載せました。御覧下さい。
  

 貫汪館会報第56号を貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の会報のページに載せました。御覧下さい。
  
 5月25日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『英信流表の形・・・形が教える事』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。講習会の後17時より会費二千円でお酒無しの懇親会を行います。お時間がある方はご参加ください。

  1. 2008/05/12(月) 20:06:21|
  2. 武道史

加藤善右衛門

 加藤善右衛門は柳川藩の大嶋流の槍術師範で、愛洲陰流剣術をも指導していた人物です。未発表ですが長州藩の大石神影流のある人物が武者修行に柳川に赴いた時、加藤善右衛門の剣術の弟子とも試合しています。写真は加藤善右衛門の墓で報恩寺にあります。
       加藤善右衛門墓


 加藤善右衛門は他藩からも門人を多数引き受けていて、以前日本武道学会で発表した津和野藩の原田康人も加藤善右衛門の門人です。

 日曜日に柳川に言った時、たまたま、ある人から「自分の先祖が槍術師範で、墓が福厳寺にある。」とお聞きしたので墓地を訪ねてみました。南里久木という方のお墓があり、江戸で道場を開いていたと碑文にありました。
                     南里久木墓

                                   南里久木2


 またその子の格治の墓もあり碑文には槍術家であるが明治になって時を得ず、その名はあがることはなかったという意味のことが記されていました。大正の頃になくなられています。
        南里格治


 南里久木の前の名 記助は前述の原田康人の武者修行の英名録に柳川藩の夫木流師範 佐野八兵衛の門人として対戦者の筆頭に記されていますので夫木流の遣い手であったのだと思います。大正の頃までは夫木流は、その子 格治によって柳川に伝えられていたのでしょうが、現存しないのは残念なことです。

 現在でも古武道の流派で後継者の少ないところもあり、また、武道史の調査を始めた頃、「もう十年早く来られていたら、免許皆傳の人が生きておられたのに。」という話を良く聞きました。一度なくなったものは文献に基づいて手順を復元しても、全く異なるものでしかありません。武道史の研究をしていて悲しいのは、現存していないことです。

 貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法の行事のページに京都下鴨神社と京都白峯神宮の奉納演武の写真を、渋川一流柔術の行事のページに京都白峯神宮の奉納演武の写真をそれぞれ載せました。御覧下さい。  

 貫汪館会報第56号を貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の会報のページに載せました。御覧下さい。
  
 5月25日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『英信流表の形・・・形が教える事』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。講習会の後17時より会費二千円でお酒無しの懇親会を行います。お時間がある方はご参加ください。

  1. 2008/05/14(水) 22:40:53|
  2. 武道史

広島の剣術流派 5


後藤一甫斎流
 後藤源之丞が藩主、浅野宗恒の頃、門人に教えていた。
(『広島県史 近世2』p1175/『廣島市史(第2巻)』p369)

實手流
 實手流は鉄人實手流の略称という。流祖は青木鉄人金家である。二天一流の宮本武蔵あるいは武蔵の父 無二斎との関連が伺われるが定かではない。
 広島藩の實手流の伝系は明らかではないが、文化九年(1812)に八十三歳で没した戸村徹信之が初め勝屋正常に学び、正常没後、佐々木盛房に学んでその蘊奥を究めた。幕末期には藤井直蔵、久野大平らがいる。
(『尚古』第二年 第八号p17/『広島県史 近世2』p1177/『藝備碑文集』上巻p103/『安藝備後両國偉人傅 全』p307/『増補大改訂 武芸流派大事典』p351)

 實手流は津和野藩にも伝わっていました。青木鉄人の墓がかって津和野に存在したといいますが明治の頃の文献には、その所在がわからなくなってしまったと書いてあります。
 広島藩の實手流の史料が出てきませんので詳しいことは分かりませんが、津和野から広島に伝わったものかもしれません。


月刊『武道』6月号の記事を貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の会報のページに載せました御覧下さい。

貫汪館無双神伝英信流抜刀兵法講習会を7月13日(日)に実施いたします。講習内容は「太刀打」で、講習会のテーマは「太刀打・・・居着きをなくす」です。貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古のページを御覧になり、どなたでもご参加ください。

 今月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。今月は久留米市武道館小道場と荘島体育館剣道場を交互に使いますが来月からは毎週水曜日全て荘島体育館剣道場での稽古になる予定です。興味のある方は貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法稽古のページの連絡先からご連絡ください。
  1. 2008/06/14(土) 20:04:21|
  2. 武道史

広島の剣術流派 6

新陰流
 流祖は新陰流の上泉伊勢守秀綱で、柳生家には柳生石舟斎宗厳が永禄八年(1565)に上泉伊勢守秀綱より印可状を授かることにより伝わった。
柳生石舟斎は文禄三年(1594)徳川家康に京都鷹ガ峰に招かれ、家康自ら木刀を構えたのを無刀取りの術で破った。家康はその場で二百石を与え師範役を命じたが石舟斎は老齢の故をもって辞し、五男の又衛門宗矩を自分の代わりに勧めた。これが江戸柳生の始まりで柳生宗矩は後に但馬守といい、大名となった。これとは別に尾張徳川家に仕えたのが柳生石舟斎の孫 柳生兵庫助利厳である。兵庫助利厳は慶長十一年(1606)に石舟斎宗厳より総てを授けられ新陰流の正統となった。
 江戸詰めの広島藩士の中には江戸で柳生家に入門して学んだものもあった。天明期には一井庄右衛門、満田長右衛門があった。これとは別に貞享年間に三次浅野家に仕えた関家の二代、関六左衛門侶直は岩本武太夫盛政に免許皆伝を得、以後三代、勘右衛門は広島本藩に仕え、以後代々新陰流を指南、五代、六左衛門直温は藩主浅野長訓へ、六代、百之介直行は藩主浅野長勲へ指南をしている。 
(『尚古』第二年 第八号p17/『広島県史 近世2』p1177/『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』p287/『廣島市史(第2巻)』p369/『廣島市史(第3巻)』p403/『飽薇光華録 附芳名録 上』p76/『元凱十著』p56/『藝藩輯要 附藩士家系名鑑』藩史家系録p134/『増補大改訂 武芸流派大事典』p853~865)

 広島の新陰流はどのくらいの勢力を保っていたのかは不明ですが、幕末まで続いています。記録に見る限りは防具着用の稽古は取り入れていないようです。
 司箭流にも新陰流杖術として目録に載っており、司箭流長刀、貫心流剣術を伝えた、築山家には一時期、新陰流を稽古した人物もいたのだということがわかります。

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貫汪館無双神伝英信流抜刀兵法講習会を7月13日(日)に実施いたします。講習内容は「太刀打」で、講習会のテーマは「太刀打・・・居着きをなくす」です。貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古のページを御覧になり、どなたでもご参加ください。

 今月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。今月は久留米市武道館小道場と荘島体育館剣道場を交互に使いますが来月からは毎週水曜日全て荘島体育館剣道場での稽古になる予定です。興味のある方は貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法稽古のページの連絡先からご連絡ください。
  1. 2008/06/15(日) 20:14:38|
  2. 武道史

流派の歴史

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場では稽古をしていた場所で何度か、どういう流派か尋ねられたことがあるそうです。
 世間一般では土佐の居合は無双直伝英信流と中山博道先生の夢想神伝流の二つの流れしかないと思われており、少し知識のある方でも(・・・私自身は江戸時代の文献でいまだ確認したことがない言葉なのですが・・・)長谷川英信流下村派、谷村派の2派があったくらいに思われています。
 したがって無双神伝英信流という流名は江戸時代にも文献にあらわれる正式な名称であるにもかかわらず、多少居合を知っているくらいの方には全くわからない存在だと思います。
 私が経験した甚だしい事例は、関西の教育関係の大学の先生で和文化教育研究交流協会に関係がある方が日本武道学会にぽつりと臨時でこられた時に、ある方の紹介で挨拶したところ私の名刺を見て「嘘だ。「無双神伝英信流」という流派は存在しない。」とまで言われたことがあります。その方は伯耆流の准範士だか範士の名刺を出され、「全日本居合道連盟に所属し、相当居合はしています。」といっておられましたが・・・。
 実はその方の伯耆流も、岩国の片山宗家が一時広島に住んでおられたときに形だけを少し習った剣道の先生が教えられたもので、その剣道の先生は伯耆流の免許皆傳でもなんでもなかったので、本来指導して良いものではないのです。今は、その流派を正式に習っていない人や弟子、孫弟子、曾孫弟子が、流派とは関係のない連盟から七段や八段を授かって、許しを得てもいない流派名を名乗り指導する時代です。
 余談が少し長くなりましたが、世間では肩書きや地位だけあっても自分の知らないことは絶対に存在しないと思う方も多いのです。
 渋川一流柔術も今でこそ、大坂の渋川流とは異なる流派であるということが知られてきましたが、はじめて日本古武道振興会や日本古武道協会に加盟した頃には、違いをよく質問されたものでした。

 貫汪館で稽古される方は無双神伝英信流抜刀兵法や渋川一流柔術がどのような歴史を有する流派なのか何も見なくても簡単に説明できる程度の知識くらいはもっておくようにしてください。
 江戸時代では武者修行帳に自分の流派名を書くのは当たり前のことで、たんに「居合をしています。」とか「柔術をしています。」ということはなかったのですから。
 

貫汪館無双神伝英信流抜刀兵法講習会を7月13日(日)に実施いたします。講習内容は「太刀打」で、講習会のテーマは「太刀打・・・居着きをなくす」です。貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古のページを御覧になり、どなたでもご参加ください。講習会後はお酒の入らない懇親会を会費二千円で行います。

 今月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。今月は久留米市武道館小道場と荘島体育館剣道場を交互に使いますが来月からは毎週水曜日全て荘島体育館剣道場での稽古になる予定です。興味のある方は貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法稽古のページの連絡先からご連絡ください。  
  1. 2008/06/29(日) 19:35:50|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 1

 江戸時代後期から沼田の阿戸で難波一甫流を代々教授した宇多家に関するお話を記します。

(1)宇高宗助と阿刀神楽
 広島県無形文化財である阿刀神楽は十二神祇系の神楽で、昭和五十五年十二月には文化庁から「記録作成の措置を構ずべき無形の無形文化財」の選定をうけています。この神楽が何時ごろ、誰によって阿戸の地にもたらされたかは不明ですが、現在の形には、宇高宗助の指導で氏子たちの伝承していた舞の手に柔術の技が取り入れられたと伝えられています。
 阿刀神楽の特徴は以下のように纏められています。「太田川流域における十二神祇系の代表であり、いわゆる芸北神楽に比べ記・紀神話(古事記・日本書紀)の影響が少なく、江戸時代以前の形態を残している。また託宣舞が残っており、毎年舞殿を設けている。」

 武術は芸能化・神事化して残った場合と、現代武道へと変化吸収された場合がありますが、この場合一部が神事に取り入れられたということになるでしょうか。

 8月7日頃まで、メールが読めなくなります。メールの送信はそれ以降に御願いいたします。

  6月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。7月30日(水)は荘島体育館剣道場での稽古です。8月は6,20、27日の各水曜日も荘島体育館剣道場での稽古です。午後7時位からの稽古ですので興味のある方は直接、荘島体育館剣道場をお訪ねください。   
  1. 2008/07/27(日) 21:36:49|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 2

(2) 武者修行者と含み針

 阿戸の難波一甫流の道場には、各地から訪れる武者修行者が後を絶たなかったが、ある日、武者修行中の武芸者が道場を訪れた。有馬平五郎はこの武芸者を家に上げ、囲炉裏をはさみ対座していたが、何故か終始顔を俯きがちにして、いつものような堂々とした姿勢をとらなかった。
 家人が不思議に思い、平五郎の前をよく見ると沢山の針が落ちており、隙を狙って相手の武芸者が吹きつける針を手元に払い落としていたという。
 含み針はそれだけでは殺傷能力はないので、通常相手の目を狙い吹きつけるという。澁川一流柔術の流祖首藤蔵之進満時も含み針の名手であったと伝えられているが、居合(抜刀術ではなく、真剣に対して素手で対処する技法)の奥義として、敵の目に針を吹きつけたという。そのため平五郎は顔を俯きがちにして目を守りつつ針を払い落としていたのであろう。
 

 8月7日頃まで、メールが読めなくなります。メールの送信はそれ以降に御願いいたします。

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  1. 2008/07/28(月) 21:41:31|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 3-1

(3)他流試合の禁-1

 宇高是一が師範を勤めていたころ、安佐郡の中学校に勤める若い講道館柔道の教師がいた。安佐郡の阿戸に近郷の難波一甫流の大師範がいると知り、腕自慢のこの柔道教師はいつか試合をしたいと考えていたが、難波一甫流は他流試合を禁じていたために、正面から試合を挑むことができないので、不意に試合を挑もうと機会をうかがっていた。
 柔道教師にとって幸運なことに、ある日、所要で通行中の宇高是一師をたまたま見かける機会があった。直ちに走り寄った彼はものもいわず、是一師に挑みかかった。暫時、二人は睨み合っていたが、機をみた柔道教師は間合いを詰め、背負い投げで是一師を投げ飛ばした。得意然とした面持ちで塵を払うと柔道教師は悠然とその場を去っていった。
 この事態はすぐに近隣に知れ渡ることになった。さっそく、是一師の高弟の一人が師の元に駆けつけ、まるで非難するかのように、「何故、手もなく投げられ帰ってこられたのか。」と問い掛けた。

 続く 
 

 8月7日頃まで、メールが読めなくなります。メールの送信はそれ以降に御願いいたします。

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  1. 2008/07/29(火) 21:43:21|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 3-2

(3)他流試合の禁-2

 是一師はしばらくして次のように答えた。「知っての通り難波一甫流は他流試合を厳禁している。一方的に試合を仕掛けられたとはいえ、それを自分が破って試合に応じては自ら流派の掟を犯すことになる。仕方なく自分は投げられたのである。しかし、他言を憚ることではあるが、身に降りかかる火の粉は払わねばならぬ。投げられる寸前、あの男に当て身を入れておいたので、気の毒ではあるが、一年近く体の具合が悪いであろう。」
 はたして、その柔道教師は宇高是一師範を投げたのち体の調子が悪く、一年近く柔道の稽古はできなかったという。
 この話には、当時スポーツ化しはじめていた講道館柔道および古流柔術の一部と、かたくなに古伝を墨守しようとする古流柔術の違いがハッキリと現れている。講道館柔道の創始者嘉納治五郎先生は天神真楊流および起倒流の免許皆伝であり、その伝える形には古流同様のものが多くあり、生死を前提にした形ではあるが、後に嘉納治五郎先生自ら回顧しているように御自身が創始した柔道とは次第にかけ離れたものとなりつつあった。この話の柔道教師にとっては投げてしまえば一本というルールから、完全な勝利だと確信したが、古伝を墨守する立場から考えれば勝負とは生死に係わるものであり、投げに対しては受け身をとればよく、逆に投げられる前に当て身を入れるという古流柔術によくみられる技法により相手の体調を一年間も崩してしまっている。もちろん、当時の(現在も)講道館柔道のルールから考えれば、当て身は反則技である。
 同じような話は明治の頃にはよくあったことらしく、私が指導を受けた今治藩伝・浅山一伝流の相伝者、故青葉照樹先生からも以下のような話をお聞きした。「先々代の檜垣助一先生が今治城跡で演武をしたあと、飛び入り自由の試合を許され、そこに講道館柔道の先生が名乗りを上げられ、組み合ったが流石に相手の力は強く、当てを入れ投げ倒した。」この話にも当時の古流の試合に関する考えがよく現れている。古流に於ける試合とは、場合によっては命の危険を意味している。


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  1. 2008/07/30(水) 21:45:11|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 4

(4)意治術

 これも宇高是一師範に関する逸話ですが、ある時門弟が「家を動かしてみてください。」と是一師に頼んだ。是一師は屋敷の中央に立ち腰を据えると、意治をかけた。すると屋敷はメキメキと音をたてて揺れはじめたといいます。
 意治術はいわゆる臍下丹田術で、呼吸により丹田を充実させ体を統一し、筋力以上の力を出す方法です。難波一甫流の術技の根幹はこの意治術にあり、意治が身につくように繰り返し鍛練するということです。 
 難波一甫流を治めた方には「力」に関する話が多く残っています。


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  1. 2008/07/31(木) 21:49:52|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 5

(5)宇高家の女性と武道

 宇高是一師の妹「お春」は河内村の平岡家に嫁いでいました。まだ、この方が若いころ阿戸の実家に普請があり、そのお祝いにおはぎを届けるため日浦峠を越えたあたりを歩いていました。
 早春のまだ雪が残る頃のことで、道端に焚き火を囲む浮浪人の一団がありました。是一師の妹はこの一団をよけ、会釈をして通り過ぎようとしましたが、浮浪人の一人が声をかけました。
「肩にしている荷は何か。」
「これは実家に届けるためのおはぎでございます。」
「我等一同は朝食もとっておらぬ。我等にもお振る舞いくださらぬか。」
 言葉は丁寧ではあったが、腕ずくでも奪いかねない様子。
「全てを差し上げては実家に持参することができません。お一つずつでお許しくださいませ。」
 浮浪人達は、むしゃむしゃと、おはぎをほうばりましたが、中の一人が是一師の妹の手を無体にも急に掴もうとした。体をかわすと、なおも掴みかかろうとするので、逆を捕、灌木の繁みに投げ飛ばした。他の浮浪人達はその様子を見、焚き火の囲みを解き、次々に掴みかかろうとしたが逆に全て投げ倒されなす術がなかった。その後、是一師の妹は荷物を纏め静々と実家に向かったということです。
 この、是一師の妹「お春」は相当に難波一甫流を修行された方で、門弟の指導もされていたらしい。玄関の式台に足の指をかけて立ち、意治をかけ、「落としてみよ。」と言われ、弟子が力一杯押しても微動だにしなかったと伝えられています。


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  1. 2008/08/01(金) 21:51:30|
  2. 武道史

難波一甫流に関するお話 6

(6)宇高家に嫁いだ女性と武道

 宇高是一師の子息、諭吉氏に嫁いだのは「タキ」という女性でした。「タキ」は平良村(現廿日市市)の出身で、阿戸村から実家に帰るためには途中の河内村の叔母の家に一泊して二日がかりで歩いて行かねばならなかったといいます。宇高家に嫁がれたのは十八歳位のころで、嫁がれたときに武術の簡単な手ほどきを受けられたそうです。
 この方がある時、女の子を連れて峠を下っているとき、向こうから尺八を吹いて来る虚無僧がありました。この虚無僧がすれ違い様、突然「タキ」に掴みかかってきた。「タキ」は度胸をきめ、逆に虚無僧の胸ぐらを掴み喉元の急所を下にぐっと抉るようにした。すると虚無僧は真っ青になって、山を飛ぶように駆け降りていったという。
 この話は「タキ」氏が自分の体験談を直接、郷土史研究家 故野村先生に語られたものです。「武術の簡単な手ほどきを受け」られたと語られていますが、非常事態に即応できたと言うことは、現代の私達の目から見れば相当な稽古をされたのではないでしょうか。

 以上で宇高家と難波一甫流に関するお話はおしまいです。

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  1. 2008/08/02(土) 21:54:16|
  2. 武道史

他地域の難波一甫流の話(1)

 他地域の難波一甫流の話です。広島市佐伯区の石内に石碑(明治35年建立)のある大下形次郎についてのお話です。

 大下形次郎は父親の甚八について修行し難波一甫流を教授していた。形次郎は優男で信義の厚い人物だったという。兄の尺吉は己斐町に道場を開いており、足が悪かったため指導には人力車で通った。己斐の道場には正面に摩利支天のえが掲げられていたという。
 形次郎は牛馬商であったが、あるとき比婆郡にある牛市に牛を求めに出かけた、この頃、値段の交渉は互いの袂に手をいれ指の数で行っていたが、どうしても牛を売ろうとする博労と値段の折り合いがつかない。この当時折り合いのつかない場合は中間の値段にしたというが、その博労はどうしても言い値で牛を売ろうとした。形次郎は商談を中止にしようとしたが、博労はついには仲間の博労をあつめ強引に牛を売りつけようとした。博労の一人が形次郎が優男と見ていきなり胸倉に掴みかかろうとしたが、形次郎が低い気合を掛けたかと思うと2メートルほどもとばされてしまった。それからは乱闘となったが、博労達がただ投げ飛ばされるばかりであった。
 市ではこのような時のため、草津から警備の為の見張り役を雇い入れていたが、その男が呼ばれると、その男は大下形次郎の前で深々と頭を下げ「先生お許しください。」と言った。形次郎の弟子であったのである。
 事情をよく聞いた博労たちは平謝りに謝って、仲直りの手打ちとなった。

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  1. 2008/08/03(日) 21:57:40|
  2. 武道史

他地域の難波一甫流の話(2)

 広島市佐伯区にある魚切というところに江戸時代難波一甫流の師匠がいた。この師匠の弟子に二人の若者がいたが日頃の稽古の成果を試そうと腕試しをしたくてうずうずしていた。しかし、難波一甫流は他流試合を禁じており、試合をしたことが師に知られると破門になってしまう。

 当時、どの地域の難波一甫流も他流試合を禁止していたようで、物外も(自分自身は難波一甫流を称していた)当時の武者修行日記をみると他流試合をしていない。

 ある日、二人の若者は他領であれば腕試しをしても師に分からないだろうと、本願寺詣でをすることにした。備前國吉井川にきた所、渡しの船頭がしきりに、船に乗れと勧めている。これを見た二人は好機と考えた。二人は何度も船頭に勧められたが、歩いて渡ると断っておき、ついにそれほど頼むのならと船に乗った。
 向こう岸について、乗客はそれぞれ船賃を船頭に渡しておりたが、二人はそのまま、おりてしまった。船頭が「船賃を。」と声をかけたが、「頼まれたので乗ってやったまで。」と嘯く。ついに喧嘩となり、二人はその船頭を川に投げ込み、また集まってきた船頭たちも川に投げ入れてしまった。
 二人は騒ぎが大きくならぬ内にと足早にその場を立ち去ったが、しばらく行くとこかげに一人の武士が腰掛けており声をかけてきた。「事の一部始終を見せてもらったが、腕を試そうと構えて不埒な振る舞いに及んではならない。お手前どもの腕で武芸のたしなみのある者に出会ったら、果たして無事でいることが出来るかどうか。生兵法は大怪我の元。以後慎むが良い。」と懇々と諭したという。
 二人は、そのとき初めて師の教えを思い出し、目が覚めたという。


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  1. 2008/08/04(月) 22:01:17|
  2. 武道史

他地域の難波一甫流の話(3)

 広島市佐伯区の八幡に高田利三郎という人がいた。難波一甫流を修行していた。若くしてアメリカに渡り財をなして帰郷した人である。
 アメリカの農園で雇われていた彼は、ある日、主人に町の銀行に言って大金を引き出してくるように言われた。馬に乗って出かけ、銀行からの帰り道、一人の強盗がそれを狙っていた。間が近く乱闘となったが、強盗の息の根を止めてしまった。
 新聞はジャップが白人を殺したと書き、大騒動になったが、真相がわかるや罵声は賞賛の声に変わったという。
 この方は後に広島の地元に帰り、学校に土地を寄付するなど、土地の名士になられたということです。

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  1. 2008/08/05(火) 22:02:48|
  2. 武道史

天通無類流 高森兼綱

 今日は難波一甫流ではなく天通無類流の高森兼綱という方のお話です。
 この流派は明治になって高森兼綱という方が渋川流をもとに作った流派であるということですが、家はなく伝書類が見つかりませんので定かなことがいえません。
 水口神社に奉納額が残り、刀や六尺棒、鎖鎌などを使った流派だろうということが推定され門人も多くあったようです。あるいは難波一甫流の出身とも言います。随分温和な方であったようにも伝えられています。
 ある日、市場に高森兼綱が柿を売りに出ていたときのこと、無理難題を吹きかけられ、また力づくで柿を買い叩かれようとしました。兼綱は持っていた杖を地面に突きたて、これを抜いてみよと言いました。ところが何人がかりで抜こうとしても突き刺さった杖は抜けず、さぞかし名のある方であろうということになり、柿は普通の値段で取引されたということです。
 このような、いわゆる力、(難波一甫流では意治をかけるといいますが)の話は難波一甫流には多く、また近くには渋川流も伝わっていたので両流を修行された方なのかもしれません。現在に伝わっていないのが非常に残念です。

 8月7日頃までパソコンメールがつかえなくなります。メールはそれ以降に御願いいたします。


  6月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。8月は6,20、27日の各水曜日、荘島体育館剣道場での稽古です。午後7時位からの稽古ですので興味のある方は直接、荘島体育館剣道場をお訪ねください。  
  1. 2008/08/06(水) 22:04:55|
  2. 武道史

江戸時代後期の広島の武術の状況

 柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善衛門の弟子で槍の武者修行をした諫早藩の藤原左右一という武士が記した『大日本諸州遍歴日記』という書があります。当時は武者修行といっても防具着用での試合ですから、大怪我をするということもほとんどなかったらしく、夜は相手方から接待を受けています。
 この藤原左右一が広島を訪ねた時の印象を記していますが、槍術の稽古は広島では道場もなく屋外で行われていたようです。つまり、道場の建物が存在していないのです。雨が降り続いていたので広島ではあまり試合ができず、以下のような歌を残しています。
  「稽古所もないか城下は広嶋で また降る雨に安芸の国かな」

 また、広島を評して「家中の士風□□□□にて美麗を尽くす、国礼大いに零落して万民難渋に及び候由、武芸もまた繁昌というにあらず。  城下の繁花長崎にまさる。」
 広島県民としては情けないのですが事実であったのでしょう。現在も県立武道館はなくまた政令指定都市にも関わらず、広嶋市立武道館もありません。
 体育館に武道場が付属するだけです。今も昔も広島の為政者は民のことを考えず、古武術もさかんではなく、政治家は存在すら知りません。
 

  6月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。8月は6,20、27日の各水曜日、荘島体育館剣道場での稽古です。午後7時位からの稽古ですので興味のある方は直接、荘島体育館剣道場をお訪ねください。  
  1. 2008/08/07(木) 22:08:48|
  2. 武道史

渡辺勘右衛門久周

 今日は母方の御墓がある広島市内の戒善寺へお参りに行きました。
 戒善寺は江戸時代から続く由緒ある浄土宗のお寺で、幸いに原爆で破壊されなかった古い御墓がいくつか残っています。その御墓の中に難波一甫流の指導をした渡辺勘右衛門久周の御墓があります。明治・大正の頃の記録を調べて墓石を訪ねてお寺に行っても、多くの武術家の墓が原爆で破壊され失われていますので、幸運にも残ったということができるでしょう。
 渡辺勘右衛門久周の記録は史書になく、始めどういう人物か全くわからなかったのですが、墓石には下部に「門人」と刻まれ、墓石の両側には門人の名であろうと思われる4名の名が刻まれた石灯篭が刻まれていましたので、文武いづれかの師であったのだろうと推定しているだけでした。
 しかし、たまたま、この人の名が記してある伝書を見つけ、この人が難波一甫流の師範であったということがわかりました。幕末から、明治にかけての伝書でしたが、内容は本流の難波一甫流のものとは大きく異なっていました。どの段階で改編されたものかは不明です。渡辺勘右衛門久周は難波一甫流の本流である矢野家の門人ですので、この方が授かった伝書は本流のものであったはずです。歴史に謎は残ります。
 余談ですが、この系統の改編された伝書を書き写し、それに本流に近い内容の伝書を伝えた有名な人物の系統の名を記して、共同で偽書を作成し、自分は難波一甫流の正統な後継者だと名のり、雑誌に掲載された人がいるのですから、世の中は油断なりません。
 偽造した伝書に書いた人名の系統に伝わる伝書を見たことがないために、武道史の研究をした者には簡単に見破られるような失敗したのでしょうが、世の中には偽造した権威に簡単に騙される方も多くおられます。むしろ偽物のほうがそれらしくふるまうのですから。騙される方が多くならないように祈るばかりです。
 

  6月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。8月は6,20、27日の各水曜日、荘島体育館剣道場での稽古です。午後7時位からの稽古ですので興味のある方は直接、荘島体育館剣道場をお訪ねください。
 また、8月23日(土)、8月24日(日)は久留米市での終日の稽古会を行います。興味のある方は貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流の稽古のページ に記してある連絡先へご連絡ください
 
  1. 2008/08/13(水) 21:32:48|
  2. 武道史

土佐の柔術家

 柳河藩の柔術家 田中茂兵衛が悪漢を取り押さえるのに煙草の火を借りるのに事寄せて近付き・・・というお話をしましたが、以前にも述べたかと思いますが、土佐にも同じような話があります。
 林六太夫は居合のほかに朝比奈丹左衛門から小栗流和(やわら)術の免許も授かっていたようで、林六太夫の小栗流の門人に免許を授かった楠瀬六右衛門があります。楠瀬には山中に鉄砲を持って篭った盗賊に、鳥刺の姿となって鳥の話をしながら近づき、煙草の火を借りる事に事寄せて盗賊から火縄を借りる刹那これを取り押さえたという逸話がります。
 記録で残っている限りは林六太夫は免許まではいっていないようですが、弟子を取りその弟子に免許を与えたということは、現在免許の記録を見出せないだけかもしれません。 

 柔術をするからといって決して正面から武器を持った敵と渡り合っているわけではないのです。重ね重ね述べますが、武術には生き長らえることができる術がなければ、その価値はありません。道場の稽古以外での工夫が大切です。
 

  6月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。8月は6,20、27日の各水曜日、荘島体育館剣道場での稽古です。午後7時位からの稽古ですので興味のある方は直接、荘島体育館剣道場をお訪ねください。
 また、8月23日(土)、8月24日(日)は久留米市での終日の稽古会を行います。興味のある方は貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流の稽古のページ に記してある連絡先へご連絡ください
 

 9月21日(日)に貫汪館居合道講習会を実施いたします。今回の講習会のテーマは「詰合・・・居合と剣術のはざま」です。貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流の稽古のページを御覧下さい。公開して行う講習会ですので、流派、団体を問わずどなたでもご参加ください。
  1. 2008/08/18(月) 21:17:25|
  2. 武道史

一分之稽古執行

 月末の日本武道学会での発表資料の作成にいよいよ切羽詰ってきました。
 内容は大筋つかめるものの、細部が読めない古文書を広島県立文書館の西村先生に読んでいただきました。西村先生には広島の武道史の研究を始めた頃からお世話になっています。
 なるほどと思った文章の一部がタイトルです。「個人の稽古修行」という意味になるでしょう。
 長州藩主と柳河藩主の往復書簡の写しが柳川古文書館に残っており、その内容は、長州藩主が柳河藩から槍術・剣術に巧みな者を萩へ差し遣わして欲しいという依頼に対して、柳河藩主が表向きは難しいが個人が萩へ修行に出かけたということであれば可能であるとして返答した書簡の中の一文です。
 長州は柳川と婚姻関係があったということですが、大石神影流の大石進に入門して学ぶ長州藩士が多く、また大嶋流槍術の加藤善衛門に入門して学ぶ長州藩士も多くいました。優秀なものは進んで取り入れるという気風が優秀な人物を輩出した理由の一つかもしれません。

  6月から無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場が本格的に活動を始めました。毎週水曜日の夜間の稽古です。8月は6,20、27日の各水曜日、荘島体育館剣道場での稽古です。午後7時位からの稽古ですので興味のある方は直接、荘島体育館剣道場をお訪ねください。
 また、8月23日(土)、8月24日(日)は久留米市での終日の稽古会を行います。興味のある方は貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流の稽古のページ に記してある連絡先へご連絡ください
 

 9月21日(日)に貫汪館居合道講習会を実施いたします。今回の講習会のテーマは「詰合・・・居合と剣術のはざま」です。貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流の稽古のページを御覧下さい。公開して行う講習会ですので、流派、団体を問わずどなたでもご参加ください。
  1. 2008/08/20(水) 22:13:47|
  2. 武道史
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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
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