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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

鍋島直能 6

 承応元年、鍋島直能 31歳のときのことです。

「直能公、馬術御稽古、原右馬之允 後大蔵大輔と云 御指南申上候
 依助流乗方之口決幷木馬之所作、御誓紙 文略
   正応元年十二月六日 加賀守
        原右馬允殿

 右右馬允ハ、荒馬乗之達人ニ付、 元茂公被召抱候、右之由緒、附録ニ記之」p.544

 31歳で稽古を始めています。現代人でも稽古を始めようと思えば、思った時がはじめるときで、遅いということはないということかと思います。今は昔と異なり体も若いですし、考え方さえ柔軟であればかなりの年齢でも始められるのではないかと思います。

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  1. 2018/10/18(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島直能 5

 同じく正保二年 鍋島直能 24歳のときのことです。武道とは関係ない記事ですが、私の身近に感じる記事であったため私の記憶のために記します。

「今年九月十日、上杉弾正大弼卒去、勝茂公の於姫お市様御夫成り、直能公へ為御遺物 御脇差 国行 被進候
 鍋島飛騨守と書付有」p.505

 義理の叔父の遺品をおくられたということでしょうか。この脇差は今どこにあるのでしょうか。小城藩主の家からは多くの物が放出されていますので、この脇差もどこかに埋もれているのかもしれません。

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  1. 2018/10/17(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島直能 4

 同じく正保二年 鍋島直能 24歳のときのことです。

「直宗公御剣術之義、兼而柳生又左衛門(宗矩)殿江御入門御稽古被成候処、宗矩死去之後は専 元茂公の御指南にて御修行成、其頃十兵衛殿ゟの書状

 親にて候者進上申候三巻之目録、委細拝見、於拙者相違無之者也、御失念之處、時々可有御尋、任御望裏印調、右之三巻唯今令返令進候畢
     柳生十兵衛  
       菅原三厳判
  正保二乙酉暦
    鍋島飛騨守殿」p.503

 これは正保三年に父の鍋島元茂が柳生但馬守宗矩から授かった三巻の目録『兵法家伝書』とは別物で、元茂の父である勝茂が授かったものを孫の直能が柳生十兵衛に確認してもらい、裏印まで押してもらっているようです。
 おそらく授かった巻物へのさらなる権威付けなのでしょうが、この当時は信用を得るために、そこまでする必要があったという事だと思います。
 
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  1. 2018/10/16(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島直能 3

 正保二年 鍋島直能 24歳のときのことです。

「四月、元茂公より鉄砲の御伝書御相伝御相承被成候、御奥書

 此一巻受於正継而不曽為人開之書、雖然今汝傳者也、只能寶蔵之莫之敢漏逗云
   正保二年乙酉初夏良辰 元茂在判
            飛騨守殿」p.503

 火薬を用いる砲術は時代が下ると身分の高い武士はあまり稽古はせず、足軽任せになるのですが、新規の最先端の武術ですので、この当時は稽古していたのでしょうか。

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  1. 2018/10/15(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島直能 2

 寛永十二年 鍋島直能 14歳のときのことです。武道とは関係ない記事ですが、米沢でお墓にお参りしたこともあり、私の身近に感じる記事であったため私の記憶のために記します。

「六月三日、於市様御逝去、御年三拾歳
      元茂公の御妹君にて直宗公の御叔母也、十九歳の御時上杉弾正大弼定勝卿へ御嫁娶有
      御法名 傳高院殿と奉称候」p.496

 19歳で暖かな九州から北国の米沢の上杉定勝に嫁いで30歳で亡くなられています。比較的あたたかな九州と積雪の多い米沢では環境は大きく異なりますし、御つきの者が佐嘉から付き添っていったとしても、姫として庶民に比べ不自由がない生活を送っていた人には生活習慣等の変化は精神的に大きなストレスであったでしょう。
 現代では大切に育てられ過ぎて、叱られたこともなく、厳しく指導を受けたこともない人は、ストレスに耐えられないときには、逃げ出すか、自分に与えられた事を放り出して人任せにするので、この市姫にあったかもしれないようなストレスを感じるつことはないと思います。逆に責任感が強かったり、逃げ出すことができない人は何らかの解決策を見出さなければなりません。

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  1. 2018/10/14(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島直能 1

 今日から小城藩2代藩主の鍋島直能について記していきます。ページ数は刊行されている鍋島直能御年譜のページです。
直能は父同様、柳生但馬守宗矩の教えを受け、柳生十兵衛とも親交があったと言います。

寛永十年 鍋島直能 12歳のときのことです。

「今年直宗(直能の前名)公、大坪流馬術御稽古被成候付、元茂公へ御誓紙被差上候
       霜月廿三日  飛騨守直宗
         進上
         紀州様」p.496

 父が我が子の正式な馬術の師となり稽古をつけ始めています。鍋島元茂の場合は自分自身が武術家ですので、いろいろな武術を正式に教えることができたと思います。
 幕末でも子が幼い時には父や身内の者が稽古をつけることは一般的でした。

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  1. 2018/10/13(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一隅を照らす

 「一隅を照らす。これ則ち国宝なり(照于一隅此則国宝)」
 この言葉を信じて一生懸命自分がなすべきことを黙々となされている方がおられると思います。この言葉は、最澄が818年、天台宗門後継者の修行規定として書いた「山家学生式」にあります。
 心の武道である古武道を行ずる私たちがこの一隅を護って稽古を続けることは、国を保ち世界を保つことにつながると信じます。心を忘れて人は成り立たないからです。

 最近は以下のような説もあるようです。
「径寸十枚、これ国宝に非ず。照千、一隅、これ則ち国宝なり」
最澄「山家学生式」(弘仁9年・818)
「古人曰く」として引く言葉で、『史記』田敬仲完世家に見られる、斎の威王と魏王の問答が出典。魏王が、我が国には、直径一寸、車十二台分を照らすほどの国宝の珠がある」と自慢したところ、威王は、「我が国の宝は宝石類などではなく、四人の優秀な臣下である。彼らはよく国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ」と答えたのによる。この「照千一隅」の部分は従前「照于一隅(一隅を照らす)」と読まれていたが誤り。

 つまり、一隅にはあるけれど、千里を照らしているということで、自分がいる場所でなすべきことをなすことで世の中を広く照らしている、そういった人を国宝という。という意味になります。
 であれば、我々古武道を行ずるものは、たんに小乗的に自分たちのみの修業にとどまらず、その素晴らしいところを世に広める務めを果たすべきだということになります。
 これは貫汪館で稽古されている方がお話しされた、「子供の一時期であっても、レベルの高い古武道を稽古することによって、良い悪いの理解ができるようになり、心身一如の状態も理解できるのではないか。」ということにも通じます。
 自分自身が稽古しながらその会得したところを、たとえその人にとって一時期であっても、これを経験していただくことによって何かを得ていただく。これは「照千一隅」に通じるのではないでしょうか。

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  1. 2018/10/12(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

スポーツ

 ある剣道の最高位の先生がプライベートな場でこのように語られたことがあります。「勝ち抜きの総当たりの場合、強い選手が先に出てこちらが何人も負けるような場合はその選手をつぶしにかかり、試合が続行できないようにする。」と
 この話は武道なのでありそうな気がすると、聞き流してしまいそうですが、じつは武道でないからできることなのです。私たちの流派で稽古をされる方はこれから話すことをよく理解してください。
 真の武道にとって試合場での勝ち負けは、試合場での限定された条件の中での限定された技を使った勝ち負けにすぎません。したがって江戸時代には審判はおらずチャンピオンシップもありませんでした。そのような限定された条件の中で、小さな勝ち負けを競っても実用の武道という観点からすればあまり意味はないからです。あくまでも試合は試し合いでした。
 太陽や風、地形を利用することはなく、刀の長さが違うわけでもない。助太刀がいるわけでもなく、矢玉が飛んでくることもない、本当にかぎられた条件の中での試合にすぎません。そんな試合に最大の価値観を置くから先述のような方法がとられるのです。競技、スポーツとしての試合であるからこそ先に話したようなことをしても遺恨をもたれて夜道で斬り捨てられるということもありません。江戸時代であれば遺恨をもたれて闇討ちに合うことも考えなければなりません。
 ここが武道と、競技、スポーツとの大きな違いです。
 嶋田虎之助という勝海舟の剣術の師をご存知だと思います。嶋田虎之助は普段は好人物だったようですが、こと試合となると勝は主張しても負けは認めない人物であったようです(審判はいません)。津藩を訪れた後に嶋田虎之助が急死したとき、出身地の中津では毒をもられて殺されたのではないかという話が出たそうです。

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  1. 2018/10/11(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

つながる

 昨日も述べましたが、昨今使われている「つながる」という言葉には不信感しか持てません。挨拶してSNSで関係を持つ程度のことをつながるというらしく、つながったあとは、なにかあったら自分のために力を貸してもらおうとする(利用しようとする)。そして自分のために動いてもらっても自分の想いに答えてくれたと言って、漠然とした宙にある、自分自身ではない実体のないもののために動いてくれたのだからと言って特に恩も義理も感じることもない。そういった関係を「つながる」というらしくお互いに利用し合う関係のようです。だから、自分の利になりそうな頼み事には応えても、自分の利にはならない頼み事には、たとえ、どんなにその人が困っていても応えない。
 私が生きてきた世界とは全く異なります。常に近くにいる人には誠をもって接し、頼まれたら誠心誠意それに応えて動き、自分の損得は考えません。頼んだら、動いてくれた人に対する恩は絶対に忘れない。そういう世界に生きてきました。澁川一流柔術の師である畝重實先生は私を弟子にしてくださったときに、「子弟と言えば親子も同然。子が危機にあれば親は命を捨ててでも子を助ける。」と話してくださいましたが、そういう世界です。
 今は古武道を稽古する方も習い事という感覚の方が多くおられますが、本来つながるというのは心がつながることを言います。心がつながるという事は損得ではないもののために行動できるということです。また本当につながっている者は数十年会っていなくても再会した時には、年月を感じずに、元のように動けるものです。

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  1. 2018/10/10(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

真実でない世界に生きる

 以前びっくりしたことの一つに、私の門人に他流派の若い人が「〇〇さんと森本先生は友達でしょ。」と言ったという事がありました。その〇〇さんというのは年も私よりもはるかに若く武道歴も浅く、その流派の免許を授かっているかどうかも分からない人です。
 その「友達でしょ」という根拠はSNSでつながっているからという事にあったようです。そしてSNSでつながっていれば対等の友人関係を築いていると信じていたようなのです。
 何とも言えない時代になりました。
 
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  1. 2018/10/09(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

軽い時代

 今の世の中は、自分の価値を売り込み、こんな素晴らしいことをしていると厚かましいくらいに言わなければ認められないようになりました。そしてそのような人物が内実はどうあろうが、もてはやされる世の中になっています。SNSでいくらでも自分を飾ることができるようになっていますし、美辞麗句を弄すればそれにまどわされる人の数も一昔前よりもはるかに多くなっています。そして、そのような人物とつながることが良いことだと考えられます。今の世は極論すればそのほうが利潤が上がるのです。
 武道の世界も同じで、自分の価値を YouTube などで過大に見せて売り込み、SNSで歴史を飾り、人を引き付けることも行われます。素人は派手なもの、激しい動きに惹き付けられますので、人を集めることは簡単です。そして、そのような内容を教えていきますので、本物を知らずに語る人も増えてきます。また、そのような者同士でつながっていきます。
 本質をみることができる人が少なくなったのだとは思いますが、この方向に日本が進んでいくと、将来はどのようになっていくのでしょうか。本物は消え去り、表面を飾るだけの人が増えていくような気がします。

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  1. 2018/10/08(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

流派の復元

 失われた流派を残された伝書から復元することは、学問的な意味からすると価値があることかもしれません。時代による技法の変遷が分かる可能性があるからです。
 しかし、個人的に研究するだけで、公的な場で発表し、批判を受けることもなく、「これが〇○流だ」と公言し始め、あるいは「一緒に〇○流を稽古しませんか」と言い初め、やがてそれを古武道をしたことがない第三者の目に触れる場で演武し始めると、復元した流派であるにもかかわらず「〇〇流師範」などと呼び始め、復元した流派があたかも古くから宗家あるいは免許皆伝をもって続いているかの如く独り歩きをし始めてしまいます。独り歩きをし始めた後には知る人が知るように、はじめは「復元・復活を宜しくお願いします」と言っていたにもかかわらず、正規な古武道の団体に加盟した後は「400年の歴史と伝統」「家伝の武術」「代々の宗家」などと言ってはばからないようになり、あたかも生まれたときから自分が宗家であるといわんばかりに歌舞伎の演技のような態度を取り始めるようになります。そして嘘に嘘を重ねていきます。
 かくして古武道は信用できないと一般社会からはますます無視されるようになっていくのです。
 このような現実を知ってか知らずか、自分が正規に稽古してきた流派はほっておいて、学問的な立場からではなく、復元にいそしむという現状があります。

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  1. 2018/10/07(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

専門 2

 以前、専門についてお話をしましたが、専門性というのはとても大切なことで、うかつに専門外の人間が語るととんでもないことになってしまいます。
 世の中には古武道をするためには現代剣道や現代柔道の素養が必要だという間違った認識がありますが、これもいい加減な人物がいい加減なことを語ったのが始まりのようです。このようなことをいかにも古武道を専門にしているような、表看板を古武道と掲げた人物も言いますから要注意です。そのようなことをかたっている方は表看板は古武道であっても、じつはその専門は現代剣道で古武道は後から付けたものだという事実も見たことがあります。私たちの流派では現代武道の経験がかえって上達の妨げになる場合もあるという事は貫汪館で稽古された方なら経験されていることだと思います。私自身も現代剣道の竹刀の振り方を刀の振り方に変えるのにどれだけ苦労したかわかりません。
 専門の現代剣道の動きを古武道らしく演じているので現代武道の素養が絶対に必要だと語るのです。はじめから古武道の流派で鍛えられた人であればそのようなことを言うはずもありません。江戸時代には現代剣道はなかったのですから。
 話は飛びますが、学校教育においても性教育の講師は慎重に選んでいます。たとえ名がある人物であっても、とんでもないことをかたる可能性もあるからです。人生を左右するような内容の話を専門外の人物が得々として語ればどうなるか明らかなことです。
 人の命にかかわるような事であればなおさらです。しかし、現代は人の人生や命にかかわるような大切な話を専門外の人間が語って得々としている事例が多いのです。専門の知識もなく発言に責任も持てないにもかかわらず、SNSや美辞麗句で自画自賛し取り巻きを作り、いかにもと思わせて集客する。
 私たちは人物を判断するとき、専門外でない事を得々と語っているかどうかを判断材料とすることはできると思います。

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  1. 2018/10/06(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

男が男でなくなる時代

 以前、男が男でなくなるという事について述べましたが、あくまで男女の特性から述べています。力があるものは力を使うのが当然で、知恵があるものが知恵を使うのが当然。その特性を他者のために用いるのが自然であるという事です。何かあった時に対処できるものは対処する。能力を持っているのに能力を持たないものに依存することは自然ではないのです。

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  1. 2018/10/05(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

昇段審査論文

 昇段審査論文を掲載します。非常に良い内容ですので最後まで読み、稽古の糧としてください。


「無双神伝英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」

 貫汪館では居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」、柔術流派である「渋川一流柔術」、剣術流派である「大石神影流剣術」の三流派を学ぶことになっている。本論文の主題である「無双神伝英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」について記す前に他の二つの流派(渋川一流柔術、大石神影流剣術)について説明したい。貫汪館では「柔術だけを学びたい」「私は剣術だけでいい」「居合術はやりたくない」といったことは認められておらず、三流派を併修することが義務つけられている。柔術流派である「渋川一流柔術」の独自性は剣術流派である「大石神影流剣術」、居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」と比較することにより明らかとなり、剣術流派である「大石神影流剣術」は柔術流派である「渋川一流柔術」、居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」と比べることによりその特質が明確となる。そして居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」の特質(本論の主題である無双神伝英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか)は剣術流派である「大石神影流剣術」、柔術流派である「渋川一流柔術」と相違点を比較することにより明確となると考えるからである。

 先ず初めに「渋川一流柔術」について記してみたい。
 「渋川一流柔術」は江戸時代末期、所謂幕末に首藤蔵之進満時によって創始された流派である。首藤蔵之進は宇和島藩浪人と伝えられる彼の叔父宮崎儀右衛門満義を師として「渋川流」と「難波一甫流」を習得。さらに他所で「浅山一伝流」をも習得し「渋川一流柔術」を創始した。
 蔵之進は広島城下にて5,6名の広島藩士と争いになった際に「渋川一流柔術」の業で難なくこれを退けた。これがたまたま居合わせた松山藩士の目に留まり、その推挙により松山藩に仕えることとなった。天保10年の頃と伝えられており、その後蔵之進は松山においても「渋川一流柔術」の指南を始めた。
明治維新以後、首藤蔵之進は親族のいる安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「渋川一流柔術」を伝え残し、明治三十年 八十九歳で松山に於いて没した。
首藤蔵之進以降の伝系は以下のとおりである。
 首藤蔵之進満時(初代) 宮田友吉国嗣(二代) 車地国松政嗣(三代) 畝重實嗣昭(四代) 森本邦生嗣時(五代)
「渋川一流柔術」の特質は以下の3点であると考える。
1.素手対素手を主眼においておらず、武器対武器、その先に素手対武器を想定していること。
2.全ての形に飾り気がなく、単純素朴な技法で相手を制すること。
3.無駄な力を用いず無理なく技をかけること。
1は現代武道である「柔道」、「ブラジリアン柔術」等が一般的に素手対素手の試合のイメージであることから古武道である「柔術」も素手の相手に対し素手で対応する技術体系であると思われがちである。しかし、実際の「渋川一流」は素手対素手の形は基本に過ぎず、武器対武器、素手対武器を含む豊富な内容となっている。
「渋川一流柔術」には以下のとおり400余りの形がある。
履形(35本) 吉掛(25本) 込入(37本) 打込(24本) 両懐剣(4本) 互棒(7本) 四留(14本) 拳匪(7本) 枠型(9本) 引違(5本) 袖捕(2本) 二重突(14本) 一重突(12本) 片胸側(11本) 壁沿(12本) 睾被(12本) 上抱(14本) 裏襟(7本) 御膳捕(10本) 御膳捕打込(11本) 鯉口(10本) 居合(16本) 肱入(22本) 三尺棒(25本) 三尺棒御膳捕(2本) 六尺棒(8本) 六尺棒裏棒(8本) 六尺棒引尻棒(2本) 刀と棒(14本)小棒(14本) 十手(3本) 分童(3本) 鎖鎌(11本) 居合(抜刀術)(18本)
上記の内太字で下線を付した、打込、互棒、御膳捕打込、鯉口、居合、肱入、三尺棒、三尺棒御膳捕、六尺棒、六尺棒裏棒、六尺棒引尻棒、刀と棒、小棒、十手、分童、鎖鎌、居合(抜刀術)の形は相手が短刀や刀などの武器を用い、こちらが素手や棒、十手などを用いるものである。合計本数428本余りの形のうちこれら武器を使用した形は202本と約半数を占める。半数が武器を使ったものであり、ここには「柔術」は素手対素手というイメージは全くといっていいほどない。余談になるがこれら400を超える膨大な数の形を習得できるのか?と疑問に思う方もいると思うが「渋川一流柔術」では最初に習う「履形」という形が全ての基本となっており一部例外はあるものの他の形は「履形」の変化となっているため習得が可能となっている。なぜ「渋川一流柔術」には形が多いのか?私の師匠である森本邦生先生によると「渋川一流柔術」を創始した首藤蔵之進満時が学んだ三流派のひとつ「難波一甫流」に形が増える要素があったということである。私見ではあるが中国武術の門派である「蟷螂拳」も形の数が多い門派として有名であり、相手の攻撃パターンに対する方法をそれぞれ形にして残すという考え方を取っている。おそらく「難波一甫流」にもそのような要素があったのではないかと考える。
2は上記した400余の「渋川一流柔術」の形に見栄えのするような形がないことである。いずれもシンプルに相手を制するものであり、奇妙奇天烈な技はない。私が初めて師匠である森本邦生先生に「渋川一流柔術」の形を拝見させていただいた時もシンプルすぎて凄さが全く判らなかった。しかし、「履形」の指導の際、実際に技を掛けていただいて初めて「渋川一流柔術」の凄さを痛感したのだった。先生の身体には力感がほとんどないにも関わらず、まるでクレーンやショベルカー等の重機に振り回されるような感覚であった。
3は無駄な力を使わないということである。この言葉自体は他の武道でも使われているが一般の方が考えている力の抜き具合ではまだまだ無駄な力が入っていると言わざるを得ない。押されたらそのまま「ふわっ」と後ろに下がってしまうぐらいに力を抜く。まるで風に乗る凧のようになるのである。力を入れていないのになぜまるで重機に抑えられているような状態になるのか?それは力を入れずとも、いや入れないからこそ身体の重さが無駄なく相手に作用するからである。だからこそ、一見単純素朴な技であっても相手を制することができるのである。森本先生曰く「渋川一流柔術」の師である畝重實先生に手を取られると力感は全く感じず、まるでつきたての餅のようなあたたかさと柔らかさで抵抗する気持ちが失せてしまうとのことであった。

 続いて「大石神影流剣術」について記したい。
「大石神影流剣術」は大石進種次により創始された流派である。大石進種次は寛政9年(1797年)三池郡宮部村に生まれ、幼少より祖父の大石種芳から「愛洲陰流剣術」と「大嶋流槍術」の指導を受けた。文化10年(1813年)頃から、これまでの「愛洲陰流剣術」の袋撓と防具の改良を開始、独自の突技と胴切の技を始めたと言われる。文政3年(1820年)に祖父大石種芳より大嶋流槍術の皆伝を受け、続いて文政5年(1822年)に愛洲陰流剣術の皆伝を受けた。文政8年(1825年)には父の後を受けて柳河藩剣槍術師範となり、天保3年(1832年)暮れには聞次役として江戸へ。その翌年にかけて江戸で試合を行っている。このときに試合をした相手は定かではないが男谷精一郎との試合は有名である。天保10年(1839年)には再び江戸に出て試合を行っているが、この時、水野忠邦の前で試合を行い忠邦から褒美の品を与えられている。
大石進種次以降の伝系は以下のとおりである。
 大石七太夫藤原種次(初代) 大石進種昌(二代) 大石雪江(三代) 坂井真澄(四代) 大石一(五代) 大石英一(六代) 森本邦生(七代)
「大石神影流剣術」の特質は以下の三点であると考える。
1.突技、胴切を得意とすること。
2.形を行う際に相手との「繋がり」を重視すること。
3.無駄な力を用いない。腕(かいな)力でなく丹田の力を用いること。
1は大石進種次が祖父大石種芳から「愛洲陰流剣術」の指導を受けた当初、その防具は突技、胴切に耐えうるようなものではなかったため実際に試すことが難しかったと思われる。そこで大石進種次は防具の改良を行うことにより他流では会得することが難しかった突技と胴切を稽古しやすくすることにより得意技とすることが出来たのではと推測される。
「大石神影流剣術」に伝わる手数(大石神影流剣術では「形」を「手数」と呼ぶ)は以下のとおりである。
試合口(5本) 陽之表(10本) 陽之裏(10本) 三学円之太刀(9本)
鑓合(2本) 長刀合(2本) 棒合(3本) 鞘ノ内(5本) 二刀(5本)
天狗抄(10本) 小太刀(5本) 神傳載相(13本)
上記の内太字で下線を付した鑓合、長刀合、棒合、鞘ノ内の手数は相手が槍を用いたり、こちらが棒や長刀を用いたり、居合で対処する形であり、刀に対処することのみを考えていない。また、突技、胴切は手数の中に特に多く表現されているということはなく、手数の中では突技にいつでも入れる体勢を重んじており、「大石神影流剣術」に独特の「附け」という構えに表現されている。
2は形を行う際に手順を追うのではなく、相手との繋がりを重視するということである。もちろん、初めは形の手順を覚えるのが先であるが、覚えた後は形を行う際手順のことは忘れて相手と心を繋げることに徹するのである。これは身法でなく、心法を高めるための稽古である。こうした心法の稽古なしには「大石神影流剣術」の手数を真に理解することは難しいであろう。「大石神影流剣術」の手数にはそれぞれその手数のテーマというべきものがあるが、この心法を最も重視しているのが「陽之裏」ではないかと私は考える。「陽之裏」にはどういった意味があるのか理解するのが難しい形(4本目「張身」7本目「位」)があるが心法の稽古だということが分かれば非常に高度な形であることが理解できるのである。
3は刀を扱う際に腕(かいな)力を使わず「(下)丹田」の力を用いることである。これは「大石神影流剣術」の身法において最も重要な部分であり、その要訣は「半身」になることである。言葉にすれば簡単なことのように思えるが実際に行うのは中々難しい。特に剣道の経験があった私は正面を向いてしまう癖が無意識に出てしまっていた。なんとか「半身」を理解できたのは稽古を始めてもうすぐ一年が経過する頃であった。その理解の助けになったのが森本先生から伺った大石英一先生の「大石神影流の構えはがに股です」「大石神影流の動きは鍬を振る動きと似ている」という二つの言葉であった。
「半身」を取り、そけい部を緩めることが出来てはじめて「丹田」の力を使う準備が整うのである。

 次に「無双神伝英信流抜刀兵法」について記したい。
「無双神伝英神流抜刀兵法」の流祖は戦国時代末期の林崎甚助重信である。林崎甚輔は居合の始祖であり、林崎甚助より多くの居合流派が生まれた。
 第九代林六太夫守政により「大森流」が取り入れられ、片膝立ちの座法の英 信流の前に正座法の大森流の稽古をすることになり、「無双神伝英信流抜刀兵法」の稽古体系が確立された。また、林六太夫守政により「無双神伝英神流抜刀兵法」は土佐国に根付き、以降土佐居合とも言われるようになった。
 林崎甚助重信以降の伝系は以下のとおりである。
 林崎甚助重信(初代)、田宮平兵衛業正(二代)、長野無楽入道僅露斎(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗読(五代)、萬野団右衛門信貞(六代)、長谷川主悦之助英信(七代)、荒井兵作信定(荒井清哲)(八代)、林六太夫守政(九代)、林安太夫(十代)、大黒元右衛門清勝(十一代)、松吉八左衛門久盛(十二代)、山川久蔵幸雅(十三代)、下村茂一、坪内清助長順(十四代)、細川義昌(嶋村善馬)、嶋村右馬允(丞)義郷(十五代)、植田平太郎竹生(十六代)、尾形郷一貫心(十七代)、梅本三男貫正(十八代)、森本邦生貫汪(十九代)
 「無双神伝英信流抜刀兵法」の特質は以下の3点であると考える。
 (以下特質部分については三段受験の際の論文「居合いの歴史における無双神伝英信流抜刀兵法の歴史とその特質について」から引用)
1.無理無駄のない動きであること。
2.太刀打ち、詰合、大小詰、大小立詰が伝承されていること。
3.形(かたち)を作ることをせず、内面を重視すること。
1は無駄な力を使わないこと。特に手足等の末端の力を使わず丹田からの力を伝えることにより全ての動きを行うことで、加齢により筋力が衰えることがあっても武道としての動きは衰えない。江戸時代の武士は年を取ったからといって現在のスポーツ選手のように引退することはなく、戦う準備をし続ける必要があった。このため生の筋力に頼った動きに価値が見出されなかったのであろうと思われる。
2は所謂、素抜き抜刀術だけでなく、剣術技法である太刀打、居合と剣術の中間的技法である詰合、柔術的技法である大小詰、大小立詰を体系に含んでいること。大森流、英信流表、英信流奥は所謂、素抜き抜刀術であり、相手を想定し一人で修練を行うものである。一般の人が居合と聞いて思い浮かべるのがおそらくこの部分であろう。利点は相手を想定し、一人で行うために自身の動きを内省的に把握することが比較的容易なため、自身の動きを修正し、高めていくことができることである。問題点は相手を想定するといっても自身の都合の良い想定になってしまいがちであり、独りよがりな動きに陥る危険性があることである。太刀打、詰合を行うことにより、素抜き抜刀術の想定が正しいか、実在の相手からのプレッシャーを掛けられた状態でも正しく動くことが出来ているかを確かめることが出来る。また、柔術的技法である大小詰、大小立詰を行うことにより、居合(素抜き抜刀術)が正しい身法で行われているか確認することができる。大小詰、大小立詰の身法は居合(素抜き抜刀術)と同じであり、大小詰、大小立詰で力に頼らず技をかけることができていれば、居合(素抜き抜刀術)も力に頼らずに動くことができているといえるのである。
3は居合いを学ぶ場合、どのように学ぶかということである。例えば指導者の動きを倣う際に形を真似するのか、内面の動きを真似するのかということである。形を真似るのは容易であるため、得てして形のみをトレース方向に行ってしまいがちである。しかし、指導者と自分は異なる体格、個性を持っているため形を真似るのみでは自分に合った動きになることはないのである。ではどうすればよいのか?外面に表れた形でなく、その形に至った身体の内面の動き、もう一歩進めれば、心の動きを真似るのである。身体の内面、まして心の動きを感じることはとても難易度の高いことであるがこの先にこそ、真の上達への至る道があるのである。

 以上、貫汪館で学ぶ古武道三流派の概略とその特質について説明を行った。
「無双神伝英信流抜刀兵法」「渋川一流柔術」「大石神影流剣術」の三流派は伝えられた時代、地域がそれぞれ異なり直接的な関係はない。私の師匠である森本邦生先生が三人の異なる師から受け継いだものである。しかし、偶然ではあるが三流派には本質的な部分での共通点があった。それは大きく分けて2点あると私は考える。
 ひとつは「無駄な力を抜き、丹田を中心に無理なく動くこと」である。腕、脚それぞれで力を出すのではなく、丹田を中心に全身が柔らかく繋がった動きで力を出すのである。
 もうひとつは「心法」を重視するということである。居合(素抜き抜刀術)のような一人稽古の際は自分の心の動きを感じ取り、形稽古では相手の心を感じ取り動く。自分の逸る心を制御する、相手と心を繋いで形を行うということである。
 私が「無双神伝英信流抜刀兵法」を通じて、いや他の二流派を含む貫汪館の武術を通じて必ず教えていかなければならないと考えているのは「身体の無駄な力みをなくし、丹田を中心に全身を繋げて無理なく動く身法」そして「自分の心を感じ取り向き合う、相手の心を感じ取り繋がるといった技術としての心法」である。なぜなら西洋のスポーツ的考え方が入って来て以来(おそらく明治維新以降)日本の武術で失われてきたのが上記二つの点であると考えるからである。断っておきたいのは私はスポーツを否定しているのではないということである。スポーツの考え方(体力増進、娯楽としての楽しみ等)は素晴らしい。しかし、武道の考え方とは相容れないものである。競技スポーツの目的は相手に勝つことである。ルール内であれば勝つためには何をしてもよい(審判に判らなければルール違反をしてもよい?)のである。武道の目的は勝つことではない。綺麗ごとに聞こえるかも知れないが(試合)に勝つことを目的にしては「心法」を会得することはできないのである。
 貫汪館武術に伝わるこの二つの要素を失うことなく伝えていくことが指導する立場の人間として最も大事なことだと思うのである。

【参考文献】
森本邦生:無双神伝英信流の形・・・大森流、英信流 奥
貫汪館ホームページ 無双神伝英信流の歴史、形 渋川一流柔術の歴史、形 大石神影流の歴史、形
森本邦生:中学校武道必修化にあたり、武道のなにを学ぶか―古武道の立場から

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  1. 2018/10/04(木) 21:25:00|
  2. 昇段審査論文

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 11

Ⅳ.まとめ

 小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』を分析して以下のことがわかった。
1.江副七兵衛の試合相手の評価にはあまり偏りはみられず,主観的な判断でありながら比較的公平な判断をしていたと考えられる。
2.江副七兵衛は小城藩内での試合場所は寺院の境内を使用することが多かった。
3.小城藩を試合のために訪れたのは近隣の藩に属する者が多かったが、萩藩や多度津藩など遠方の藩に属する者もいた。遠方の藩に属する者が小城藩を訪れたのは大石神影流を稽古する江副七兵衛の影響と考えられる。
4.江副七兵衛の廻国は小規模の廻国であった。


 
本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
広島県立文書館 西村晃様
佐賀県小城市 江副様
佐賀県小城市 「ひのでや」様
 心より御礼申しあげます。

1)伊藤明弘編集:成立期の小城藩と藩主たち、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2006、pp.25-35
2)佐賀県立図書館:佐賀県近世史料 第二編第一巻 通巻第十七冊、佐賀県立図書館、2009、p6
3)佐賀県立図書館:佐賀県近世史料 第二編第一巻 通巻第十七冊、佐賀県立図書館、2009、pp.385-386
4)黒木俊弘:肥前武道物語、佐賀新聞社、1976、pp.111-114
5)佐賀県立図書館:佐賀県近世史料 第二編第一巻 通巻第十七冊、佐賀県立図書館、2009、p.338
6)黒木俊弘:肥前武道物語、佐賀新聞社、1976、pp.148-163
7)黒木俊弘:肥前武道物語、佐賀新聞社、1976、pp.220-228
8)江藤冬雄:南白江藤新平実伝、佐賀新聞社、2000、p.180
9)堀正平:大日本剣道史、体育とスポーツ出版社、1985、 pp.740-743
10)小城町史編纂委員会:小城町史資料集 第五集、小城町史編纂委員会、1981、pp.9-25
11)熊本県荒尾市 大石家文書
12)多度津町誌編集委員会:多度津町誌-資料編-、多度津町、1991、p388

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  1. 2018/10/03(水) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 10

4.江副七兵衛が廻国した藩・地域

 江副七兵衛が廻国した藩・地域を表5にまとめる。近隣の佐賀藩,佐賀藩支藩や佐賀藩領も含まれているが,中津藩や日出藩,島原藩まで足を延ばしている。しかし廻国の範囲は九州の北半分であり,広範囲の廻国は行われていない。

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  1. 2018/10/02(火) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 9

3.小城を訪れた人物が属する藩・地域
 
 小城で試合が行われたという事が明確にわかる試合,また、推定できる試合を表4にまとめる。南品という場所は小城藩内にあるかと思われるがはっきりしないため,南品で試合を行ったとされる場合、( )内に人数を記した。人数が多い藩・地域を上から順に並べ,人数が同じものについては小城藩に近い順に記した。
 おおむね近隣の藩に属する者が小城藩を訪れているが、萩藩からの訪問者が多いのは江副七太夫と大石進種次,種昌に大石神影流を学んだものが萩藩に43名もおり、11)萩藩に属する者は大石家と関係が深い小城藩を訪ね試合しやすかったためと思われる。
 また,遠方の多度津藩からの訪問者が4名もいるが、そのうちの1名は大石進種次に学び免許皆伝をえて多度津藩の大石神影流師範となっており、なじみのある同流の江副七兵衛を訪ねやすかったためと思われる11)12)。

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  1. 2018/10/01(月) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 8

2.小城藩での試合場所
 小城藩に試合のために訪れた者たちと江副七兵衛が試合をした場所を表3にまとめる。
 小城藩藩校の興譲館には講武場と呼ばれる武術の稽古場があったようでるが,試合場所は寺(の境内)を用いたと思われる場合が多い。藩校興譲館の一部である致人堂での試合の記録もあるが,致人堂どのような建物であるのかは不明である。
 なお、南品は記述の内容からすれば小城藩内にある場所ではないかと思われるが,現在の地名に当てはまるところはなく,現存する寺院にその名はない。

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  1. 2018/09/30(日) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 7

Ⅴ.『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』の分析
1.試合相手の評価
『諸国釼家姓名録』には試合したと考えられる173名のうち,86名について試合相手に対する主観的な評価が江副七兵衛によって記されている。評価とその評価を受けた人数および流派と所属する藩を表2にまとめる。1人だけ〇という評価があるが「上」と同じ評価と考える。また,「中ノ中」と「中」は同じ評価ではないかと思われる。
 試合相手の評価は「上上」「上」「〇」を合わせると18人,「中ノ上」「中」「中ノ中」「中ノ下」を合わせると43人,「下」「下下」を合わせると25人である。中間的な評価が最も多く,次に否定的な評価が多く,肯定的な評価は否定的な評価よりも少ない。
 また、試合相手の出身地や流派による評価のかたよりはあまりないようであり,同流派の大石神影流であっても「下」と評価されている者もある。
 
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  1. 2018/09/29(土) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 6

Ⅳ.『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』について
 
 『諸国釼家姓名録』(写真5)は天保8年(1837)から弘化2年(1845)までの記録で,一部には小城藩から出て他地域に赴いての試合の記録があるものの,多くは小城藩に試合に訪れた者の姓名を記し,その約半数には試合相手の技量を「上」「中」「下」という記述で記している。記録の日付に前後があり,また,試合場所等が記されていないものがあることから,江副七兵衛自身が備忘録のように記したものではないかと考えられる。
『釼家姓名録』(写真6)は天保10年(1839)から天保13年(1842)までの間に他地域に赴いて試合をした記録で,その冒頭に師の五郎川大四郎の添え書きがある。


 『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』は試合をした年が重なっているため二つの資料をあわせて年代順に表1にまとめる。  

表1 江副七兵衛の試合記録
  1.『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』を合わせて表とした。
  2.『諸国釼家姓名録』は日付が前後して記されている箇所があるが、並べ替えて日付順とした。
  3.『諸国釼家姓名録』で明らかに試合をした年の記述間違いと思われるものも、前後関係から訂正した。
  4.『釼家姓名録』で日付の記載のないものは、推定される年の最後に記入した。
  5.『釼家姓名録』の記述は斜体の太字とした。
  6.流派名で漢字の記述間違いと思われるものも記述された通りとした。
  7.流派名や所属する藩が記載されていないもので、推定できるものは既述した。

表は省略

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  1. 2018/09/28(金) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 5

2.江副七兵衛について
 江副七兵衛は『江副系図』によれば「兵部左衛門、中頃七兵衛、初政一郎、法名實相院道林、慶應元丑七月十日死去」とある。『小城着到』によれば馬乗士四十二石である10)。
 大石神影流『諸国門人姓名録』11)には江副七兵衛について「大四郎跡師範 後八太夫相持 毎度五ケ年入熟(ママ)」と記されている。大四郎とは江副七兵衛の小城藩での師である五郎川大四郎のことで「右文政年中三ケ年入熟ニ付皆相伝セシメ依之 師範家ト成る」と記されている。つまり,江副七兵衛は小城藩で五郎川大四郎に師事しながら,柳河藩の大石進種次のもとでも稽古をしていたと考えられる。

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  1. 2018/09/27(木) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 4

Ⅲ.江副家文書と江副七兵衛について
1.江副家文書(写真4)について
 江副石碑から江副七兵衛が指導した武術は天神真楊流体術,大石神影流剣術,八天舞相流棒・縄術の三種の武術であることがわかるが,現存する武術関係の文書は大石神影流関係文書,天神真楊関係文書,真之乱流伝書,その他である。

(1)大石神影流関係文書
 ・『大石神陰流刀術截目録』(天保11年11月,大石進種次→江添(ママ)七兵衛)
 ・『大石神陰流刀術陽之巻』(天保11年11月,大石進種次→江添(ママ)七兵衛)
・『釼家姓名録』(天保10年~天保13年の廻国修行英名録)
 ・『諸国釼家姓名録』(天保8年(1837)~弘化2年(1845)までの試合記録)
(2)天神真楊関係文書
 ・『天神真楊流兵法起請文前書』(ひな形か?差出人なし 江副誠道治あて)2通
 ・『天神真楊流形手数』(慶應2年正月以後,江副氏,形目録)
 ・『天神真楊流形手数』(明治15年6月,兎耳山内,形目録)
 ・『天神真楊流柔術之誌』(天神真楊流形目録,北辰真楊流柔術形之巻一,北辰真楊流柔術之巻二,
北辰真楊流柔術之誌三,北辰真楊流柔術之誌四)
(3)真之乱流伝書
 ・『真之乱流平方序』(文化14年5月,納富源右衛門教幸→森永文右衛門)
(4)その他
 ・『江副系図』(従五位下民部大輔良政から江副七兵衛の子 政治まで)
 ・『虎巻小切紙』(一寸タイマツノ事等々)
 ・『諸書抜書』(享保元年10月,江副七兵衛敬被差による諸書の抜き書き,)
 ・『武芸小傳抜書』(武芸小傳の抜き書き)
 ・『神陰流兵法口伝』(新陰流兵法口伝,上泉伊勢守新陰流兵法五十箇條,新陰流兵法秘歌)
 ・『剣法居合 八形変化 左右変形 記』写し(天保7年3月,窪田清音→五郎川是一郎)

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  1. 2018/09/26(水) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 3

2.幕末の小城藩の剣術流派
幕末の小城藩の剣術には柳生但馬守宗矩より伝えられた新陰流を中心として大石神影流,戸田流,心形刀流などが盛んに稽古されており,それらの流派が廻国修行者を受け入れて試合をしている7)。
 大石神影流と小城藩とのつながりは深い。大石神影流を開いた柳河藩の大石進種次の祖父・大石太郎兵衛種芳は柳河藩において愛洲陰流剣術を指南していた。小城藩士・五郎川大四郎が文政年間にこれを習い小城藩に伝えたのがその始まりである。ついで大石進種次より皆伝を得た小城藩士・江副七兵衛が大石神影流を慶応元年(1865)まで教授している。大石神影流は一流派として小城藩に影響を与えただけではなく,新陰流、戸田流にも影響を与えた。すなわち新陰流からは水町蔵人が大石進のもとに留学し皆伝を授かり,戸田流からは庄藤兵衛が留学して皆伝を授かって帰藩し,それぞれの流派に新式の竹刀・防具による、突き技,胴切の技を導入している。
 戸田流は納富家が伝えていたが、納富家からは大正、昭和に納富教雄、五雄と二代にわたり剣道範士を出している。7)心形刀流は永田右源次が師範をしていた。その次男が剣道範士となった辻真平であり、大日本帝国剣道形制定時の主査五人のうちの一人であった8)9)。 

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  1. 2018/09/25(火) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 2

Ⅱ.小城藩の武術流派について
1.小城藩の成り立ちと新陰流
(1)小城藩の成立
 小城藩の立藩の時期は諸説あり判然としていないが,江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂(1580-1657)の長男・元茂(1602-1654)が祖父直茂から一万石を与えられたことに始まる。のちに,幾度か加増をされて最終的に七万三千石となった。家臣は勝茂から七十七氏、勝茂の父である藩祖・直茂から八十三氏が元茂に譲られ,佐賀藩の支藩となった1)。
(2)小城藩と新陰流
 小城藩初代藩主鍋島元茂は広く文武を修めており『元茂公御年譜』には「公御聡明怜悧の御性質にて御一代文武の御執行厚く御多芸の御事常人の及び奉処に非ス、文学ハ順長老を師とし給ひ、詩文章易学御伝有、御能書にて筆道ハ藤木甲斐守、御兵法ハ栁生殿、御馬ハ上田殿、軍馬ハ加藤殿、御弓ハ中川氏、御鉄炮ハ井上殿、同薬方ハ毛利殿、短筒ハ和田殿、長刀ハ穴澤殿、組打ハ茨城殿、馬医ハ橋本氏、茶湯ハ玄端、御能ハ観世太夫、太鼓ハ服部氏、蹴鞠ハ飛鳥井殿、御鷹ハ荒井藤七入道、諸礼ハ武藤丹後守より御相伝、何も免状印可御取被成候付、御門弟も数百人に及へり、其外禅學ハ沢庵和尚、立花ハ池ノ坊、又音楽・連哥・医術迄委敷御極め被成候」2)とあり,文武両道に秀でた藩主であった。
 鍋島元茂は『元茂公御年譜』にあるように柳生但馬守宗矩に師事し,正保3年(1646)に『兵法家伝書』をさずかり3)4),また起倒流乱も寛永16年(1639)38歳で茨木専斎よりの相伝を終えている5)。
 小城藩二代藩主鍋島直能も柳生但馬守宗矩の教えを受け,宗矩死後は父元茂の教えを受けた。小城藩三代藩主・鍋島元武も新陰流の教授を父・直能に受けたが,直能のあとをついだのは弟の元敦で,以後,西小路鍋島家と呼ばれる元敦の家系が小城藩で新陰流を指南し,元辰―元鄰―元常―元陳―元澄と指導が続けられ,小城新陰流と称されて幕末に至った6)。

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  1. 2018/09/24(月) 21:25:00|
  2. 武道史

小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について 1

日本武道学会第51回大会で発表した「小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の剣家姓名録について」を数回に分けて載せていきます。

Ⅰ.はじめに

 江副七兵衛は佐賀藩の支藩である小城藩の大石神影流師範である。小城藩の初代藩主鍋島元茂と二代藩主鍋島直能を祀る岡山神社のそばには江副道治(七兵衛)の石碑があり,そこには天神真楊流体術 大石神影流剣術 八天舞相流棒縄術 江副道治と刻まれている。
旧江副家は石碑のそばにあったらしいが現在は公共の駐車場になっている。現存するのは旧家にあった史料の一部であるが,その中に『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』がある。本研究ではこの二つの史料を用いて小城藩にどのような人物が来訪して試合をしたか,また江副七兵衛がどのような地域に出向いて試合をしたかについて明らかにしたい。

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  1. 2018/09/23(日) 21:25:00|
  2. 武道史

鍋島元茂 14

 時は流れて正保三年 元茂45歳のときの話です。

「柳生但馬守卒去、三千石を領す
法名 西江水大通宗活大居士 七十六歳
元茂公へ兵法之奥義不残御相伝有之通、返り誓紙まいらせ候時、病気差重り筆を取候事不相叶、村上傳右衛門傍ゟ筆をとらせ漸く判を取て 元茂公へ差上候也、此但馬守ハ 将軍家御若年之頃より御兵法之御師範ニ被 召出、御打太刀ハ元茂公数年御勤被成候、年頃怠りなく御稽古有、其法の有所悉く伝させ給ひとも、宗矩ニハ及はせ玉ハす、常々御心を労し玉ふより外ハ、此上ハ只御心ニ自ら得させ玉ふより外ハ有へからす、去なから宗矩もむかし或師ニ附て禅を参し聊得る所有、我術少し進ミ候と覚へ候、不言之妙ニ至りてハ、禅をたとへて術を喩し候ニハしくへからすと被申上しかハ…以下略」p.385

 『肥前武道史』で黒木先生が述べられた「乱れ花押」の部分です。柳生但馬守宗矩は死期が迫っているために筆を取れないので村上傳右衛門が宗矩の手を取って花押を書かせています。
 他の文章の部分はしっかり書かれているので、最後の花押の部分だけが記されていなかったのでしょう。沢庵とのかかわりも記されています。
 また、ここにも鍋島元茂が3代将軍家光の打太刀を務めたと記されています。
 以上で鍋島元茂について終えます。次は小城藩二代藩主鍋島直能について『直能公御年譜』からみていきます。

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  1. 2018/09/22(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島元茂 13

 寛永十一年 元茂33歳のときの話です。

 「元茂公、加藤勘助殿ゟ軍馬御相伝幷馬上条々大坪流奥秘迄不残御相伝相済候」

 鍋島元茂が修めた武術は新陰流だけでなく多岐にわたりますが、現代人も自動車の運転ができ、自動二輪に乗れる人もいると考えると、現代人もあながち劣りはしないと思います。
 車両の運転は武術ではないと思われますが、移動手段、運搬手段と考えると、馬術と変わらないものがあると思います。

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  1. 2018/09/21(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島元茂 12

 寛永十年 元茂32歳のときの話です。

 「元茂公へ日置流雪荷射術、御家中ゟ数十人御入門申上る、何も誓紙有
  元茂公御一生武芸御達人ニ而御座候打ち、射術之義、余の御藝ゟハ御不得手の由、然乍馬上の御弓ハ勝レて御達者ニ而余人ハ中々不奉及由、兼而御馬御達者の故、騎射ハ格別ニ被遊と申傳候」

 全ての武芸に優れていても苦手なものがあったのでしょう。元茂は弓術は苦手であったようです。しかし、元茂は馬術が達者だったので騎射が得意だったということです。確かに馬に乗るのが下手であればいくら馬に乗らない状態での弓術が上手でも騎射はできないと思います。
 もし、元茂が馬に乗らない状態での弓術も得意であったとすれば騎射はもっと素晴らしいものであったのではないかと思います。

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  1. 2018/09/20(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島元茂 11

 寛永六年 元茂28歳のときの話です。

 「今年、沢庵和尚配流武州東海寺、元茂公兵法ニ付而、兼而禅学之大意御聞被成候師也」p.125

  柳生但馬守宗矩とのつながりで沢庵和尚にも師事するようになったのだと思われます。禅の境地はどのようなものであったかは伺えません。沢庵和尚は臨済宗ですが鍋重元茂はじめ代々藩主の菩提寺は臨済宗ではなく黄檗宗です。なお、黄檗宗はもともと臨済宗で、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていたようです。

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  1. 2018/09/19(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

鍋島元茂 10

 寛永六年 元茂28歳のときの話です。
 「今年、元茂公南蛮流短筒の砲術御相伝相澄候、免状
 
 鉄砲之根源可致傳授之胸、度々斯蒙芳名、不残心底尽書紙儲高覧也、若御家人等被仰知度於被思召ば、右致調進所巻々之打ち、従小短之巻・中短之巻拾弐長丁以下、以牛王宝印之裏全致他言他見間敷之旨、血判被仰付、翌日可有御教傳而已
    日東短筒元祖
      和田八左衛門尉
          平光吉判
 寛永六巳林鐘吉辰
    進上
     元茂公

 右之後、南蛮流短筒、御家中吉富五郎兵衛ニ御伝被遊」p.124

 短筒(拳銃)が戦場で用いる火縄銃とは別の独立した武術として存在しています。江戸時代初期には武術の細分化が始まっているのだと思います。鍋島元茂はこの免状を得ていますが、その後は家臣に伝えさせたのでしょうか。

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  1. 2018/09/18(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
連絡先は貫汪館ホームページで御確認ください。

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