無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

此は武士道カ

 岡鹿門の『在臆話記』に武術について次のような記述があります。

 会津はもともと上杉、蒲生、加藤、三氏の旧領地で三氏の士で民籍に移ったものがなかなか服しない。そこで藩法には切棄御免という法があって、士人に逢って馬を降りなかったり、士人に失礼があったり、言語が不敬であった場合には三人までは切ってもその罪は問われない。
 
 岡鹿門はこれが武士道であろうか、と疑問に思っています。

DSC_6997a.jpg
  1. 2017/11/23(木) 21:25:00|
  2. 武道史

會津の鎗、笠間の剣

 岡鹿門の『在臆話記』に武術について次のような記述があります。

 安部井茂松の導きで会津の日新館を見た。規模は壮大で大成殿という三字の額がある。左右の房舎は和学、神道、兵学(長沼流)天文、算術、礼容、医学の七科を教える。大成殿は講堂である。堂の後ろに武場を設け弓馬剣槍を教え、中庭に大池を設け遊泳術を教える。
 七十歳の老人志賀與三兵衛は槍術の名人で武者修行として西国諸国を巡った。
 九州では柳川の剣、久留米の槍術といい、関東では会津の槍、笠間の剣という。藩法では文武二道に達しないものは減禄される。

DSC_6993a.jpg
  1. 2017/11/22(水) 21:25:00|
  2. 武道史

殺気世上の先鞭

 『在臆話記』は、仙台藩士であった岡鹿門による、嘉永5年の昌平黌入学以降の記録でで、この中に以下のような記述があります。
 水戸老侯が一刀流第一の千葉を召し抱えようとしたが応じなかったのでその高弟の金子某を召し抱えた。金子は曾澤憩齋の娘婿となった。あるとき、曾澤憩齋と書工の福田半香が拇戦をし、曾澤憩齋が勝ち、「拳は剣と同じで水戸藩に召し抱えられて拳に負けては勝利おぼつかない。」といった。その場にいた金子はそのとき、曾澤憩齋に「藩命名をあげて愚弄するのはただならぬことだ」と憩齋と口論になった。
 金子はその時、弟子を連れていたがその弟子がこれを聞いており、師に無礼を働く者を見捨ててはおけぬと曾澤憩齋を視察した。
 
 岡鹿門はこれを「殺気世上の先鞭」と述べています。今でもこのようなことは起こりがちですので、口と筆は慎まなければなりません。

DSC_6984a.jpg
  1. 2017/11/21(火) 21:25:00|
  2. 武道史

無双の怪力

 同じく『笈埃随筆』に記された話です。
 享保年間、松平大膳家士に小池仁左衛門という力の強い武士がいて、小田原甲冑氏明珍で冑をもとめた。明珍が出してきた冑を、これでは役に立たないと言って指ではじいたところ、鉄条は反り返り、針は抜けてしまった。
 実用しない時代なので、形だけの兜になっていたことも考えられますが指ではじいただけで鉄が曲がったのですから相当な力であったのでしょう。
 
DSC_6983a.jpg
  1. 2017/11/20(月) 21:25:00|
  2. 武道史

猪・猿・鹿

 武術に関することではありません。百井塘雨という方が記した『笈埃随筆』は安永初年から天明末年にかけての諸国遍歴の随筆ですが、この中に芸州広島についての記述があります。
 広島の府には家猪が多く、犬のようだ。ということなのです。家に犬を飼うように猪を飼っていたという事です。
 「宮島には鹿と猿の二種多し」とも記されています。幕末の廻国修行日記にも猿の存在が記されています。宮島には元々猿がおらず、小豆島から連れてこられたのだと言われていますが、江戸時代にいた猿は一度絶滅したという事なのでしょうか。

DSC_6977a.jpg
  1. 2017/11/19(日) 21:25:00|
  2. 武道史

騎射

 同じく『享保通鑑』という書に馬術について載っています。
享保12年5月9日、御目付等が松平左京太夫家来の騎射を下見した。
 その内容は20人全員が1かけのうちに馬上で鉄砲を撃ち、次に矢を1本放ち、次に6.7寸周りの青竹を1本または2本斬り馬上で納刀、次に左右に対して2本矢を放つ。

 今行われている流鏑馬とは異なっていますが、戦場での武技としての騎射なのでしょう。

DSC_6971a.jpg
  1. 2017/11/18(土) 21:25:00|
  2. 武道史

宝蔵院 鎗術の上覧

 同じく『享保通鑑』という書に宝蔵院の鎗術の上覧が載っています。
 享保10年9月24日、南都宝蔵院が参府したので上覧を仰せつけられ、布衣以上のものは見物した。南都宝蔵院に時服三を、宝蔵院内明宝院には銀三枚が授けられた。

DSC_6970a.jpg
  1. 2017/11/17(金) 21:25:00|
  2. 武道史

武術の上覧

 『享保通鑑』という書に武術の上覧について載せられています。
 享保10年8月12日、御座之間において柳生備前守、柳生播磨守による徳川吉宗への上覧が行われ、柳生備前守は時服五を、柳生播磨守は時服二を授けられた。
 同日、御黒書院において小野次郎右衛門、小野助九郎、次郎右衛門門弟の松平半十郎の上覧が行われ、小野次郎右衛門は時服三を、小野助九郎と松平半十郎は時服二を授けられた。
 また、同日、同所、鎗術では山本加兵衛、同務兵衛、加兵衛の弟である山名主膳の上覧が行われ、山本加兵衛は時服三を、同務兵衛と山名主膳は時服二を授けられた。
 
 柳生は上覧の場所も違い、授けられた時服の数も違います。別格だったのでしょうか。

DSC_6968a.jpg
  1. 2017/11/16(木) 21:25:00|
  2. 武道史

当て?

 『事々録』に載る弘化三年の盗賊のお話です。
 甲府勝手方小普請 澤甚五左衛門の弟富八郎は盗賊をして江戸へ呼び出され、吟味中に逃走した。高田穴八幡裏手に住み、盗賊をしていたところ、目明しがふと見つけ宵のうちにその家に入り、自分も盗賊で浅草で大きな仕事をするので手伝いがほしいと持ちかけ、まだ早いのでと落語を聞きに入り、あやまって突き当たったふりをして富八郎を押し倒した。示し合わせていた捕り方が折り重なって捕まえたが、突き倒した際、富八郎が目明しの胸を突き、この胸への突きがもとで目明しはなくなってしまった。
 柔術の心得があり当てを入れたのでしょうか。

DSC_6965a.jpg
  1. 2017/11/15(水) 21:25:00|
  2. 武道史

千葉某の逸事

 『事々録』に載る武術の師千葉某の逸事です。弘化三年の出来事ですから、千葉周作か千葉定吉のことでしょうか。
 吉原の門前を門人が通ったところ、忘八に引き留められたけれども持ち金がないので明日来るといった。ところが忘八が笑ったので腹立たしく、翌日4.5人で面と小手をつけ腰には稽古の太刀(竹刀)を帯びて遊郭にやってきた。二階へ上がったところ遊女も恐れて相手ができず、早く返そうと茶菓子を出したが、帰らずその後十人余り同じような格好でやってきて、二階で剣術の稽古を始めて数国して帰った。またその時、茶りぃうも老いていった。
 後千葉某は奉行所に呼び出されたが、遊郭に赴いた弟子の名前をすべて言った。物を壊したでもなく、暴れたわけでもなく、茶代も置き、身分も浪士であるためおとがめはなかった。

 千葉某はこのようなことを弟子がするのをあらかじめ知っていたのかもしれません。

DSC_6936a.jpg
  1. 2017/11/14(火) 21:25:00|
  2. 武道史

渋川伴五郎の逸事

 『事々録』という天保2年から嘉永2年にわたる19年間の風聞雑話を集めたものに、武道に関することではありませんが、渋川伴五郎の逸事が載っています。
 詳しく述べればきりがないので省略しますが仙石騒動と言われるお家騒動に絡み、権力を握っていた仙石左京一派から、その反対派であった神谷転を逃すために渋川伴五郎が尽力して寺に頼み込んで虚無僧にしたというものです。師弟関係にあったかどうかはわかりませんが、当時の道場経営者は、武道の指導以外のこともしなければならなかったのだとわかります。
 仙石騒動についてはインターネットで調べれば詳しく出てきますのでお調べください。

DSC_6935a.jpg
  1. 2017/11/13(月) 21:25:00|
  2. 武道史

山崩れ

 元明元年から嘉永6年にかけて記された「きゝのまにまに」という随筆の記述です。この随筆には羽織の形の時代による流行などのファッションに関することも記されています。
 関税三年4月に安房国恵美村西山というところで山崩れが起こった。山崩れの2.3日前におびただしく鳴動があったので、変があることを事前に知り財を運び牛馬を放ったので害はなかった。
 崩れる前には鳴動があるのかもしれません。気を付けなければなりません。

DSC_6972a.jpg

  1. 2017/11/12(日) 21:25:00|
  2. 武道史

盗賊

 『真佐喜のかつら』という嘉永末年頃と推定される随筆にそのころの盗賊について下記のように記してありました。「鬼平犯科帳」よりもひどい話かもしれません。真実かどうかはわかりません。
 下総国香取郡萬歳村出身の元力士清力佐助は強盗となり多くの手下を従え、手下は鉄砲・弓矢・槍・刀を携行していた。富家へ押し入り金銀を奪っていたけれども盗賊の人数は多く武器を携行しているため、なかなか捕まえることはできなかった。ついに関東取締出役、両町奉行与力同心、加役方役人、堀田侯、その他の諸侯へも申付けられた。盗賊は強力なので追廻し、取り囲み、ただ、遠巻にしていたところ、嘉永2年4月28日に清力佐助は自殺した。

 広島藩では農村地帯で武術の稽古をするのをソフトに禁止していますが、城下の役人では農村地帯の取り締まりに手が回らなくなり、やがて公認し、農民を使って農兵隊を作り治安維持に当たらせています。

DSC_6955a.jpg

  1. 2017/11/11(土) 21:25:00|
  2. 武道史

鳥居

 『真佐喜のかつら』という嘉永末年頃と推定される随筆に武道とは全く関係ありませんが、下記のようなことが載っていました。
 武家町屋に限らず、構えの外へ鳥居の形を書き、往来の人が粗相をするのを防ぐことがあり、はなはだしきは神の御名などを書いている。それさえ恐れずに粗相をする者があり、獣に類する行いである。また、鳥居を描いたり神の御名を記す者はかえって神罰を恐れるべきではなかろうか。

 最近の風習かと思いましたが江戸時代からある事とは知りませんでした。

DSC_6954a.jpg
  1. 2017/11/10(金) 21:25:00|
  2. 武道史

ちょっとした仕草

 『真佐喜のかつら』という嘉永末年頃と推定される随筆に下記のようなことが載っていました。
 細川越中守の家臣永岡某という武士が小田原で宿泊したのこと。夕膳を終えたのちにその家の小女が「永岡殿は女の手で育った。」というのを伝え聞き、その小女を呼びわけを尋ねた。小女は「湯を飲まれた後、二度、箸の先をなめられたため。」と答えた。
 そこで永岡某は、身分は低いけれども観察力が優れていることに気付き、その小女の親にしらせて江戸に連れて行き、細川侯の大奥に仕えさせたところ諸事利発で上の御心にかない、後には両親も豊かに暮らした。
 私たちの稽古している武道でも、ちょっとした仕草で、その癖を読みとられるのかもしれません。

DSC_6957a.jpg
  1. 2017/11/09(木) 21:25:00|
  2. 武道史
次のページ

FC2カウンター


無料カウンター

プロフィール

貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!

カテゴリー

ブログ内検索

リンク

このブログをリンクに追加する

最近の記事

月別アーカイブ