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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

インターネット

 インターネットが発達して、インターネットに依存して生きている人が増えると不思議な現象が起こってきます。実社会では、これまでに会ったことがない人と近づきになろうとして会う時には、自分の姓名を名乗り、どんな肩書きを持っているかを名乗るのが普通ですが、インターネットの世界ではそのようなめんどくさいことをしない人もいて、それが普通だと思っているようなのです。
 これまでに何度も私の研究や史料の写真等について電子メールを通じて問い合わせがあったのですが、その中には自分の姓だけで名も記さずに、史料が欲しいとか、写真の大きいサイズのものが見たいとか言ってこられた方がおられます。私の感覚では人に物事を頼むのに自分の名を記さず、どういう経歴かも記さないのはおかしいのですが、そのような方の常識では姓だけを名乗って、物事を依頼するのがおかしくはないようなのです。
 時代が変わりつつあるのか、感覚がおかしい人が増えているのか分かりませんが、貫汪館で稽古される方は気を付けてください。

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  1. 2020/02/20(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

真剣・居合刀(模造刀)に依る手数の稽古

 大石神影流の手数の稽古を真剣や居合刀(模造刀)で一人で行ってみると、いくつかの気づきがあると思います。
 肩腕で振ると仕太刀が斬りこみで刀が止まった(止めるとき)時には次のようなことが起こります。柄の中で中子が嫌な動きをして柄が損じてしまいそうになる。肩や肘或いは手首に衝撃を感じる、場合によっては過大な負荷がかかる。刀が死にものとなり鉄の棒のように感じてしまう。
 肚中心に適切に動いていれば衝撃もなく、何もないかのように止まる。柄の中にも何も感じずスムーズである。
 全く異なる感覚ですので、一度確認してください。
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  1. 2020/02/19(水) 21:25:00|
  2. 剣術 業

心を鬼にして導く

 昨日は悪癖について述べましたが、悪癖を身につけさせないようにするのは師の大きな勤めでもあります。
 いくら指導しても心に「自分はこれでいいのだ」と強く思っている人は別にして、普通の人は心の偏りは多少あったとしてもその流派で上達したいと思っています。ただし初心のうちには何が正しくて何が正しくないのかわかりませんし、見て取ることができない人も多くいます。正しく動こうにも正しく動けないのです。
 このような状態のときに、指導するものは正すべきところはきちっと正していかなければなりません。「このように言ったら厳しすぎるだろうか」「言わなくてもいつか気づくだろう」「初心者なのだからできなくても当たり前、まあいいか」と指導者が思ったら初心者は上達することはできません。そのうち、その人たちが兄弟子になり、初心者として入った人は距離が近い兄弟子を見ますのでますますわからなくなってしまい、道場としてバラバラなレベルの低い道場になってしまいます。
 道を求める初心者には、優しい心の持ち主であったとしても指導者たる者は心を鬼にしてでも正しい道に導かなければなりません。

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  1. 2020/02/18(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

悪癖

 武道の稽古において、私がいつも「悪癖を修正するためには身についた期間の3倍以上の期間がかかる」と述べているように一度身についた悪癖はなかなか修正できません。「繊細に正しく」「細い上達の道から外れないように」と述べているのはそこに理由があります。
 自分の心の傾向がそうさせてしまうので、「力強くなければ武道ではない」と思っている方に、いくら刃物を扱っているのですからと説いても正そうとせず力強さのみ求める方は、いつか正しいことは何かということが分かったとしても、わかった瞬間に自分の身についた悪癖を修正できるわけではなく、まず身についた悪癖をなくす稽古から始めなければならないのです。ニュートラルにするまでに時間がかかってしまうのです。「自分はこれでいいんです。」と思う方は流派を学ぶことには適しませんし、上達はありません。
 初心のうちが大切な理由はここにありますし、素直に師に従い自分の勝手な思いで行ってはならない理由はここにありますし、師を選ばなければならない理由もここにあります。
 師が未熟であれば、何が正しいのかもわからず下手に「弟子の自主性」「個性」などというものに任せてしまいます。正しく導くことはできません。ひどい場合には古武道の流派を教えているといっても人に教える立場のみを自ら求めているだけの場合もあります。

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  1. 2020/02/17(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

斬撃

 無雙神傳英信流の斬撃の稽古である程度稽古が進んだ方にもおこりがちなのが、刀を振り下ろす時に檀中より上が振りの中心になってしまうことです。斬りこもうという心がそうさせてしまうのであくまでも最後まで心を鎮めたまま臍下を中心として上がり下がるだけと思わなければなりません。
 仮想の敵を遠くにおいているときも、そのようなことが起こりやすくなりますので、進時には敵との距離が近くなるよう斬り下ろす時には敵は目の前においてください。

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  1. 2020/02/16(日) 21:25:00|
  2. 居合 業

奥居合立技

 無雙神傳英信流の奥居合は座業と立技に分かれますが座業はこれまで稽古してきた大森流と英信流表の延長になりますので、正しく稽古してきた方には難しくはないと思います。しかし、立技は座ることによって助けられていたものがなくなってしまいますので、急に難易度が高くなるように感じると思います。つまり座った状態と同じ感覚で抜けないと感じることがあると思います。
 そのようなときには大森流、英信流表、英信流奥の座技で形が終り再び座したところと、その座した姿勢と同じ状態になるように立ち、座した状態と同じ状態で後方に下がれるように工夫してください。この工夫が進むと立技も座技と同じ感覚でできるようになると思います。

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  1. 2020/02/15(土) 21:25:00|
  2. 居合 業

山を下りる

 アメリカ人の門人が良い話をしてくれました。剣道八段の方がインタビューに答えた言葉だそうです。全く同じかどうかはわかりませんが、少なくとも門人はそこのように教えてくれました。質問は剣道の頂点を極めた今、どのように考えるかということだったようです。その返事は
 山の頂上まで行くと、他の山の頂上も見えてくる、しかし他の山の頂上に行くためには、一度山を下りてからでなければ他の山には行けない。
 というものだったそうです。アメリカ人の門人も貫汪館で稽古を始める前には様々なことをしていましたが、剣道八段の先生が話されたとおりに稽古をしてくれています。
 海外の門人にも、他の流派の相当に進んでいたにもかかわらず初心者として取り組んでいる方もいます。そのような方は真の上達が速く、自分を捨てられない人は真似ごとに終始します。
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  1. 2020/02/14(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

右肘

 無雙神傳英信流では比較的長めの刀を用いますが、ただ長ければよいというものではありません。
不適切な長さの刀(長い刀)を用いれば上達するどころか悪癖がつきそれを修正するために何年も無駄な時間を使わなくてはならなくなります。
 一つの目安が右肘です。刀の抜き差しをするときに右腕を伸ばさず緩めたまま、つまり右肘が落ちた状態で抜き差し出来ないようでは、刀が長すぎるのです。たとえ抜き差しができると思っても流派の理にかなっていなければ上達することはありません。上達のためには守らなければならない法があります。

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  1. 2020/02/13(木) 21:25:00|
  2. 居合 業

本質を見る

 物事を見るには表に現れるものではなく、奥にあって大きな働きをしている本質を見なければなりません。上達しない原因は表面だけを似せて上達したと思い込み、また他の者にも上達したと見られようとすることにあります。 
 本質が同じようになることを上達としますし、その本質は代々流派によって伝えられている物です。本質が同じであれば表に現れるものは、手の長さ、足の長さ、背の高さ、体つきなどによってかわってもかまいませんし、当然変わるべきものです。
 本質は見ようと思わなければ見えてきません。長年稽古していても外に現れるものにしか興味がない人は表面しか見ないために、行っていることは物真似にしかならず、流派を稽古しているとは言えない状態にあります。
 今は見えなくても表面ではなく本質を見ようとすることが上達につながります。
 
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  1. 2020/02/12(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

批評

 他流派に関しては他流派の独自の理論があるので、批評はすべきでないということはこれまでも述べてきました。ましてや、「あのようなことはありえない。」という批判をすべきではない事は言うまでもありません。
 ところが世の中では自分が他と違うということを言いたいがためにあえて批判してことさらに話題にすることもあります。そういう人は直接、会って話して尋ねることもなく批評するので、はたから見ていても、そもそも、その批評そのものがお門違いなこともあります。貫汪館で稽古される方は心惑わされることがないようにしてください。

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  1. 2020/02/11(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

 先日、山口県文書館に行き新たな謎が生まれました。調べれば調べただけ謎がなくなっていけばよいのですが、そうではない事もあります。
 新影流の伝書を見たら、そこには最初に岡(奥の誤記か)山左衛門太夫、次に上泉伊勢守、次に長尾美作。その次に名前が2名、その最後の人から元禄年間に伝書が発行されていました。伝書内容は村上一刀が柳河藩に伝えた愛洲神蔭流とは大きく異なっていました。愛洲移香の名は記されていませんでしたが、この伝書でも上泉伊勢守の前に岡(奥の誤記か)山左衛門太夫が入っています。武道の系図は家系図と異なり習った人(師)を羅列することもありますので、ひょっとしたら長尾美作が奥山左衛門太夫に習った後に、上泉伊勢守に習ったということを表しているのかもしれません。

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  1. 2020/02/10(月) 21:25:00|
  2. 武道史

長州の新陰流

 萩藩で新陰流を教えた家の一つに内藤家があります。幕末の内藤作兵衛は江戸の柳生家に学んだ後に、大石進に学ぶために柳河藩へ赴く許可を藩から得て、大石進に防具着用の稽古を学びます。さてこの内藤家ですが、江戸時代の初期には柳生宗厳の弟子である柳生松右衛門に学んでいますが途中から流儀を変え、江戸の柳生家に学んでいます。表向きの理由はさておき、やはり将軍とつながりが強かった江戸の柳生家に学ぶことに意義を見出したのではないかと思います。

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  1. 2020/02/09(日) 21:25:00|
  2. 武道史

破門

 入門について述べましたが、破門つまり強制的に稽古を続けられないようにすることがあります。無雙神傳英信流の師梅本三男先生は素行が悪い人物を一人ならず破門されていました。後に許されて復帰した人もいますが、許されなかった人もいます。梅本先生は破門は場合によっては許されることもあるという考え方でした。
 澁川一流の師畝重実先生は破門をより厳格なものとしてとらえられていました。ある弟子が、ある弟子に対抗心を持ち、その人物を「破門するように」と先生に言ったことがあります。この話は以前にもしたことがありますが、大切な話ですので再度記します。畝先生はその時に「人は死ぬまでには改心するということもある。破門をしてしまえば、その人物が改心する機会まで奪ってしまうことになる。また、そのような人物を弟子にしたことは自分の不明である。」とおっしゃられ、さらに「弟子が師匠に対して他の弟子の破門を要求することは、自分も破門されるということを意味する。しかし、昔であれば初伝にも至らぬ者が師匠に対して他の弟子の破門を要求するとは、完全に慢心している。」畝先生はこういう考えをしておられましたが、それらの弟子が改心したということは聞きません。
 大石神影流の師大石英一先生が破門を行ったということは聞かされていませんが、多く門人がおられた時期もあるようですが、その中で稽古を続けた兄弟子はごくわずか、また、私が入門させていただいた頃も初めから駄目な人には入門を許さないというお考えだったので、破門というよりも大石神影流が人を選んでいたのかもしれません。
 さて、私は今まで破門をしたことはありませんが、連絡を絶った北米の門人はいます。一度日本に来て稽古したのですがその後あたかもジネスパートナーであるかのような感覚で、日本的な師弟の関係は頭になく前言を平気でひるがえすような人物で、連絡をしてきてもその文言には誠意はなく自己主張しかありませんでした。
 今では海外の初心者には必ずオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を読むように言っています。この中に描かれている師弟関係や指導方法が無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流の先生方と私の師弟関係とによく似ており、梅本先生は「居合と同じだな。」とおっしゃった程だからです。『弓と禅』に記されているような師弟関係や指導方法が理解できなければ貫汪館で稽古を続けることはできないと思います。日本人の初心者や入門希望をする人にも必ず読んでもらわなければならないと思っています。日本人も変化してきているからです。
 初めは真面目そうな態度を取りながら少しずつ本性を現す人物もいます。なぜか年齢が上の団塊の世代にはそのような人が一人ならずあり、それ以来私より年齢が高い人が稽古したいとこられる場合には「年下の私が師匠になり、あの若い人たちが兄弟子になりますが大丈夫ですか。」と質問するようにしています。「会社で馴れているので大丈夫です。」と答えられても稽古に来られる人はいませんでした。門人を選んでいることになります。
 私は貫汪館でまじめに稽古をする館員を守らなければならない立場にあります。また、流派を次につないでいかなければならない責務もあります。いろいろな形でまじめに稽古を続けている方を守らなければなりません。週に1回の稽古であっても2週間に1回の稽古であってもまじめに稽古される方は道場にとっての宝であり、たとえ他の現代武道の高段者であったとしても、エゴが強く自己中心の人は貫汪館にとっての害悪でしかありません。状況によっては破門にして、まじめに稽古される方を守らなくてはなりません。
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  1. 2020/02/08(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

入門

 古武道の入門は本来は厳しいものです。簡単に言えば修行といっても人を傷つけることができる技術を身につける事ができるからです。厳しいといっても曹洞宗の入門のように厳寒の中2時間以上もまたされてというわけではありません。
 無雙神傳英信流の梅本先生に入門したときは、事前に剣道の先生からの紹介ということもありましたが、初めて訪れたのは週に1回だけ使われている広い剣道の道場でした。そこで先生は私の見学の態度や、兄弟子から教えられた斬撃の稽古への取り組み方を見られたのち、稽古の最後に「道場に稽古に来ますか。」と自宅の道場に通うことを許してくださいました。見られたのちというのは私が道場にいる間ずっと先生の視線を感じていたのです。
 渋川一流の畝先生に入門を許されたときは先生からなぜ稽古したいのかという質問に答えたのちに、「それでは」と入門を許していただきました。その時の私の答えが先生の意にかなわなければ入門は許してもらえなかったのだと思います。
 大石神影流の大石先生に入門を許されたときには、武道史の研究のために一度お訪ねした後のことですし、それ以後にも学会での発表資料をお送りした後でもありますが、あらかじめ毛筆でお手紙を書き、私の考えをお伝えして、その後にお電話をしてお訪ねしてお話をお伺いしてから入門を許され大石進種次先生、種昌、先生の墓所や史跡などを案内していただきました。大石神影流は有名な流派ですからおそらく100人は越える門人の端くれにという思いでしたが、その当時は数人しかおられませんでした。
 それでも誰にでも大石神影流への入門を許されたわけではなく、私が入門を許された日に、たまたま入門したいと突然訪れた他県の若い男性には入門を許されませんでした。事前に訪問の意思を伝えたわけでもなく、また当日の服装もジーンズにアロハシャツ、雪駄ばきという信じられない格好でした。
 また、稽古をつけていただくようになってしばらくしてから、このようなこともおっしゃいました。「以前居合の先生が稽古をしたいと来られ、足さばきはできますか?とお尋ねしたところ、居合をしているので大丈夫ですと自信をもって答えられた。そこで稽古をつけたが全くダメだったので、少年剣道に行って足が動くようになってから来てくださいといった。」おそらくこの方は現代居合道の先生だったのではないかと思います。決まった動きの中では動けても対人関係では動けないという稽古を積まれたのだと思います。大石氏先生ははじめ私に関しこの点を少し心配されてい
たようですが、はじめて実際に私の動きをみられて「動けますね。」と話していただいていました。私たちが稽古しているのは無雙神傳英信流ですので、普通に稽古していればある程度の足さばきはできるようになるものです。
 少し余談が長くなりましたが、このように入門に際しては自分が選べばそれで入門できるのではなく、先生からも選ばれるというのが一昔前の入門でした。 

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  1. 2020/02/07(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自宅での稽古

 自宅での稽古といっても、素振りや素抜抜刀術の稽古のことではありません。
 たとえば、椅子に座っているとき、食事をしているとき、風呂に入っているとき、パソコンに向かっているとき、意識するだけで稽古はfできます。戦前のように農作業をしたり、肉体労働をしたりする機会はなくなり日常生活で武術と密接に関係した動きをする機会は少なくなっていますが工夫次第でいくらでも稽古はできます。椅子に座ているとき、教えられたような座り方ができているのか、肚で呼吸ができているのかは短時間で確認できた出すことができます。食事をしているときに橋や茶わんを持つ肩ひじに無理無駄な力が入っていないか、これも短時間でただすことができます。風呂に入ってタオルを用いるとき、この動きにも無理無駄はないか。等々いくらでもけいこができ、稽古で習ったことを実生活を楽に過ごすことに用いることもできます。
 工夫をする多々は同情の中だけで稽古する人よりも何倍も早く上達していくことができます。

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  1. 2020/02/06(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一生修行

 無雙神傳英信流抜刀兵法の死梅本三男先生の道場は私が入門したころは小さな道場に人があふれかえり、先生に見てもらうためには順番を待たなければならないような状況でした。しかし、先生の晩年には私一人が道場で指導を受けるということも珍しくありませんでした。そのおかげで私はマンツーマンで指導を受けることができました。稽古に来る人が少なくなったのは先生の門人がことさら少なくなったということではなく、先生が指導を許可されて、支部を運営するようになると、先生に指導を受けに来る回数が極端に少なくなったということなのです。教えることは自分の修行につながるので、教えるようにと言われたのですが、自分の修業が相当に進んでいると勘違いして己惚れる人が多かったということなのです。
 澁川一流柔術の畝先生は晩年の門人はわずかでしたが、免許皆伝をもらったあとに指導を受けに来る人は皆無でした。門人で先生の葬儀に参列した者も私一人という状況です。
 人は自分が偉くなったと思い込む傾向が強い存在なのかもしれません。

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  1. 2020/02/05(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

大石神影流剣術三段論文

大石神影流剣術三段論文


「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について述べなさい。」
                              貫汪館北大阪支部 ○○○○

1 はじめに
今日につながる武道の原型が形成されたのは、15世紀後期から16世紀にかけて生まれた流派武術においてであるという。15世紀後期、剣術では飯篠長威斎の天真正伝神道流、愛洲移香斎の陰流、念流を継いだ中条長英の中条流など後の剣術の源流となる流派が現われている。16世紀になると、それらを受け継ぎ、剣術では塚原卜伝の新当流、上泉伊勢守秀綱の新陰流、伊藤一刀斎の一刀流など、さまざまな流派が展開している。
戦国時代が終焉を迎え、徳川幕府の時代となるのが17世紀初頭。剣術関連でいえば柳生宗矩の『兵法家伝書』(1632)や宮本武蔵の『五輪書』(1645)が書かれたのは江戸時代の初期にあたる。17世紀後半には、幕藩体制が定着し、武術においては実戦の可能性はほぼない時代となる。
18世紀からは、経済発展の中で町人・豪農の社会的な立場の上昇が見られ、社会全体が大きく変動していく中で、徳川吉宗、松平定信、水野忠邦により享保(1716~45)、寛政(1787~93)、天保(1841~43)の幕府の三大改革がなされるが、その際に質素倹約、尚武の気風が奨励され、その度に武術の復興が図られた(「武道の歴史とその精神 概説」魚住孝至 国際武道大学附属武道スポーツ科学研究所 2008年7月10~16pほか)。
大石神影流剣術が創始されたのは江戸時代後期である。現在、大石家に伝わる文書で散逸したものが多く、また当時の稽古道具は残っていないことから大石神影流の成立過程の詳細は不明のことが多いということである(参考文献(1)1p)が、先行研究の成果をたどりつつ、大石神影流剣術の果たしてきた役割や歴史的価値とは何か、そして我々が生きる現代において稽古する意義をどう考えているかについて述べてみたい。

2 大石神影流剣術の創流の経緯
大石神影流剣術の創始者である大石進種次は、寛政9年(1797)、九州は柳河藩の三池郡宮部村に生まれ、幼少のころより祖父の大石種芳から愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の指導を受け、文政3年(1820)には大嶋流槍術、文政5年に愛洲陰流剣術の皆伝を受けている。柳河藩に愛洲陰流剣術と大嶋流槍術を伝えたのは豊後岡藩浪人の村上一刀長寛であり、大石種芳は彼からこれらの免許を得ている。大石家に伝わった愛洲陰流剣術の形名は不明であるが、門人の残した伝書から推定するに新陰流の形もあるが柳生新陰流とは異なる、より実践的なものであったとされる。
文政8年には父の後を受けて柳河藩剣槍師範となり、天保3年(1832)、聞次役として江戸へ出立し翌年にかけて江戸で他流試合を行っている。また天保10年、再び江戸へ出て試合し、水野忠邦より引き立てを受けている。
愛洲陰流剣術と大嶋流槍術を修めた大石進種次が、いつ頃、大石神影流剣術を創始したのかについてであるが、伝書を比較したところ、天保5年には愛洲神陰流と記載されたものであったのが、天保8年には形名の変化があり天保13年、14年のものは現在の形名と変わらないということが分かる。したがって、体系が整理されたのは8年から13年の間、大石神影流を称したのは8年ころと推定されている(参考文献(1)2p)。
江戸を席捲した大石進種次の剣術が当時の人々に驚かれる特徴を持っていたということなので、私は、てっきり大石神影流剣術の遣い手として他流試合に臨んだと思っていたのだが、最初の江戸での活躍のときには、愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の師範という看板であって、未だ自らの流派を大石神影流剣術と称していなかったということになる。
愛洲陰流剣術は、大石神影流剣術の伝系の最初に愛洲移香斎が据えられているように陰流の流祖名を冠した剣術であり、普通に考えて大石家以外にも伝承されていたのだろうが、愛洲陰流剣術の他の伝系を知る者からすれば江戸で披露された大石進種次の愛洲陰流剣術は吃驚だったろうと思う。いや当流の免許皆伝を得ている者がどう工夫を加えるのか、それは千利休の守破離ではないがオリジナリティとして普通に受け止められたのだろうか。
さて、大石神影流剣術を創始したきっかけについてであるが、免許皆伝の際に授与される伝書の一つである「大石神影流剣術陰の巻」によれば、初め愛洲陰流剣術の竹の面と袋撓で行う仕合方法を学んだが、文化10年(1813)ころ、刀の切っ先を活かさない、胴を斬ろうとしないことに疑問を持ち、突き技と胴切りを取り入れ、それに対応できるよう愛洲陰流の袋撓と防具を改良したということである(参考文献(5)3p)。当時の剣術の諸流派は、刀法としてはともかく、少なくとも竹刀での試合稽古の範疇では、突き技や胴切り技をあまり想定していなかったということらしい。そもそも突き技は防具を着用しても危ない技であるとか、逆に竹刀がその衝撃に耐えられないので暗黙の裡に使われていなかったりとかするのを、大石進種次は、それではせっかく試合をするのに実践的ではないと考えて、むしろ竹刀と防具の改良を進めたということなのだろう。それと並行して、これらを特徴づけるような形(以下、大石神影流剣術の形を「手数」という。)を初めとする剣術探究の集大成として大石神影流剣術を創始したのだと思う。もしそうならば、大石進種次という人物は、とても合理的な考え方をする実践的な人だと思う。

3 手数からみた特徴の例
(1)突きと附けの構え
今日に伝わる大石神影流剣術における突き技については、最初に稽古する試合口の五本からして一心、無明一刀、須剣と三本に採用されている。また、突きの構えとして、左手を柄頭に添えた附けの構えが多くの手数に取り入れられている。手数において附けから実際に突きに移行することはないが、何時でも突きに入ることができるという前提で、手数の攻防が構成されている。「附けの構えからの突き技が手数には表されていないのは、それが当然のことだからであり、附けは、こちらが主導権を持つための構えである(道標2015/7/14より)」とされている。

(2)張りと受け
  張りと受けは二つでセットになった動きである。「実際に張るときはごく小さな動きで張り、身体のわずかな落下を用いる(道標2015/7/15より)」「刀の鎬で張るのだが、全身が連動して下からの力が呼吸に乗って鎬に伝わってくるように張る。体のどこにも無駄な力が入っていてはいけない(道標2014/11/5より)」とされる。これも試合口の三本に採用されており、附けの構えと同様、続く陽の表や陽の裏でも出てくる特徴的な動きだと思う。

(3)阳剱と阴剱
  阳剱と阴剱は、試合口に続いて稽古する陽の表の一本目、二本目の手数である。

…阳剱、阴剱は大石神影流の極意を教える手数です。阳剱で相手の木刀に意識を取られて、自分の動きが正しく出なければ大石神影流は身に付きません。阴剱で相手の動きに意図的に合わせて動いているようでは(こう来たから、こう動くという動きでは)大石神影流は身に付きません。…(道標2015/7/6)

  阳剣は、「打ち太刀の動きに乗って勝つ手数。先に打太刀が動きを起こすがそれは仕太刀に攻められ動きを起こさざるを得ない状態であるからであり、その打太刀の起こりに対して、上段から攻める仕太刀が打ちこむ(道標2015/9/4より)」のであり、阴剱は、「打ち太刀に応じて勝つ手数。ただし車の構えからどのようにも斬り込めるのが前提であり、打ち太刀がどのように動いても仕太刀は相手と調和が保てていなければならない(道標2015/9/5より)」とされる。
初心の段階で稽古する手数であるが、このように大石神影流剣術における相手との攻防の考え方が陽と陰という手数に凝縮されているという。稽古を重ね、極意であるという意味をよくよく探究していきたいと思う。

4 歴史的価値について
(1) 形稽古と試合稽古
新陰流系統の流派は、流祖である上泉信綱が考案した袋撓を用いて試合稽古をしていた。袋撓を用いない流派は、木刀による怪我もあり、面や手袋など怪我を防ぐ工夫をしたところもある。稽古方法の変遷については、宝暦年間(1751-1764)に、一刀流の中西忠蔵子武が鉄面、竹具足を用いた竹刀打ち込み稽古法を採用したことが旧来の一刀流と対立したというエピソードが知られているように、竹刀打ち込みによる試合稽古を採用するかどうかは流派の分岐点になり、組太刀や木刀による形稽古から、むしろ竹刀による打ち込み稽古が盛んになっていったという(参考文献(5)3p)。
大石家に伝えられた愛洲陰流では簡素な防具と袋撓を用いていたことが、大石神影流剣術陰之巻に記載されている。形稽古だけでなく、簡素な防具を用いて袋撓で自由に打ち合う稽古方法が存在していたということである。手数の稽古については、「私が形を稽古するのは、力士が下稽古を積んで土俵に上がるのと同じである。撃剣(防具をつけて竹刀で打ち合う剣術の形式)の技法は千差万別であるといってもその極意にいたっては形の外に出るものではなく形の変化とみるべき。したがって形を熟練して態度を調えれば、撃剣もおのずと上達するものである」という趣旨を語ったという記録がある(参考文献(2)9p)。この点、現代においても、大石神影流剣術では「防具着用稽古をせずに大石神影流剣術を名乗ることはできない。確かに大石進は手数を大切にしたが、それは試合稽古の基礎基本であったからで、大石神陰流が大石神陰流であったのは防具を着用して竹刀を用いて自在に攻防ができたからである。手数の稽古で養った動きが防具を着用したうえでもできなくてはならない。(道標2013/10/21より)」とされ、手数の稽古と試合稽古が相互に補完し高めあうという考え方が今に伝わっている。
翻って現代、(スポーツ化した)剣道と(形稽古中心の)古武道である剣術が相互に孤立したまま併存しているという状況を鑑みるに、真に実践的な剣術とは何かを志向する際、一つのヒントが内包されているのではないかと感じる。

(2) 竹刀や防具の改良
大石進種次については長竹刀が有名である。大石神影流剣術では竹刀の長さは各人の乳通りの高さまでとされ、身長七尺と言われた種次は五尺三寸の竹刀を用いた。これほどの長さであれば、従来の袋撓では撓み(たわみ)が大きくなってしまうので、先革、中結を竹刀につけて弦で引っ張り、反りが落ちないようにしたという。天保期の初めに撓まない四つ割り竹刀が使用されていたという指摘もあるが、弦で引っ張る現代の竹刀の形は大石進種次の工夫ではないかとされている。
また、大石進種次に試合で敗北した剣士の談として、「(大石進種次は)槍術用の面を改良したものを使用しており面金の山形が高いので突いても滑り、こちらの面金は低く突きが止まる。(彼の)面垂は幅が狭く当たりにくいのに、こちらの面垂は大きく突きが止まる。こちらの竹刀は半分あまりの長さに過ぎない。道具と方法の違いで負けた」というものがある。
現代の剣道とは勝敗の考え方が異なるというが、当時の防具をつけた試合の様子が伺えるとともに、剣術そのものの修行とともに道具の改良に余念のない大石進種次の合理的な考え方が垣間見える。

(3)他流派との交流
江戸時代後期は、従来の閉ざされた諸藩の流派の時代から、諸流派の試合によって開かれた時代へと移っていった時代である。しかし地域によって温度差があったようで、西日本では、文化(1804-1818)末の他流試合の記録がある一方で、関東地方の諸藩の剣術師範家で他流試合を認めていたところはほとんどなかったという(参考文献(5)2p)。
  試合によって大きな怪我を負い再起不能になっては、名誉が傷つき怨恨沙汰にもなり双方にとってメリットはないのは明らかである。つまり、この他流試合を可能にしたのは、防具をつけて竹刀で打ち合う剣術の形式である撃剣という共通基盤があってこそであった。この他流試合というのは、大体18世紀末から、撃剣流派の者が地方を回って始めたとされている。寛政年間には九州地方の諸藩において廻国修行者を受け入れる素地があり、近世初期までに成立した古流と言われる流派も試合をしていたという記録が残っている。
他方、関東地方では、文化文政(1804-1830)のころまでは廻国修行者を受け入れて他流試合を行う多くは村落部に集中しており、関東地方の農村では、剣術の心得のあるものに屋敷などを提供して道場を開かせ、そこで近隣の若者が剣術の稽古をしていたという図式があった。こうして村落部では試合の形式をとる撃剣が活発になる。因みに、そのような村落部に勢力を持って門人の拡大に成功した流派が直心影流、中西派一刀流、神道無念流などであり、江戸でも隆盛を誇るようになったという。
江戸の町道場では多くの庶民がつめかけ、なかには免許皆伝を受ける者も少なくなかったようである。このような傾向は武士階級としては由々しきことであり、天保10年(1839年)、天保14年、文化2年、慶応3年(1867年)など、幕府は再三にわたり武士以外の階級が武芸の稽古を禁止する布告を出している。何度も禁令が出るというのは、それだけ剣術を稽古する庶民が多かったという証拠にほかならない(「剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の『諸国廻歴日録』を読む」永井義男 朝日新聞出版2013年8月 第1刷34p)。
柳河藩では、18世紀中ごろには藩の剣術師範が他流試合に参加している記録が残っている。大石進種次と種昌の門人を記載した諸国門人姓名録によると、ほとんど武士階級であり、関東と様相を異にするが、試合剣術が18世紀後期には普通に展開されていた柳河藩の槍剣師範で育った大石進種次は、実践的な剣術の工夫を追求する環境にも恵まれていたということだろう。ちなみに、大石進種次は文政5年ころ、ちょうど江戸に出る前に九州を廻国修行している。
江戸の流派への大石進種次の影響については、天保7年(1836)に柳河藩の笠間恭尚が江戸で記した「他流試合口並門対」に、剣術等の試合口(試合における技術的特徴)について略述する下りがあり、そこから大石進種次の活躍以降、江戸で突き技が広まっていった様子が読み取れる。江戸の剣術で主導的な役割を果たした男谷精一郎がもろ手突き、片手突きを取り入れたということも書かれてある。
大石神影流剣術の門人を記録した諸国門人姓名録によると、種次と種昌の直接の門人は650余名で、主に九州、中国、四国地方出身者であり、柳河藩252名、大石進が指導に通った隣藩の三池藩79名のほか人数が多いのは長州萩藩43名、土州藩60名、佐賀藩武雄領17名、日向飫肥(おび)藩14名、肥前小城(おぎ)藩13名などが挙げられる(参考文献(1)5p)。これらの門人のうち嘉永7年(1854)正月までに種次によって免許皆伝を受けた者が49名おり、皆伝者の出身地でいえば、ざっと10名を超えるのは長州藩、5名前後が肥前小城藩、土州藩、日州飫肥藩が挙げられる。一方、地元の柳川藩、三池藩は2名づつに限られている(参考文献(5)8p)。地元の柳川、三池は門人数の割には少ないというところ、想像に過ぎないが、意識と技量の高い廻国修行者には積極的に皆伝を認める一方で、地元の修行者には辛めの審判であったのだろうか。
遠方からの留学者の目的については大きく二つに分かれるようで、一つ目は防具着用の試合法を習得する目的である。長州藩の剣術師範の稽古目的はこれだったとされ、進んだ稽古方法を持ち帰り、自らの流派の稽古にも応用しようというものである(参考文献(7)1p)。二つ目は、大石神影流剣術の全てを習得する目的であり、廻国修行の記録を残している樋口真吉はこのパターンらしく、初めから大石家の下で修行することが目的で廻国修行を始めたわけではないようではあるが、何度も柳河藩に滞在してみっちり修行している。ちなみに樋口真吉は、文化12年(1815)土佐藩出身で元々無外流を修行していたが、形で突きを教えているのに実際には使うことを許されない、下段の構えを伝えているのに下段を禁じる、他流試合を認めないなどといった旧来の稽古法の墨守に反発し、その道場を破門になったという人物である(参考文献(2)2~3p)。その人物が、柳河藩の大石家を訪れ、伸び伸びと修行にいそしむ。まさに、当時の様相が垣間見えるエピソードだと思う。
他流派との交流には、様々な流派を参考にしてより進化できるという側面もあれば、試合稽古で有利な技術を中心に収斂していくということや試合のルールや使用する道具の制約を受けるといった側面もあり、メリットとデメリットはあるだろう。また試合稽古の隆盛により多くの門人が殺到した道場では、一子相伝のような訳にはいかず、稽古方法も自ずと変化せざるを得ない。しかし、なぜ大石進種次が江戸で活躍できたのかということを考えるとき、愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の師範という確固たる軸を持ちつつ、他流派との交流も開かれたマインドで活発に行い、大胆な改革も辞さないということが大きなポイントだったのではないかと思う。後の剣術・剣道に与えた影響については、まだまだ発掘・顕彰される余地が大きいのではないか。

(4)明治維新への影響
  上述の土佐藩は安政2年に他流試合を解禁することになる。その立役者は、柳河藩の大石進の門人であった樋口真吉、甚内の兄弟である。「大石神影流は四つ割りの長竹刀で下段を使う。土佐藩の二大流派は小栗流と無外流であるが、いずれも他流試合を嫌い、袋撓で上段を使う。ところが、吉田東洋が寺田忠次について大石神影流の稽古を始めたので、吉田門下や後藤象二郎なども大石神影流の稽古を始めたため、他流試合を行う勢力が大きくなった」という記録が残っている。
また後に、嘉永4年(1851)、津藩江戸屋敷の藤堂邸で大石進種昌、男谷精一郎、千葉栄次郎、斎藤新太郎、桃井左右一郎、島田虎之助らが集まり試合をした際に、大石進種昌が好成績を残したことから、その後土佐藩で指導することになる(参考文献(4) 5p)。そのとき、土佐藩の重鎮であった吉田東洋や後藤象二郎は、大石進種昌から直接指導を受けている(参考文献(3)2p)。吉田東洋は土佐藩の志士に暗殺された人物であるので守旧派かとイメージされる向きもあるが、和漢洋の学があった開明な人物で、大石進種昌が土佐を去るにあたり、大石神影流剣術を西洋科学に喩え、科学が進歩するように剣術も進歩しているとたたえる序を漢文で記したという。
もともと西国には徳川幕府の外様藩が多いが、大石進種次らの門人に長州、土佐、肥前といった、後の明治維新で活躍した藩の出身者が名を連ねているのが目につく。幕末の動乱期は江戸時代より前と同じように実践的な剣術が必要な時代であった。試合稽古による交流を通じて進取の気風を好む人的ネットワークが広がっていき、やがては維新の原動力の一つになったといえば言い過ぎだろうか。

4 おわりに
明治維新の廃刀令や武士階級の没落、風俗習慣の西洋化、特に戦後の近代化などの荒波の中、幕末に存在した武道の多くが現代では廃絶してしまった。大石神影流剣術の今日的意義とは何かと考える際に、途中で途切れてしまい伝書から復元した流派や出所が歴史的に明確に分からない流派もあると聞く中で、客観的な歴史的資料から跡付けることができる系譜が創始から現代まで連綿と続いている数少ない古武道であるということは、まず認識しておく必要があると思う。
そんな現代に生きる我々が大石神影流剣術の稽古を通じて学ぶことができること、それは、私にとっては古武道の修行という心と身体をつなぐ稽古そのものであるとともに、歴史的存在としての古武道の命脈に触れ、師範に師事することを通じて伝統の継承という営為に関わる喜びを感じることでもある。更には、廻国修行という訳ではないが、志を同じくする諸士との出会いの楽しみというのも挙げられるかもしれない。
いずれにせよ、初心を忘れずよくよく稽古していかなくてはならない。



≪参考文献≫
(1)「大石神影流『諸国門人姓名録』について」
 森本邦生 日本武道学会第40回大会発表抄録 2007年8月30日
(2)「樋口真吉 第一回廻国修行日記について -大石神影流の土佐への伝播-」
 森本邦生 日本武道学会第42回大会発表抄録 2009年8月24日
(3)「土佐藩 片岡健吉の稽古記録について-安政5年の『文武修行日記』を中心に-」
 森本邦生 平成26年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 2014年12月20日
(4)「嘉永4年の藤堂邸における剣術試合の様相について」
 森本邦生 日本武道学会第48回大会発表抄録 2015年9月9日
(5)「大石神影流の門人分布について」
 森本邦生 平成28年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 2016年12月25日
(6)「幕末期の柳河藩・大石進に関する研究-日本剣術史への影響を中心に-」
 森本邦生 放送大学大学院文化科学研究科 修士論文 2016年12月(特に脚注を記していない部分にかかる多くは本書を参考としている)
(7)「長州藩 渡部直八の廻国修行について」
 森本邦生 平成29年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 2017年12月23日

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  1. 2020/02/04(火) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

無雙神傳英信流抜刀兵法二段論文

無雙神傳英信流抜刀兵法二段の論文を紹介します。

「これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことについて」
                             貫汪館北大阪支部 ○○○○

1 はじめに
無雙神傳英信流抜刀兵法は、天文十一年(1542年)生まれの林崎甚助重信を流派の祖として、土佐藩に伝承されてきた居合である。貫汪館では、膂力に頼ることなく、刀と身体との一体感、相手との繋がりを重視し、肚からの無理無駄のない動きを求めており、稽古においては礼を尊重することによる人格の陶冶を最優先に置いている。私は、四十を超えてからの入門であるが、体力が衰えても人生を通じて稽古を積み重ねていけるような武道と出会うことができたのは本当に幸運だったと思っている。
修行即ち終わりなき行を修め(続け)るということについて、貫汪館の講習会や支部での定例稽古での教えを基に、私自身、無雙神傳英信流抜刀兵法にどのように向き合い、どのような点に留意して稽古しているのか、今後の展望と併せて述べることとしたい。

2 大森流から
  無雙神傳英信流抜刀兵法は、大森流、太刀打之事、英信流表、詰合、大小詰、大小立詰、英信流奥と稽古の段階に応じて形が進んでいくことになっており、初心者は、礼法や座り方、立ち方、歩き方、刀の扱い方などの基本を学んだうえで大森流から稽古を始める。大森流は、冒頭の礼法に続く11本のうち10本までが正座姿勢からの形である。一本目の初発刀から、座り方、抜きつけ、振りかぶりからの斬撃、納刀、立ち方と基本的なエッセンスを一通り稽古することができるようになっている。と同時に、礼法を稽古に先立つものとして意識をすることが必要で、その身体的な動きを通じて、心の在り方との連関を意識することで常に深化していくことが必要とされている。
立礼を例に言うと、身体から無駄な力みを抜いて足首、膝、鼠蹊部を緩めて立った状態から礼をすると、身体は自然にバランスを保とうとするため、上体が前傾するにつれて、足首、膝、鼠蹊部はさらに緩み臀部は中心線から後方に位置するようになる。これは正座から抜きつける際の臀部の動きと同じである。座礼ではどうか。上体の前傾とともに左手、右手と順に前に手を着いていく際の、左手の着いていく動きは鞘手の動きと同じ、遅れて出る右手は柄手の動きと同じである。また帯刀の前段階で刀を前に立てる動きは、身体をただすのに役立つ動き、身体に無理無駄なく肩ひじも下方に降りている、右手で刀が立つのを支えているだけの状態を知ることで、自分の体のあるべき状態を求めていくことができる。(道標2016/04/29~05/03より)
初発刀に続く左刀、右刀、當刀は、正面、左、右、後ろから斬りかかる敵に抜付けるという想定での初発刀の応用である。
一般的に座った状態から抜きつけようとすれば相手を斬らんとして上へ前へ進むことになりがちであるが、これらの抜付けは沈むことにより行われ、腰の角度は半向半開の状態のまま、上半身の力が抜けていくことによって抜付けがなされる。これが無雙神傳英信流抜刀兵法で伝えられている敵に対して間に合う動き、技術である。我々稽古する者にとっては素早く力強く抜こうとする既存の発想の転換と共に、身体の動かし方や心の在り方を根本的に見直さなければならず、これらの稽古を通じて抜付けの質を高めていく必要がある。
大森流では、當刀に続いて、陰陽進退、流刀、順刀、逆刀、勢中刀と、各形では正座姿勢から抜きつけが始まり立姿勢へ移行するが、後の形になるにしたがって立姿勢になるのが早くなり、次の虎乱刀では立姿勢から形が始まる。この展開は、立っていようが座っていようが同じ身体の運用であるということ、立姿勢は座姿勢の状態のまま立つということを身に着けさせるということと伝えられている。
我々は一般に足腰を使って動いたりバランスを保持したりするのが常であり、座ったまま抜きつけたり動くのには不自由さを感じるものである。その制約の中で自由に動くことを稽古するとともに、立ち姿勢での稽古においては、抜き付け、斬撃と上半身に力が入り、脚力を用いて身体を安定させようという既存の発想、無雙神傳英信流抜刀兵法で説くところの無理無駄をなくすことを意識しなくてはならない。

3 太刀打之事から
太刀打之事は、ほとんどの形が剣術の業で構成されている二人で組んで行う形であり、鞘木刀を用いて稽古する。既に刀を抜いた状態にある敵が、自由に斬りかかって来る状況の中で、刀が鞘に納まった状態から対応しなければならない。如何に無理無駄を廃し、何物にもとらわれない融通無碍の自由な状態になるかという課題が与えられている(道標2006/10/16より)。
しかし、稽古相手を前にした時の様々な心理状態を振り返ると、相手に迷惑をかけてはいけない、上手くこなしたい等の我執に如何に囚われていることか。人に刀を振り下ろすという行為自体、稽古のためとはいえ緊張を伴うものである。貫汪館では、こうした心理の葛藤を克服するために、立木を敵と想定してひたすら心を鎮めて袈裟に斬り込む独り稽古により心と身体を整えることを薦めている。
太刀打之事の形は、出合、附入に始まり、独妙剣、絶妙剣、心妙剣、打込で終わる一連の形の稽古を通じて、剣術の動きを知り剣術に対抗できる力を身に着けることを一つの目的としているという。また剣術の動きを通じて居合の体の遣い方を深める稽古とするものである。素抜き抜刀術でありがちと言っていいのかどうか、所謂タメを作っていては間に合わないこと、足腰を固め構えていては隙ができて斬られてしまうということ、相手に対して正対を続ける事に意味は無いことなど居合の動きを向上させるヒントが込められており、剣術形であるが居合の質を向上させる形として工夫が必要である。
私は、独り稽古においては、ともすれば自分の世界に没頭、埋没しがちである。それが相手を立てた場合、力みや焦りが呼吸や姿勢の乱れにつながりがちになる。平常心を保つことがいかに難しいか、これは私が対人稽古の際にいつも直面する課題である。常に変化する間合いの把握、居着かない動き、そして稽古相手との攻防を通じた心身のコントロールと意識の繋がり、これらを肚からの動きで体現することなど、課題を自らに課して貴重な稽古の機会として捉えている。

4 これまで留意してきたこと
(1)形稽古について
…初心者の方が陥りやすいことに、なにがなんでも形の手順を覚えようということがあります。覚えられない事を劣ったことのように考えられることもあるようです。その結果、もっとも大切な無理無駄のない動き、呼吸に基づき力みがない動きを忘れて、体に力を込めて手順を繰り返すという悪癖を身につけそうになってしまいます。初心者の方は手順を覚えようとする必要はなく、大切な基礎を身につける努力を重ね、稽古を重ねた結果として自然に手順を覚えたという方法を取らなければなりません。…(道標 2019/5/29)

古武道における形稽古をどのように捉えるのかについては、「すべての形稽古は毎回新たなもの、いわば手順はあってないようなものである。前後左右上下いずれへも変化できる動きを内包するべきものであり、動いて動かず、止まって止まらず、すべての形は異なっていてかつ同じものである。」(道標2017/06/24より)というのに尽きると思う。形は流派の動きを体現するものなので、反復により身体に刷り込ませる必要はあるのだろうが、その意図するところは一つのパターンを刷り込ませるということではなく、自由自在にあるべき境地に至る一つの筋道として稽古するということなのだろう。この点、師の範を通じて我々は常に方向を間違えていないか確認しなければならず、道標においても師の稽古での指導においても、あるべき道について様々な方便を用いて諭されているところであり、難しいことであるがよくよく心に期しておくべきである。

(2)独り稽古について
居合は仮想敵を置く独りで行う形が多い。しかし、武術が敵に対する業である以上、独り稽古というのは対人稽古を補完するための稽古というのが元々の姿ではないかと思う。私の場合、稽古環境の事情から独り稽古が多かったということもあり、講習会や支部稽古で指導を受けた内容を糧に、自分の身体の遣い方、相手との間や間合い、精神的な意味での心のつながりをどう体得すればよいのか大いに試行錯誤し、指導されたことを反芻して自分なりに工夫しようと、一つの形を何度も稽古するということをよくやった。恥を晒すようだが、その結果、身体のあちこちを順番に痛めてしまったのも事実である。後に「形の順番というものは非常によく体系立てられ、まんべんなく正しく稽古することによって自然に上達するように組み立てられている。流派の形は教習体系として組み立てられているものであり、どの形にも偏るべきではない」「できないなりに試行錯誤しながら稽古を先に進めることで基本技の理解に立ち返ることもある、寧ろそのように出来ている」との教えを知ることとなり、随分と遠廻りしてしまったなと思ったものである。実際、大森流の初発刀の抜き付けの要領が何とも理解できなかったのが、英信流表の稲妻の抜き付けの手の内の感覚から改めて感じることがあり、このことかと私なりに一歩前に進めたかなと実感したことがある。若くない無理の利かない身体であるからこそ、正しい導きの下で稽古することが効果的で効率的だということだろう。
因みに、貫汪館で求められている境地は、「居合が武術である以上、起こりを見せてはいけない。無雙神傳英信流の抜付けは敵の殺気を感じてこちらから先に抜付けるといったものではなく、敵が自分に斬りこもうとするので抜きつける。柄を取って、あるいは柄に手を掛けて抜付けるという意識や動きがあってはこの働きはできない。見方を変えて言うならば腰にある刀は体と別物ではなく、抜こうとする前からすでに体と一体である故に柄手に変化は起こらない。」というものという。動きの起こりを察知させないということは、単に物理的な速さを追求するというだけでなく、むしろ動きを見せないことが敵に対する速さになるという技術を自ら追求するということであろうか。否、究極的にそれは「運剣は地の力の伝達により、我の力を排して天の意思の下で行うものであり、天地人の一致を求める」境地だという。求めるべき先は果てしなく遠いという他ない。

(3)日常生活での稽古について
道場での稽古は限られた機会でしかなく、日常生活での稽古を意識して行うかがどれほど重要かということは、勉強やスポーツの例を出すまでもない。例えば、「歩く」ということについては、「重心は常に両足の真ん中に置き特に大腿筋が緊張しないようにしながら股関節は緩め、膝から下にも力を入れず、足先が自分の膝を追い越さない状態を続ける。常に体の中心を中心にあらせているだけだが、これができなければ抜付けは本物にならず、運剱・斬撃は隙だらけになってしまう」。
「斬撃」ということについては、「斬撃の稽古は一般的なスポーツの素振りとは異なり、強さ、鋭さ、筋力の強化などといったものを求めているのではなく、自分自身の歩みの歪に気付き、それを自身で正せるようになる事、刀を上げ下げする時に臍下中心の動きから肩あるいは腕中心になっていないかということに気付き、それを自身で正せるようになる事を目的としている。ただむやみに速く動こうとか速く刀を振ろうとしてはならないのは、自分の体を感じる事が出来ないからであり、自分自身の体の状態が分からなければ正す事も出来ない」という。
刀を持ち出さずとも、何かを動かしたり、手にしたり、歩いたり、座ったり、日常生活のあらゆる局面で、身体の働きをどこまで意識できるかということだと思う。

3 これからの展望
(1)歴史や伝統、先人から学ぶということ
現代武道(スポーツ)では、現役の選手が競技から引退して指導者に専念するということが当たり前のように行われる。しかし、かつての武士は、隠居して家督を譲るとしても、例えば出家でもしない限り刀を持つことから引退するということはなかった。武術は、体格や性別、老化による体力の低下といった生理的な格差を補完する技術であるわけで、かつて江戸時代の武士たちが修練した武術は力に頼らないことを理想としたという。

…稽古を始めたばかりの頃は、未だ何も会得していないのにもかかわらず、前回の自分の稽古を基準にそれをしっかりしたものにしていこうとすることがあります。初めての稽古は右も左もわからず、素直であろうとしますのでわからないながらにうまくできます。次の稽古、その次の稽古では前回できた(と思った)ことをよりしっかりさせたいという心が生まれる時があります。それは間違いの始まりで、毎回初心にもどって新たな稽古をすることで見えなかったことがよりはっきりと見えるようになり進むべき道が見えるのだと考えなければなりません。
少し上達してくると、与えられたことを工夫するのではなく、自己流でこうしたほうがより良いと思う心が生まれる時があります。できない時にそうなりがちですが、それを自分で工夫と思ってしまい、工夫したからできるようになったと勘違いしてしまう時があります。実は与えられたことを工夫した結果できるようになったわけではなく、自分がしたいようにしているだけなので実際は道をそれています。…(道標2019/04/19)

こと武道においてもスポーツ全盛の現代に生きる我々としては、力ではなく業と心で戦う方法を稽古により復元していく必要があり、筋力のあるものはその筋力を用いることを否定されて稽古が始まる。この筋力に頼らずに動く事一つでも相当難しい。身体の遣い方、考え方を一から再構築しなくてはならない。
自身の稽古する古武道の長い伝統と継承の重みをよくよく噛みしめるということだと思う。稽古の積み上げに潜む陥穽に陥ることのないよう、稽古による工夫のつもりが独りよがりの理解にならないよう虚心坦懐を心しなくてはならない。

(2)三流併修のこと
居合を武道として稽古する以上、例えば剣術に対抗できるほどの力を身につけなければ意味がない。剣術に対抗しようと思えば剣術の動きを知らなくてはならず、それは逆も然りで、居合にも柔術にも当てはまる。

…貫汪館の居合、柔術、剣術は本質がすべて同じであるため、無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術と三流派を稽古しても異なったものを三つ習うのだという意識は全く必要ありません。たとえば古い流派が居合、柔術、剣術さらには槍術や長刀までも同一流派の中で稽古されているのとかわらないと思います。
貫汪館で稽古されている方は三つの流派が別物と思わず、同質のものを違う角度から稽古しているのだと理解して上達してください。どの流派を稽古していても三つの流派は同時に上達していきます。…(道標2019/07/07)

貫汪館の三流派は動きの根本は共通しているということなので、どれかで身に付けたことは他の稽古にも活きてくるはずであり、それぞれの流派を通して多角的な見方を養うことが出来るのは貫汪館の稽古体系の特徴の一つと言える。
根本の考え方が共通しているとはいえ、無雙神傳英信流抜刀兵法の形の中にも、剣術的、柔術的な形があり、大石神影流剣術の手数の中にも居合的なものがあり、澁川一流柔術の中にも、居合的なものや剣術に対抗する形があり、それぞれの流派特有の考え方があるのだろうが、それぞれの流派に共通する目指すべき境地に向けて歩んでいくということが、相乗効果という意味でも肝要だということだと思う。

4 おわりに
  幕末の土佐藩士に片岡健吉(1844~1903)という人物がいる。彼の「文武修行日記」によると、安政4年(1857)に寺田忠次に入門し大石神影流剣術を学び、安政5年に下村茂市に入門し長谷川流居合(無雙神傳英信流抜刀兵法)を学ぶなど、貫汪館の古武道を併修されている。
その彼は下村茂市から高木流柔術を併修しており「體術道標」という柔術を学ぶ初心者への心得を遺している。高木流柔術がどのような柔術だったのか今では分からないということであるが、この心得で示されている内容は、まさに私がこの小論で与えられた主題とも通底する。

〇力みをなくして身体全体を柔らかく、身体の内から出る力が端々に行き渡ることが重要であるので、初心のうちは大きな業を(堂々とゆとりを持って無理無駄なく無理な速さを求めず、正しく)稽古すべきこと
〇業がかからないことを恥ずかしく思ったり、教えられた業が間違っているとして、自分の作為を加えれば、業は進まないこと
〇稽古の時は、相手は常に敵と心得て、間違った仕掛けがあったとしても業を途中で中断しないこと
〇稽古では相手の体が動く拍子に気を取られてはならず、相手の気に応じるようにすべきこと
〇敵に勝つことを急がず、負けまいとして自分の身を守り、残心を大切にし敵に隙を作らないこと 

など、いずれも身に覚えのあることばかりである。
「體術道標」の最後は、「武芸は理屈ではなく、ただ日夜稽古を積めば上達するものではなく、業に理論を重ねて修行すれば事理一致の修行といえること」という文章で締められる。私は、「合理的」に追求することで技術は進化し得ると思っているので現代武道を貶めるものでは決してないが、修行を通じて力ではなく年齢・体格・筋力等の違いに左右されることのない技術と心を求め続けていく営為に大きく共感する。そこには、自分と向き合うことによる自己陶冶、何より流派の稽古を通じて歴史や伝統的価値に触れ、先人の遺産を次代へ継承することの喜び、自己達成感があるからである。
よくよく心して稽古していきたい。



≪参考文献≫
1) 森本邦生:
「無雙神傳英信流の研究(1)」
広島県立廿日市西高等学校研究紀要第11号 平成15年3月23日
2) 森本邦生:
 「無雙神傳英信流の形・・・英信流表、太刀打、詰合」
広島県立廿日市西高等学校研究紀要第12号 平成16年3月31日
3) 森本邦生:
 「無雙神傳英信流の形・・・大森流、英信流奥」
広島県立廿日市西高等学校研究紀要第13号 平成17年3月31日
4) 森本邦生:
 「土佐藩 片岡健吉の稽古記録について-安政5年の『文武修行日記』を中心に-」
平成26年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 平成26年12月20日

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  1. 2020/02/03(月) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

渋川一流柔術初段審査論文

澁川一流柔術の初段審査論文を紹介します。

「武道における礼と澁川一流柔術における礼法について」
                           貫汪館北大阪支部 ○○○○

1 はじめに
 礼という概念を歴史的に振り返ると、その言葉自体が儒教に由来するものであることは自明であるし、心の修行という点で密教や禅などの仏教の影響や神道的な要素もみられるように、はるか以前から思想や宗教と密接に結びついて日本文化の中に存在してきた。しかし、相互の敬意や感謝といった相手に対しての礼、自らを律するための自己修養の礼、神前への礼や開祖への礼など対戦相手や自分自身を超えた修行の空間そのものに対する礼が日本的な礼として明確に意識されたのは、室町時代から戦国時代を経て江戸時代になって、武士による社会統治のシステムに礼が組み込まれ、礼に関する理解・解釈が深まり社会一般に定着した頃からではないかといわれている。(中村勇、濱田初幸『柔道の礼法と武道の国際化に関する考察』10頁 鹿屋体育大学学術研究紀要第36号 2007年)
  近年、柔道や空手のように、オリンピック競技や世界選手権などの大会が開催され、メディアを通じて世界に向けて発信され、参加する選手も国際色豊かになり、世界標準のメジャーなものになる日本の武道も多くなってきている。そのこと自体は武道の発展という意味で喜ばしいことだと思うが、一方で、ルールを決めた試合での勝敗により優劣を決めるスポーツ競技化が進むということでもある。日本で生まれ住んできた我々は、ともすれば何となく分かった気になりがちであるが、例えば日本と全く異なる文化圏の人々に対して武道における礼の概念をどのように理解してもらうのかといったことも現実的な問題として起きてくる。いや我々は本当に分かっているのか、仮に分かっているとしてもそれを知らない人に説明できるのか、現代に生きる我々は、武道を稽古する者として礼に関する理解を改めて自ら問い直していく営みが必要不可欠となっていると思う。
 本稿では、私が渋川一流柔術にどのように向き合っていくのかという点を念頭に、標題について考えるところを述べたい。

2 武道における礼
日本人の精神構造を広く欧米に紹介した新渡戸稲造は、その著『武士道』の中で、「礼とは、社会秩序を保つために人が守るべき生活規範の総称であり、儀式、作法、制度等を含むものである。また礼は、儒教において最も重要な道徳理念として説かれ、相手に対して敬虔な気持ちで接するという謙譲の要素がある。他人の安楽を気遣う考え深い感情の体現化であり、形だけの礼を虚礼とし、真の礼と区別しなければならない。」(新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年p55-64)と述べている。儀式や作法だけ繕っていても相手に伝わることはない。また、たとえ「礼の精神」を内面に持ち合わせていても、それを適切に体現できなければ相手に伝わることはない。「礼の精神」と「礼を表現する作法たる礼法」の両方が備わって初めて礼を体現できるということである。
  日本武道協議会が制定した『武道憲章』の前文に「武道は、心技一如の教えに則り、礼を修め、技を磨き、身体を鍛え、心胆を錬る修業道・鍛錬道として洗練され発展してきた」とあるように、礼を修めることは、武道を稽古する者にとって技や身体能力を高めることに先んじて求められている。武道が単なるエゴイズムの産物となったり、暴力のための技術に堕することへの戒めということだと思う。
 それでは澁川一流柔術では、どのように捉えられているのか、以下、具体の事例を挙げていく。

3 澁川一流柔術の礼法
  貫汪館では、礼の意義と稽古する者の心得について次のように述べている。

…武道は人との関係において成り立ちます。「和」がない武道は暴力に過ぎません。相手との「和」を保たせる基本が礼です。神を畏怖し敬う心がなければ「神拝」は形だけのものにすぎません。神を畏怖し敬う心があれば神前において無作法な振る舞いをすることはありません。たとえ、その場における作法を知らなくても不敬な動きにはならず神との関係は保たれます。稽古も同じです。相手をたんに稽古の対象と考えていては見えるものも見えてきません。見えるものが見えてないのは「我」中心で、和は存在しないからです。見えるものが見えないというのは、相手も自分も、またその手数・形を工夫された流祖や、それを伝えてこられた代々の師範の心も見えていないということです。また、師に対する畏怖の念や尊敬の念がなければ、見えるものも見えてきません。話されたことも聞こえず、示されたことも見えません。…(道標「礼」2014/12/15)

…手数・形稽古も機をうかがって打ち突きするのは初心の段階であり、相手と心と心でつながっていれば打つとも突くとも思わずに、自然に自分の体と心がしかるべき時にしかるべきところへ入っていきます。理論を頭に入れてその通りに動こうとするのとは異なりますし、ましてや機をうかがうのとも異なります。相手と心と心でつながる(つながろうと思わなくてもつながる)方法は稽古の時にお伝えしてあります。疎かにしなければやがて理解できる時がやってきて、そのときに私たちが稽古しているのが何なのかということが分かります。…(道標「心と心をつなぐ稽古」2018/02/09)

  それでは、どのような実際にどのような動きであるのか、澁川一流柔術で初めに稽古する形のグループ「履形」の礼法は次のとおりである。
 礼法の動きとしては、①互いに蹲踞して、前に両拳を着き、礼をする、②互いに立ち上がる、③受が右手で突いてくるので、捕は後方に下がりつつ左手でその手首を下から取り、そのまま背を向けさせる、④捕は、右手のひらでポンと相手の右肩を軽くたたき、その後両手で相手の腰を押し放つ、⑤向き直った受とその場に片膝を付いた捕の双方が胸の高さに両手を位置させ、気合とともに水平に両手を広げる、というものである。
  この①②の動きにおいては、臍下丹田から息を吐きながら引力の方向へ身体を沈め、立つときには臍下丹田に息を吸い込みながら静かに動くことが大切とされ、呼吸に合わせた不用意に力を用いない動きが求められる。また両拳を着く際にも、両拳を着くという意識があると上半身中心に動いてしまい臍下丹田中心の動きではなくなってしまうので、臍下中心に回転した結果として両拳が床に着いたという動きを稽古する必要がある。(道標「履形の礼式」2016/07/30より)
 ③④の動きにおいては、後方に下がる時に床を前脚で蹴ることなく、鼠蹊部(股関節)の力みをぐらぐらになった様に感じるまで、つまり極限まで抜くことにより重心を後方に下げることによって下がる。相手の手を取ったり押す際には相手を腕力で操作せず、自分の体を用いて操作することを学ぶことになる。また、相手の肩をポンと軽く叩くのは「もうするなよ。」と言うことであり、そのあとの間で相手の体の声を聴かなければならない。ポンと叩いたのにもかかわらず、相手はまだ反撃しようとするのか、あるいは素直に従おうとするのか、それがわかる為の間であり、ただ焦って早く押し放したり、気を抜いてしまったりしては全く稽古にはならない。それぞれの動きは重力を意識し臍下丹田を中心に行うこととし、指先、さらにその先へと「気」の流れを意識すべきである。それは、身体に力みがないか、指先まで自分の身体として感じられているか、ということと一体である。(道標「礼式(初心者のために)1」2016/03/04より)

 …澁川一流柔術において礼式は動きを練るうえで非常に大切な稽古です。相手を押し返したのち、受と捕の双方が胸の高さに両手を位置させますが、両手の位置が高すぎると上半身中心の動きになりがちで、低すぎると天地が通らなくなる傾向があります。両手指先は澁川一流でいう檀中に正しく位置させなければなりません。檀中は胸に手をあてて心の奥底で思索する時や、神仏に手を合わせるときなど一番心が落ち着く位置です。礼式の時両手の指先の位置が檀中より下がってしまうと心が虚になってしまいますし、高くなってしまうと臍下を中心とした体が虚になってしまいます。両手の指先はどこでもよいということは無いのです。…(道標「礼式1」2016/05/07)
 
…初心の内に、これを単なる儀式と考え、手順をしっかり確実にという事に主眼を置いて稽古してしまえば、後々の自分自身の稽古はそのレベルを基準にしてしか進みませんので、上達は困難を極めます。自分で初心に戻って礼法から稽古しなおさなければならないのですが、人の心はそう素直ではなく、手順を覚え、体に染みついたものを再度壊してやり直すことほど難しいものはありません。神に礼をする、刀に礼をする、師に礼をする、互いに礼をするのは礼の心が大切であり心なくして礼の形を作ってしまえばそれは礼ではありません。目的のない動きなのですから、それ以後いくら形を稽古したところで形のみを求めてしまう癖からは逃れることはありません。…(道標「礼法」2012/09/04)

このように、修行する場全体に対する礼、相手に対する礼、自らを省みる礼に加えて、和、繋がりを意識することが、古武道の稽古を進める上で不可欠とされている。また、澁川一流柔術の礼式は、鼠蹊部を緩めた肚からの動き、相手の手を取ったり押したりする際の力を用いない無理無駄のない動き、相手とのつながり、和を重視する動きなど、柔術に求められる動きそのものである。
形を追い求めるという姿勢が上達を阻害するとの同様に、礼を形式だと考えて疎かにしてしまうと形の上達どころか、稽古自体が前に進まない。礼法は、具体的な稽古にかかる第一関門であり上達するために不可欠なものであると、貫汪館においては、再三にわたり様々な表現を通じて我々に警鐘を鳴らしている。これは、進むべき道を違えやすいからこそのことだろう。このように、技術と徳目とに分かれるものではなく、礼法として表現される徳目は技術と表裏一体に歩むことが真の上達への道であるということであり、澁川一流柔術における礼法の意図するところであると私は思う。

4 おわりに
  いざ実際に稽古を始めると、少なくとも私は身体が鎮まらないまま中身の伴わない稽古になっていることに気ばかり焦り身体がついていかないなど、身体の使い方や心の置き方一つ一つについてこれを実践することの難しさに直面してしまう。そうであればこそ稽古の序章であり、稽古を通じて体得する流派の動きの総括とも言える礼法に立ち返っての稽古が重要になると考えている。虚心坦懐に師に範を仰ぎ、今後とも稽古の道を歩んでいきたい。



≪参考文献≫
1)魚住孝至「武道の歴史とその精神」国際武道大学付属武道・スポーツ科学研究所編集『武道論集』第1集 2008年
2)末次美樹「武道における礼の教育的価値」駒澤大学総合教育研究部紀要第3号 2008
3)中村勇、濱田初幸『柔道の礼法と武道の国際化に関する考察』鹿屋体育大学学術研究紀要第36号 2007年
4)新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年


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  1. 2020/02/02(日) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

気づき

 正しく伝えられた流派を求められることに従って真摯に稽古していると気づきが生まれる時があります。「こうしていたからできなかった」「このような心の状態だからできなかった」という気づきです。気づきがあってもそれを「わかった」と勘違いしてそのままにしておくと上達をすることはありませんが、その気づきに基づいて自分を正していけば求められていることもできるようになっていきます。
 しかし、何度か言及していることですが、修行の途中にある者が「新たなことを発見した」というのは自分の創作であり、伝統的に求めるべきものや稽古方法が存在している流派においてはおかしなことでしかありません。もしあるとすれば新たな派を始める者や流派を超えて新たな流派を開く実力のある者にあることでしょう。または、伝統的に伝わっているわけではなく失伝してしまった流派を古記録から復元する場合、古武術などとは言っていても自分で始めた武術などにはおこりえることでしょう。
 貫汪館で稽古している方は「気づき「」ではなく、「新たなことを発見した」と感じた場合には自分が危険な状態にあると認識してください。

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  1. 2020/02/01(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

林六太守正 2

昨日の続きです。同じ『南路志』の巻七十一  八.多芸の人林六太夫と居合劔術 には次のようにあります

「林六太夫守正翁ハ、享保十七年七月七日七軒町ニ而七十歳にて終られし。豊昌君より仕へし侍也。此人ハ、伊勢兵庫直門にて伊勢流の古実に達、無双流の居合ニ妙を得、和術・劔術にも達し、又料理の妙手也。書ハ佐々木文山ニ學。其余音曲をも能し、小技曲藝に器用成人にて、弟子も多し。足達甚三郎の実父也。 甚三郎ハ六太夫の実子、足達茂兵衛の養子と成。和・剱術の達人師匠なり。無雙流の居合ハ柑崎甚助重信より始。柑崎ハ北条五代目に仕へ、此流を以後太閤秀吉公學被成、無雙流と云名を始て御附け被成しと也。其後塙團右衛門に傳り、團右衛門より長谷川内蔵助に傳ふ。夫より近年の兵作に傳へ、兵作は大男つミこぼしにて褊綴(ヘンテツ)を着けると也。権現様以来江戸住居の浪人也。林氏の居合剱術ハ、二代目の勢哲より直傳也。右の柑崎ハ居合の元祖也。其以後段々に流枝出来る也。柑崎ハ上泉伊勢弟子也。上泉ハ鬼一法眼の流の剱術鍛練の由、法蔵院流の鑓も本ハ上泉より初るといふ。右林六太夫の物語也。安太夫は六太夫の養子、安田道玄の弟也。居合剱術の達人也。」

 昨日の記述と似たような内容ですが少し詳しく記されています。ここでは「林氏の居合剱術ハ、二代目の勢哲より直傳也」とあり長谷川英信をの次が荒井兵作としています。「二代目の勢哲より」という表現がすっきりしないのですが長谷川英信を初代、二代を、荒井兵作、この兵作は勢哲と同一人物と考えられていますので、その次、三代目が林六大夫と解釈するのが妥当だと思いますが、文章を素直に読むと、長谷川英信―荒井兵作―荒井勢哲―林六太夫と考えられなくもありません。どうもすっきりしない文章です。
 長谷川英信を初代と考えるのは土佐で長谷川流と呼ばれたことからも理解できると思います。伝書には林崎甚助から記してありますが、これはよくあることです。当時、土佐に伝えられたのは長谷川英信による居合であると考えられていたのではないかと思います。実際他の地方に伝わった、長谷川流の伝書には長谷川英信を中興としてそこから伝系を記しているものもあります。
 「林氏の居合剱術ハ」と記されていますが当時は長谷川流はたんに居合のみの流派とは考えられていませんでした。といっても現在の無雙神傳英信流以上に剣術の方があったわけではなく太刀打・詰合をもって剣術と考えています。他所に伝わった長谷川流の伝書にはそのいわれを記していますので、いつか武道学会で言及したいと思います。
 「法蔵院流」と「法」の字を用いているのは間違いではありません。谷川英信は宝蔵院の文字を法蔵院と変えています。
 林崎甚助(柑崎と記していますが)は北条家に仕えた、また無雙流の名は太閤秀吉がこれを学んで名付けたとありますが史実なのでしょうか?いずれにしても「右林六太夫の物語也」とありますから林六大夫はそのように信じていたのかもしれません。

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  1. 2020/01/31(金) 21:25:00|
  2. 武道史

林六太守正 1

 土佐藩にいわゆる長谷川流の居合をもたらしたのは林六太ですが林六太夫に関しては『南路志』巻四十五 人物(下)六十一.林守正19)に次のように記してあります。

「名守正、字六太夫、性質英才ニシテ諸道ノ達人也。無雙流ノ居合ハ荒井二代目ノ勢哲ニ學テ、其到底ヲ究メテ竟ニ傳授ヲ得タリ。又故實を伊勢兵庫ニ傳授シ、和術・劔法ニ達シ、傍ラ書ヲ善クシ、佐々木文山ニ學フ。又包丁ノ妙手也。享保十七年七月十七日、七十歳ニシテ卒ス」

 この文面では「無雙流ノ居合ハ荒井二代目ノ勢哲ニ學テとあることから長谷川英信 - 荒井 - 荒井勢哲 - 林六大夫と伝授されたように感じられます。ただし、現存の伝書には荒井は一人ですので、明日記す記事のように長谷川英信を初代、荒井勢哲を2代と書くべきところを書き間違ったとも考えられます。
 押さえておかなければならないところは、伊勢流礼法を許されていたこと、和術も収めていたこと、書もよくしたこと、包丁人であったことでしょうか。

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  1. 2020/01/30(木) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 29

試合の心得 守、礼、譲、不可争勝負

 剣術は本勝負ヲ主ト致スコトデアリマシテ、其上直剣ノ場ヲ心掛修行致シマスレバ互ニ勝負ヲ争ヒマスルトキハ自然口論ニモ及ビ其末刃場ニモ及フ様ニモ成マスコトナレバ、掟ニモクワ敷ショウブ相対聞シ申間敷ト深ク戒メ置レマシテゴザリマス、故ニショウブヲ争ハズシテ互ニ譲合謙退ヲ致ス心得カ大切ト申コトテアリマス老子ニモ以不争天下能無與此。トゴザリマシテ仮令人ハ争フモ此方ヨリハ譲退致シマスレハ相手ノ人モ後ニハ恥テ辞譲致スヤウニナリマスコトデアリマス
 元来此剣道ヲ用フルコトハ三度ナラデハナキモノデゴザリマスル、一ニハ戦場ノ太刀打、二ニハ泰平ノ時主君命ニ依リテ仕ル討者テゴザリマスル、三ニハ運命逆サマニナリ不意ノ喧嘩ニテ大ニ恥辱受ントスル時止ムコトヲ得ズシテ用ル場合、三ツナラテハゴザリマセン、然ルニ平常稽古ノ節争論刃傷ニモ及ビ私ニ命ヲ落シ君ニ不忠親ニ不孝トナリマシテハ士タルモノ深ク恥ヅベキコトニテゴザリマスル、真剣デゴザリマスレバ勝負ハ自前ニ分リマスルトモ撓ナルガ故ニ争モシゼン出来マスルコトデゴザリマスル、太刀当リノ軽重、届ク届カヌコトハ銘々心ニ知リオリマスレバ強テ取合ニモ及バヌコトデゴザリマスル
歌ニ

人間ハ有ルヲナシトモ言フベキガ心ニ問ハバ如何答ヘン
勝ち負の善し悪しきの戒は是流法の深き戒め  

 当時は審判がいませんから、お互いの判断によりました。お互いの判断で1本を決めますので勝負にこだわれば口論が始まります。廻国修行の日記等にも表れるところです。
 流派によっては打たれても後から強く打って自分の勝ちを主張する流派もあり、幕末から競技化していると考えさせられることがあります。相手の刀が自分に触れたら大きな傷を受けるという発想がないのです。「あとから強く打ったから自分の勝ち」と主張するのです。
 ここで述べられているように刀を用いるのは戦場か、主君の命による討ちものか、あるいは喧嘩の場でやむを得ないときであり、試合で口論に及んで刃傷となるのは論外の事であったでしょう。防具着用の試合はあくまでも何かある時のために備えるための稽古であり、そこが優勝者をきめるスポーツと大きく異なるところでしょう。

今回で神陰流の伝書からの拾い読みは一応終わりにします。

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  1. 2020/01/29(水) 21:25:54|
  2. 武道史

神陰流伝書より 28

相気之先

 相気ト申シマスルハ双方互ニ気体満テ立向フ処ヲ相気ト申マスル、兵書ニモ能戦者ハ其鋭気ヲ避クルトゴザリマスレドモ相気ニテ引マスレバ其虚ニ付ケ込マレマシテ受ケ冠リ手ノ出ヌ様ニナリマスル物デ、頓ト致シ方ノナキ所デアリマスル、故ニ兎角受ル時ハ損デアリマスルニ由テ、思ヒ切リ必死トナリ打込ンデ当ラヌ時ハ速ニシハキマスルト自ラ透間ノ出来マスル、其虚ヲ透間ヲ打チマスルヲ相気ノ先ト申マスル、シハキマスルハ相刃ヲ打マスル心持デアリマス、

 引けは損、進ムニ利アリ只管シハク処ニ隙ぞあらはる、
 未熟にて強きを避けて引くときは其虚に乗られて自滅するなり
 悪きとは見合せ探り飛刎ぞ至極は掛れ先は極楽


 相気は合気とも書きますが、このようなときには引かずに、懸っていけという教えです。「シハク」というのは神陰流の術後であろうとおもいますが、続けざまに打つということでしょうか。

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  1. 2020/01/28(火) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 27

長短ノ矩

 長短ト申マスルハ敵ノ太刀ノ高シ低シヲ申タ物デアリマス、ケ様ノ道具ノ違ヒ長ノ高シ低シノ相手ニ由リ業ノ変リ有ルコトヲ申シタ物デアリマス、喩ヘバ敵ハ長剣或ハ丈ノ高キ相手ニハ体ヲ懸ニ致シテ足ヲ待ニシテ中誓眼ノ構ニテ至テ速ナル所作ヲ用ヒ、或ハ又敵ハ短剣丈モ卑キ相手ニハ下段ノ構ヘニテ突ヲ重ニ用ヒ、或ハ引違ヘテ上段ニ冠ルモ亦宜フゴザリマスル、太刀ノ長短丈ノ高シ低シニ依リ構ノ変リ術ノ変ル處ヲ長短ノ矩ト申マスル

 長剣は間合頻りに押詰めて唯一筋に先々の先
 短剣は間合を遠く引き放し地摺の剣の色に随え
・・・後略


 もっともなことが記してあります。大石神影流の鎗合も剣の側にはこの心構えがなくてはならず、槍の側にもこの心構えがなくてはなりません。小太刀もまたしかりです。

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  1. 2020/01/27(月) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 26

着眼

 先ツ最初ノケ條ガ着眼ト申マスルハ眼ノ着ケ所デゴザリマスル、相手ノ眸子ト申マスルハ目ノ玉人見ノコトデゴザイマスル、喜怒哀楽ノ情ガ萌シ発リマスルト直様眼中ニ其模様ノ顕レマスル、丁度其ノ如ク相手ノ念慮ノ起リマスルト其儘眼中ニ露レマスルヲ以テ此方ニ手当ヲ致シマスル、丁度医者ノ脈ヲ診察致シマシテ其病ヲ知リ薬ヲ投シマスルト同シコトデアリマス、見損シマスレバ負ヲ取リマスル故ニ如何ニモ大切ナルコトデゴザリマスル、



目は相手の目につける。相手の目に心が現れる。澁川一流の畝先生が教えられた目付と同じです。

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  1. 2020/01/26(日) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 25

一、業ヲ尽クシテ技ヲ捨ツベシ業ヲ離レザレバ藝ヲ得タル人トハ云ひ難シ

 もっともなことが記されています。技にこだわっていては本当の業は出ず、構えにこだわっていては本当の構えになりません。あくまでもしっかり稽古を重ねての上のことですけれど。
 貫汪館の居合も剣術も柔術もこのようになるために形稽古を重ねます。

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  1. 2020/01/25(土) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 24

互角試合本数定

 互角試合は初に一礼なし直に立揚り勝負すべし尤も互角は長くすべからず、長きも拾本を限るべし、たいがいは六七本くらいなるべし、譬ば六本致すなれば四本済みて互いに折敷息を入れ新に立向ふべし、拾本致すならば二度も三度も折敷息を入れ精気を養ふべし、尤も合打も勝負の分るる事なれば互に相止む可き也続けて致す時は気勢薄くなりて自然惰気になりて宜しからず、亦互に勝負の本数をきめ置き其本数終りて後今一本二本と所望致すは宜しからず、所望致すならば必ず敵の働きを見据え、此方に気の乗らば所望苦しからず、晴なる場所にて勝負合の時は定の本数により互に先を致さぬもの也

 昨日と同じような内容です。
 幕末の試合は審判もなくおおむね10本程度の稽古であったようです。神陰流では間に居り敷いて呼吸を整えるということが行われたようで、直心影流では1本ごとに呼吸を整えたようです。樋口真吉はこのような試合の仕方を古いといっていますので、やがては一度も呼吸を整えることなく10本使ったのかもしれません。
 ただし、「尤も合打も勝負の分るる事なれば互に相止む可き也続けて致す時は気勢薄くなりて自然惰気になりて宜しからず」とあるように現代剣道のように何回打ちあっても一本にも相打ちにもならないということはありません。10回打ち込めばそれが10本勝負です。つまりどちらかがあるいは同時に、あるいは打ち込まれた時に応じて打ち込んだら、それが1本で、その時にはどちらかが撃ち込んだか、相撃ちか、双方無効かということになります。一度動いたら1本で10本勝負というのは10回動くという事です。あくまで真剣勝負の代わりですので、ガチャガチャガチャガチャやってお互いに何回も打ち込む試合とは異なっています。
 貫汪館の防具着用稽古はこのような方式で行っていますので、防具着用稽古を始めてする方は現代剣道の稽古とは異なるのだということを頭に入れて始めてください。

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  1. 2020/01/24(金) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 23

互角試合の心掛

 勝負試合の時は歩負せぬを第一とす、真剣の心持にて心に用心して其内より見込む処如何にも速かに死生を顧みず切込む事肝要也、

 山川の末に流るる栃殻も身を捨ててこそ浮む瀬もあれ
 
 此歌の心大切なる所なり、稽古と思ふこと勿れ、撓と思ふときは命の惜しき事もなく今日負れば明日勝たんと思ふが如き第表紙の心得にては自得の場に至る事能はざるもの也、深く鍛錬すべし


 貫汪館での防具着用竹刀稽古においてもこのように心得てください。
当時の剣術の試合と現代剣道の試合のもっとも異なるところです。当時の試合は一合すれば一本です。一合したときにどちらかの打突が入っているか、相打ちか、それとも応じ技が入っているか、、双方が外れているかとなります。それを10回繰り返せば10本勝負です。あくまでも真剣勝負の代わりです。
 がちゃがちゃがちゃがちゃ当たればいいと打ち合い、なかなか1本とならないような現在の高校生が行っている剣道の試合とは異なっています。ふれれば切れます。
 今のような試合になったのは神道無念流や直心影流の影響ではないかと思っています。

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  1. 2020/01/23(木) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 22

掛声の事

 掛声は気の張り強く底より出るを可とす・・・後略

 貫汪館でもなかなかこのような掛声が出る方がおられません。「出る」のではなく出しているからです。たとえて言うなら小学校の音楽の時間に発声練習をさせられた時のように声を出しているのです。ここが会得できていない方は、大石神影流や澁川一流の外側の動きがいくらできても、それは絵空事だと思いしっかり本物の稽古をしなければなりません。たかが掛け声ではないのです。

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  1. 2020/01/22(水) 21:25:00|
  2. 武道史

神陰流伝書より 21

礼の作法

 前略・・・立上りて面を直し撓の先を地に突く様に致す事当流には大に嫌ふこと也、先抜けて負を取る故なり、敵に附け入る時愈々丈高くなりて敵と丈比べする心持にて詰込むべし、ひるみ屈みする事嫌ふ也、如何に忙しき場にても體の崩れざる様能く習練すべし、初心の内は突損じ、撃損じ、防ぎ兼る時詮方なく撓をそとになし腰を屈め面を差出し敵間に懸込み其場を逃れんとする者あり、或いは首許り左右に振り敵の太刀を迯さんとする者あり甚だ見悪きもの也

 神陰流では撓の先を床に突くのは好まなかったことが分かります。また、現代剣道にも共通するようなよけ方についても言及しています。「敵に附け入る時愈々丈高くなりて敵と丈比べする心持にて詰込むべし」は五輪書の影響かと思います。

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  1. 2020/01/21(火) 21:25:00|
  2. 武道史
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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができません。

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