無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

日本における銃剣道の起源について 4

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
2.銃剣の使用について
(4)高島流の発展と銃剣の使用
 高島流砲術と西洋銃陣は高島秋帆から皆伝を許された者たちによって発展していく。西洋銃陣は西洋における発達にともない,日本でもその翻訳書をもとに習練された。
 佐賀藩の武雄領では領主鍋島十左衛門茂義が天保3年(1832),家臣の平山三平に高島秋帆の父高島四郎兵衛に西洋砲術を学ばせた。ついで天保5年(1834)には鍋島十左衛門茂義自ら高島四郎兵衛・高島秋帆に入門した。天保11年には佐賀藩主鍋島直正は西洋砲術の親閲をおこない,病臥中であった鍋島十左衛門に代わり坂部三十郎が砲の射撃を指揮し,平山醇左衛門と浦田八郎左衛門が西洋銃陣の指揮を行ったという11)。
 薩摩藩では天保9年(1838)に荻野流砲術師範であった鳥居平八・平七の兄弟を高島秋帆に入門させた。兄弟は翌年には免状を得て帰藩,さらに天保12年にも高島秋帆のもとで学んだ。薩摩藩は天保13年(1842)に演習を行い射撃および銃陣の教練を行った12)。
 田原藩では天保13年に村上定平が高島秋帆に師事し皆伝を許され,台場の築造替や大砲鋳造,銃陣訓練を行った13)。
 越前藩では弘化4年(1847)に高島秋帆の弟子で幕臣であった下曽根金三郎に藩士十数名を入門させ,西尾源太左衛門父子が皆伝を許された。藩主松平慶永は西尾父子が指揮する銃陣調練を検閲し,嘉永4年(1851)に御家流と改称して全藩の砲術を御家流に統一した14)。
 幕府では徳丸原での演練後,江川英龍と下曽根金三郎が高島秋帆より皆伝を得て,教授を開始した15)。安政3年(1856)には講武所が設置され,文久2年(1862)には陸軍が設立された16)。さらに慶應2年(1866)からはフランス軍事顧問団による幕府陸軍への教育が始まった17)。
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  1. 2017/10/22(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 3

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
2.銃剣の使用について
(3)高島流における銃鎗(剣)の使用とその批判並びに擁護論
 天保10年(1839)にアヘン戦争が起こると高島秋帆は西洋砲術の採用を願う「天保上書」を長崎奉行田口加賀守に提出した。田口はこれを江戸に進達し,その結果天保12年(1841)5月9日に徳丸原で演練が行われることになった5)。

 高島秋帆は次のように演練を行った。

モルチール筒にてボンベン玉仕掛打 但し、八丁目印小旗これを建つ
一番
二番
三番
  同筒にて焼打玉
四番
五番
  ホーイツスル筒にて小形ボンベン仕掛横打 八丁目印同断
六番
七番
  同筒にて数玉
八番
馬上筒 往返二筋
鉄砲備打
 右下知
野戦筒三連 但し、一連四人づつ
小筒打方
 以上

このうち鉄砲備打ではゲウェール銃が用いられ,人員は99人であった。また備打は下記のように行われた6)。
   ゲウェール備打
一、一文字備へ備へ中、左右へ打方
一、右一文字へを変じ、後打方、また元の備へになる
一、一文字備へその儘、左備へに取り直し打方
一、三方備へに変じ打方
一、ゲウェールへ鎗を付け、一重備へに変じ、敵に突かけ打方
一、一重備へ則ち三重備へ、また一文字に変じ
一、小口引きになる
一、乱足野路押前
一、一重備へ隠れ石火矢備へ、四切に乱打
一、石火矢押出し早打
一、追打ちに変じ打方
一、繰引だ方
一、輪備へに変じ打方
一、一文字備へに変じ打方

 ゲウェール備打のうち銃鎗(剣)の使用は「ゲウェールへ鎗を付け、一重備へに変じ、敵に突かけ打方」という部分である。
 この銃鎗(剣)の使用に対して幕府鉄砲方の井上左太夫は次のように批判している。
 「また、筒先に鎗穂の如き物取りはずしに仕り、日本の筒より便利の様に相見え候へども、…中略…日本にては鎗、長刀ならびに間近に相成り候へば帯刀の業もこれあり候故、鎗の如きものは不要にて」7)
 この批判に対して、井上左太夫の意見を問答形式で論評した金令山人(鈴木春山または江川英龍8))は次のように銃鎗(剣)の使用を擁護している。「また日本においては鎗、長刀間近に相成り候へば、帯刀の業もこれあり候故、鎗の如きものは不要云々と申し候へども、鎗、長刀、のうへになほまた鉄砲にも鎗付きをり候はば、それだけが助けと存じ候」9)
 また、『江川坦庵全集 別巻』には江川英龍が銃鎗(剣)を擁護する立場であり、江川坦庵全集には井上左太夫の論に対して、「彼らはまた吾國には長刀太刀槍あるが故に銃槍は不用なりというが、それ吶喊して敵陣を突くの戦法を知らざるの言なり。鐡砲組にして槍組を兼ね得ると兼ね得ざるといずれが便なるや。」10)と弁駁の要旨が記されている。

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  1. 2017/10/21(土) 21:25:00|
  2. 未分類

日本における銃剣道の起源について 2

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
2.銃剣の使用について
(1)銃剣と銃鎗(槍)について
 銃の先に装着する武具にたいして銃剣または銃槍という言葉が用いられ,明治期には銃剣術を銃槍術とも言った。銃剣も銃槍も使用方法は異ならない。銃剣と銃槍という用語の違いはその形状にあり,刃がついており刀の形状をしているものを銃剣と言い, 棒状の先端が鋭利にとがっているものを銃鎗(槍)といったが,混用されている場合もある。
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(2)ヨーロッパにおける状況
 16世紀における小銃の有効射程は100メートルで2分間に1発程度の発射速度であり火力単独では敵を防御できず,長剣を銃手に携行させた。また騎兵の襲撃に対する歩兵の援護手段として槍を集団的に使用していた。1660年代にフランス兵が短剣を銃口に縛着して敵陣に突入したところから,銃剣の使用が始まり,1703年にはフランス陸軍制式兵器となって軍における槍の装備は騎兵を除いて逐次姿を消していった4)。この状況はヨーロッパ各国においてもほぼ同じであったと考えられる。
  1. 2017/10/20(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日本における銃剣道の起源について 1

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 9月に行われた日本武道学会第 50 回記念大会での私の発表を数回に分けてあげていきます。

日本における銃剣道の起源について
The origins of jukendo: bayonet combat in japan


Ⅰ はじめに
 銃剣道は剣道や柔道と異なり日本発祥の武道ではなく,幕末に西洋砲術をとり入れた際に付随してとり入れられた銃剣(槍)術がはじまりである。その後,明治時代になって西洋を起源とする銃剣(槍)術に改良が加えられ日本式の銃剣術を確立し現在の銃剣道に至っている。本研究の目的は幕末における銃剣(槍)術の実態を明らかにすることにある。

Ⅱ 高島流砲術と銃剣の使用について
1.高島流砲術の成立
 文化4年(1807)にエトロフ事件が勃発すると,長崎ではそれまで佐賀・福岡両藩によって交代守備されていた古台場の外に,港内に7カ所の台場が新たに設けられその守備を地役人が受け持つこととなった。高島秋帆(1798-1866)の父である高島四郎兵衛がそのうちの一つである出島を受け持った。四郎兵衛は荻野流増補新術を習得し文化7年(1810)に免許を受けた。高島秋帆は父の着眼と指導によって西洋砲術の研究に没頭したとされる1)。
 高島秋帆は文政6年(1823)に長崎出島のオランダ商館長となったヨアン・ウィルレム・ド・スチュレルから西洋砲術を習った。スチュレルは14歳のときにオランダ陸軍に入隊し,砲手となり,商館長着任当時は陸軍大佐であった2)。
 高島秋帆が高島流砲術を称したのは天保6年(1835)で,天保8年(1837)の肥後藩有吉一郎兵衛からの高島宛て起請文には
一、荻野流の事
一、同新流の事
一、高島流の事
一、西洋銃陣の事
とあり当時高島秋帆が荻野流,荻野流増補新術,高島流砲術(西洋砲術),西洋銃陣の4項目を指導していたことがわかる(のちに荻野流と荻野流増補新術は削除される)。このうち西洋銃陣はオランダの教練書によるもので,一般条項及び各個教練,中隊教練,大隊教練,リニー教練の4種の教練書によったものである3)。銃剣(槍)の使用法はこの西洋銃陣にふくまれていた。

  1. 2017/10/19(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

無念無想

 形稽古で一つ一つを正確にと、手の高さ、足の向き、切っ先の高さ等々を考えながら稽古してはいけません。頭をつかって計算しながら稽古をしていると一つ一つの動きに居着いてしまい、全てがバラバラになってしまいます。
 無念無想というのは宗教的な無念無想をいうのではなく、居着かないための無念無想です。そのためにはなるべく頭を空にして、頭ではなく体が働くようにしなければなりません。一度体が働くことを理解すると、あとの稽古は楽になっていくはずです。

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  1. 2017/10/18(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一人稽古

 私は高校生の時に入門させていただいた時に居合の師は無雙神傳英信流抜刀兵法の梅本三男貫正先生だけと決めていましたので、大学で広島を離れ茨城県に行った後も他の師につくことはありませんでした。したがって広島に帰った時以外は大学の古武道場で一人稽古をしていました。また、就職してからも6年間は広島を離れていましたので一人稽古が続き、広島に帰った時に先生に教えを受けていました。
 一人で稽古しているので広島では先生にいろいろと変な癖がついているのを修正され「また下手になった。」と言われることもありましたが、一人稽古を続けることによって自分自身がより理解でき、先生に指導を受けときに先生のご指導が、深く理解できるようになったと感じていました。
 一人で稽古を重ねるときには自分自身の心と体をより深く観察し、稽古を続けてください。

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  1. 2017/10/17(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

初心者

 高知県立歴史民俗資料館で大石神影流剣術の体験会をしたとき、全くの初心者の方が稽古してくださいましたが素晴らしいと感じたことがあります。それは相手の動きをよく観ておられることです。
 初めて木刀を手にする女性の方も多く居られましたが、お互いにお互いの動きをよく観ておられいい加減なタイミングで動くことはされなかったのです。体験してみようと思われる初心者の方ですから皆さん真摯な態度であり、指導されたように動かなければ危ないという思いもあったのかと思いますが、初心者の持たれている良い面を伸ばすことの大切さを強く感じました。

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  1. 2017/10/16(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

道場を共有する場合

 公共の道場などで他流派、他武道が同じ空間で稽古をされている場合、不用意に拝見することは慎まなければなりません。自分が休憩している場合などに、ついつい目が行きがちになるものですが、それでも拝見することは慎まなければなりません。
 本来ならば仕切りがあり、壁があってしかるべきなのですが、そういうわけにもいきませんから、しかたなく同じ空間で稽古しています。許可もないのに拝見することは礼を失することになります。

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  1. 2017/10/15(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

拝見する態度

 上位者の形の演武を道場内で拝見するときには正座で拝見するのが基本です。これは必ず守ってください。はじめからあぐらをかいて座るということはありません。
 柔術などの稽古で師が動きを見せたいときには、立ってこの位置にくるように指示しますが、たとえ立っていたとしてもどのような態度で拝見してもよいということはありません。あくまで礼節を保った態度で拝見しなければなりません。
 他流派の先生の演武を拝見させていただくときにはなおさらのこと、礼儀を欠いてはいけません。

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  1. 2017/10/14(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について

 無雙神傳英信流抜刀兵法 3段の論文を載せます。非常に良く書かれていますので参考にしてください。

 先ず、初めに(武術流派としての)居合とは何か?について考えてみたい。所謂素抜き抜刀術と呼ばれるものは現在、居合の流派のみならず多数の剣術流派の中に体系として存在している。最も古い剣術流派の一つと言われる「天真正伝香取神道流」にも素抜き抜刀術はあり、私が貫汪館で学んでいる剣術流派である「大石神影流」、柔術流派である「渋川一流」にも素抜き抜刀術は存在している。しかし、素抜き抜刀術が存在しても「大石神影流」は剣術流派であり、「渋川一流」は柔術流派である。抜刀術がある=居合の流派ではない。
 剣術流派、柔術流派、居合術流派それぞれをその流派たらしめているものは何だろうか? それは流派の根本的な動き、「身法」を会得するために何を稽古の中心に据えているかであると考える。剣術流派である「大石神影流」は剣術の「形」を稽古することが中心であり、剣術の形稽古によって身法を身につけていく稽古体系になっている。また、柔術流派である「渋川一流」は「履形」等の素手対素手の形稽古を始めに稽古することにより流派の身法を学んでいく。そして居合術流派である「無雙神傳英信流抜刀兵法」はその体系に剣術の形である「太刀打」、柔術的技法である「大小詰」「大小立詰」を含みつつも稽古の中心はあくまで素抜き抜刀術の稽古なのであり、素抜き抜刀術の稽古により流派の身法を身につけていく。
 居合の流派としての歴史は素抜き抜刀術を稽古の中心に据えたことから始まると考えられる。そして抜刀術中心の稽古体系を最初に確立したとされるのが「中興抜刀之始祖」といわれる林崎甚助重信である。林崎甚助重信は天文11年(1542年)、出羽国楯山林崎(現山形県村山市林崎)に生まれた。父は楯岡氏六代目の楯岡満英に仕えていた浅野数馬源重治、幼名は民治丸といった。林崎甚助が武術を志したのは仇討ちのためと伝えられる。父浅野数馬が天文16年(1547年)熊野明神での囲碁の帰途、坂上主膳の闇討ちに逢い暗殺された。民治丸は父の仇討ちを志し、天文23年(1554年)13歳にして仇討ちのための剣法上達を祈願して楯岡城武芸師範東根刑部太夫に入門し、修行に励んだ。永禄2年(1559年)18歳にして民治丸は開眼し、元服して村名を姓として「林崎甚助源重信」と名乗り仇討ちの旅に出た。永禄4年(1561年)林崎甚助は京都で仇の坂上主膳を討ち果たし本懐を遂げる。甚助は帰郷して熊野大明神に刀を奉納し、これより林崎流を称したといわれる。
 現在に伝わる「神夢想林崎流」の特徴は必ず稽古に相手を置き、敵が九寸五分の小刀にて突いてくるのを自分は三尺三寸の刀を以って突く前に切り止める修行を行うものである。相手が小刀、自らが三尺三寸の刀での超近距離での攻防の想定は非常に特異なものに感じられる。闇討ちに逢った父浅野数馬の仇討ちを志した少年浅野民治丸(林崎甚助の幼名)が現在の「神夢想林崎流」に伝わる形のような修行をしたのだろうか? 仇討ちという直接的な目的があるならもっと単純な技法を修練したのではないだろうか?余談であるが私が以前学んだ中国武術「八極拳」には小さい鉄球を入れた麻袋を掌で一日数百回叩くという練功法があり、仇討ちのために手を凶器化するものと伝えられていた。浅野民治丸少年がどのような修行を行ったかについては謎のままである。しかし、13歳で修行を始め20歳で仇討ちの本懐を遂げるほどの強さを身に付けたのは本人の才能、努力も大きな要素であったと思われるが、修行の方法に革新的な要素があったと思わざるを得ない。その要素とは何であろうか? 私は大きく二つの要素があると考える。
 一つは座姿勢からの抜刀という特殊な状況での修練により極めて高度な身法を会得することが出来たのではないかということである。座る姿勢の方が立つ姿勢より重力に抗しない、無理無駄のない身体の状態を会得することを容易にすることに気づいたのではないだろうか。
 もう一つの要素は三尺三寸という長大な刀での抜刀の修行がやはり、高度な身法の会得へと繋がったのではないかということである。「無雙神傳英信流抜刀兵法」では身長により多少長さに差はあるものの、概ね二尺八寸から三尺の長さの刀で稽古を行っている。私は現在、二尺八寸の刀で稽古を行っているが(身長は168cm)入門当初は先生から貸していただいた二尺五寸の刀で稽古を行っていた。入門から半年ほど経て注文していた刀が届き、初めて二尺八寸の刀での稽古を行った時の驚きは今でも忘れられない。全く刀が抜けないのだ。
 先ほどまで差していた二尺五寸の刀なら不調法ながらも抜けていたものが全く抜けない。わずか三寸の長さの差が体感的には倍の長さにも感じれられ、正座のまま身動き出来なくなってしまった。短い刀なら「手」を使いそれなりに抜くことが出来ても長い刀は手で抜くことは出来ない。身体を使い、身法で抜かなければ抜くことは出来ない。三尺三寸という長大な刀で修練を行った林崎甚助が高度な身法を身につけたことは想像に難くない。
 居合術流派を確立した林崎甚助重信は私が学ぶ「無双神伝英信流抜刀兵法」の流祖でもある。林崎甚助重信以降の伝系は以下のとおりである。

 林崎甚助重信(初代)、田宮平兵衛業正(二代)、長野無楽入道僅露斎(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗読(五代)、萬野団右衛門信貞(六代)、長谷川主悦之助英信(七代)、荒井兵作信定(荒井清哲)(八代)、林六太夫守政(九代)、林安太夫(十代)、大黒元右衛門清勝(十一代)、松吉八左衛門久盛(十二代)、山川久蔵幸雅(十三代)、下村茂一、坪内清助長順(十四代)、細川義昌(嶋村善馬)、嶋村右馬允(丞)義郷(十五代)、植田平太郎竹生(十六代)、尾形郷一貫心(十七代)、梅本三男貫正(十八代)、森本邦生貫汪(十九代)

 現在の「無雙神傳英信流抜刀兵法」を考える上で歴代伝承者の中でエポックとなる人物が第九代 林六太夫守政である。林六太夫守政は寛文3年(1663年)土佐国(現高知県)に生まれた。父は土佐山内家の御料理人頭であった林政右衛門。林六太夫守政は江戸勤務の際に第八代 荒井兵作信定(荒井清哲)より居合を学び、第九代の伝承者となった。この林六太夫守政により土佐に居合が根付くことになり、以降英信流の居合は土佐居合とも呼ばれるようになった。また、現在「無雙神傳英信流抜刀兵法」では「大森流」をはじめに稽古し、次に英信流を稽古することになっている。この「大森流」は新陰流の伝承者大森六郎左衛門によって編纂されたものである。
※一般には「大森流」は新陰流に小笠原流礼法を取り入れて編纂したというのが通説である。しかし、私の師匠である森本邦生先生が高知県の自由民権記念館の細川家寄託文書にある「大森流居合術名覚」(これは慶応2年に十四代 下村茂一から十五代 細川義昌(当時は嶋村善馬)に出された大森流の伝書である)を研究した結果、「大森流」は新陰流・無楽流・一宮流・柳生新陰流・一刀流を学んだ大森六郎左衛門がそれらの流派を基に編纂されたという推論も成立することを発表している。
 林六太夫守政は大森六郎左衛門より新陰流を学び、「大森流」を無双流の居合に取り入れた。これ以降、片膝立ちの座法の英信流の前に正座法の「大森流」を稽古する体系となり、「無雙神傳英信流抜刀兵法」の稽古体系の骨格が確立されたと考える。
 林六太夫守政が「大森流」を取り入れたことによって確立された現在の「無雙神傳英信流抜刀兵法」の稽古体系は以下のとおりとなっている。

1. 大森流
(1)初発刀(2)左刀(3)右刀(4)当刀(5)陰陽進退(6)流刀(7)順刀(8)逆刀(9)勢中刀(10)虎乱刀(11)抜打
2.英信流 表
(1)横雲(2)虎一足(3)稲妻(4)浮雲(5)山下風(6)岩浪(7)鱗返(8)浪返(9)瀧落(10)抜打
3.太刀打
(1)出合(2)附入(3)請流(4)請入(5)月影(6)水月刀(7)独妙剣(8)絶妙剣(9)心妙剣(10)打込
4.詰合
(1)発早(2)拳取(3)岩浪(4)八重垣(5)鱗形(6)位弛(7)燕返(8)眼関落(柄砕)(9)水月(10)霞剣
5.大小詰
(1)抱詰(2)骨防返(3)柄留(4)小手留(5)胸留(6)右伏(7)左伏(8)山影詰
6.大小立詰
(1)袖摺返(2)骨防返(3)鍔打返(4)〆捕(5)蜻蛉返(6)乱曲(7)電光石火
7.英信流 奥
(1)向払(2)柄留(3)向詰(4)前後詰(5)両詰(6)三角(7)四角(8)棚下(9)虎走(10)人中(11)行連
(12)速達(13)行違(14)夜太刀(15)追掛斬(16)五方斬(17)放打(18)抜打(19)馳抜(20)抜打

 「大森流」は前項で説明したとおり第九代 林六太夫守政によって英信流に取り入れられたもので英信流との最も大きな違いは英信流が片膝立ちの座法を取ることに対して正座で座すことである。大森流で最も大切なのは正座であり、正しく座ることが出来れば「大森流」を半ば会得しているといっても過言ではないだろう。私の師匠である森本邦生先生は「大森流」の正座について以下のように説明している。
 「大森流の基本は正座にある。正座こそがすべてといっても過言ではない。人は立つことにより様々なことを可能とするが、引力に拘束されるが故に、よりしっかり立とうとし、それが人に動きを制限してしまう。つまり、崩れたくないために足首、膝、股関節、腰に不自由になってしまうほどの力みを入れ、それによって安心を得ようとする。しかし、武術における立姿は一見不動に見えながらも、そよ風が吹けばそのままふわっと動かされてしまうような自由自在な姿勢でなければならない。正しく無理無駄なく自然なままに座れることが、後の業に繋がっていく。つまり、居合いにおける正座の姿勢では足首、股関節、腰は自然に引力によって正され無理無駄な力は全く入っておらず、また、下半身が自然であるが故にそれにのる上半身の腹、背、胸、肩、腕、首にも全く無理・無駄な力は入らない。この姿勢のまま動けることが武術としての居合いの業となっていく」
 「大森流」に続いて稽古を行う「英信流 表」の特徴は最後に行う「抜打」を除いて(「抜打」は大森流の「抜打」と全く同じであり正座で行う)立膝の姿勢で行うことである。正座と立膝の違いはあるが、座すためのポイントは「大森流」の正座と同様であり、正座が正しく出来ていなければ動くことは難しい。特に4番目に行う「浮雲」は「無雙神傳英信流抜刀兵法」の全ての技法のなかでも1、2を争う難易度であり、立ち姿勢でも座った時と同様の無理無駄のない状態になっていなければ満足に動くことは到底不可能である。
 「英信流 表」に続いて稽古を行うのが「太刀打」である。「大森流」「英信流 表」は相手を想定して一人で稽古するものであるが、「太刀打」は打太刀、仕太刀に分かれて二人で稽古を行う剣術の形である。大切なことは相手がいても「大森流」「英信流 表」で培った無理無駄のない動きが出来るかということであり、「大森流」「英信流 表」が正しく出来ているかチェックすることができるということである。
 「太刀打」に続いて行うのが「詰合」である。「太刀打」同様、二人で行こない、目的も「太刀打」同様であるが、前半はお互いに座姿勢から行う。剣術と居合の中間的な技法を学ぶものである。
 「詰合」に続いて行うのが「大小詰」「大小立詰」である。大小とは太刀と小刀のことであり、太刀を押さえられた状態から相手を崩す柔術的技法を学ぶものである。柔術的技法といっても身法は今までの稽古で培ってきたものと同様であり、無手で行う居合といってもよいものである。
 「無双神伝英信流抜刀兵法」の修行者が最後に学ぶのが「英信流 奥」である。ここで再び一人稽古に戻ることになる。今までの稽古で身に付けた身法をもって自由自在な動きを身につけることが目的である。

 最後にまとめとして私が思う「無雙神傳英信流抜刀兵法」の特質について述べてみたい。
私は「無雙神傳英信流抜刀兵法」の特質は以下の3点であると考えている。
1.無理無駄のない動きであること。
2.太刀打ち、詰合、大小詰、大小立詰が伝承されていること。
3.集団教授法を採用していないこと。
 1は無駄な力を使わないこと。特に手足等の末端の力を使わず丹田からの力を伝えることにより全ての動きを行うことで、加齢により筋力が衰えることがあっても武道としての動きは衰えない。江戸時代の武士は年を取ったからといって現在のスポーツ選手のように引退することはなく、戦う準備をし続ける必要があった。このため生の筋力に頼った動きに価値が見出されなかったのであろうと思われる。
 2は所謂、素抜き抜刀術だけでなく、剣術技法である太刀打、居合と剣術の中間的技法である詰合、柔術的技法である大小詰、大小立詰を体系に含んでいること。大森流、英信流表、英信流奥は所謂、素抜き抜刀術であり、相手を想定し一人で修練を行うものである。一般の人が居合と聞いて思い浮かべるのがおそらくこの部分であろう。利点は相手を想定し、一人で行うために自身の動きを内省的に把握することが比較的容易なため、自身の動きを修正し、高めていくことができることである。問題点は相手を想定するといっても自身の都合の良い想定になってしまいがちであり、独りよがりな動きに陥る危険性があることである。太刀打、詰合を行うことにより、素抜き抜刀術の想定が正しいか、実在の相手からのプレッシャーを掛けられた状態でも正しく動くことが出来ているかを確かめることが出来る。また、柔術的技法である大小詰、大小立詰を行うことにより、居合(素抜き抜刀術)が正しい身法で行われているか確認することができる。大小詰、大小立詰の身法は居合い(素抜き抜刀術)と同じであり、大小詰、大小立詰で力に頼らず技をかけることができていれば、居合い(素抜き抜刀術)も力に頼らずに動くことができているといえるのである。
 3は現在行われている所謂武道スポーツが集団教授法を主体にしているのに対し、無双神伝英信流抜刀兵法では号令に合わせて1、2といった動きで練習することはないことである。※師と一緒に抜くことはあるが、あくまで師の動きを目に映して動くのであり、集団教授法とは異なる。
 集団教授法は大勢の人間に効率よく「かたち」と「動きの順番」を指導することには優れており、剣道、柔道、空手道等が学校で教授される際に考案されたものと考えられる。当初は初心者や短期間練習する者向けのものであったものが時代を経るに連れ次第に集団教授法が練習の主体になっていったものと思われる。以上のような経緯からも判るように集団教授法では「かたち」と「動きの順番」の取得が第一の目的とされるため、古伝の武術が目指す無理無駄のない精妙な身法、その身法を支える心法の取得は難しいものと言わざるを得ない。
 古伝の練習法には現代に生きる私達には一見効率の悪いものに見えるものもあるが、流派の体系として深い意味があり目先の効率に拘り安易に変えてしまうと本当に大事にしなければいけないものを失ってしまうことを心に留めておかなければならない。

【参考文献】
 森本邦生:無雙神傳英信流の形・・・大森流、英信流 奥 
広島県立廿日市西高等学校 研究紀要 第13号
学研:歴史群像シリーズ 日本の剣術 2006年1月19日 第2版
貫汪館ホームページ 無双神伝英信流の歴史、形
 
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  1. 2017/10/13(金) 21:25:00|
  2. 居合 総論

立姿勢での鼠蹊部の緩み

 立つということそのものが地面を蹴ろうとする動きになりがちで、そのため足首に力が入り、膝を伸ばそうとし、鼠蹊部も伸ばしてしまいます。このような状態になると上半身と下半身はばらばらになり臍下丹田は意識できません。
 座姿勢で臍下丹田を意識できるのに立姿勢で意識できない方は座姿勢に戻り、下半身がどのような状態にあるかを確認して、立っていてもその感覚と違わない状態を求めてください。

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  1. 2017/10/12(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

見せて教える

 あるレベルにある方には見せることによって教えてください。初心者に対しても理解できる範囲は、あるいは少し上のレベルを教えるときにも極力言葉を避けて教えるべきです。言葉を多用して教えてしまうと教える者自身の動きが自ら発した言葉にとらわれやがて、旧式のロボットのようにインプットされたようにしか動けず、武道の稽古ではなくなってしまいます。
 相対した稽古は勿論の事、素抜き抜刀術のように一人で動く稽古でも、極力見せてください。

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  1. 2017/10/11(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

受け取る

 初めの内は教えられたことは全て受け取り消化する覚悟が必要です。教え方にも伝統のある古武道の流派を習得しようとするのに自分の考えを入れて自分なりに解釈し、自分なりに稽古していては道から外れてしまいます。難しいことかと思いますが自分を無にして先入観を捨てて、そのまま受け取るように努めてください。

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  1. 2017/10/10(火) 03:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

手の内

 居合の手の内も、剣術の手の内も、柔術で相手をとるときの手の内も基本的に変わることはありません。
 親指の働きが大切で他の四指は決して握り込むようなことはしません。掌が接したところに意識を持つのではなく、その先の切先や相手の体の中心にまで働く(気が通る)手の内でなければなりません。

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  1. 2017/10/09(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

立会

 半棒の「立会」は棒を扱う時の手の内を習うためには最適の形です。打方の斬り込みを右にかわしたときに棒を横たえ、棒に斬り込ませますが、この時に棒を握りしめていたら棒は半転しません。緩みすぎていたらたたき落とされてしまいます。また、臍下丹田とつながっていなければ手の内だけを整えても歪な廻り方しかしません。うまくできなければ何十回でも繰り返して稽古しなければなりません。自分で半転させるのではなく打方の斬り込みによって自然に半転するように工夫してください。

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  1. 2017/10/08(日) 21:25:00|
  2. 柔術 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!

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